第5話 L
青年が入院してから三日がたった。
その間にもトリナクリアの街ではカポネファミリーと警察による下手人探しが行われていたが、診療所はいたって平和だ。
一度目を覚まして以来、例の青年は昏々と眠り続け驚くほど速く回復の兆しを見せている。
常に穏やかな寝息を立てている男に、最初は警戒していたジェシカも次第に反応の無い人間を睨みつけるのにも飽きてきたのか、青年の存在を気にしなくなっていた。
一方ロザリタは……
(おかしい)
カルテノートに書き込んだ薬の処方投与に眉間に皺を寄せていた。
(こんなに強い痛み止めを使っているのに、頭痛、嘔吐等の副作用が出ていない)
絶対に出る、というわけではないが大概の患者は大なり小なり不調を訴える薬だ。
(眠り続けているから回復は早いけれど……)
奇妙な患者に戸惑いを隠せなかった。
「いろんな薬に耐性がついているって、どういう意味かしら……?」
その晩、真夜中過ぎまで医学書を読み漁っていたロザリタはそのまま机の上で眠り込んでしまった。
目覚めたのは次の日の朝、鼻腔を擽る紅茶の匂いに揺り起こされてのことだった。
「ああ、寝ちゃった……ふぁぁ」
欠伸をすると肩から毛布がずり落ちた。
(ジェシカさんね)
またベッドで眠らなかったと怒られるなと苦笑しながら、部屋の中に漂う大好きなアッサムティーの香りにまどろんでロザリタはもう一度机に突っ伏した。
(ジェシカさんが起こしに来るまでもうちょっとだけ……)
きっと濃いめの紅茶を持ってきてくれるはず。
それを飲んだら顔を洗って……
そんな寝起きの微睡みは、ガシャーンと大量の皿が割れるけたたましい音によってかき消された。
飛び起きたロザリタは全速力で二階の居住スペースから駆け下りた。
「あ、おはよう先生。良い朝だね。」
朝の日の光が金の髪に反射してキラキラと光彩を放ちながら、寝たきりだった筈の患者が爽やかに微笑んだ。
待合室にしている元酒場のカウンターキッチンの吊り棚の中に片づけておいた古い食器たちは無残にも粉々に砕け散っているというのに、カップになみなみと紅茶を注いだ男は割れた皿に気を遣うでもなく優雅にカウンターの足長椅子で足を組んで座った。
「お茶を淹れたけど飲む?」
まるで自分の店の如くくつろぐ男にロザリタは口を喘がせた。
「な、なんで動いているの?! だって昨日までずっと……」
「そこのバケットをとってくれる?」
男がロザリタの後ろの食料棚を指さしたので急いで手渡してやると、バクリと頬張った。重体から生還し、数日間何も食べていないのにいきなり固いパンを頬ばる青年にロザリタは悲鳴を上げる。
「何しているの、胃がビックリしてしまうわよ!」
「……不味い、バターはある?」
「うちにそんな贅沢品はないわ!」
文句を言いつつモグモグと口を動かした男はまたパンに齧りついた。
(不味いと言いつつ食べるのね)
一心に口を動かす男に呆れながらロザリタは床に落ちて粉々になった食器に目をやって、ため息を吐きながら片付け始めた。
「ここはいいからベッドに戻りなさい……まだ動いてはダメ」
割れた陶器の破片を重ねながらロザリタは注意深く青年を眺めた。
どこにも緩慢な動作は無い、顔色も昨日まで寝たきりの怪我人とは思えない。
「他に食べるものは無いのかな、お腹すいちゃって」
最後のバケットの先を口の中に放りこんでゴクリと紅茶で飲みこんだ男がおかわりを所望したので、ロザリタは空の食料棚を開けて見せた。
さっきが最後の食料だと暗に言われて男は吃驚したように目を見張った。ようやく男を黙らせる事に成功したロザリタは苛々とカウンターを叩いた。
「さあさあ! すぐベッドに戻って、吐いてもいいように洗面器を抱いて横になっていなさい」
「もうその必要はない」
「嘘をつかない」
「嘘じゃないさ、なんなら診察してみればいい。あんなに寝ていたら傷治すしかやる事無いじゃないか、三年分は寝たなぁ。誰かさんの治療も良かったみたいで、もうすっかり元気だよ」
ニコニコと胡散臭い笑みを浮かべる青年をロザリタは睨んだ。
動作や顔色を見るに嘘では無い様だ。完治では無いにしても、動くのに支障の無い位までは確かに回復している様だった。
諦めたように大きなため息を吐いたロザリタは用意されていた空のティーカップに紅茶を注いだ。
「……動けるようになったら挨拶も無く出て行くものだと思っていたわ……だから……」
紅茶を一口飲んで微笑む。
「ありがとう。治療費代わりに淹れてくれたのね。」
青年のティーカップを傾ける手が止まり、居心地悪く目を逸らした男が口を尖らせた。
「……先生、人が善いって言われるでしょ」
「ときどきね。あら、あなた紅茶淹れるのうまいのね、とっても美味しわ」
「金目の物でも盗んでやろうと思ったんだけどな」
「無かったでしょ? 毛布もありがとう、温かかったわ」
「寝ているか確かめただけだ」
不貞腐れる言い草にロザリタはクスクスと笑った。
「今更だけど貴方の名前は? 私はロザリタ・コフレドール」
「……ガブリエル。エルでいいよ」
「そう、エル。後で診察させて。問題がないようなら今退院していいわ。ずっとここにはいられないのでしょ」
サラリと言った主治医に、エルが言いにくそうに、でも確認するように言った。
「僕にはいまお金が無い」
「もう聞いたわ」
「それで本当にいいのかい? 言っちゃなんだけどここ本当に金目の物がないよ。さっきのバケットだって少しカビてた」
ロザリタは返答に困った。
ジェシカからは今後一切の無償医療をやめろとキツク言われているが……
「いいわ。いつもの事だもの、暗くなって人目につかなくなったら街を出なさい」
バレなければ問題ない、むしろエルが出て行ったあとならいくらでも彼の恩知らずを罵れる、とっておきの悪態をついてジェシカを驚かせるのも面白いかもしれない。
ロザリタの言葉をジッと聞いていたエルはしばらく考え込むように黙り込んだあと、なにかを決意したかのように頷いた。
「……わかった」
こともなげに彼は言う。
「身体で返すよ」