第1話 Dr. COFFRET D'OR
雨が過ぎ去った後の空は快晴だった。
雲一つ無い青空からそそぐ陽光が昨夜の名残の水溜りをキラキラと彩っている。
長雨のせいで家から出られなかった人々も陰鬱とした空に別れを告げる様に外へと陽気に出かけていく。
しかし、トリナクリアの街中にある小さな診療所は、そんな爽やかで気持ちの良い天気とは真逆にあった。
いつも誰かしらの出入りのある診療所は、雨のせいで定期的な健診に来られなかった人、気候変動で体調不良を訴える人、雨漏りを直して屋根から滑り落ちた怪我人。
とにかく患者でごった返していた。
「風邪の人から先に診察するからね、子供とお年寄り優先。はぁ? 手首の捻挫? 最後尾に並びなオッサン、お前の仕事なんぞ知るか。 ここの優先順位は弱ってる奴からだよ、順番を早めたいなら手首を折ってやろうか?」
ふくよかな身体でテキパキと待合室の患者を統制しているのは診療所唯一の白衣の天使であるジェシカだ。
酒場を改築した診療所の中では比較的軽症の患者たちが、かつての場末の名残の場所で和気あいあいとしていた。
「ああ、膝が痛い。雨が降ると途端にダメになっちまう」
「俺は肺だ。天気が悪くなると息がしづらくなっちまって、これじゃあ煙草がマズくなるばかりさ」
「そういえば聞いた? 昨夜はまたマフィアの抗争があったそうよ」
「そのせいでうちの雨樋が壊れてんだ! 直そうとしたら手首をひねっちまって……」
「深爪は先生治せるかなぁ?」
「ああもう! てめえらうるせええ!! 元気じゃねえか!!」
久しぶりに外に出た鬱憤を晴らすかのようなお喋りばかりが待合室を埋め尽くす。膝を突き合わせて、肩を寄せ合い元気に会話を弾ませる患者達にジェシカは苛立ち気に叫んだ。
「人がいすぎて狭い!」
「太り過ぎだよジェシカ。」
「そうそう、なんだったらお前も先生に診てもらいなさい。俺の見立てだとお前は豚病だ。
そのうち尻に尻尾が生えて豚と区別がつかなくなる恐ろしい難病だぞ」
「黙れ! あたしが太ったのはアンタ達からのストレスのせいだ! 大した具合でもないのに通ってきやがって……病院は寄り合い所じゃねえんだよ! 先生の手をつまらない事で毎回毎回煩わせて……」
「何かあったらすぐきてくださいねって先生の言いつけだからなぁ」
「そうそう、主治医の言う事は守らんと」
「先生のせいにすんなぁ!」
ドッと待合室に笑い声が響いた。なんやかんやで楽しそうな患者たちの様子に診察室にいたドクター・ロザリタ・コフレドールは聴診器を外してクスリと笑った。
「先生……」
「ああ、すいません騒がしくて……そうですね、少し喘息も出ているみたいです。リジー、お口をあーんとしてもらえる?」
母親の膝に座って赤い顔をロザリタに向けた小さな女の子は、言われるままに口を開けた。
口内を覗いたロザリタは眉を潜める。
(何故もっと早く連れてこないの……)
「だいぶ腫れていますね、辛かったでしょリジー。よく頑張ったわね、お薬を出すからそれを飲んで。苦くともしっかりと飲むのよ、そうして栄養のあるものを食べて沢山寝ればすぐ治るからね」
「あの、先生……実はお金のことなんですが……実はあまり持ちあわせが無くて、これ位しか……」
母親は申し訳なさそうに握りしめていた数枚のコインを差し出した。
(かき集めるのに時間がかかったのね)
薬代には程遠い金額。
医者に対する報酬としても足りないソレをロザリタは母親の手ごとギュッと包み込んだ。
「いいですか、このお金で新鮮な野菜や果物を買って下さい。薬だけでは治りません。ちゃんと食べて。お母さんも」
「先生……」
濃い隈のある両目に涙を浮かべた母親は息をつめてロザリタの手を握りしめた。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます。このご恩は絶対に忘れません!」
母親は何度も深く頭を下げると、娘を抱いて逃げるように診察室を出ていった。
その姿に、たっぷりとした赤い髪を掻きあげたロザリタはため息をつきカルテにペンを走らせる。
ああは言っていたがきっともう来ないだろう。
「ジェシカさん、次の患者さんをお願いします」