アンドレの秘密
休日、蒼は甲柴の街を歩いていた。自身の住むムサシ所有の社宅から数キロの距離を歩き続け、街の外れまで歩いていく。人気のない住宅街の路地をしばらく歩き、辿り着いた小さな寂れた一軒家。蒼の目的はそこであった。
「アンドレさん!」
チャイムは壊れているために大声で呼びながらノックする。しかし、いくらノックしても反応はなかった。蒼は「う~ん」と唸り顔をしかめる。あの男、自分から人を呼んでおきながら出てこないとは一体どういう了見なのか。
蒼はアンドレを待つのをやめ、引き戸を開けた。たてつけが悪く、力一杯引いてようやくガラガラと大きな音を立てて開いた。
「アンドレさーん! お邪魔しますからね~」
そう叫びながら足を踏み入れる蒼。家の中は古びており壁にはところどころカビが生えている。アンドレは二階に部屋があると言っていたことを思い出した蒼は、奥の階段から上に上がる。歩くたびに足元がギシギシと悲鳴を上げ、いつ崩れるかと不安になった。
二階に辿り着いた蒼は、すぐ目の前にある部屋のドアを開けた。そこから笑い声が聞こえてきたからだ。
「アンドレさん!」
「ん? おぉ蒼か! どした?」
埃だらけの畳で寝転がり、本を読んでいたアンドレが首だけ蒼へ向ける。
「いや『どした?』じゃないですよ。俺を呼んだのアンドレさんなのに、なにしてるんですか!?」
蒼はムッと眉を吊り上げ、声を張り上げた。相変わらずアンドレはキョトンとしている。「はて?」と首を傾げたが思い出せなかったようで「まいっか」と呟くと、その場にあぐらをかき座り直した。蒼にも鈴宮のイライラが少しだけ分かった気がした。
「そんなとこ突っ立ってないで座れよ」
蒼は渋々アンドレの目の前へ歩み寄ると、向かいに腰を下ろした。
そしてアンドレを見ると――
「っ!?」
蒼は絶句した。アンドレの着ているTシャツは、彼の筋骨隆々な肉体に対してサイズが小さいようでかなりギチギチ――ということは問題ではなく、蒼がショックを受けたのは、その胸の辺りにプリントされている金髪美少女キャラにだった。
蒼が白目をむいて口をパクパクさせていると、アンドレもその視線の先に気付いた。
「おっ? なんだ、俺の『マリンたん』になんか文句あんのか」
「マ、マリン……たん? なんですかそれ?」
蒼の頬は引きつっていた。怪訝そうな表情で腕を組んでいたアンドレは、なにかに気付いたかのように「そうかそうか」となにやら頷いていた。
「なんだ知らねぇのか。マリンたんてのはなぁ、この『恋愛大爆発』っていうライトノベルのメインヒロインで『俺の嫁』だぁっ!」
「バンッ!」と効果音が出そうなほどの勢いで手元の小説について紹介するアンドレ。その黒い顔に並ぶ歯が白く輝いている。彼は清々しいまでのオタクだった。アンドレがその小説を蒼の顔にグイッと近づける。蒼は、頬を赤らめ上目遣いでこちらを見つめる表紙の美少女に怯み、後ずさるように手を背後についた。そして、ようやく部屋の惨状に気付く。
「んな!?」
部屋の壁のいたるところに様々な美少女キャラクターのイラストが貼ってあったのだ。金髪ツインテール、黒髪ポニーテール、眼鏡に三つ編み、着物姿、セーラー服、ショートボブ、サイドテールなどetc……
驚愕に目を見開く蒼。そして少々気になることがあった。
「ア、アンドレさん、『俺の嫁』だとか言ってたのに……他にもたくさんの女の子たちがいるじゃないですか!」
「全員『俺の嫁』だバカ野郎!」
アンドレが血走った目で怒鳴る。蒼にはもうついていけなかった。今のアンドレは蒼の知っているアンドレではない。
蒼がうなだれていると、アンドレがようやく正気に戻った。
「……悪ぃ悪ぃ、久しぶりに熱くなっちまった」
「い、いえ……」
「実はこの家、元々は俺の持ち物じゃなくてな、『武本』って奴のものだったんだ。で、そこら辺に積んである小説や漫画なんかも、そいつが昔――生物災害なんて起こるよりも前に集めたものだ」
「そうだったんですか……」
蒼はその名を以前聞いていた。湯芽林の話の中で出てきた男だ。自らの自爆によって退路を開いたという。
「あいつは俺より二つ年上だったがよ、親友だった。『この国なんてどうでもいい。故郷のアメリカのために戦いたいんだ』ってボヤいてた俺の前に武本が現れたんだ。で、ここに上手く誘導されてまんまと嵌められたよ」
アンドレは嵌められたという割には声が楽しそうに弾んでいた。蒼は周囲の光景など忘れ、話に聞き入っている。アンドレは嬉しそうに口の端を緩ませながら続けた。
「で、俺がここに入り浸っていたある日、あいつは言ったんだ。『なあ、日本もいいところだろ? アメリカの前にまず日本を守るってのも悪くないんじゃないか?』ってよ。ったく……俺の親友はとんでもねぇ策士だよ……なのに、なんで死んでんだよ……」
アンドレは最後、両目を掌で押さえ声を震わせた。
「アン、ドレさん……」
感極まって肩を震わせるアンドレ。蒼はかける言葉が見つからず、瞳を揺らした。
(そうか、この人は武本さんの分まで戦ってるんだ。日本の文化を失わせないために)
しばらくしてアンドレが顔を上げ、蒼へ笑みを向けた。その人懐っこい笑みはいつものアンドレのものだった。
「――と、いうわけで、これ貸してやるから読んでいいぞ。あ、感想文は二千文字以上な? なに心配するな。そっちは布教用だから俺の読書用は別にあるぜ」
「あっはい……」
それを受け取った蒼の目は死んだ魚のようだった。
後日、蒼がこの小説にドハマりし、アンドレの家に入り浸ることになったことは言うまでもあるまい。




