救い
それから数日後の昼前のこと。
蒼は体の弱い美佐代に代わり教会へ献金をしに行っていたが、一時間も経たずに慌てて家に帰って来た。
「ばあちゃん!」
蒼は家に入るなり叫ぶと、玄関で靴を脱ぎ捨て美佐代のいる居間へ駆け込む。
ボロボロの木の椅子に座ってお茶を飲んでいた美佐代は、騒がしい蒼にゆっくり振り向いた。
「なんだい蒼ちゃん。騒々しいね」
あくまで美佐代は落ち着いている。蒼が息を整えている間にずずずとお茶をすすった。
「た、大変なんだ、ばあちゃん!」
蒼は教会で神父から聞いた内容を話し始める。
その内容とは――「現在、この町は獣鬼に包囲されている」というものだった。今は、昼であるためにゆっくりと町の周辺をさまよっているが、夜になったら町に押し寄せるだろうということだった。だというのに、神父はそれを恍惚とした笑みで、「悔いなきよう、神のご意志を受け入れる準備をしなさい」と言うものだから、蒼は教会を飛び出してきたのだ。
「……そうかい」
美佐代は落ち着いた声で呟くと、またずずずとお茶をすする。
「な、なにを落ち着いているのさ! 早く逃げる準備をしないと!」
「『準備』か……蒼ちゃん、他の人たちの反応はどうだったんだい?」
「え? い、いや皆唖然としていたけど……」
「そうだろうねぇ……誰も逃げるだなんて言わなかったはずだ。だって、私らに逃げる場所なんてどこにもないからね。だからこその『鬼敬教』さ。こういう時、絶望を感じることなく落ち着いてそのときを待てる。私はここに残るよ」
蒼の顔が青ざめる。
「そ、そんな……」
「でも――」
美佐代はまた穏やかな表情でずずずとお茶をすすった。手元の湯のみを机に置くと、美佐代は蒼の目を見た。
「いいんだよ。私はここに残るけど、蒼ちゃんはお行きなさい。本当に自分を必要としてくれる人を探すんだ。ここはあなたのいるべき場所じゃない。私らみたいな弱い人間はね、なにかにすがっていないとダメなのさ。でも、蒼ちゃんは違う」
「ば、ばあちゃん……」
蒼は信じられないといった様子で顔を歪め、両の拳をぎゅっと握る。
「お、俺、まだなんの恩も返せてないのに……」
「そんなの必要ないさ。夫のいなくなった世界でここまで生き続けてこられたのは、宗教のおかげじゃない。蒼ちゃん、あなたの笑顔があったからなんだよ。もう十分、返してもらったさ。それでもまだ、納得できないって言うんなら、なんとしても生き延びな。死ぬことは最低の親不孝だよ」
美佐代が蒼の右手を両手で優しく包んだ。蒼の頬を一筋の涙が伝う。
「こらこら、男前が台無しじゃないか」
美佐代がポケットからハンカチを取り出し、震える手で蒼の頬の涙を拭いた。その後、蒼が美佐代の願いで頭を下げると、その頭を美佐代の手が撫でた。
「あんたは私が一生懸命育てたんだ。だから、死ぬなんて許さないよ。さあ、夜が来る前にお行きなさい」
「……ありがとう、ばあちゃん」
その温かさに心満たされながら、蒼は生き抜く決意をするのだった。
それから蒼は、美佐代と最後の昼食をとった後、荷物をまとめ東北を目指した。既に行くところは決まっていた。美佐代が地図を蒼へ渡し、最も安全であろう街とそのルートを教えたのだ。蒼は、その情報を頼りに移動し、日が暮れる前には町からだいぶ離れた。その間、すれ違った人々は、虚ろな目で腕をだろんと垂らし、ただゆらゆらと歩いていた。それとすれ違うたび、蒼の心をどんどん恐怖に染めていく。もちろん、まだ日が暮れていないために、『獣鬼』は覚醒せず蒼を無視していく。
やがて夜が訪れる。それでも、蒼は振り向くことなく前へ進み続けた。不思議と疲れは訪れず、足も疲労を訴えることはなかった。
「俺が『異端児』で良かったよ」
蒼は険しい表情で、口の端を僅かに歪めた。その常人を超えた身体能力の正体が一体なんなのか、ついには分からなかった。町にいた医者も診たが、体のどこかに異常が見られたわけではない。もし仮に『オニノトキシン』が関与するものだったとしても、今まで秘匿されてきたのだ。一般の医者では知る由もない。蒼は詮無き事ばかり頭に浮かべる。美佐代との日々を思い出してしまったら、足が止まってしまうと分かっているからだ。
蒼はひたすら歩いた。休むことなく速度を緩めることなく。妖しく輝く満月の下を無心で歩き続ける。荒れ果てた土地、道端で倒れ白骨化した遺体などが目に入ったが、気にも留めない。
やがて、日が昇った。その間、獣鬼と遭遇しなかったのは不幸中の幸いと言える。
そして長い田んぼ道を越えた先、蒼はとうとう目的地の街へとたどり着いた。寂れた大きなスーパーの前へと立つと、気が抜けたように膝を落とす。透明な窓から見える店内は、無数の布団が敷かれ老若男女様々な人々が寝ていたり、起き上がって支度をしたりしていた。
蒼は安堵からか膝を曲げたまま涙を浮かべ俯く。
「俺、やったよ……ばあちゃんっ」
もう、耐えられなかった。心に美佐代の笑顔が浮かび、蒼の心から嗚咽が漏れる。拳を地面に叩きつけ歯を食いしばる。泣いた。心から。周囲の人間からどれだけ酷い目にあわされても、泣いたことなんてなかった。溢れる涙は熱を持ち、蒼は大きな声を上げて泣いた。悲しみに打ちひしがれるその姿は、年相応であった。
「ごめん、ごめんよ……ばあちゃん。俺はなにも……」
「――なにピーピー泣いてるんだガキ」
蒼が鼻をすすり涙を拭って顔を上げると、短髪で凛々しい雰囲気を纏った女が立っていた。半袖のTシャツで腕を組んでいるから引き締まった筋肉がよく見える。三十代ほどのその女は、咥えていたタバコを吹かすと、獲物を捕まえたかのような獰猛な笑みを浮かべ厳かに告げた。
「ちょっと面貸しな、ガキ」
それが蒼の戦いの幕開けだった。
後日、美佐代のいた町が獣鬼に襲われ全滅したという情報を知ることになる――。




