異端児
その少年に親はいなかった。兄弟も友達も、その出自について知る者さえもいなかった。今のこの世界にあっては珍しくないことだ。少年の名は『蒼』。年齢は十五歳。彼は大日本生物災害の直後に生まれ、物心つく前に安全な地方の病院へ預けられた。とはいえ、誰も知らぬ間に赤子が玄関に置かれており、その保護者を見た者は誰もいない。なぜ彼に名があるのか、それは彼と共に置かれていた紙切れへ律儀にも書いてあったからだ。
蒼はその後、岐阜の小さな町ですくすくと育っていった。たとえ、解明できない出自を気味悪がられても、その身体能力の稀有さから恐れられていたとしても、明日を恐れず明るさを忘れず、たくましく生き続けてきた。
彼には常人離れした身体能力が備わっていた。鍛えたわけでも、経験を積んだわけでもないのにだ。子供でありながらして、大人の誰よりも腕力があり誰よりも足が速かった。軍隊などであれば重宝されるような稀有な人材。
だが、この町では違った。争いは疎まれ『獣鬼を敬う』この町では。蒼の力は結果的に不慮の事故で他人を傷つけ、教わったことをその通りにやったとしても、必要以上の力を発揮し上手くできない。周囲からは『異端児』だと嫌悪され孤立していった。それでも蒼は、彼を見捨てなかった老婆『伊黒美佐代』によって育てられ今日この日まで健やかに成長した。
「――はぁ……」
蒼の口からため息が漏れる。その表情は疲れ果てていた。そこは小さな町にある大きな教会。その日は敬虔な教徒たちが集まり、祈りを捧げ神父の教えを請いに来ていた。蒼も育ての親である美佐代の勧めで一人で来ていたが、居眠りをしている間に終わってしまっていた。
教会を出てすぐにため息をついた蒼に対して、周囲を歩く人間たちは冷たい視線を浴びせる。
「ったく、なんだよ『鬼を敬う』って……」
まともに整備もされず、ひび割れコケの生えた裏通りを歩く蒼は、小さな声で呟いた。
あるとき、獣鬼を『神の使い』だと言った男がいた。今こそ、神が定めし審判の時なのだと。故に『オニノトキシン』こそ神からの贈り物であり、鬼化こそ唯一の救いであるのだと説いた。常人が聞けば狂気の沙汰としか思えない与太話だが、獣鬼になにもかも蹂躙され、希望を失い精神を蝕まれていた人々にとっては救いだった。心の弱い人間は、すがりつく『なにか』を心から待ち望んでいたのだ。その男のカリスマ性もあり、その理論の信者は増え続け急速に勢力を拡大していった。
その新興宗教『鬼敬教』の基本は武器を捨て、獣鬼を敬い、ただ鬼化するのを待てば良いというものだ。すべての人間は『オニノトキシン』を持って生まれ、神に選ばれた者から獣鬼となり救われる。故に、その時が来るまで善行を積み、ただ安らかに待てという。
「なら、なんで俺を助けてくれなかったんだ」
蒼には、それが形だけのものに過ぎないと分かっていた。育ててくれた美佐代以外は、彼を忌み嫌い、いじめられても見て見ぬふり、手を差し伸べることは決してなかった。結局のところ皆、自分の身だけが大切なのだ。そこに善なる心があるとは到底思えない。
「いいさ、俺にはばあちゃんがいるから」
蒼は、頬を緩めると軽い足取りで帰路につくのだった。
しばらくして蒼は家に辿り着く。塗装がところどころ剥がれ、壁にはいくつもへこんでいる小さな一軒家。美佐代と蒼の二人で住んでいた。災害以前は夫と住んでいたようだが、大阪に出張していた夫は帰らぬ人となり美佐代は蒼を一人で育ててきた。
「ただいま~」
蒼の明るい声が玄関に響く。奥のふすまがゆっくりと開き、奥から美佐代が姿を現した。
「あら、お帰り蒼ちゃん。神父様のお話はどうだったの?」
しわの深い顔に笑みを浮かべた美佐代は、短い白髪に腰は曲がって歩くのも大変そうだ。彼女は元々病弱で、あまり外に出ることはないが、芯が強く周囲の反対を押し切ってでも『異端児』を育ててきたそのしたたかさは相当のものだった。
答えに窮した蒼は、気まずそうに目をそらし頬をかく。
「えぇ~と……楽しかったよ」
あまり良い答えとは言えなかった。美佐代は目を丸くすると、くすくすと笑った。
「よだれ、拭いた方がいいんじゃないかい?」
蒼は「えっ!?」と慌てて口元をぬぐう。そして相変わらず美佐代はニコニコしており、怒られなかったことに安堵しつつ居間へと移動するのだった。
「ごめん、ばあちゃん。また近所の人たちに陰口叩かれちゃう……」
「そんなの言わせておけばいいんだよ。蒼ちゃんは気にしなくていい」
美佐代はカラカラと笑う。
「ばあちゃん……」
美佐代はいつでも優しく、蒼が困っていたら相談に乗り、周囲の反対をかえりみず蒼の味方をした。蒼は、どんなことがあってもこの陽だまりのような日常を守り抜こうと心に誓うのだった――現実の残酷さなど、知りもせず。




