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ズルい彼女の最後の言葉

作者: 綿柾澄香

 目が覚めると、枕元に妻が立っていた。


「……おはよう」


 その妻に向けて出てきた言葉は、そんな素っ頓狂な言葉だった。


「おはよう」


 彼女の挨拶は少し懐かしく、そして、あまりにいつも通りだった。彼女と結婚してから約五年の結婚生活の間、毎日のように聞いていたあの頃と何一つ変わらない、平凡な挨拶。懐かしさが蘇ると共に、これが現実ではないような気がした。いや、むしろ夢だと言われた方が納得できる。


 ああ、そうだ。きっとこれは夢なのだ。もう一度目を閉じて開けば、この夢から覚めるのだろう。

 そう言い聞かせて僕はもう一度目を閉じる。


「――っていや、待てコラ! 嫁が枕元に立ってんのに寝るな!」


 と、大声が響いて、飛び跳ねる。


「あ、はい!!」


 時計を見る。六時半。いつもの起床時間よりも少し早い。外はまだ群青色が濃い。

 そして、すぐ隣には春に病気で亡くなったはずの妻。


「……本物?」

「正真正銘、貴方の妻の幽霊です」


 そう言って頬を膨らませる彼女は生前と変わらない表情と血色で、本当に幽霊なのかと、疑いたくなるほどだった。


「あの、それで一体どういったご用件で……?」

「いや、その取引相手に問いかけるような口調は止めて。私が緊張するわ」

「幽霊と会話するのなんて人生初めてなもので……」

「私も幽霊として人と会話するの初めてだから」


 と、彼女はふっと微笑む。懐かしいその笑顔に少し、泣きそうになる。


   *   *   *


 彼女は十歳年下で、とても可愛らしく、気立てもよくて趣味も合う。少し料理が苦手だったけれども、酷いというほどではなかった。


 僕はきっと、奥さんに先に死なれてしまってはその先、生きてはいけないだろうという自信があった。だから、出来る事ならば年下の奥さんが欲しいと思っていた。そんな中で、たまたま年下の彼女と出会い、結婚出来て、これ以上ないほどの幸運だと信じていた。


 けれども彼女の方が病気で先に逝き、僕は一人残された。

 そしてやはり、彼女がいなくなって、僕はうまく生きていけなくなった。


 彼女がいなくなった空洞に何も埋められず、僕は先に進めなくなった。仕事にもうまく行けなくなり、先月退社した。


 そしてもうこのまま死んでしまおうか、と考えていた時に彼女が目の前に現れたのだ。


「あのさ、君が元気になってくれなきゃ私、心配で成仏なんてできないじゃない」


 そう言って、彼女は両腕を組む。


「でも、約束を破ったのは君の方だ」

「約束?」

「プロポーズした時に言ったでしょ? 『君がいないと僕は生きていけません。だから、僕よりも長生きしてください』って。で、君は頷いたよね?」

「ああ、確かにそんなこと言ってたね。でも病気じゃ仕方ないじゃない」


 そんなことはわかってる。僕が言っていることはほとんど八つ当たりのようなものだ。自分でも自分が言っていることは酷いと思う。けれども、それでもやはり納得はできない。


「じゃあ、約束の上書きをしよう」


 と、彼女は小指を出す。


「上書き?」

「そ。見ての通り私は元気だよ。死んでるけど。で、これから成仏する。そしたら今度はあの世で元気に過ごすんだ。だから、貴方は貴方で、この世を謳歌してよ。せっかくまだ生きてるんだからさ、これから先ずっと暗い気持ちで生きていくのなんて勿体ないよ」

「でも……」


 君がいない世の中なんて、と口に出そうとして思いとどまる。けど、彼女は僕が言おうとしたことを理解したのだろう。


「世の中に人類は七十億人いるんだよ。この中で相性のいい相手がたった一人だなんて、そんな事ないでしょう。探せばきっと私なんかよりも君にお似合いの人だっているよ」


 ああ、もうすでに死んでしまっている彼女にこんな言葉を言わせてしまっている自分はなんて矮小なのだろう。わかっている。決意しなければ。彼女の為にも。そしてなにより、自分の為に。そうしなければ、彼女が浮かばれない。


 僕は彼女のその小指に、自分の小指を結ぶ。


「じゃあ、約束だよ。絶対に長生きしてね」


 彼女のその言葉に、僕は頷く。そして、その時に気付いた。彼女の手が震えていることに。見ると、その頬を涙が伝っている。


「ああ、でも――」


 その声は震えていて。


「――私にとっては七十億の中で愛した人は君だけしかいないや」


 そう言って彼女は風のように消えていった。

 彼女はズルい。そんな言葉を残していくなんて。

 視界があっというまに輪郭を失う。吐く息は熱い。我慢できずに、僕はその場に泣き崩れた。


   *   *   *


 彼女が枕元に立ったあの日から十年。


 僕は彼女との約束通り、人生を謳歌している。再婚はしていないけれども。それでもこの人生を素晴らしいものだと思えている。

 彼女は今、幸せに暮らしているのだろうか。


 “当たり前じゃない”


 そう聞こえたような気がして、僕は思わず微笑んだ。

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