世界は同時に進行する
「ん、ん~、ん、ん」
暗闇の中、調子の外れた鼻歌が流れる。
「ん、ん~、ん、ん」
こん、こん、と、革靴のつま先でアスファルトを蹴る音がする。
「ボクの特別が、駄目になりましたかぁ」
誰に言うでもなく、ソレはつぶやく。
「まぁ、なんという皮肉! まさか、特別の本物につぶされるなんて!」
ごく普通の量販店に並んでいそうなスーツに派手なカフスボタンとネクタイを合わせたソレは、にやにや、にたにたと笑みを浮かべている。どれも色が揃っていないせいか、存在自体が不安定に揺れているようだった。年齢は三十代程度に見えたが、見た目というものが役に立ちそうなヒトではなかった。
「しかし、ミス・ブルース。貴女だってもとは、特別なんかじゃありはしないでしょうに」
ひと際、にたりと笑みを濃くしたソレは、獲物を追う肉食獣のようだった。
秋になり、授業が再開された。人狼の件がひと段落してから、椿達は穏やかな、しかし騒がしい日々を送っていた。秋の体育祭が近づいており、椿、光、絵理沙は応援用の看板作りに明け暮れていた。男子はというと、相変わらず中村将吾と張り合う大村元気の強引な指導の下、隣のクラスを負かすべく、真剣に男子四百メートルリレー走者の選抜及び短距離の特訓を行うとのことで、どちらかというと勝負事が苦手な直哉まで残らず引っ張られていった。
しかし、椿にとって騒がしかったのは、なにも体育祭関連だけではなかった。
「光さん」
神妙な面持ちでそういう椿に、光は両手でバツ印を作ってみせた。
「光ちゃん?」
光は、もう一声、というように、首を振った。
「光」
ようやく光は花が咲いたように笑って、よし! と言った。
「これからはそう呼ぶんだよ! もう、東さん、なんて、たにんぎょーぎに呼んじゃダメなんだからね!」
「そこまでこだわる……?」
あまりの光の勢いに、椿はつい突っ込んでしまい、光は再びむくれた。
「だって! あんなに言ってたのに、まさかの石垣クンに先をこされるなんて! 椿、ひどいよ!」
「ご、ごめんね……?」
ぷんぷんと音とでも鳴りそうな光に気圧され、椿は何度目かわからない謝罪をした。
椿と直哉が名前で呼び合うようになって、思わぬところに影響が出ていた。こんなことなら学校が始まる前に、クラスでは今まで通り呼ぼうと示し合わせていればよかったと椿は思ったのだが、後の祭りである。相変わらず学級委員になった二人はお互いを呼ぶ機会も多く、二人で頭を悩ませたが、今更もとに戻してもまた何か言われそうなので、諦めることにした。
傍目には優等生である椿と直哉を直接、おおっぴらにからかうものは、そうそういなかった。が、光は先ほどまでの膨れ面はどこへやら、一転してきらきらと、おおっぴらに突っ込んできた。その傍らには、いつものように絵理沙が――いつもよりも、こちらもきらきらとした瞳をして――椿にとっては事情聴取のような会話に参加していた。
「で、ほんとのところ、夏休みに何があったの?」
そう、好奇心丸出しで光に聞かれても、椿に本当のことなど言えるはずもなく。
「何もなかったよ」
そう、苦し紛れに答えられては、思春期の女子二人はますます色めきたつしかない。
「絵理沙ぁ、聞きました? 何もなかったそうですよぉ?」
「これは大人の階段上っちゃったんですかねぇ」
「ええと……上ってないよ……?」
「し・か・も、あのレティまで石垣クンを名前呼びではないですかっ」
「これは三つ巴の予感がしますねぇ、光さん?」
逞しい妄想力の女子二人に、椿は地球の反対側まで退きたい気分だった。
要領よく看板作りから逃れ、授業が終わってすぐにさっさと帰ってしまったレティシアが、椿は恨めしかった。
「な・お・や・クン?」
男子更衣室で、一学期にはぶかぶかだったジャージの丈が少々詰まってきたように感じ、成長期かな、とぼんやり考えていた時、直哉も椿と同じような類の声に捕まった。声の主は順調に背が伸び続けている高橋と、お調子者の山崎だった。
「この夏、何があったんだよー。急にあの日暮とブルースと仲良くなってんじゃん?」
山崎は椿達と同じ小学校だった。お調子者なのは小さい頃から変わらず、そのため真面目な椿とはなんとなく交流がなかった。あの、というのは、山崎の椿に対する難攻不落なイメージの表れであるが、その影響を受けている高橋にもそのイメージは植え付けられているようだ。高橋は直哉達と同じ小学校の出身である。直哉に絡んだくせに、2人は勝手に盛り上がる。
「日暮は最初、学級委員とかになるからさ、どんな優等生かと思ってたけど、案外気取ってないじゃん? 頭もいいけど鼻にかけた感じしないし、よく見るとそこそこ可愛いしな」
「高橋、何様だよ! でもそうなんだよな、深窓の令嬢って感じ?」
「山崎お前、それただ言いたいだけだろ」
「で、ブルースは、絶対これから、育つじゃん?」
「お前、最低。ウケる」
「畜生、石垣、あの深窓の令嬢と未来のブロンド美人をどうやって落としたんだよぉぉぉ」
「どこのラノベだこんにゃろぉぉぉぉぉ」
あちこち下世話な二人の会話に、実際には「未来のブロンド美人」は何百年もあの姿(つまり二人が言うところの育った姿には永遠にならない)で、しかも人狼すら蹴り飛ばすような怪力の吸血鬼で、「深窓の令嬢」はその吸血鬼に卵粥を食べさせるような子なんだけどな、と、直哉は思ったが、言えるわけがないので当然黙っていた。直哉は兄のこともあり、この手の会話があまり好きではなかった。
「で、どっちなんだよ」
だから、勝手に盛り上がってくれるならそれでいいかと思い、油断していた時に急に話に巻き込まれ、直哉はつい、何のことだと聞き返してしまった。
「お前のお相手に決まってんだろ? まさか、両方なのか?」
「きゃっ、なおやクン、やらしー……はっ、学級委員になったのも日暮目当てか?」
実際には四月頃はちょうど人狼になるかどうかという時期で精神的に不安定になっており、学級委員を決めた時はたまたま気が大きくなって手を挙げただけだったのだが、それはさておいて、二人から向けられた疑いは直哉にとっては心外だった。そろそろ本当に怒ろうかと思った時、更衣室の扉がけたたましく開け放たれ、怒り心頭といった様子の大村元気が姿を現した。
「お前ら、やる気あんのか! 着替えたんならさっさと表に出ろぉ!」
うお、こえーこえーとおどけながら、高橋と山崎は更衣室から出て行った。直哉も急いで出ようとして、大村に、大丈夫かと呼び止められた。
「石垣って、こういう話、苦手そうだよな」
そういう大村に、直哉は、元気がわざと大げさに怒って会話を止めたことに気付いた。
「……そうだね、ありがとう」
素直に直哉に感謝されて、元気はにっと笑って見せた。
「いいんだよ! 俺、空気が読める男だからさ!」
「……少しそう思ったんだけど、やっぱり撤回しておく」
「するなよ! 褒めよ! 称えよ!」
わかったわかったと口では軽くあしらいながら、直哉にはそれが、心の底から有難かった。
独り体育祭準備から逃げおおせたレティシアだったが、洋館に帰宅すると、イリヤから宛名の無い真っ白な封筒を手渡されて、露骨に嫌そうな顔をした。封は黒い蝋で施されており、中心には薔薇をかたどった、吸血鬼の協会の印が刻まれている。
「いかがいたします」
「いかがも何も、黒い封に拒否権は無いだろう。絶対に来いとのお達しだ。赤い封筒でないだけマシだが」
「どういったご用件でしょうかねぇ」
「どうせこの間の人狼の件だろう」
即答した主に、心配そうにイリヤは問いかけた。
「こうなることはわかっていて、人狼の件にも首を突っ込まれましたよね」
「さぁな。時と場所は」
「例年通り、聖夜の月に。今回は西欧の古城ですね」
「ヨーロッパか。またイリヤには世話になるな」
「地球半周くらいどうってことありません。四周くらいはできますので」
「さすがだな」
「それから、お客様です」
「誰だ」
「月夜の奥方です」
それを聞いたレティシアは、珍しく慌てだした。
「先に言え!」
「あの方、苦手なんですよ」
「マダムは跳びかかったりしないだろう!」
レティシアは身なりを整えながら、小走りでリビングへ向かった。そこには、牡丹の豪奢な刺繍を施された黒い着物を大胆に着崩した女性が、ソファに艶やかに座っていた。肩を鎖骨まで見せ、帯も正面に結び目を持ってきているせいで、過ぎし時代の花魁のように見えた。髪に付けたかんざしから、ちりん、と、鈴の音がした。イリヤは苦手だと言っていたが、マダムの前のテーブルにはホットミルクの入ったティーカップがあり、きちんともてなしてはいたようだ。
「お邪魔しております」
マダムはその声すら、しっとりと濡れているようだった。レティシアは日本式にお辞儀をし、マダムの正面のソファに腰かけた。
「お待たせして申し訳ありません。マダムご本人にお越しいただけるとは思っておりませんでした」
「気ままな仔が多いものですから。それに、大事な方に無礼があってはなりませんので……そちらの方は、蝙蝠でしょう?」
マダムに視線を投げられて、イリヤはどこか気まずそうだった。
「お手紙をくださったのも貴方ですね。血の気の多い若者を、寄越すわけにはいきません」
「お気遣いいただいて、ありがとうございます」
レティシアとイリヤは礼を述べ、マダムはそれに微笑んだ。マダムの瞳は、左は紅の様に赤く、右は夕焼けの様に黄金に輝いていた。
月夜の奥方と呼ばれるその女性は、いわゆる魔法使いだった。魔法とは、奇跡の類や悪魔の所業といった類のものから、理屈によって説明されることのなくなった古い科学まで、様々な法のことを言う。共通するのは、わかる者にはわかり、わからない者には永遠にわからない、秘法であるということだった。魔法使いにも互助組織である協会がいくつか存在するが、この島国では魔法は独自の発展を遂げたため、世界規模の協会に所属するような魔法使いはそもそも少ない。月夜の奥方はその数少ないうちの中では最古参で、東洋の魔法使いの事なら一番熟知しているといわれていた。レティシアは、直哉をけしかけた魔法使いを探ろうと、彼女に連絡をとったのだった。
しかし、返答は、レティシアの予想外のものだった。
「ご連絡いただいた件なのですが、わからないのです」
「わからない?」
「少なくとも、我らの協会に籍のある者の仕業ではありません」
「ですが、この島を含む、魔法使いの協会など」
「他にはありません。また、他の心当たりの協会にも、そういった者は在籍しておりません。念のため、この国古来の法を使う者たちにも探りを入れてみましたが、こちらにも該当する者はおりませんでした。そもそも彼らは、魔法使いと呼ばれるのを嫌がりますので、自らそう名乗る可能性も低いのですが」
「……目覚めぬまま年を重ねた人狼を起こすような方法も、ありませんか」
「いえ、それは可能でしょう。法と、それを扱う人物がいれば。ただ、私の心当たりは先の大戦ですでに亡くなっています」
「では、魔法使いの仕業ではないと?」
「それもまた、考えづらいでしょう。……どちらかと言えば、今回は、その大戦の最中に生まれた迷い子ではないかと思います。それより以前の出生であれば、さすがにどこかの協会が把握しておりますから。そして、取りこぼされてしまったのでしょう。……人間は、歴史になれば遠い昔だと思うようですが、我らにしてみれば一瞬に同じこと。この世界はまだ、かつての大戦の傷を癒せてはいないのです」
「では、誰が彼の者を指導したのかなども」
「わからないのです。……そもそも、秘さねばならぬ魔法は、いずれ廃れゆく法。今時熱心に弟子をとるのは、若いものくらいですが、人狼を起こすような奇特なものはおりません」
ですが、と、表情を曇らせて、マダムは言った。
「大戦の折、多くの同士と共に多くの法を失いました。焼かれたのか盗まれたのかを追うようなものも、今まではおりませんでした。あくまで可能性の話ですが」
「法を盗むということが、可能なのですか」
「否定できません。手段を選ばなければ。しかし、それを調べようとしても、何もかもが空白。……先の大戦は、そういうものでした」
マダムは悲しそうに言ったが、すぐに語気を強め、レティシアをまっすぐ見据えて続けた。
「それでも、今回の件はこちらとしても見逃すことはできません。協会に属してもいないのに魔法使いを名乗り、挙句、寝た仔を起こすなど。正気の沙汰ではありません」
「お邪魔しまーす……イリヤさん? レティ?」
その日の作業を終えた椿は、慣れたように洋館にやってきた。長く短い夏休みを過ごして、椿は鍵がかかっていないときは遠慮なく中に入るほど、随分と自由に洋館に出入りするようになった。鍵がかかっていても、直哉がいれば開けて入った。しかし、いつもであれば待ち構えたように玄関でイリヤに出迎えられるのが、今日の様に無言だと、椿もさすがに不安を感じた。中の様子を窺うように身を乗り出した椿の足元に、ちりんと、鈴の音をたてながら黒い何かがすり寄ってきた。椿が見ると、毛並みのいい黒猫が、喉をごろごろと鳴らしている。よくわからないまま椿がその首元を撫でると、気持ちよさそうに身を預けながらも、椿のことをじっと見つめてきた。左右で違う色の瞳が、きらきらと輝いている。
「お疲れ、椿」
「レティ。猫、飼い始めたの?」
「まさか。お客様だ」
その言葉に反応するように、黒猫はにゃあ、と鳴いた。見ようによっては、微笑んでいるようにも見える。
「お利口さんだね」
「当たり前だ。あまり無礼な口をきくな」
そう言うと、レティは自ら玄関扉を開いた。猫が鈴の音を軽やかに奏でながらするりと戸をくぐると、レティシアは礼をして見送った。
「赤と金のオッドアイは、初めて見たな」
「オッドアイ?」
「猫の、左右で違う色の瞳の事だ。……椿、たぶん、測られたぞ」
「何を?」
「さあな。まあ、生きているということは、お気に召したんだろう」
「ほんとに何を……?」
考え込んでどこか上の空なレティシアに、椿は答えのない「何」を繰り返した。