はじめまして、よろしくね
石垣直哉は例の事件以降高熱を出し、起き上がれもせずうなされる日々が続いた。流石に事情を聞いた以上、家に帰すのも憚られ、レティシアの家のゲストルームで引き続き寝かされていた。レティシアは毎日直哉の家を訪れ、直哉は合宿で家に帰らないという記憶を家族に植え付けつづけた。椿は食材や課題などを持ち込んでレティシアの家に入り浸っていたので、レティシアとイリヤが手を離せない時に直哉の看病を手伝った。命を狙われた椿が直哉の看病をすることに、はじめは心配していたレティシアとイリヤだったが、椿がスポーツドリンクや冷却シート、電子体温計などを持ち込んでからは何も言わなくなった。丈夫さゆえか、洋館には人間を看病するための道具が不足していた。
そんな日々が続いた八月のある日、直哉はようやくはっきりと目を覚ました。長い間寝ていたにしては不快感も無く、むしろすっきりとした心地だった。枕元には桶とふきん、サイドテーブルには栄養剤やゼリーが置いてあり、手厚い看病を受けていたことを知った。随分前に外されたのだろう、枷は跡すら残っていない。水を飲もうと、直哉は立ち上がろうとして、床にへたり込んだ。しばらく動かさなかったため体に力が思うように入らなかったが、それでも引きずるようにして部屋から出て、階下へ下りた。ダイニングへの扉を開いたところで、何かの唸り声のようなものが聞こえ、直哉は思わず立ち尽くした。
「ううーーーーーーーーーーー」
唸り声の主はレティシアだった。湯気をたてる卵粥を前に、眉間に皺を寄せている。イリヤは傍で興味深そうに粥を見つめている。その二人を、固唾をのんで見守っているのは、椿だった。
「無精卵だから、いいかなと思ったんだけど、やっぱり嫌?」
「いや、頑張ってみるが……ものすごく熱そう」
「実際に熱いから、気をつけてね。今のところ、あとはほうれん草のおひたしと、ひじきと。レバーはやっぱりだめ?」
「生理的に受け付けない」
「ブルースさんが言うと説得力ないなぁ」
「ほっとけ」
その時、レティシアが直哉に気づいた。ふっと微笑んだレティシアにつられて、イリヤと椿も直哉の方を見た。直哉は慌てて自分の身体を確認したが、案外さっぱりとしていて安心した。直哉には見覚えのない、黒の上下のパジャマを着ていた。裾や袖が余っている。
「おはよう、イシガキ・ナオヤ」
「……おはよう……なにやってるの?」
「ツバキの夏休みの自由研究だそうだ」
「チョコ以外でも調子が良くなる食べ物があってよかったぁ」
「べつにチョコレートでも困っていたわけではないんだが」
「甘いもの苦手でしょ。あ、石垣君も食べる? 熱出しててほとんど食べてないし、お腹すいてるでしょ?」
言いながら、椿はぱたぱたと、キッチンに向かう。その後ろ姿を戸惑った様子で見ていた直哉に、手招きをしながらレティシアは言った。
「殺されかけた本人が言ってるんだ。遠慮しなくていいぞ」
「……なんで?」
「できることをすることにしたそうだ。……だからなんだと言われると、私にもわからん」
戸惑いが全く失せない直哉に、レティシアは苦笑してみせた。イリヤも直哉を招く様に、椅子を引いてみせた。
「どうぞ」
「あなたは、あの時の」
「……イリヤと申します。とりあえず、おかけください」
名乗る直前、氷点下の目力でレティシアに睨まれ、イリヤは大切な名前の方を名乗った。直哉は、イリヤが引いた椅子におずおずと腰かけた。
「ありがとうございます。あの、怪我は」
「もう治りました。丈夫なのです。しかし、久方ぶりに手負いました。貴方はお強い」
「すみませんでした」
「嫌味ではありません。むしろ、多勢に無勢とはいえ、人狼を倒せたことが爽快ですらありましたから」
水をグラスに注ぎ、直哉の前に出しながら、イリヤは続けた。
「むしろ、椿様が平然とされていることは、私にも不思議でなりません」
「そうだな。ツバキは生粋の人間のくせに、丸腰で人狼の看病をするし」
「え?」
「私は人間の看病についてまったく理解していなかったと悟ったよ。よくもまあ、あれだけの品を発明したものだな」
「我々には必要もありませんでしたしね」
ふと気づいたように、レティシアは付け足した。
「ああ、安心しろ。着替えやらはイリヤがやったから。人間は気にするだろう? 難儀だな」
「え、あ、ありがとう……吸血鬼は違うの?」
直哉がぱっと赤面してしまったのをごまかす様にした質問に、
「ああ、吸血鬼は人間を騙してなんぼだからな。着るのも脱ぐのも必要に応じる」
レティシアが冷静に返して、直哉の顔が今度は青くなった。
その時、椿が卵粥を三人分運んできた。
「お待たせ。どうせならみんなで食べようと思って。……何の話?」
「な、なんでもないよ。それより日暮さんは、怪我、大丈夫?」
慌てた様子の直哉に椿はきょとんとした目を向けながらも、直哉の視線が自分の手首に注がれていることに気付いて、ああ、と言った。
「大丈夫だよ。手当てしたし、慣れてるしね」
「どちらかというとこちらの方がまずかったな。また血の臭いにやられたらどうしてくれるんだ」
「ブルースさん」
「本当のことだ」
軽口の口調でやり取りするレティシアと椿に、直哉は頭を下げた。
「本当にごめんね。許してもらえるとは思っていないけど……」
「そんな、気にしてないよ」
「そうだな、償っても償いきれないな」
「ブルースさん……」
「ううん。その通りなんだ」
レティシアを咎めるような椿の口ぶりを、直哉は弱々しく遮った。
「したことはしたことだ。なのに、何もしていないのに許されて、看病まで受けて……申し訳、ないのに」
「そうだな」
直哉が恐る恐る顔をあげると、レティシアはその言葉に反して、優しく微笑んでいた。
「とりあえず食べよう。そのあと少し、働いてもらう。病み上がりにはきついぞ」
いただきます、と、手を合わせたレティシアは、スプーンで粥を口に運んだ。
「あっつ」
レティシアは猫舌だった。
「種?」
「ローズマリーだ」
ガラス瓶に入れられた茶色い粒たちを、目を丸くしてつぶやいた椿に、レティシアは答えた。病み上がりにはきつい、という言葉の通り、直哉はイリヤのものだろう黒いつなぎを着せられ、園芸用の土や大きな鉢を持って洋館の中と庭を行ったり来たりした。庭は、雑草や枯れ木が無いので手入れされていたことはわかるが、何も植えられておらず、閑散としていた。流れの止まった噴水の周りも、心なしかよどんで見える。
「それから、こっちの木はカメリア・サザンカ。こんな時期に植え替えをやっていた家があったらしくてな。余ったのをイリヤがもらってきた」
「イリヤさん、ご近所づきあいとかするの?」
「得意というわけではありませんが、最低限は。ただ、気にかけてくださる方はどの土地でもいらっしゃいますね。特に女性は」
「マダムキラーだったんだ」
「殺めてはおりませんよ?」
「ツバキ、イリヤ。馬鹿なこと言ってないで始めるぞ。まずは木だ」
レティシアはそう言って、三人――主に直哉――を従えて、作業を始めた。半日向の一角に十分な穴を掘り、肥料を混ぜた土で木の根をしっかりと埋める。それを三本繰り返し、じょうろで水をたっぷりとやった。次に、大きな植木鉢に、砂利や土を敷き詰めた。そして、種の入ったガラス瓶を直哉に渡しながら、お前が蒔けと、レティシアは言った。
「この植木鉢は、墓だ。骨も灰も無いけどな、こういうのに大事なのは心だ。弔いのために、新たに花を折るような気分でもないだろう? ローズマリーにはいろんな意味がある。記憶、追憶――つまり、「忘れない」。あと、一部の地域では、再生という意味もある。お前からの弔いには、ぴったりだろう」
そう言うと、レティシアは空のじょうろを持って立ち上がった。直哉は受け取った種と鉢を交互に見つめ、少しずつ、丁寧に植え始めた。ハーブの種を蒔いているとは思えないほど繊細な手つきで、椿にはそれが焼香しているようにも見えた。直哉は最後の種に土をかけるまで、植木鉢と種から目を逸らさなかった。種を植え終わると、水を汲んで戻っていたレティシアがその鉢に控えめに水をかけた。その傍らで、直哉がつぶやいた。
「やり直せるのかな」
「するしかないだろう」
レティシアの返答は、冷たいようで、温かかった。
「時間は一方通行だ。戻れない以上、何をしでかしたとしてもそこからやり直す以外にない。何度でもやり直して、大いに反省しろ。そうすれば、来世くらいには、何も殺めずに生きられるかもしれない」
「……そうだと、いいな」
そう言って、直哉は鉢に手を合わせた。それは意味のない行為かもしれないが、せめて、望まずに罪を犯した直哉の命が癒されていくよう、他の三人も祈っていた。顔をあげ、三人に向かってありがとうと告げた直哉の瞳は、すこし赤かった。
「なんだか、不思議だ。あんなことをしたのに……こんなに心が軽いのは、いつぶりだろう。こんな、夏も」
その言葉の背景に、直哉の心の傷が見え隠れして、いたたまれなさを感じた椿がとっさに目を逸らした。それを見て、直哉は気が付いた。
「聞いてたんだね」
「……ごめん」
「どうして謝るの。日暮さんは被害者だ。知る権利がある」
「知られたくなかったのかと思ったから……ブルースさん、石垣君の、その……辛い記憶を消したりはできないの?」
レティシアは弱々しく首を振る。
「加害者がそのままでは、記憶を消しても意味が無い。自衛もできなくなるだけだ。関係者全員の記憶をいじるのも無理がある。石垣の家を訪ねても、兄らしき人物は出てこないし」
「そういう奴なんだ」
直哉が口を挟む。
「あいつは、自分より強い相手はわかるんだ。そういうのはうまく避けて、自分より格下だと思う相手を虐げる。外面は良いから、大人たちは、よほどのことが無いと気づかない」
「そんな……懲らしめる、とかはできないの?」
「対症療法にしかならない。それによって石垣の兄を変えようと望むのは無理がある。罰の類は、その影響がある範囲内でしか効果が無い」
レティシアは苦々しく告げた。レティシアは人狼を止めた張本人であり、事件の後は石垣の家に何度も通っている。責任を感じていた。
「吸血鬼としては、この件に関して特別にできることなど、ほとんどない。……申し訳ない。石垣の悲願を止めたくせに、お前を完全に助ける方法が見当たらない。人間にできることで私にもできることがあれば、手伝わせてほしい。それから、せめて、これを」
レティシアは、直哉の掌に、古い鍵を乗せた。
「この家の鍵だ。兄が帰っている間は、あの部屋を好きに使ってくれ。……これで、赦してくれないか」
「……充分だよ……。思ってくれて、考えてくれて、逃げ場所をくれて……、充分だ」
直哉は、縋るように、古い鍵を握りしめた。
「ちゃんとした、夏休みだ」
リビングで、これも椿が持ち込んだ冷たい麦茶を四人で飲みながら、直哉が訊いた。
「日暮さん、その手首、本当に大丈夫なの?」
「うん、大丈夫だよ」
「……さっき、慣れてるって言ってたよね。どういうこと?」
「ああ……」
すぅっと、椿の瞳から、先ほどまで揺れ動いていた感情が消えかけたが、何かを思い出したように、レティシアに問いかけた。
「ブルースさん、さっき庭に植えた木、カメリア・サザンカって言ってたよね? ということは、椿の木?」
「どちらかと言えばサザンカ寄りだがな。寒椿とも言う」
それを聞いて、そっか、と呟き、
「私の名前、本当は澄人になるはずだった」
なんでもないことの様に、椿は言った。
「今は弟の名前だけど。一姫二太郎って知ってる? もう古い考え方だと思うけど、両親はね、お姉ちゃんが生まれて、次は絶対に男の子がよかったんだって。事前に検査したわけでもないのに、男の子の名前しか用意してなかった両親は、生まれてきたのが女の子だったから、焦って病院の庭に咲いてた花から名前をつけたの。それで、椿。……自分の名前の由来を調べるのって、授業とかで結構あるでしょ? それで聞いたの。綺麗な花だからいいでしょ、って、両親は言ってたかな。まあ、それだけ。それだけなんだけど、お姉ちゃんも弟の澄人も優秀で自慢だったからよかったんだけど、でも二人を知らない人たちのところに行きたくて、私立の中学を受験したいって言った。お姉ちゃんも別の学校だけど受験したし。でも、私が私立に行くと、澄人が受験するお金がなくなるから、ダメって言われて、受験できなかった。そのあたりからかな。コレは」
一気に言ってしまってから、椿は手首を撫でた。椿は、自分で話しながら、なんて下らないんだろう、それだけのことで、と思っていた。どんどん語気が弱くなっていく。
「わかるけどね。お金は有限だし、お姉ちゃんも澄人も優秀だし。私だって、自分から奨学金とか調べるほどの熱意があったわけじゃない。だから、言い訳」
ただの聞き分けのいい子供のような顔で、椿は笑った。
しかし、その笑顔を、直哉とレティシアは真面目な顔で受け取っていた。特に直哉は、椿の生きづらさがわかるような気がした。無意識の否定を受け続けて心の拠り所を見失った上に、外から見て問題が無かったために、どんなに居場所が無いと感じていても、椿は外にも頼りようがなかったのだろう。鼻と口はふさがれていないはずなのに、窒息していくような生きづらさが、そこにはあっただろう。そして、それを訴えた時に、受け止めてもらえない辛さを、直哉は嫌というほど知っていたから。
「椿」
しばらく考えて、直哉は言った。
「これからそう呼ぶよ。せっかく綺麗な名前だし、呼ばれたら何か変わるかもしれない。……それくらいしか、できないけど」
その提案は、椿にとって意外なものだった。ただ名前で呼ぶというだけの事なのに、不意打ちだったからだろうか、自分の名前がさび付いたものから何か輝かしいものに変わったようだった。名前がきらきらと輝きだすと、それまで名前を呼んでくれていた人との記憶も、つられて輝きだすようだった。イリヤが自分の名前を宝物だと言ったあの時、本当はとても羨ましかったのだと、椿は悟った。
今、椿の名前も宝物になった。
「じゃあ、私も、名前で呼ぶね」
ようやく返した椿の声は、それまでより少し、涙で滲んでいるようだった。
そんな椿と、うん、と頷く直哉を見て、少し拗ねたように、レティシアは唇を尖らせた。
「なんだかいいな」
「ブルースさんは私のこと、もう名前で呼んでくれてるもんね」
「日本語の発音を、もう少し頑張ってみるか。ツバキ、つばき、椿……うーん」
真剣に発音練習を始めたレティシアを見て、椿は思わず笑ってしまった。
「私も、レティシアさんって呼ぼうかな」
「レティでいいぞ。光たちはそう呼ぶ。直哉も」
さらりと名前を呼ばれた直哉も、それに応えた。
「じゃ、そう呼ぶね。よろしく、レティ」
「うむ!」
満足そうに笑うレティシアにつられて、椿と直哉もまた、笑った。いつもは見られない主の陽気な姿に、イリヤも微笑みながら、それぞれのグラスに麦茶のお代わりを注ぎだした。
「さて」
麦茶の最後の一口を飲み終え、レティシアは真面目な声になった。
「直哉。少し聞きたいことがある。お前を覚醒させようとしたのは、誰だ?」
それを聞いて、直哉はレティシアを見た。直哉が人狼となって暴れた日にも、同じ問いかけをされていたのを、直哉は覚えていた。隣で困惑の表情を浮かべている椿にもわかるように、レティシアは続けた。
「お前の両親を見た。ヒトの親としてはポンコツかもしれないが、いわゆる普通の人間だった。人間が、人狼などの力を秘めて生まれることはままある。隔世遺伝のように、大昔に混じった力が何代も下って今更現れるケースとかな。だが、その力が目覚めるためには、幼少期に手本、今回の場合は人狼からの教育が必要だ。人間が母国語を習得する時のように、力の使い方を大量に見て、聞いて、真似して、覚えなければ、狼の力があっても、持ち腐れる。とくに無くても人間として生きるのには困らない力だしな。だから、直哉のように十代になってから勝手に力が覚醒するというのはほぼありえない。しかも覚醒の仕方も、直哉が意識を飛ばすくらいに不安定で力ずくによるものだ。おそらく誰か、無責任にお前を覚醒させようとした奴がいるんだろう」
話を聞きながら、直哉の表情は曇っていった。直哉にしてみれば、そのヒトは、見ようによっては自分に味方をしてくれたとも言えた。だが、そんな直哉の心中を察したのか、レティシアは容赦なく言ってのけた。
「思うに、本当にお前のことを考えた奴のすることではないぞ」
レティシアは、あのまま直哉が覚醒していたら、行きついたのは地獄だと知っていたし、直哉を覚醒させようとした者も、おそらくそれはわかっていたはずだと思った。
「……よく知らない人なんだ。いつもスーツを着てる、男の人」
直哉は、重い口を開いた。自分のためを本当に思ってくれているのがどちらだと、既に知っていた。
「自分のことを、魔法使いって言ってた」