貴方は、誰
その日は入学式から間もなくで、クラスの雰囲気はまだ出来上がっていなかった。だから、必要なこととはいえ、委員会のメンバーを決めるのに時間がかかった。最初の学級委員を決める時点で、誰も名乗り出ないまま、一分が経過した。大人数が黙って過ごす一分間は、存外居心地の悪いものがある。
ひとつ、小さくため息をついて、いつものように椿は手を挙げた。クラスのリーダー的立ち位置に積極的に立候補するような人間がいたら、最初の十秒で決着がついている。それが一分経っても決まらないということは、どうせ時間が経っても気まずくなるばかりで、誰も名乗り出なくなることは経験上知っていた。だから、ほぼ同時に手を挙げた男子に、椿は心底驚いたのだった。
積極的にリーダーを務めるタイプでも、誰かに推薦されるタイプでも正直ないが、黙って誰かに仕事を合法的に押し付けるような人でもない。これから男子の学級委員が決まるまで何分かかるだろう、と、気が重かった椿には、手を挙げた彼――石垣直哉の存在が、単純に嬉しかった。
それがどうしてこうなってるんだろう、と、椿は思った。全身が心臓にでもなったかのように、動悸が激しかった。直哉と遭遇してしまってから、椿はとっさに逃げた。しかしさすがに直線距離では追い付かれてしまいそうになって、公園の中に逃げ込み、遊具を飛び越えたりして直哉を引き離したあと、公園の裏手にある林に逃げ込んだ。必死に呼吸を整えながら椿は考えたが、解決策が見つからない。命を懸けた鬼ごっこをしている間に、直哉の耳、牙、爪がとがりだし、線が細かったはずの腕や肩は筋肉が盛り上がってきていた。髪の毛も逆立ってきており、そのシルエットはホラーかファンタジーに出てくる悪役を思い起こさせた。
石垣直哉が、人狼。それまでまったく気づかなかった真実に椿は衝撃を受けたが、今はそんな場合ではない。椿一人では逃げられる可能性が全く見当たらなかった。何せ、相手は人狼で、しかも正体をさらしている。相手が普通の犯罪者だとしても、このまま逃がしてくれるわけが無いだろう。何か使えるモノは無いか、と荷物をあさってみたけれど、硬いものはと言えば卓上塩の瓶くらいで、あとは野菜や米や調味料くらいしかない。とりあえず重いことに気付いたので、食料は木の根元にいったん置いた。
誰かを呼ぼうかとも思ったが、普通の人間を呼んだところで意味があるとも思えない。呼ぶならレティシアだが、彼女は通信機器の類を持っていない。血の臭いをかぎ分けることができるけれど、走り回っているうちに自然についた擦り傷ぐらいじゃさすがに無理だ。このままでは椿は遅かれ早かれ狼の牙と爪にやられるだろうが、それはつまり死ぬ時だ。いつも自分でしていたよりもずっと、彼には躊躇いが、と椿は考えて、ふと思いあたった。我に返った、と言ってもいい。
――そっか、そもそも私、死にたかったんだっけ。なんでこんなに逃げてるんだろう。
このまま出ていけば、望む通りに死なせてもらえるではないか。レティシアは血をもう飲んでくれない。けれど人狼は、なんの目的かはわからないが、生き物を殺そうとしているではないか。なぜ自分は今更、この絶好のチャンスに、逃げ回っているのだろうと、不思議だった。
――あと、なんで逃げられているんだろう。
あの人狼相手に、たかが普通の女子である自分が、逃げ回れている理屈が思いつかなかった。
視界の端に、場違いな米のビニール袋があった。椿はまだ夏休みの自由研究をやっていないし、直哉の自由研究の結果も知りたかった。それに、直哉の自由研究がこれなのだとしたら、なぜさっさと椿は殺されないのかも、わからなかった。疑問だらけで、何も答えが出なかった。人狼の正体さえわかればなんとかなると、何をなんとかしたかったのかもわからないまま、漠然と思っていたのだ。
椿は、荷物から卓上塩の瓶を取り出し、石を叩きつけて、割った。きらきらと、塩が飛び散る。
まだ死ねない。そう、椿は思った。だから、小さい、けれど鋭くとがったガラスの破片を、自身の手首にあてがった。
普通より熱い血の臭いが、ブロンドの吸血鬼に届く様にと願って。
ざりっと、土と雑草が擦れる音が聞こえて、椿は反射的に振り返った。手首の傷は浅くても、血がどんどんと零れてきて、椿のパーカーを汚した。直哉の耳はすでに獣のそれで、髪の毛ではない毛が頭や首から逆立っていた。手は筋張り、鋭くとがった爪が現れた。同じように鋭くとがった犬歯が、窮屈そうに口から覗いていた。
「血の、臭いだね」
直哉が獣のようなぐるる、という音をたてながら、言った。
「自分から怪我をするなんて、余計に臭いがたどりやすくなるだけなのに」
「……そっか、狼さんだもんね。鼻、きくんだ」
「驚かないの?」
「驚いたよ。……なんで、こんなことをするの?」
「力が欲しいんだ」
そう直哉は迷いなく答えたのに、続いた言葉は辛そうだと椿は感じた。
「強くなって、うんと強くなって、あいつを殺すんだ。そうすれば、きっと、解放される」
「……解放?」
「うん」
狼の瞳から、すっと、人間らしい光が陰った。
「……ごめん」
獣の唸り声の向こう側から、かすかに、椿はそんな言葉を聞いた。
ゆらり、と直哉が動き出すのを見て、椿はまた、駆けだそうとした。
その時、待ち望んだブロンドが、黄色い閃光のように直哉の横腹を蹴り飛ばした。
ブロンドの持ち主は、五メートルほど飛ばされて転がって木に打ち付けられた直哉に、舌打ちをした。その勢いから、もっと遠くへ飛ばすつもりだったようだが、木に邪魔されたのだろう。
「ブルースさん、イリヤさん」
「すまんツバキ、遅くなった」
そう謝るレティシアと、素早く椿の手首の傷にハンカチを巻くイリヤに、椿は心の底から安心していた。人狼はと言えばかなり強烈に身体を打ち付けたはずなのに、瞬間的に顔をゆがめただけで、まるで何事もなかったかのように立ち上がった。レティシアとイリヤを見定めるように睨みつけている。
「あれは……イシガキ・ナオヤか」
「うん……」
「まずいな、正気を失いかけてる」
「それって」
「覚醒しかけてる。でもあれは良くない目覚め方だ。目覚めきったらもう会話にもならないかもしれない」
「……どうするの?」
「最悪は仕留めるしか」
「まって!」
椿は予想していた言葉に、慌てて止めに入った。
「石垣君、謝ってるの! 何か事情があるんだよ!」
そんな椿の必死の様子に、レティシアは、わかっている、と諦めたように答えた。
「お前のお人好しにも慣れたな。……生かすなら、催眠にかけるしかない。あいつが正気を失う前に、目を合わせる」
そう言って直哉に向かって構えるレティシアとそれに続くイリヤに、椿は問いかける。
「私は何を?」
「あいつに正気を保たせろ」
「どうすればいいの?」
「まずは逃げ回れ。あとは、説得でもしてみろ」
「それ結局ブルースさんもどうしていいかわかってないでしょ!?」
レティシアとイリヤの背中に叫ぶように投げかけた椿の言葉を無視して、レティシアとイリヤは直哉を挟み撃ちにするように駆けだした。直哉はとっさにレティシアに応戦するように拳を繰り出し、その行動を読んでいたようにレティシアは身を跳ねさせ、公園に飛び込んだ。そして背を向けた直哉をイリヤが羽交い絞めにしたが、直哉も勢いよく跳躍し、背中から勢いよく公園に転がり込んだ。イリヤの呻く声がかすかに椿の耳に聞こえた。線の細い、元の姿の直哉からは考えられない衝撃の強さと動きの俊敏さに、椿はやはり目の前にいるのは人狼なのだと思った。説得をしろと言われても、何の言葉も浮かばず、椿は石垣の名を呼び続けた。
イリヤの腕から解放された直哉に、レティシアがとびかかる。その顔を直哉は両手でつかみ、投げ飛ばした。それにとどめを刺そうと、直哉は駆けだす。そこにイリヤが追いつき、再度羽交い絞めにしようとするが、直哉はそれをよけ、鋭くとがった爪をもつ腕を横に一閃した。もうすでに直哉は頭で考えて動いていないのだろう。行き当たりばったりで、容赦のない動きだった。イリヤは、とっさに蝙蝠になって、その攻撃をかわした。
その、蝙蝠になったイリヤを、直哉は揺らいだ瞳でじっと見つめた。
そして、それまでレティシアだった標的をイリヤに変え、急に跳躍した。
一閃した直哉の左手の爪がイリヤの翼をかすめ、血が走る。そして揺らいだイリヤに直哉がもう一発入れようと右手を構え、
「イリヤさん!!」
椿の悲鳴に、一瞬動きを止めた。
その一瞬、イリヤが直哉の腹に飛び込み、追いついたレティシアも背中から引っ張るようにして、直哉を地面に抑え込んだ。レティシアは覆いかぶさるように、両腕の間に既に半分以上獣と化した直哉の顔を閉じ込めた。椿からは、そのブロンドの髪が、カーテンの様に直哉の顔にかかるのを、スローモーションのように眺めた。
そして、たっぷり三十秒、レティシアは瞬きもせずにいつもより狭まった瞳孔で、直哉の瞳を射抜いた。そして、直哉はゆっくりと瞳を閉じた。
直哉の顔が人間のそれに戻り、抵抗しなくなったのを確認してから、レティシアは自分の眉間をおさえた。
「レティシア様!」
「……目が乾いた。無事か」
「問題ありません」
「その怪我は幻か?」
スパンと小気味のいい音をたてて、レティシアはイリヤの血の付いた肩を叩いた。ぐっと何かが詰まったような顔をしたイリヤに、やっぱりなとレティシアはつぶやく。
そのとき、ざっ、と音がして、レティシア達が振り返ると、椿が膝から崩れ落ちていた。
「ツバキ? 腰でもぬけたか」
レティシアが声をかけても返事はなく、代わりに堰を切ったようにとめどなく涙があふれだしてきた。
最後に何もできなかったという無力感と、知っている誰かに、知っている誰かが殺されるかもしれないという瞬間の衝撃に、今更、椿は震えが止まらなかった。
初めに手をかけたスズメから、命が抜けていく有様を、石垣直哉はよく覚えていた。
そばには調子っぱずれな鼻歌を奏でる男がいた。男にそそのかされた直哉は、それでも自分の意思で生き物に手をかけたはずだった。しかし、その時、直哉はひたすら、恐ろしかった。償いようのない罪を犯していると気づいていた。男は、直哉が命を奪うのを、それでこそ人狼だと喜びの滲んだ笑みで称えた。直哉には、その狂った称賛だけが支えだった。
自分の心が死なないようにするために、他の命に手をかける自分が悲しくて、直哉はただ、早く終わってほしいと、そればかり祈っていた。
遠くで、何か事情があるはずだと、叫ぶ女の子の声がする。彼女は自ら損な役回りを引き受けるタイプの子だった。直哉は彼女に怖い思いをさせて、傷つけたはずだった。
彼女は、直哉がまさに殺めようとしていた生き物の名前を呼んだ。まるで人間に対するのと同じように。
直哉だってわかっていたのだ。命に軽重が無いことくらい。
なのに、とっさにクラスメイトと蝙蝠を天秤にかけた自分に、心底嫌気がさした。
石垣直哉が目を覚ました時、身体は寝台に横たえられ、自由に動かなくなっていた。手を動かそうとすると、じゃり、と鉄の擦れる音がした。枷がはめられていることに気づき、直哉は動揺して腕を無茶苦茶に動かしたが、ガチャガチャという音が聞こえるだけで、全く歯が立たなかった。そこに、吸血鬼である同級生が顔を出した。おはよう、と剣呑に挨拶を投げ、彼女は直哉が寝かされている寝台に腰掛けた。白熱灯の明かりが二人を照らしていた。
「すまんな。また牙を向けられては面倒なのでな、少し拘束させてもらった」
「……レティシア・ブルースさん。君は……」
「吸血鬼」
「……そっか、君が」
「ツバキといいお前といい、驚かないんだな。私が知らないだけで日本では吸血鬼が珍しくないのかと勘違いしてしまいそうだ。まぁ、お前の場合、入れ知恵した誰かがいるんだろうが」
レティシアはつぶやく様に言った。視線を直哉に向けたが、直哉は視線を逸らした。枷は直哉の両手足を拘束していて、立ち上がったり逃げたりすることはおろか、起き上がることもできない。
「お前、人狼として目覚めたのは最近だな? 誰の手によるものだ?」
続けてレティシアが問うが、直哉は黙ったままだった。首をレティシアとは反対方向に向けて、目を合わそうともしない。
「まあ、いい。先に大事な話を済まそう。お前、何故その力に手を出した? その歳まで目覚めていなかったんだ、何者かの助力とお前の強い意志がなければできないはずだ。……ツバキから聞いた。誰を殺すつもりだ?」
「……日暮、さん」
「嘘だな。だったらさっき殺したはずだ」
寝台がきしむ音をたてた。レティシアは少し立ち上がり、かと思えば直哉にまたがるように覆いかぶさった。催眠にかけた時と同じように直哉の顔を両腕の間に閉じ込める。レティシアのブロンドの髪がカーテンのように波打つ。目つきは険しいが、瞳孔だけはいつものように丸く輝いていた。
「言っておくが、私は怒っている。むりやり吐かせてもいいくらいには」
腕に閉じ込められているせいで、直哉は顔を逸らすこともできなくなった。三十秒経ち、一分経ったが、レティシアの瞳孔は丸いままだった。しかし二分たったところで、観念したか、直哉が口を開いた。
「に、兄ちゃん」
「お前の兄か」
その時、直哉が唐突に暴れ出した。手足をばたつかせるため、鎖が耳障りに擦れる音がする。
「逃げなきゃ、兄ちゃんがくる、逃げなきゃ、いや、嫌だ」
直哉にまたがったままだったレティシアは直哉の両腕をおさえた。枷があるにもかかわらず、そうでもしないとレティシア自身が吹き飛ばされそうだった。レティシアは、直哉がまた人狼になるのかと思ったが、そのしぐさはむしろ怯えているようだった。
「こ、殺さなきゃ、殺される、またやられる、また」
「また?」
「う、あ、兄ちゃんが、あいつが、おれを、部屋で、押し倒して、あちこち触って、動けなくて、痛くて、殴られて、嫌だ、きもちわるい、いやだいやだいやだ」
その声は、重ねるごとに切羽詰まり、壊れてしまいそうだった。
「帰ってくる! あいつが、夏だから、休みだから、帰ってくる。いやだ、いやだいやだいやだ、殺さなきゃ、またやられる、今度は殺される、殺さなきゃ、いやだ」
「それ、誰かには言ったのか」
「う、言った」
父さん、と、直哉は、絞り出すように、かすかな声で言った。
「お前は男だから、そんな目に、あうはずがないって、言われた」
そう言った直哉は、真っ暗闇を独りぼっちで取り残された幼子のような顔をしていた。
「だから、おれが、やらなきゃ、自分でやらなきゃ、ころされるまえに、ころして」
「そうか」
「ころして、ころして、ころして、おれも、しぬ」
「そうか」
レティシアは直哉の上から下りた。そして元のようにベッドに腰かけ、直哉の左手を握って、言った。
「よく聞け。お前がやったことは、それでも間違っている。生きているうちに反省はした方がいい。それとは別に、お前が辛いのは、正しい」
レティシアが直哉を見つめる瞳は、優しかった。
「だから、ちゃんと辛がっていいんだ」
石垣の慟哭が響いた。身体中の水分を目から出すかのように泣き、この先の使い道がないかのように喉を潰して叫んだ。とても耐えられないというように枷にはめられたままの手足をばたつかせた。その左手を、レティシアはしっかりと握っていた。直哉が涙の海で遭難しないためであるかのように、しっかりと握って離さなかった。
「恥ずかしい」
レティシアが石垣を寝かせた客間から出ると、廊下で膝を抱えて小さくなっている椿がいた。怪我は通常の手当てを施したらしく、あちこちに巻かれた包帯が痛々しい。汚れた服を洗っている間にと、レティシアの持ち物の中でも簡素な黒いワンピースを着せられていた。また泣いたらしく、声を詰まらせている。
「聞いていたのか。何が」
「石垣くん、大変な目にあってたのに戦ってた。私はそんな目にあってもいないのに、死のうとしてる」
レティシアは深くため息をつき、椿の頭に手を乗せた。そしてその額を弾き――いわゆるデコピンをした。
「いった」
「お前は自分が殺されかけたことを忘れたのか」
弾かれた額をさすりながら、椿は口をとがらせ、でも結局死ななかったし、と呟いた。レティシアとしてはそういう問題ではないのだが、短い付き合いの中で椿はこういう人間なのだとレティシアも理解しつつあった。納得はしていないが。
「人と痛みを比べるな、ツバキ。それはそれ、これはこれだ。お前の辛さはお前のものだ」
「ブルースさんも、なにか辛いこと、あるの?」
「そりゃあ、お前たちより何十倍も生きていればな。だが今日は椿ももう休め。一度に沢山の濃いものを飲み込むと、胃もたれを起こすぞ」
言いながら、レティシアは椿の頭に手を置き、ぐりぐりと撫で回した。そのレティシアの顔を、泣いたために真っ赤になった目で椿は見上げた。
「ブルースさんって、イケメンだね」
「なんだ、バカにしてるのか?」