狼は誰だ
六月末にレティシアが倒れた一件で、椿はレティシアとイリヤに対する心の垣根のようなものが、限りなく低くなったように感じていた。一方、椿が自分だけでなくイリヤに対しても柔らかい態度で接するようになったことは、レティシアにとって嬉しい誤算だった。レティシアの体調が悪い間、椿はレティシアのもとへ頻繁に訪れ、授業や例の事件、クラスメイトのことなどを話すようになった。
「おそらく、例の犯人は、人狼として目覚めたのは最近なのだと思う」
ある日、レティシアは言った。
「どうして?」
「完全に覚醒した人狼にしては手口が雑すぎる。それに以前、ツバキも言っていたが、犯人はだんだん大きな生き物を手にかけるようになっている。おそらく、殺人の練習をしているのだと思う。人狼として完全に覚醒しているなら、とっくに本命を手にかけているはずだ」
「そっか」
「だから、おそらく中学校に入学する直前くらいにこの街に来た者や、様子が変わった者は怪しい。ツバキから見て、そんな様子の奴はいないか?」
「そう言われても……普通はどういう変化があるものなの?」
「一概には言えない。個人差もあるし、変化を隠そうとするかもしれないから」
「じゃあ、わからないよ……そんなに小学校の時から見てないし……」
「そうか……ツバキ、友達少ないんだな……」
「言わないで……」
そうこうするうちに七月も中旬、期末試験と夏休みの季節が到来した。梅雨の間にまた何件か小動物が犠牲になる事件があったものの、梅雨があけてレティシアの調子も少し回復したころには音沙汰の無い日々が続いた。このまま無くなるならその方がいいが、その可能性は低い、と、レティシアは思っていた。
丸ばかりが並んだ答案用紙を見つめながら、椿はため息をついた。結局、一学期の最終日である期末試験の答案返却日まで、犯人はわからなかった。クラスメイトは三十二人、中学校への進学という大イベントもあり、小学校からの変化など誰にでも当てはまる。明るくなったもの、落ち着いたもの、さらには引っ越しや成長期など入れれば全員が何かしら変化しているのではないだろうかと椿は思う。
「あれ、椿、そんな丸だらけの答案で何ため息ついてるの?」
「絵理沙」
浮かない様子の椿の後ろから現れた絵理沙は椿の答案をのぞき込んだ。いつものようにそばには光もいる。
「珍しく悪い点数だったのかと思って慰めようかと思ったのに、これじゃ私の方が慰めてもらわなくちゃいけないじゃん」
「み、見ないでよ」
「見られて困る点数じゃないでしょ? むしろ自慢しなさい。謙虚すぎ」
「そーだよー、私なんて数学、半分超えて嬉しいくらいなのに」
「光はもう少し恥じらいなさい。でも、光、英語は点数いいんだね」
「唯一日頃から勉強してたからね! レティに教えてもらったり。わたし、いつかニューヨーク行きたいんだぁ」
「東さん……ごめん、数学教えたのに……」
「いやいや、椿、ありがと! おかげで半分は超えたんだって!」
「小テストは三十超えなかったもんねぇ」
「絵理沙ぁ、そんなに褒めないでよぉ」
「褒めてはないよ。感心してるけど」
「ていうか、椿、また名前! もー、光でいいって言ってるじゃん!」
「光、しょうがないよ、椿のこれはもともとだから」
「絵理沙のことは下の名前で呼ぶじゃん!」
「渡辺って子が、前に他にもいたからね。そうじゃなかったら私だって渡辺呼びなんじゃない?」
さらりと絵理沙が言った言葉が、まったくその通りすぎて、椿は申し訳なさでいっぱいになった。悪いことをしているとは思っていないけれど。
「う、ごめん、その、なんとなく癖で」
「で、こんな夏休み直前の時に、そんな高得点握りしめてなに浮かない顔してるの?」
ん? と、絵理沙にのぞきこまれるように問われて、椿はぐっと言葉に詰まった。絵理沙の面倒見の良さを正面から浴びて、眩しい。その眩しさにあてられたのか、もう夏休みになってしまうという焦りもあったのか、椿は思わず訊いてしまった。
「二人は、ここ最近で、様子が変わった人に心当たりない?」
予想外の質問だったのだろう、絵理沙も光も、きょとん、と、顔を見合わせた。椿は、心当たりがあるとすれば絵理沙の方だろうと思っていたが、先に口を開いたのは光だった。
「んー、わたしはもともとのみんなの事、よく知らないからね? あ、でも、高橋君は背が伸びたよねぇ」
「成長期だね。あとは、アキは髪の毛染めたよね。本人はごまかしてるけど」
「ちょーっと茶色くなったの、やっぱそうなんだ!」
「羨ましい?」
「うーん、でもわたしはやるならレティくらいの金髪か、いっそピンクとかにしたいからなぁ」
「ごまかしようがないね。校則緩い高校に進学すればいけるかな」
「今時、髪の毛くらいいいじゃんね」
「お嬢様学校出身がそれ言う?」
「ほんと、校則最悪だった! レティみたいに地毛が黒じゃない子が逆に黒に染めさせられてたり。じんけんしんがい!!」
「うわ、それはないわ」
二人のやり取りをみて、核心に触れずに必要な情報を集めるのって案外難しいんだな、と、椿は思った。話がどんどん脱線して、意図せぬ方に進んでしまう。
「ツ・バ・キ」
ちょうどそのとき、まさにその情報集めで苦戦しているだろうレティシアの声がした。その整った顔には今、椿がわかる程度にうっすらと、青筋がたっている。
「ちょっと、いい?」
疑問形で問われた割には選択の余地を与えていないレティシアの様子に、椿は冷や汗を流した。
「お前は馬鹿なのか」
屋上へ向かう階段の踊り場へ出て、周りに人がいなくなったとたんに、レティシアは語気を荒くした。頭の中を褒められたりけなされたり、椿にとっては忙しい日だ。
「犯人は同じクラスだと言っただろう。教室で軽率な話をするな」
「ちょっと聞いてみただけだよ」
「誰かが少し変わった、という話ならわかる。変わった人はいないか、って何だ。刑事ドラマの聞き込みか」
「う……だって、もう夏休みに入っちゃうし、何か役に立ちたいなと思って……」
「それで得られた情報量とリスクが釣り合わない」
椿の言い分をばっさり切り捨てつつも、レティシアは心配そうな表情で椿に忠告した。
「犯人は今、練習している。お前も、練習台にされないとも限らない。自分の身はちゃんと守ってくれ」
ですよね、としか椿は言いようがなかった。ぐうの音も出ないとはこのことかと、椿はひとつ、学習した。
「日暮さん、どうしたの」
レティシアが去ってから念のため時間をあけて踊り場から廊下に出た椿は、やっぱりため息をついた瞬間にクラスメイトに遭遇した。なんだか今日はそういう日だな、と椿は思った。
「石垣君、なんでもないよ」
学級委員の石垣直哉は、不思議そうに顔を傾けた。直哉は線が細く、身長も椿と大差なかった。声変わりもまだのようで、聞き取りやすいアルトで、そう言えば、と、直哉は続けた。
「一学期ありがとう。学級委員って初めてだったけど、日暮さんのおかげでやりやすかったよ」
「そんな、私は何も」
にっこりと微笑む直哉を見て、椿はぶんぶんと手を振りながら答える。学級委員がやりやすかったのは椿も同じだった。椿は小学校のころから何かとそういう役職を押し付けられがちだが、それはリーダーシップがあるというより断れなくて真面目な性格のせいだ。そのため、同じく学級委員になった相方が目立つという理由だけで選ばれると、椿は非常にやりづらく、居心地の悪いままその学期を過ごしていた。しかし、直哉との学級委員はやりやすかった。それは直哉が真面目で責任感があるからだろうと椿は思っていた。
「日暮さんは二学期もやるの?」
「どうかな、また誰もやらないようなら考えるけど」
そう答えながら、椿は二学期のことを考え、また憂鬱になった。そのころには人狼は捕まっているだろうか。少しは役にたつ自分になっているんだろうか。……自分はまだ、生きているだろうか。
「なんだか、やりたいこともできることも無いなぁ」
椿が思わずそうつぶやくと、少し驚いたように直哉は椿を見た。
「意外だな。日暮さんもそんなこと思うんだ」
「意外?」
「なんでもできるように見えるよ。勉強もできるし委員会の仕事も早いし」
「そんなことないよ……」
無力感はなかなかぬぐえなかったが、直哉にそう言われて、少しだけ椿の心はほかほかと温まった。そんな椿を見て、直哉は微笑みながら、続けた。
「よくわからないけど、せっかく夏休みだし、なんかやってみればいいんじゃないかな。今まで気になってたこととか、やってみたかったこととか、どんなに小さなことでもいいから」
「小さなこと……いいのかな」
「いいんじゃないかな」
「……石垣君は何かするの?」
「そうだね。ずっと気になってたことをしようと思って」
直哉の微笑みに、先ほどまでは無かった決意の色が混じる。
「自主的に夏休みの自由研究、なんて」
同級生の思わぬ表情に、大人だなぁ、と椿は思った。
人狼以外で椿が気になっていることと言えば、レティシアの食事だった。椿の血を飲みたくないレティシアの気持ちはわかっているし体調は徐々に好転しているようだが、イリヤの話からすると、今後もフラッシュバックは襲ってくるのだろう。今のところレティシアを楽にできるとわかっているのはチョコレート。ただしレティシアは甘いものがあまり好きではない。仮定として、鉄分を多く含む食べ物や肉類や、他の甘味はどうだろうかと椿は考えた。一方で、たとえ植物でも食べること、というより自分が生きるために他を犠牲にすることを心底嫌がっているレティシアにしてみれば、余計なことだと思うだろうとも考えた。うんうんと考えて、どうせ他にすることも無いし、レティシアが嫌がれば自分で食べればいいだろうと結論付けた。スーパーに行ってみると、一人暮らし用の調味料やカット野菜などが売られていた。それらにざっと目を通してから椿は家に帰り、予算と作る料理を考えた。初めから成功するとは限らないので、家にあるものは少しずつ拝借することにした。まだ狼の正体もわかっていない、こんな時だというのに、椿はとても久しぶりに心の底から楽しかった。
勝手に台所をいじることに申し訳なさがあったので、椿が行動を起こしたのは、夜も更けてからだった。小分けにした調味料を紙袋に入れ、Tシャツとパーカー、ジーンズ姿で家を出た。深夜とはいえレティシアは夜の方が元気そうなので、特に失礼ではないだろうと判断した。二十四時間営業のスーパーで足りない調味料や野菜、米、卵を買って、洋館に向かっていた、その時だった。
突然、公園の茂みから、葉が擦れる大きな音と、獣特有の、ぐるるる、という声が聞こえたのだ。人狼かと思い、思わず数歩、椿は後ずさった。張り詰めた空気の中、現れたのは。
「犬……?」
首輪もつけていない、痩せた犬だった。その目は完全に怯えており、耳としっぽを震わせている。そして、前足をほんの少し、引きずっていた。
「怪我してるの? 大丈夫?」
椿は身をかがめながら犬に問うたが、怯え切った犬は近づこうとしない。どうしたんだろう、と椿が思った瞬間、再び茂みから大きな音がした。犬はいよいよ耐えられなくなったのか、公園とは反対側へ、傷ついた足を必死に動かして、一目散に逃げて行った。
「あ、まって」
手当しなくちゃ、と、椿が犬を呼び止めようとしたとき、椿の後ろから声が聞こえた。
「あーあ、最近は、野良犬って少ないから貴重だったのに」
その声は、とても聴きやすいアルトで。
「まあいっか、ちょっと何段階か飛ばしちゃうけど」
一学期の間、椿がとてもお世話になった男の子の声だった。
「ごめんね、日暮さん」
レティシアの様に心を操る力のないはずの瞳で、石垣直哉は椿を見つめた。口は微笑むように歪んでいたが、目は笑っていなかった。