信じることを信じてみたい
あの日以来、椿は自傷をしていなかったが、タイミング悪く梅雨に入ってしまった。雨の匂いが、血の臭いを辿ろうとするレティシアの邪魔をする。また、椿の自傷が無くなったことで、レティシアは何度目かもわからない栄養不足の症状に悩まされることになった。重度の貧血のためしばしば氷が血管をめぐるような寒気に襲われ、もともと良くない寝起きが更に悪くなった。そのせいで臭いをたどるのに余計にてこずっていた。レティシアは焦っていた。
一方、椿はと言えば、クラスに小動物殺傷の犯人がいるということ、そして自傷行為をやめていることで意外なほどストレスがかかっていた。ほぼ癖となってしまっていることを意識的にやめるのには忍耐力がいる。今までの様に、自傷行為をしてレティシアがその血を有効活用してくれればと、何度思ったかわからない。気を紛らわすためにいっそのこと、小動物殺傷事件の犯人を探してみようかと思ったが、もともと頭の回転が速いからか考えすぎる性格が災いしたのか、疑おうと思えば全員が疑わしく思えた。同じ小学校の出身者のことでさえ、本当のところを誰一人として椿は知らなかったことに気がついた。椿のことを本当には理解している人物がいないのと同じように。そう思えば、椿はさらに気が滅入った。そうこうするうちに、六月も末となっていた。
「今日もじめじめするねぇ」
三つ編みを器用にまとめてお団子頭にしている光は、弁当を頬張りながらつぶやいた。窓から見える外は、しとしとと雨が降っている。
最近は自然と、光、絵理沙、椿、レティシアで昼食をとっていた。小学校と違って牛乳以外の給食が無くなったので、全員持参した弁当を食べている。絵理沙はそれとは別に、菓子パンも持ってきていた。
「毎朝、髪の毛やるの大変なんだよなぁ」
そう言う光に、絵理沙は感心するように呟く。
「光は毎日よく髪型変えられるよね、器用だなぁ」
「そんなことないよ、レパートリーあんま無いし、パーマもカラーリングもしたら怒られるし。雨で、しかも今日午後体育じゃん? できる頭限られてユーウツ」
「いやあ、充分でしょ。私は髪の毛の事とか気にした事なかったからなぁ、今度教えて?」
「いいよ! 絵理沙も髪の毛伸びてきたしね、って、絵理沙まだ食べるの?」
「食事制限無くなってからコンビニの菓子パンが美味しくて。これ新作。食べる?」
そう言って、絵理沙は嬉しそうに大きなパンを光に見せた。爆弾クリームパン。なんだかよくわからないが、とりあえず凄そうだと椿は思った。そんなものを食べても、筋肉による基礎代謝がやはり高いのか、絵理沙は太る様子がまるでない。
そのとき、教室の扉がすたーんと音をたてて開け放たれた。
「たのもー!」
叫びながら飛び込んで来たのは、隣のクラスの中村将吾だ。最近では見慣れた光景である。目当ては絵理沙だ。
「ショー、ここは道場じゃないんだけど」
そう言う絵理沙の声は普段と比べて容赦なく鋭いが、対する将吾は気圧されることが全くない。この二人は小学校こそ違っていたが、柔道の全国大会で同県代表として顔を何度も合わせた、旧知の仲だ。将吾はそのまま柔道を続け、周囲の期待のままに中学でも柔道部に所属していた。朝練、放課後の部活、その後はそのまま全国区の練習と、椿や他の学生にしてみれば驚異的な生活を将吾は送っている。もっとも、将来は柔道で生計を立てる以外の道を考えていないらしく、彼にとっては授業中は寝る時間である。
「今日という今日こそは! 渡辺! お前に柔道部に入ってもらう!」
「また? 何度も言ってるけど、私は柔道やめたんだって」
「怪我は治ってるだろ! 全国トップの名が廃るぞ!」
絵理沙が柔道をやめたのは、小学校最後の試合の直前で足を怪我し、欠場したころのことだった。
「廃っていいよそんなもの。偶然とれたようなものなんだから」
「そこをなんとか! お前が入ってくれればこれからの大会だって有利になる!」
「だから、助っ人でよければ出るって」
「それはダメだ! 他の部員の士気に関わる! やるなら入部だ!」
「だからじゃあやらないって」
「それはダメだ!」
「だめはどっちだ!」
平行線をたどるいつものやり取りに、これもまたいつものように乱入したのは、椿達と同じクラスの大村元気だ。元気も一年にも関わらずバレー部で主力を担うほど運動神経がよく、こちらもその名前に恥じぬくらいに威勢がいい。そして将吾と元気は、絵理沙の引き抜きを狙う同志として、また、同じ村を苗字に持つ者同士として、良いのか悪いのかよくわからない仲を育んでいる。
「むむ、大村!」
「中村、お前は違うクラスだから知らないかもしれないな」
「な、なんだ……?」
「渡辺はな……球技も得意なんだ!」
「な、なんだと!?」
「授業でバスケットボールやってる時に見たぞ、チームプレイも最高だ! よって、渡辺には我らがバレー部に入ってもらう!」
「くそ……大村だからって調子に乗りやがって!」
授業でやったのはバスケットボールであってバレーボールじゃないんだけど、と椿は心の中で思うが、実際に口にする度胸はない。代わりに椿は絵理沙に問う。
「絵理沙、あれほっといていいの?」
「仲良くするのが好きなんでしょ。どっちもやらないし、だいたい女子の部活に男子が口出す権限ないし。しかも一年生だし。執行でもないんだからそんなに熱心に勧誘しなくていいのに」
やはり鋭く言い捨てながら爆弾クリームパンを頬張り、表情を一転して幸せそうに絵理沙は変える。その言葉に、まるで効果音でもつきそうなほど勢いよく絵理沙を指さし、将吾は言った。
「それは違うぞ渡辺。この中学校、学力は持ち上がりだから大した事ないけど、部活は強いだろ。早いうちに才能あるやつは引っ張っておけば、全国で優勝だって夢じゃないんだ。女子はお前のことお姉さまだなんだ言ってまともに勧誘しようとしねえし」
元気も意見は一致しているらしく、傍らでうんうんと頷いている。絵理沙はその笑顔か余裕の態度かそのくせ時としてその辺の男子よりも発揮する男気のせいか、だいたいの女子は絵理沙を口説きにきたはずが逆に骨抜きにされて終わる。恐ろしい子だと椿は思った。
「勝負事はもう興味ないんだよなぁ」
「お前、変わったぞ。最後の試合、出られなかった辺りから」
「悪い方向に変わったとは思ってないよ。それより中村、レティはどう?」
「え、ブルースさん?」
「レティ、こう見えて多分すごく運動神経いいと思うな」
自分は全く関係なさそうだ今日も元気だなああ貧血、と、会話を完全に上の空で聞き流していたレティシアは、急に話をふられて戸惑い、いつもよりも大げさな片言で返事をした。
「イヤ、ワタシ、ジュードウやったことないし」
「慣れる慣れる。貧血気味だから体を鍛えるのが先にはなると思うけど、本気でやれば私より強いんじゃない?」
実際はたしかにレティシアの方が体力はある。まさかの椿に組み敷かれたこともあるのだが。返答に困ったレティシアと同じくらい困った顔をした将吾が先に口を挟む。
「いや、でも、ブルースさんが投げられるのも投げるのも、俺的にはちょっと」
「何、ショー、私はいいってわけ?」
「お前は今まで散々投げられてるだろ!!」
将吾が絶賛思春期といった様子で叫んだのとほぼ同時に、そんな騒ぎを全く関せず椿に声をかけた男子がいた。学級委員の石垣直哉だ。
「日暮さん、ちょっといいかな?」
「あ、うん、大丈夫。どうかした?」
「体育の準備のことで先生が呼んでる」
「わかった。じゃ、そのまま次の授業行くから」
あとでね、と絵理沙達に言って、椿は席を立った。将吾はその様子を見て、ぼやくように言った。
「石垣も変わったよなぁ」
「そうなの? 小学校は違うから知らないんだけど」
「俺も知らない。てか、もっと影薄かった。中学デビュー?」
この中では、将吾と直哉、元気と椿と絵理沙がそれぞれ同じ小学校の出身だった。
「そうなんだ。日暮は変わんねぇな」
「てか日暮サンはなんで私立行かなかったんだよ。うち、勉強はあんまじゃん。あいつ中間ヤバいくらいできてたじゃん」
「さぁな。落ちたんじゃね?」
元気は無責任に言い放ち、それを絵理沙が咎める。
「ちょっと。勝手なこと言わないの。そもそも受験したなんて聞いたことないし」
「あいつのねーちゃん、超進学校に行ったじゃん。だったら普通受験すんだろ」
「椿には椿の考えがあったかもしれないでしょ。邪推」
「ジャスイ?」
「国語やり直して」
「絵理沙、男子相手だとヨーシャなーい」
光はそう言って、ポキ、と、牛乳パックを折りたたんだ。レティシアは貧血の波に苛まれながら、教室を出る椿の後ろ姿を思い出していた。
限界を迎えたレティシアが倒れたのは、体育の授業中だった。その時、体育館で女子はバスケットボールの試合中で、レティシアはぎりぎりまで動いていたが、とうとうふっつりと意識を手放してしまった。傍目には美少女のレティシアが倒れたことでちょっとした騒ぎになり、それは隣でバレーボールをしていた男子達も手を止めたほどだった。本来ならば保健委員の役目だろうが、以前にも対応したからと言って、ほとんど勢いで椿が保健室に連れ添った。
保健室は都合よく無人だった。椿はベッドにレティシアを横たえ、布団をかけてやった。
顔面蒼白のレティシアを見つめ、椿は四月の末にレティシアを保健室に連れてきた時のことを思い出そうとした。あの日は晴れていて、暖かかった、気がした。よく覚えていないことに、少しの違和感を覚えたが、いつかと違って今は心当たりがある。今のレティシアはあの時と同じかそれよりもひどく蒼い肌をしており、その指先に触れると氷の様に冷たかった。
椿は動揺していた。レティシアはあの晩、血を飲まなくても死にはしないと言っていた。椿もそれを真に受けていたが、だとしたら何故こんなにも体は冷え切っており、倒れたのか。万が一本当に死なないとしても、だから辛くないわけではないということを、椿は失念していた。だから、椿は、それまでレティシアが辛そうにしていたにも関わらず、それほど大ごとだとはこの時まで思っていなかったのだ。椿は、そんな自分を、焦げるくらいに恥じ、責めていた。
椿は教員のデスクからカッターを取り出すと、レティシアの枕元へ戻り、ぐっと手首に押し当てた。その行為はいつもとは目的が明らかに違った。レティシアが楽になるんじゃないか――……そう思っての事だったが、もう少しというところで、レティシアの冷たい掌がその動きを止めさせた。すっかりレティシアは意識を手放したままだと思っていた椿は驚いてレティシアを見た。すると辛そうだが案外しっかりとした目でレティシアは椿に訴えた。
「やめてくれ。……要らない」
掠れ切った声で言われ、あの晩、腑に落ちなかったやり取りが椿の脳裏に蘇る。
「……なんで? 前までは飲んでたんでしょ?」
「信じてもらえないだろうが、不本意だったんだ。しかも、あえて傷を誰かに負わせてまで血を飲みたくはない」
「……私は、この程度の事じゃ死なないよ」
「それでもだ」
本当に、本当に辛そうなのに、そう毅然と言うレティシアの心中が椿はわからなかった。椿としては、自分が作る傷でレティシアが楽になるならそれでよいと思っていたというのに。
「頼む」
悲痛を絵に描いたような顔で懇願され、椿は何も言えず、カッターをしまった。それを見届けると、レティシアは再び意識を手放した。
結局、レティシアの体調は回復せず、父兄という名目で迎えに来たイリヤと帰って行った。あのイケメンは誰だと少し大きめの内緒話をする光たちをよそに、椿は二人を教室からぼんやりと見送った。
放課後、配布物を渡すついでにと椿が見舞いにレティシアを訪ねると、イリヤに応接間に通された。特製だというホットチョコレートとクッキーがふるまわれ、口をつけると、ホットチョコレートは椿が初めて飲む苦さだった。レティシア様はこれでも甘いと仰るのですが、と、イリヤは言った。
「ブルースさんは」
「まだ臥せっておられます。椿様がいらっしゃるうちにおいでになれればいいのですが、先ほど見た限りでは難しいようです。申し訳ございません」
「いえ。これ、今日配られたプリントです。次の授業までの宿題で」
「理科ですか。承知いたしました、レティシア様にお渡しさせていただきます」
「あの」
「何か」
「今日、ブルースさんに、血をあげようとしたんです。貧血が辛そうだったから」
イリヤはその言葉に、心から驚いたような目をしたが、黙って続きを促した。
「だから、血を飲めば楽になるんじゃないかと思ったんですが、ブルースさん、飲んでくれなくて。私、何か間違っていましたか?」
「いいえ、間違ってはおりませんが」
「本当に、ブルースさんは、血を飲まなくても死なないんですか? あんなに辛そうだったのに」
驚いたままの目をそのままに、イリヤは椿を見つめた。吸血鬼という、言ってしまえば人外のモノにすんなりと血を分けようとする少女は興味深く、しかしそのあまりに自分を軽んじるやり方を拒否した自らの主にため息が出た。
「ええ、レティシア様は今まで、血を断ったことで死んだことはありません。あの貧血は、体が北極になるがごとき地獄のような感覚がすると言いますが。……吸血鬼という生き物の詳細を、ご存知ですか?」
「いえ、詳しくは……日を見たら灰になるとか、ニンニクが苦手とかくらいでしょうか」
「そういう個体もいますが、レティシア様とは別物です」
少々長くなりますから、と、イリヤは椿には苦く感じたホットチョコレートとは別に紅茶を淹れ、椿に差し出してからその正面の席に腰をおろした。
「吸血鬼とは、人の血を捕食対象とみなす人型のモノの総称です。墓から蘇ったような者や、人を噛むことで相手を自分の仲間にできるようなモノもいます。中には人の血を飲まなければ餓死してしまうような輩もおります。対して、レティシア様は、その類まれなる身体能力の代償に人間の血を欲します。レティシア様にとって、人間の血液はどちらかと言えば麻薬のようなものです。とても強い力を引き出す代わりに、一度味を覚えてしまったら離れ難い。レティシア様は生後何十年かをかけて、人間の血の味を覚えてしまわれました。レティシア様は度々、禁断症状に襲われながらも血を断ち、それが落ち着いてもふとした瞬間にフラッシュバックを起こしてしまうのです。今回の原因は、貴女だと聞いています」
「私が?」
「レティシア様が貧血を起こしたときに、血の臭いがしたと。レティシア様にとっては、それはとても耐えがたい誘惑だったのです。その後、貴女の血をいただいたことに酷く落ち込むレティシア様をなだめ、しばらくその血をいただくよう説得したのは私です。自ら進んでレティシア様が血を飲んでいたわけではないのです。……貴女のお心遣いには心より感謝申し上げます。ですが、我が主が拒否されたというのなら、椿様、どうかそのようなことは今後、なさいませんよう」
私からもお願いします、と、イリヤは言って、深々と頭を下げた。
「イリヤさんは、本当にブルースさんを大切にされてるんですね」
椿の口から素直な感想がこぼれ出た。それを聞いたイリヤは、椿の言葉を咀嚼して飲み込んだ後、言った。
「この、イリヤという名前を下さったのは、レティシア様です」
それは椿には少々唐突に聞こえる告白だった。
「私は吸血鬼ではありません。吸血蝙蝠の一族です」
「……コウモリ?」
「ええ。今の人型ではなく、貴女と出会った時の蝙蝠の姿が本来の私です。貴女に私が吸血鬼かと訊ねられたとき、レティシア様は似たようなものだと答えられましたが、全く違います。私達は蝙蝠として、代々、人型を主とする吸血鬼には隷属する立場にあります。似たようなものだなどと、吸血鬼自身が言うというのは考えられないことです。……私が貴女に名乗った時、初め何と言ったか覚えていますか?」
「……ええと」
「セーヴェラ・ザーパド。北西、という意味です。ただ、北西の洞窟の出身だから、私を含む一族全てのものがそう呼ばれます。たかが一匹の蝙蝠が入れ替わったところで差し障りなどないので、個別に名前などつけないのが普通です。それをわざわざ名付け、まるで自らと同じ生き物のように接してくださる。レティシア様は、そういう方です。主従の関係は私が望んだものです。とっくの昔にレティシア様は隷属の関係を断ってらっしゃいます」
「どうして、ブルースさんは、そこまで」
「同じ命だから、と。本当でしたら、吸血以外の食事すら、全て断ちたいと思っていらっしゃるようですが、昔の師匠との約束で、それはできないようです」
そのあまりのストイックさに、椿は心底驚いた。椿も食事をするが、それについて抵抗を覚えたことは無かった。自分が食事をするということは、何か生き物が犠牲になるということ。知ってはいたことのはずなのに、レティシアはあれほどの貧血を伴ってまでもそれに抗おうとしている。一方、椿は疑問も抱かず、ただ普通のことだから、と、多くの命を横目に通り過ぎている。また、あの強情な様子のレティシアに食事をするよう約束させたという師匠のことが椿は気になった。その師匠は、食事をすることを咎めなかったのだろう。どんな人物なのだろうか。ともかく、もしかしたらレティシア・ブルースという同級生は、吸血鬼であることを差し引いても、稀有な存在なのかもしれないと、椿は思った。
「どうして、私にはセーヴェラ・ザーパドって名乗ったの?」
そう問うた椿に、イリヤは自身の胸に手をあて、初めてはにかんだような笑みを見せた。
「イリヤという名前は、私にとって宝物でございますから」
その表情に、椿はもう一つの、なぜイリヤはレティシアにここまで献身的に尽くすことができるのか、という疑問に、回答を得た気がした。