疑うことから始めてみたら
時は遡る。日暮椿が違和感を覚えたのは五月半ば頃のことだった。この時期、まれに、あまりの晴天でアスファルトも焼けつくような日がある。その日もそんな真夏日だった。椿は学校の手洗い場でため息をついた。彼女にとっての喫緊の課題は、制服が夏服に変わることだった。冬服はブレザーだが、夏服はブラウスとベストになる。当然、半袖だ。夏用の薄手のカーディガンはあるけれど、と、椿はそっと自身の左手首を見やった。そして、気付いたのだった。
傷が増えていない。
自傷行為の跡が増えていないことに違和感を覚えるというのは皮肉な話だが、現状に大きな変化は無いのにその行為が減るというのは、椿にとっては奇妙なことだった。中学への進学、というのも、椿にとっては学区内の市立中学に進んだだけのことであったし、何より四月半ばまではその行為をしていた記憶があった。それ以前のものも、もともと浅かった傷などは跡すら消えかかっていた。
「椿ちゃん? どしたの?」
「東さん」
ふいに東光に声をかけられ、とっさに自分の手首を隠す様に掴んだ。光はそんな椿の様子に頓着せず、光でいいのに、とつぶやいた。光はこの中学校において少々特殊な生徒だった。というのも、この学校の大半は椿や渡辺絵理沙が通っていたI小学校や、学級委員の石垣直哉が通っていたN小学校など、周辺の市立小学校からの持ち上がりだった。対して光は、私立の小学校に通っていた。厳格なお嬢様学校で、本来は大学まで一貫教育を行っているような学校だ。光曰く、その自由な性格が災いして学校になじめず、成績も落ち込んだためはじき出された、という。けらけらと笑いながら本人は言うが、噂では対面を気にした両親が、知り合いのいないこの中学校の学区にわざわざ引っ越すことまでしたというのだから、実際は深刻な話なのかもしれないと、椿は思った。
ともかく、中学に進学してから知り合った光は、椿にとっては割と気安く会話ができる友人の一人だった。呼び方が名字に敬称なのは関係ない。
「どうもしないよ。次は数学だっけ」
「そうー。タカセンセの授業、眠いんだよなぁ」
タカとは高柳先生のことだ。光は先生をセンセと呼び、相手によっては勝手に愛称をつけたりもする。たしかにお嬢様学校には合わないかもしれない。ついでに言えば、高柳の授業が退屈なのではなく、光がすでに中学の数学の授業についていけなくなっているだけだったが、本人は全く気にしていない。椿は高柳の授業をむしろわかりやすいと思っていたが、黙っていた。小学校から基本的に試験は満点で、授業についていけなくなったことが無い椿がそれを言ったら嫌味に聞こえるだろう。だから、椿は黙る。たとえ光が椿の小学校時代を知らなくても、癖のようなものだった。
椿の癖は他にもある。親や先生に言われたことはやること。言われなくても期待されることはこなすこと。たとえ気になることがあったとしても授業や雑務には集中すること。且つ、出る杭にならないこと。それらは処世術としてとても役に立ったが、引き換えに自分の意見を持たないという癖もついてしまった。この時も、手洗い場で感じたかすかな違和感を心の奥底に沈め、授業に取り組んだ。
しかしその違和感から目を逸らせない出来事が約一週間後に起きた。日直と委員会が重なったその日、朝に雑務を済ませようといつもより早く登校した。夜から早朝にかけて降っていた雨の匂いをよく覚えている。その道すがら、駐車場で、明らかに誰かの手にかかったとわかる、切られた出血の跡が生々しい猫の死体を見てしまったのだ。とっさに交番に駆け込み、事情を話した。そこにいた警察官は夜勤明けなのか目が赤らんでいたが、すぐに現場に向かった。その道中、最近同じような事件が何件も起きていると警察官は言った。初めはスズメ、次はカラス、そして今回は、猫。現場を確認し椿にもいくつか質問をし、椿の連絡先を控えると、警察官は気を付けてね、と言いながら椿を見送った。
結局いつもの時間に登校しながら、椿は警察官に言われた話と、自分が一週間前に感じた違和感を反芻していた。
椿はかつて、いわゆる殺人嗜好のある人間は、初めは小動物でその欲求を満たすと聞いたことがあった。スズメ、カラス、猫。一連の小動物を殺めたその人間は今、殺人の練習をしているのかもしれない、と思った。
また、自分がかつて感じていた違和感についても考えを巡らせ、最近記憶が曖昧な時があるのに思い当たった。しかしそれは、たまたま自分が自傷するのに都合のいいタイミングがあったはずなのにそれを行っていないという違和感から思い返さないとわからない程度のもので、確信はまったく無かった。二件とも妄想の範疇を出ない上に、関連性があるとも思えなかった。試験の答案に書けば絶対に減点だ。ただ、ほんの少しの予感だけがそこにはあった。
万が一、この二件が関係ある現象なのだとしたらと仮定したとき、椿は真っ先に小動物を殺傷したのが自分ではないかと疑った。自分の気がふれて自傷を他傷にすることでストレスを発散し、記憶を都合よく失っているというのはありえそうな気がした。昨今では心理的な病で多重人格となったケースなど、めったにあることではないが一般的に知られてはいる。逆にそれ以外で二件が関連する可能性が思い当たらなかった。一方で殺傷し一方で自傷を止める、などということがあるだろうか。また、二件とも関係が無く、椿も犯人でもなんでもなくただ自傷していないだけなのだとしても、後者が腑に落ちなかった。自分が知らないうちに自分に何かが起こっているというのは、存外気味の悪いものだと知った。
いずれにせよ、椿には一つ、手段があった。それを一回することは椿にとってはたいしたことではなかった。ただ、薄手のカーディガンを夏の間、しっかり着込む必要があるだけだ。
何かが起こるのか、起こらないのか。何かが起こる確率はとても低いけれど、話はそれからだ、と椿は思った。
そしてこの日、椿はカッターを手に取った。
結果、起こったのは、可能性の中でもかなり低く、しかも想像の範疇を超えたものではあった。それでも椿が先に動けたのは、何か非日常的なことが起こる可能性があると想定していたからかもしれない。椿は窓から現れた人影、レティシア・ブルースの両肩を掴み、部屋の中へ引っ張り込んだ。それほど力のない椿が、床にレティシアを押さえつけていた。そこには、低い可能性が実現したことに対する確かな高揚があった。山ほどの疑問が椿の脳裏を駆け巡った。
しかし、その高揚は、首筋に走った鋭い痛みによって遮られた。ぐぅっ、と、喉が鳴った。視線を移すと、大きな蝙蝠が、椿の首筋に噛みついていた。
「止せ、イリヤ!」
明らかに焦燥した声で、レティシアが叫んだ。その時。
「椿! うるさいわよ、何時だと思ってるの!」
甲高い怒声と、階段をどかどかと鳴らして駆け上がる音がした。反射的に身を縮こまらせた椿を、蝙蝠がレティシアから引きはがした。そして椿は、幾分か落ち着いた様子のレティシアに、静かに、と言うように、唇を人差し指で抑えられた。
レティシアはすっと立ち上がり、怒声の主が椿の部屋にたどり着く前に、自ら扉を開けた。そして怒声の主である椿の母親の両目を見据えた。母親は、レティシアの普段よりきゅうっと収縮したような瞳孔に吸い込まれるように、大人しくなった。
「ごめんなさい、お母さん。部屋に虫がいたの」
視線を逸らさず、悪びれもせず、レティシアは言った。
「あら……そうなの? 気をつけなさいね」
うん、とレティシアはにこやかに答え、扉を静かに閉めた。そして椿を振り返り、深いため息をついた。数秒思案し、
「場所を変えよう」
と、レティシアは言った。
その時、抗議するように、キキッと音をたてながら、蝙蝠がレティシアのもとに飛んだ。
「仕方がないだろう。また誰か来ても困る。……あとおそらく、今記憶を消したところで、こいつはまたやる」
そう応じるレティシアを、椿は不思議な心地で眺めた。あのレティシアが、蝙蝠と会話をしている。しかも普段よりも数倍、流暢な日本語で。
椿に合わせた瞳は、いつものレティシアだった。
「話して駄目だったら、その時は記憶を消す。というわけで、ヒグラシ・ツバキ、来るか?」
差し伸べられた手を、椿は迷うことなく掴んだ。
蝙蝠に引っ張られて空を飛び、連れてこられたのは洋館のバルコニーだった。
「長くなるかな。イリヤ、ダイニングに飲み物を。あと、その前に」
そうレティシアは言って、椿の左手を取った。そして椿の上着の袖をまくり、すでに乾いていた血をなめた。肘まで伝った血痕も、きれいに。そして、ご馳走様、と言った。新たにつけたはずの傷跡が綺麗に消えていた。レティシアとは違う、深いため息の音に椿が振り返ると、スーツをびしっと着込んだ若い男性がいた。
ようやく、椿は、とんでもないことになっているかもしれない、と思った。
何をどこから聞けばよいか、部屋を案内されながら椿は考えたが、まったくまとまらなかった。結局、ソファに腰かけて最初に問いかけたのは、他愛のないことだった。
「ブルースさん、日本語そんなに上手だったんだね」
その問いに、レティシアは目を丸くした。そしてふっと表情を和らげて答えた。
「……ああ、長く生きているから、暇つぶしに一通り語学はかじったんだ」
「え、日本にずっといたから、とかじゃないの?」
「違う。それどころか、日本には今年来たのが初めてだ」
「小さいころ、日本にいたんじゃ……」
「あまり上手いと疑われるから、そうやってごまかしていた。他の国でも」
「……何か国語できるの?」
「さあ、いちいち数えないから。だいたいどの国でも生きるのに不自由はしないとは思う」
すごい、と心底驚いている様子の椿に、とうとうレティシアは笑い出した。
「訊きたいのはそんな話じゃないだろう」
「え、ごめん、すごいなと思って……長く生きてるって言ったけど、どういう意味?」
「そのまま。何百年かな、これももう数えてないからはっきりしない」
「ブルースさん、何者?」
「吸血鬼」
吸血鬼。椿は声と心中で何度か復唱した。そして意味を理解した。
「なるほど」
「……納得するのか」
「うん、吸血鬼ならいろいろ納得できる」
「そういうものか」
「一般的ではないかもしれないけど」
「……意外と変わってたんだな」
「ブルースさんがそれ言うの?」
椿も笑ってしまった時、失礼します、と言って、先ほどのスーツの男性がホットチョコレートとクッキーを持ってきた。あなたは、と椿が問いかけると、男性は背筋を正した。
「セーヴェラ・ザーパトと申します。……イリヤとお呼びください」
名乗ったところでレティシアからなぜか氷のような視線を向けられ、男性は言った。
「イリヤ……てことは、さっきの蝙蝠は、やっぱり」
「そう。彼だ」
「イリヤさんも吸血鬼なの?」
「似たようなものだ」
何故か憮然とした表情のイリヤが椿は気になったが、イリヤがそんなことより、と切り出した。
「もう夜も遅いのです。訊きたいことはさっさと訊いた方がよろしいでしょう」
「イリヤ。客だぞ」
「人間の活動時間は日中です。あまり長引かせると脳の回転が鈍ります」
「それもそうか」
で? と、レティシアに問われ、椿はしどろもどろになりながら訊ねた。
「ブルースさんは吸血鬼で、私がリストカットするたびに、その血を……?」
「そうだ」
「だから、私にはここ一ヶ月くらい傷跡が増えていない、の?」
「ああ、吸血鬼の唾液は、怪我の類を治してしまうんだ。牙で傷つけ、事が済んだら唾液で治す」
「その記憶が私に無いのはブルースさんが私の記憶を消したから。そういうことでいい、のかな?」
「すごいな。正解だ。催眠を破られたことは無いのに」
「いや、私も催眠を破ったわけじゃないんだけど……記憶はやっぱり無いし……。で、じゃあ」
椿はなんとか状況を整理しながら、気になっていた大きな疑問を紡いだ。
「最近の小動物が殺される事件も、あなたたちが?」
「……は? それはない」
心の底から、訝しむ様子で、レティシアは否定した。
「血が目当てだと思ったか? 吸血鬼が人間以外の生物に手をかけることはほぼ無いし、あったとしても殺す理由はない」
「……そっか。……やっぱり、私なのかな……」
「どうしてそういう思考になっているのかは知らないが、椿はやっていないだろう」
「……でも」
「臭いがしない」
「臭い?」
「血の臭いだ。椿からはその手首の血くらいで、あとは普通だ。動物たちを殺したのは別の奴だ。クラスに椿とは別の、血の匂いがする奴がいる」
椿はもう少しで叫んでしまうくらい驚いた。クラスに、ということは、同級生の中に一連の事件の犯人がいるということだ。椿は、自分が犯人である可能性は考えていたが、顔見知りの誰かが犯人かもしれないとはそれまで考えていなかった。
「犯人は誰なの?」
「まだわからない」
苦々しくレティシアは答えながらホットチョコレートを飲む。そしてふと、名案を思い付いたかのように顔を上げた。
「そうだちょうどいい。ツバキ、お前その手首の、やめてくれないか。匂いが混ざって犯人がわからないんだ」
「え、ちょっと、まって」
すでに様々なことが想像の範疇を超えていたが、ここでレティシアがした提案は、椿の理解をさらに飛び越えたものだった。
「あなた、吸血鬼なんじゃないの?」
「そうだが?」
「これは、その……言ってしまえば、あなたにとっては食料なんじゃ?」
「心底助かっていたのは事実だが、なくても死にはしない」
「そういうものなの?」
「そういうものだ」
あくまで冷静に言い切るレティシアを、痛々しいものを見るような瞳でイリヤは見つめていたが、レティシアは関せず、言葉を続けた。
「最悪、犯人は人狼だ」
「人狼?」
「平易に言えば普段人型をしている狼男の事だ。男かもまだわからないが。もしも本当にそうなら、急がなければならない。完全に覚醒したら、手に負えなくなる。本来はこんな頼み方でなく、その手首の原因を元からなんとかしたかったんだが、時間がない。申し訳ない」
何故謝るのだろう、と椿は思った。そして心底、意味が分からなかった。自らを吸血鬼だと明かしたクラスメイトは、先ほどから、自分本位の要求を全くしていない。犯人が人狼であろうと何だろうと、彼女にはどうでもいいことではないのか。なのにそれを何とかするために、自分の食料を断とうというのか。
「ツバキがもう自傷をしないと約束するなら、記憶もいじらず帰そう」
「それだけ?」
「いや、私たちのことを他言しないでもらえると助かる。色々面倒だから」
「じゃなくて……どうして私の血が欲しいって言わないの? 吸血鬼でしょ? 私の血、丸ごと飲めばいいじゃない?」
「それはしない」
「なんで?」
「私の意思に反する」
「なにそれ」
「お前の死に場所を私にしようとするな」
ナイフのように刺さる言葉に、椿はぐっと言葉を飲み込んだ。
椿の心中は、自分でも気づいていなかったことを言い当てられた羞恥と、吸血鬼に何がわかるのか関係ないくせにという怒りと、混乱がふつふつと沸き上がり、暴れまわった。それでも、関係ないというのであれば尚の事、その気持ちをそのままぶつけるわけにもいかず、椿は必死に自分を落ち着け、冷静を装って言葉をつむいだ。
「……わかった。他の人には言わない。でももう一つは約束できない」
「何故」
「したくてしてるわけじゃないんだよ。ほとんど無意識なのに約束できない。でも、もし記憶を消したら、私はそれこそ今まで通りリストカットを続けるよ。私が覚えてないだけで、最近も何度かしてるんでしょう?」
自分を人質にまるで脅しているみたいな物言いだったが、レティシアには効いたようで、今度はレティシアがぐっと言葉を詰まらせた。
「犯人が見つかるまでは、できる限り、我慢するよ」
「……助かる」
そしてその晩、椿は記憶を消されることなく、自宅に帰された。深夜零時をまわっているというのに、椿はなかなか寝付けなかった。「助かる」と言った時、レティシアが、なぜか悲しそうな眼をしていたのが、頭から離れなかった。