闇夜を裂いて参ります
レティシア・ブルースは、日暮椿の後ろの席だった。日本式に五十音順の出席番号をふられているからだが、この三月に日本に来たばかりのレティシアにとっては馴染みのない文化だった。レティシアから見るに、日暮椿は長く黒い髪をいつも一つに束ね、制服にも皺やシミもなく、品行方正を絵にかいたような少女だった。実際に成績も良く、学級委員も務めている。どこの国でもそうだが、クラスのリーダーのような役職を務めているからには、それなりに、教員からの人望もあるのだろう。
「お前ら席つけー、帰りのホームルーム始めるぞー」
教室に入ってきた立花という教員は、このクラスの担任だ。品行方正な学級委員たちとは対照的にざっくばらんな口調で学生に呼び掛けているのは、暗に学生との距離を縮めようという努力をしているのだろうとレティシアは考えていた。
今は六月の頭。このクラスになって二ヶ月。これを、たったと言うべきか、もうと言うべきか。いずれにせよ、人間関係の構築のためには非常に微妙な時間だとレティシアが考えているうちに、立花はざっくりとホームルームを進めていった。
「あと、最近この辺で小動物が殺される事件が相次いでっから、気をつけろよ。じゃ、今日は終わり」
物騒な話題をあっさりと告げ、男子の学級委員の石垣の号令がかかる。きりーつ、きょうつけー、れーい、ありがとうございましたー。レティシアは、この流れだけは、いまだにぎこちなく聞こえるのだった。
「レティ―!! かーえーろー!!」
元気いっぱい抱き着かれて、レティシアは少し大げさに、オゥ、と言った。他の人が、さりげなく英語の響きを感じるように。そんなことなど意に介さず、毎日のようにレティシアに元気いっぱい構ってくるのは、東光だ。学校の成績よりも、髪の毛をいじる方が好きらしく、いつも違う髪型をしている。今日はツインテールで、活発な彼女に良く似合う。光の後ろからついてくるのは、いつもにこにこと微笑んでいる渡辺絵理沙だ。そのふんわりとした雰囲気とは裏腹に、スポーツ万能である。
「椿も! 一緒に帰ろーよー!」
そんなに一緒に帰ることにこだわる理由などあるのか。レティシアは微笑ましくそのやり取りを見ながらも心中は疑問でいっぱいだった。
「ごめんね、委員会があるから」
またね、と、椿は石垣と一緒に教室から出て行ってしまう。えー、と光は頬を膨らませている。
「椿つれない!! もー、レティ、髪いじらせて!」
「それとこれとは関係ナイのでは」
「私にはある! 気が晴れるのだ!」
言いながら、光はレティの金髪をいじり始めている。
「もう、光、帰らないの?」
あくまでもふんわりと絵理沙は問うけれど、
「レティの頭やったら! こんなに美人さんで綺麗なブロンドロングヘア、いじらないと損するよ!」
光は切り返す。
先に帰ると言ったのは光では? とレティシアが問う前には、細い三つ編みが二本、出来上がっていた。
「レティは、日本語ほんとに上手だよねー」
くるくると回りながら、光は言う。絵理沙は微笑みを絶やさず、光より国語の点数いいんじゃない? と言ってのけた。光はむくれても反論はできないようだ。文字を読むと眠くなるらしく、レティシアは他人事ながらに心配している。
「ワタシは幼いころに日本にいたみたいだから。覚えてナイのがザンネンだけど」
ところどころに抑揚をつけて話す、外国人特有のしゃべり方。
「初めは椿とずっと一緒にいたのにね。日本にはだいぶ慣れた?」
「ソウネ。ミンナ素敵だから」
レティシアは答えながら、フム、と考えるふりをして、言葉をつむいだ。
「でも、ツバキのことはよくわからない。いろいろ教えてくれたし、いい人だと思うケド」
光と絵理沙はきょとん、として、互いに顔を見合わせ、唸った。
「そうだねぇ、ザ・いい子! って感じ?」
「私は小学校から一緒だけど、今とそんなに変わらないな。特別に誰かと仲が良かった覚えもないから、今までで一番一緒にいたのはむしろレティなんじゃない? そういえばお姉ちゃんと弟君がいるけど、皆優秀だよ」
微妙な収穫。でも欲しい情報は無さそうだと、レティシアは思った。
話は変わるけど、と光は顔をしかめながら言った。
「ホームルームで立花センセが言ってたやつ。超怖いよね」
「ああ、動物が殺されてたってやつ?」
そうだ、それも考えなければならない、とレティシアは思った。
「こないだも一丁目の駐車場であったらしいよ。ヤダヤダ」
「ターゲットが人間になる前に犯人が分かるといいけどね」
「そうそれ! 私が狙われたらどうしよう!」
「光の場合は、転ばないように気を付けながら全力で走って逃げてね」
「絵理沙は?」
「背負い投げる」
にこにこと笑いながら言うので絵理沙は最強の雰囲気を醸し出していたが、レティシアの予想では、投げたところでどうにもならない相手だった。なるべくふざけて聞こえるように、レティシアは片言で、絵理沙も逃げて、と言った。いくら小学校で女子柔道日本一だったとしても、敵わないものはある。しかも、絵理沙はすでに柔道をやめていた。
三叉路にたどり着いたとき、それじゃあ、と、光と絵理沙とは別れた。一人、道沿いに延々歩いた行き止まりにある、洋館風の一軒家に、レティシアは住んでいる。ドアを開き、玄関に入れば、いつも通りに声をかけられる。
「おかえりなさいませ、レティシア様」
「……お前まで日本語を話さなくていいと言っただろう、イリヤ」
まるで一昔前の執事のように、黒いスーツで身を固めたスラっとした男は、レティシアに微笑みながら続けた。
「異国の地でご苦労されている主を差し置いて、自分だけ楽をするのは忍びありません。それにレティシア様にとりましても、慣れない言葉はできるだけ話す機会が多い方がよいかと思いまして」
「……言葉については先ほど、級友に褒められたばかりだ」
対して、レティシアは先ほどまでクラスメイトに向けていたおどけた仕草やたどたどしい言葉とまったく異なる、どこか威圧的な態度で答えた。
「この三つ編みを施した者ですか」
「……よくわかったな」
「レティシア様がご自身でされるとは思えませんので」
レティシアの荷物を受け取りながら相変わらずにこにことイリヤは言う。その顔をレティシアは睨みつけるが、イリヤに効果は無いようだ。この男は外面が当り障りなく笑顔を振りまけるという点では絵理沙に近いが、絵理沙の数十倍不敵だ。自分が主と認めているレティシアの指示も、自分の判断で守らないこともある。だからこそレティシアの従者が務まっているのではあるが。はぁ、とレティシアは大きくため息をついた。
「おや、お疲れですか。何か進展でも?」
「いや。……いや」
ため息はお前のせいだという言葉は飲み込み、レティシアは尊大な態度を幾分か和らげる。その間、イリヤは受け取った荷物をしまい部屋着を出しホットチョコレートを淹れ茶菓子を皿に盛るまでを流れるようにこなした。
「進展は無しだ。期待できるような収穫も無い」
リビングのソファに深く腰掛け、レティシアは深く2度目のため息をつく。その前のテーブルにホットチョコレートと茶菓子を置きながら、イリヤは眉間に皺を寄せた。
「レティシア様。これは再三申し上げたことですが、我々はこの極東の地に流されたのでございますよ」
「我々(・・)ではない。私が、だ。イリヤはついてきただけだろうが」
「どちらでも同じことです。……それほどまでに疲弊されるくらいなら、面倒事に首を突っ込むのはお止めください。平和に、与えられた学校生活と言うものを享受すればよろしいじゃありませんか」
「イリヤだったら気にならないのか。たまたま流された極東の地の、さらに何万分の一の人数しかいない一つの学校の一つのクラスに、血の臭いが二つもこびりついている」
「そのうち一つの正体はわかりましたでしょう。さっさと贄にすればよろしいのです。第一、この地に流されたのはたまたまなどではありません。自ら死を望む者が多い、島国。レティシア様ならこれが、贄を見つけよ、という協会側の思惑だと気づいていないはずがありません」
淡々と、しかし真剣に告げるイリヤに、レティシアはまた深くため息をついて、ソファに寝転んだ。すでに、先ほどまでの威厳は全くない。
「面倒くさい……」
「まあ、これがレティシア様の意思などまるで無視した愚行であることは私も存じ上げておりますので、今更まっとうに贄を求めていただくなど諦めておりますが。……本日は菓子にもチョコレートを練りこんでおります。お召し上がりになられては? そろそろお辛いでしょう」
勧められるまま、レティシアは寝転がったままチョコレートマフィンを口に運んだ。
「甘い……」
「本日はカカオ七十五パーセントでございますから」
「イリヤ」
「はい」
「面倒だな」
「心から同意いたしますが、飢えても果てないのが我らの運命でございます」
であれば、少しでも苦痛を和らげ、安寧にお過ごしいただきたいというのが私の願い。イリヤは変わらぬ口調で紡いだ。
レティシア・ブルースは、一般的な常識で言えば、人間ではない。大きな括りでは、吸血鬼という生き物に分類される。しかし、そもそも吸血鬼という存在自体の定義が現代にいたって尚、定まっていない。古くは死者が甦った成れの果てとされたり、十字架やニンニクが弱点であるとまことしやかに囁かれたりしている。朝日を浴びれば灰になるとも、心臓に杭を打たれれば死ぬ、とも。しかしレティシア・ブルースについては、死者が甦ったのでなければ、十字架やニンニクに近づけないということも無い。寝起きは悪いが、日の光を浴びたところで灰にもならない。心臓に杭を打つというのは試したことも無かったが、それは普通の人間にしたところで致命傷となるのだから、特別な弱点ではない。逆に、吸血鬼ができるとされている、空を飛ぶ、黒い霧となりどこにでも侵入する、といったようなことはできなかった。一般的な常識としての吸血鬼とレティシア・ブルースの共通点と言えば、他者を魅了する外見の持ち主であること、人間の血液を飲むこと、人間にとっては特殊な能力と怪力かつ頑丈な身体をもっていること、やたらと不老長寿であること、くらいだった。
とはいえ、レティシアが実在の吸血鬼たちにつまはじきにされるのには別の理由がある。人間の血を飲もうとしない、ということだ。レティシアは普段、チョコレートや食用肉を食している。これは人間で例えるなら、スナック菓子で日々を送っているようなものだ。よって、贄と呼ばれる、血液を吸血鬼に提供するための人間もレティシアは所有していない。贄は、食事のためとはいえ、不特定多数の小賢しい人間から血液を得るのは危険なため、吸血鬼達が長い歴史の中で考えた仕組みだ。主に身寄りのないものや自殺志願者を囲う。用途のため、食事はしっかり与えるが、言ってしまえば奴隷である。新たに贄を探すには労力が必要なため、たいていの場合は一度に死ぬほどの血液を取りはしないが、それが逆に精神的に追い詰めるらしく、狂人となってしまう贄も多い。しかし、狂っていても人間は人間であるので、自然と寿命が尽きるまでは飼い殺しにされるのが常である。こうして聞くとあまりに非人道的だと思われるかもしれないが、血に飢えて身体を雪山に埋められるような苦痛を感じてもその長寿のために死ぬことも容易に叶わない、現代に生きる吸血鬼達の涙ぐましい努力の成果でもある。そうした吸血鬼達にとって、レティシアの存在は脅威である。彼らは、血を飲まずに生きるレティシアを見る度に、無言の責め苦を味わうことになる。今回、世界に大きく二つ存在する吸血鬼同士の互助組織の片方で、レティシアが所属する協会が、突然にして有無を言わせずレティシアの日本行を決定したのには、そのような背景があった。日本に吸血鬼の互助組織は無いためレティシアを視野に入れずに済む上、自殺による死者が多い島国で、あわよくばレティシアが都合よく贄を見つけることができたなら、他の吸血鬼達の罪悪感も軽減されるというものだ。
しかし、当のレティシアは、そんな協会の意図をわかっていながら、自身の意思を曲げようとはしないのだった。それどころか、贄にする気もないくせに血の臭いの正体を探ろうとしていた。それは他の吸血鬼にしてみれば理解に苦しむ話なのだが、レティシアの従者としてこの極東の島までついてきたイリヤにとっては不思議なことではなかった。レティシアはようするに、放っておけないのだ。お節介と言ってもいい。吸血鬼という、あまりに長い寿命と突出した能力をもつ生き物の中では稀有な性質の持ち主だった。
日も沈みきって何時間も経過したころ、レティシアはバルコニーで風にあたっていた。じきにこの国は梅雨という雨季を迎えるらしいが、今宵の空は綺麗に晴れていた。満ちていく最中なのかその逆なのか、中途半端な形の月がくっきりと見える。レティシアはすえられた椅子に腰かけ、風の中を漂う臭いを探していた。そこにイリヤは当たり前のようにやって来た。吸血鬼としての感覚が冴える夜に、こうしてバルコニーで過ごすのはもっぱら日課となってしまっていた。イリヤは慣れた手つきで、温かい紅茶とクッキーをテーブルに並べた。
「苦戦されていますね」
イリヤは気づかわしげに問う。言外にもう止せばいいのに、と思っていることをまるで隠そうともしない。イリヤはレティシアの性質は理解しているが、それよりもレティシアの優先順位が高いため、無理はしてほしくないというのが本音だった。そしてレティシアはそんなイリヤの気持ちはわかっていながら、止める気は露ほども無いのだった。レティシアは夜空を仰ぎ、つぶやく。
「雨は血を流してしまう。今よりももっと探しにくくなる。だからこそ雨季に入る前にもう一つの方を突き止めたいんだが……血の臭いがすることを願うのもいい趣味とは言えない」
レティシアが探している血の臭いは、本来流されるべきでない血から発される独特の臭いだ。怪我をふさぐためのそれとも、女子のそれとも全く異なる、吸血鬼にとってはこの上なく美味そうな臭い。そして同時にレティシアが嫌う臭いでもある。イリヤはそんな主人を見て、話題を変えようとつぶやく。
「月が綺麗ですね」
「……なんだそれは、嫌味か」
「おや、ご存知でしたか」
「やはりか。お前もいい趣味をしている」
「名訳だと思いますが」
「訳はな。私がそれに返したところで、本当に死ねるわけでもあるまい」
軽口をたたきながらレティシアが紅茶を口にしたその時、二人の鼻を、独特の臭いがかすめた。イリヤはレティシア様、と問いかけたきり黙り込み、レティシアはその臭いの正体を探るべく目を閉じて風に全神経を集中させた。が、目を開けたレティシアは残念そうに言った。
「いつもの方だ」
イリヤはそうですか、と相槌を打ちながら、フェンスに向かって歩き出した。
「場所はどちらです?」
「家だな」
あからさまに嫌そうな顔でイリヤについてくるレティシアに、イリヤは言う。
「レティシア様。人間が要らないと言うものを、必要な貴女がいただくだけでございます」
「ああ……そうだな」
気乗りはしていないが承諾の意を示した。それを確認したイリヤは両腕を広げた。見る見るうちに闇がイリヤの身体を包み込み、その姿を巨大な蝙蝠へと変えた。レティシアがその尻尾のような足を掴むと、蝙蝠は夜空に向かって迷いなく飛んで行った。
レティシア達は、クラスメイトの部屋の窓にたどり着いた。そこは戸建ての二階、角部屋の窓だが、レティシアはイリヤから手を放し、器用にその窓の雨避けに片手をかけてバランスを取った。イリヤもそれに倣ってちょうど逆さになるように屋根に足をかける。侵入はレティシアにとっては容易だ。レティシアは、目さえ合わせれば催眠術をかけることができる。催眠は万能ではないが、記憶を消すことや人に窓を開けさせることくらいは容易だった。コンコン、と、カーテンの閉まった窓を叩く。さすがにカーテン越しで催眠はかけられないが、この音に部屋の主が不審に思い、カーテンを開けてレティシアと目が合えばそれで事は済む。実際に今まではそのようにしてきたのだ。このクラスメイトが要らないものを要らない分だけいただき、催眠でそのことは忘れさせる。すっかり慣れてしまったことだが、レティシアは可能であればこのようなことに慣れたくはなかった、と思った。
しかし、部屋の主からいつものような反応は無かった。血の臭いはするのにおかしい、と思ったレティシアは、窓に手をかけると、鍵が開いていた。風がカーテンを揺らす。
と、物陰から伸びてきた腕によって、レティシアは部屋に引っ張り込まれた。不意を突かれたレティシアは見事にひっくり返され、床に背中から叩きつけられた。とはいえ、少しの呻き声が肺の空気を逃しただけで、頑丈なレティシアの身体はひ弱な女子学生の力ごときでは大したダメージは負っていなかった。
だから、レティシアはいつものように、相手を見つめて暗示をかければ済むはずだった。
しかしそれができなかったのは、相手――日暮椿が、それまでになく強い瞳でレティシアを射すくめていたからだ。