世界が優しくなれたなら
レティシア達が行方不明となっていたのは、およそ一週間のことだった。やはり騒ぎになり、学校は数日の臨時休校を挟んで、早めの冬休みに入っていた。帰ってきた椿に、家族は涙を流して喜んだ。母と弟に抱き着かれ、椿は不思議な気持ちになった。いなくなっていた間のことは、散々大人たちに訊ねられたが、本当のことを言えるわけもなく、三人そろって「覚えていない」で通した。学校が休みになったのも、本当なら通用しないであろう苦しい言い訳が通ったのも、もう一つの事件が起こっていたからだった。
レティシア達を見送ったその日、石垣直哉が家に帰ったところ、それまで念入りに避けていた兄と遭遇してしまった。兄の部屋に引きずり込まれた直哉は、しかしそれまでになく抵抗してみせた。曰く、その時、レティシアに飛びついた椿を思い出した、らしい。叫び、暴れる直哉に逆上した兄は、直哉の首を掴み、床に何度も叩きつけた。その時、青空の王が、獅子の声で吼えてみせた。あまりの騒音を不審に思った隣人が家に押し掛け、息を切らしている兄と倒れている直哉を発見し、救急車と警察を呼んだ。父は、直哉の命に別条がないとわかると、兄の仕業ではなく事故に見せかけようとしたようだが、隣人が発見してしまった手前、うまくいかなかった。それどころか、事件を知った兄と同じ高校に通う男女数名が、自分も被害者だと名乗り出たことから、兄は警察に逮捕されることになった。この件で母は精神を病み入院、父は社会的信用を失った。直哉にとっての最大の不幸は、ことがここにいたってなお、両親が現実に目を向けようとしなかったことかもしれない。
レティシア達がそれを知ったのは、深夜、長旅から洋館に戻り、頭に包帯を巻いた直哉に出迎えられた時だった。直哉はレティシアから預かった鍵を使い、青空の王と共に三人が帰って来るのをずっと待っていた。大変な目に遭ったにもかかわらず、人狼の力が少し残っていたおかげでそれほど怪我が酷くなくて済んだ、と微笑む直哉に、椿の方が涙を流した。
そしてあわただしく時は流れ、少しだけ落ち着いた年明けのころに、レティシアとイリヤは旅立った。
「必ず戻るから、長生きしろ」
そう、椿と直哉に言い残して。
それから三ヵ月が経ち、季節は春を迎えようとしていた。寒椿はとうに散り、椿の花が入れ代わり立ち代わり咲いては散っていった。椿はそれを見ても、例年の様に気持ちがふさぐことは無かった。
騒ぎになった割には、椿と直哉は静かに学校生活を送ることができていた。それは、二人とも被害者――椿は傍目には、だが――だったこともあるが、担任の立花が思慮の欠けた陰口やいじめなどが起こらないように目を光らせたことが大きかった。彼は直哉が悲惨な目に遭っていたことに気付かなかったと悔いたらしい。直哉にとって、頼りがいのある身近な大人であった。直哉は家の都合と本人の希望もあり、施設に入ることとなった。事件の後に直哉に関わった弁護士やカウンセラーは心配していたようだが、ちょうど学区内に空きがあるならそこがいい、と本人が希望したため、転校はしなかった。学校が始まると、直哉を心配した大村元気が、中村将吾の家がやっている牛丼屋に直哉を引っ張っていくのが目撃された。面倒見と体格がいい二人に挟まれたことも幸いしたのだろう、直哉は心無い言葉を浴びることも無かった。
椿はというと、そんな直哉周辺の動きからするとまったく目立つことが無く、淡々と日々を過ごしていた。一月も終われば、誰もが椿が行方不明だったことなど忘れ去ったようであった。家でも、帰還直後の感動的な再会はどこへやら、相変わらず険のある扱いとなっていたが、こちらは椿の心持ちが変わったのだろうか、特に気にならなくなっていた。光と絵理沙だけは、レティシアの急な転出もあってか、何度か椿にそれとなく訊ねたが、椿が何も話さないとわかると、何も訊かなくなった。そして以前と同じように、休み時間や下校時間を一緒に過ごした。
その日は、三学期最後の登校日だった。四月になれば進級し、そろそろ進路の話も出てくるころだった。
「私はぜぇったいにスタイリスト!」
学校からの帰り道、そう迷いなく言ったのは、光である。髪型も含め、ゆくゆくはメディアに出ているようなモデルやタレントのトータルコーディネートをしたいのだと言う。日頃からおしゃれに関心のある光らしく、英語の勉強だけはしっかりしていることにもそれで納得がいった。
「私はまだわからないな。今はムエタイをやってみたいけど」
そう言ったのは絵理沙である。怪我が完治してから数ヶ月、柔道をやめたこともあって、様々なスポーツに興味が湧いてきたらしい。しかしその興味の対象がことごとく格闘技なので、光には時々「世界最強の女」と揶揄われている。尚、そう言って揶揄える光の方が、陰では「最強の女」と呼ばれているとか、いないとか。
さて、困ったのは椿である。以前よりも自分の希望を認められるようになった椿ではあったが、だからといってすぐに人生をかけてやりたい事など見つからない。逃避するように、夏みたいに、また料理でもしようかなぁと、ぼんやりと考えていたとき、光が目を輝かせて、突拍子もないことを言ってきた。
「椿は、とりあえず、また学級委員やりたいんじゃない?」
二学期の末にいろいろとあった椿と直哉は、三学期は学級委員をやっていなかった。
「それ、将来の夢と関係ある?」
「今のところないけど、あるかもよ?」
「そうそう、石垣クンと一緒にね」
絵理沙までそれにのって、椿にとっては更に意味の分からないことを言ってくる。混乱する椿に光はさらに言う。
「立花センセ、二人の事気にしてるから、頼めば同じクラスにしてくれるんじゃない?」
「ええ、無理でしょ……というか、なんでそこで直哉が出てくるの?」
引いている心情を隠さず顔に乗せてそういう椿に、光と絵理沙はため息をついた。二人にしてみれば学級委員よりも大事なのはそちらである。
「椿ってさぁ」
「そういうとこ、あるよねぇ」
「どういうとこ……?」
「もっとさ、好きな人とか、あこがれてる人とか、いないの?」
光の言葉に、真剣に考えて、椿は言った。
「好きというか、レティみたいになりたいなとは、思う」
予想外の回答に、光と絵理沙はきょとん、とした。じゃあとりあえず、金髪にする? と言った光の頭を小気味よく小突いて、絵理沙は言った。
「レティは、不思議な子だったよね」
「どこが?」
「運動神経が良いの、隠してたとことか?」
言われてみれば、絵理沙は以前にも似たようなことを言っていた。絵理沙も運動神経が良いからこそ、わかることがあるのだろう。
「あ、あと、日本語もっと上手だったよね」
絵理沙の言葉を受けるように、叩かれた頭を撫でながら、光も言った。
「どうして?」
「なんとなく? 国語のテスト、私よりもよかったし」
「それは、光の点数がやばかっただけなんじゃない?」
「否定はしない! というよりできない!」
光は絵理沙の言葉にからっと笑って見せた。見る人は見ているんだなと、椿は思った。
「椿様ぁぁぁぁぁぁ」
二人と別れてしばらく歩き、家の前まで来ると、仔猫が椿の頭に飛び乗ってきた。青空の王である。
「今お帰りだったんですね! お家にお伺いしちゃいましたよぉ」
嬉しそうにそういうキングに、何か用? と椿が訊ねると、届け物をしに来たという。
「我が母よりことづけられましたので、修行がてら参上いたしました!」
キングは塀に飛び移り、胸をはってみせた。キングは実はまだ王ではなく、椿と直哉に名乗ったときは見栄をはっていたそうだ。しかし直哉の事件を通して、さらに自分に力をつけるべく、月夜の奥方のところで修業をしているという。まだ王ではないと聞いた時に椿と直哉が、だろうな、と思ったことと、修行と称して乗り込んできた仔猫をマダムが体よく小間使いにしていることは、内緒である。
「マダムから? 何だろう」
「母も、預かったものです。郵便受けに入れておきましたよ!」
そう言われて、椿は家のポストを開いた。宛名の無い、真っ白な封筒が、そこにはあった。長旅をしてきたのだろう、手紙の隅には、動物の鋭い爪痕――例えば、蝙蝠の足にあるような――が、かすかに残っていた。
「我らが郵便屋をすすんでやるような相手など、そうはいないのですよ?」
キングは、きらきらとした瞳で、そう言った。




