黒い天使がいてもいい
途中で何回か休憩をはさみながら、数日かけ、三人はとある国の古城にたどり着いた。その城は大きな湖に面しており、その外観に椿は見とれた。玄関に降り立つとすぐさま城の中に案内された。椿は長旅で疲労が溜まっていたのだが、休む間もなく着ていた制服を剥かれ浴室に放り込まれ身を清められ、コットンとレースでできたワンピースのようなものを着せられ、
「ぐぅ」
客室であろう一室で、二人がかりでコルセットを巻かれて呻いていた。その隣では、レティシアが涼しい顔をして、同じものを着せられている。浴室に入る前から六人もメイドと思しき人たち――おそらくはイリヤと同じ吸血蝙蝠――がいたので、大げさだと椿は思ったが、徐々に納得してきていた。イリヤは長旅の疲労を癒すためと、椿が気にするといけないということで、席を外している。
「レティ……これ、着なきゃダメ?」
「残念ながら、夜会にはドレスコードがあってな、世界中どこで集まるとしてもこんな格好だ」
「なんか、おとぎ話のお姫様みたいだと思ったのに、もうくじけそう」
「そう言うな。コルセットは鎧にもなる」
「夢が無いこと言うなぁ」
「それに、この程度で音を上げていては支度が終わらないぞ。言っておくが、一応まだ下着姿だからな」
タイミングよく、メイドたちが、楕円形のフラフープをいくつかつけたような金具を取り出し、レティシアの腰に取り付けた。椿は小さく悲鳴をあげる。
「……それ、服なの?」
「らしいな。おとぎ話のお姫様たちも、中はこんなになってると思うと、なかなかおてんばだな」
可笑しそうに、レティシアは笑った。
「なんか、楽しそうだね?」
「そりゃあな」
「楽しい会じゃないんだよね?」
「ああ、ちっともな。だが、お前がここにいるのが面白い」
どういう意味、とむくれる椿を尻目に、レティシアは被るようにして、黒いドレスを身に着けた。レティシア達が着せられたのはどれも黒い生地のものだったが、滑らかな光沢のある生地で、よく見れば細かい刺繍がびっしりと施されており、決して地味ではなかった。椿もこんな状況でなかったら――というよりは、きついコルセットがなかったら――むしろ楽しんでいただろう。チョーカーやレースのグローブを次々と身に着けていくレティシアに対して、椿はメイドたちの手によってようやくドレスを着せられた。ヒールのある靴を履かせられているのに、スカートの丈は床すれすれまである。メイドたちは続けざまに椿の髪をあわただしく巻き始めた。レティシアは髪が短くなったせいか、自分で黒いレースのベールがたっぷりとついたヘッドドレスを被っただけで簡単に済ませた。
そして、慣れたように椅子に腰かけると、椿に訊ねた。
「楽しい会ではない。吸血鬼達のあくどい本性が出るかもしれない。それでも椿は、来るか?」
「今更? ここまで来て、何もせずに帰るなんてしないよ」
「そうか。じゃあ、これをつけておけ」
そう言って、レティシアは部屋にあった引き出しから、チョーカーを一本、椿に投げて渡した。そのチョーカーは他のものと同じようにほとんどが黒かったが、真ん中にある大きな石だけ、真っ赤だった。
「贄の印のアクセサリーだ」
「私、贄なの?」
「違う。お前、言葉がわからないだろう。それは異国の贄との意思疎通のために、大昔に魔法使いが作ったものらしい。つけていれば、大体の意味はわかる」
そう言われて、椿は試しにそのチョーカーをつけてみると、それまでただの雑音だったものが、はっきりと意味を持った言葉として伝わってきた。蝙蝠達の話声すらわかる。
「すごい」
「気に入ったならよかった」
「こんなに便利なものがあるのに、レティは語学を勉強したの?」
「暇だったからな」
そう答えるレティシアが、椿には微笑ましかった。椿も、成績は良いとはいえ、外国語の習得に苦労している普通の中学生である。
「結局、好きなんだね」
人と関わるのが。そう言った椿に、レティシアは目を丸くしてしばし考え、
「そうだな、話のわかる生き物は、愛しい」
そう答えた。
夜会は、城の中で三番目に大きい広間で行われるという。ご苦労なことだ、とレティシアは思い、三つも広間があってどうするんだろう、と椿は思った。日が暮れ、空が紺色に沈みきったころ、二人はイリヤと共に広間の扉の前にいた。
「先に言っておくが、私は夜会に、処罰のために呼び出された。もしかしたらあの洋館には帰れないかもしれないし、姿を隠さないといけなくなるかもしれない」
そう、レティシアは椿に言った。
「大公どもに、訊くことがある。場合によっては、派手に喧嘩をする」
かもしれない、ではなく、断言したレティシアの言葉をゆっくりと飲み込んだ椿は、素直に言った。
「レティがいなくなるのは、寂しいから嫌だな」
「私も寂しいが、一緒にいるだけが友人ではないだろう」
その言葉に、椿は、こんな時だというのに、きらきらと顔を輝かせた。そう言えば本人に言ったことは無かったかと、レティシアは赤面した。
「レティが、寂しいって、友人って言った」
「うるさいな」
「もう一回言って」
「やかましい」
レティシアは咳ばらいをした。イリヤはこらえきれず肩で笑っている。
「行くぞ」
扉が開かれた。そこは全ての窓に重いカーテンがかかっており、いくつものろうそくの光が広間を照らしていた。そして巨大なテーブルを囲んでいた数十の吸血鬼達が、三人を睨みつけていた。
先ほどの砕けた空気を全く感じさせない、凛とした顔つきで、レティシアはためらいなくその視線を浴びながら、他の吸血鬼を避けるように少し離れて設けられた席に着いた。高い天井にぶら下がる巨大なシャンデリアが、輝くというよりは光をただ受けて、ぼんやりと浮かび上がっているようだった。昔は玉座として使われていたのか、広間の最奥は大理石で一段高くなっていたが、壁の半分よりも高いところがひと際大きなカーテンで覆われているだけで、寒々としていた。テーブルには細かい彫刻の施された食器と燭台が並び、むっとする香りを漂わせた花と果物があちこちに盛られていた。席に着くと、レティシアはすぐさま、自分の席に置いてあった空のワイングラスを――黙っていると勝手に注がれるであろう、人間の血液を拒否するように――逆さに臥せた。レティシアの左斜め後ろに、椿が座る為の椅子は置いてあったが、贄には必要ないということだろうか、食器などは無かった。イリヤは、レティシアと椿が席に着くのをエスコートすると、さっと蝙蝠の姿に変わって舞い上がり、シャンデリアにとまった。椿がよく目を凝らすと、そこにはイリヤの様に蝙蝠達が何匹もいた。メイドの姿をしていた蝙蝠達も徐々にそれに倣い、姿を減らしていく。
当然のことながら、それほどの数の吸血鬼を、椿は初めて目にした。ドレスの者もいれば、タキシードの者もいたが、全てが椿達と同じように漆黒の正装だった。あくまで見た目だけだが、男も女も、老いた者も幼い者も、美しい人間の姿の者も、一目で異形とわかる者もいた。首から下が無い者や、背中に大きな蝙蝠の翼を持つ者もいる。そして、会場のところどころに、椿と同じ赤い宝石を身に着けた者がいた。椿と同じように椅子が与えられていたが、半分は椅子にもたれるか床に座り込んでいるなどして椅子の機能を果たしておらず、もう半分は椅子に座ってはいてもうつろな目をしていて、宝石の効果で言葉が通じるにも関わらず、それをまったく認識できていないようだった。その中でたった一人だけ、意識を保っている様子の、西欧人と思しき女性がいたが、彼女は真っ青な顔でがたがたと震えながら、チョーカーに加えて首輪を巻かれ、彼女の前に座っている、仮面をつけた女性の吸血鬼が座る椅子に鎖でつながれていた。その吸血鬼は遠目に見てもわかる派手な髪型をしており、装飾品をぎらぎらと輝かせて、上座にほど近い席に座っていた。扇子で口元を隠し談笑しているものの、鋭い視線はレティシアと椿に向けられていることが、仮面越しでも椿にはわかった。その吸血鬼だけではない。会場のすべての吸血鬼が、好奇心と侮蔑をにじませた視線をレティシア達に向けていた。
空が更に濃い闇に染まったころ、乾いた、高い鐘の音が、幾重にもけたたましく鳴り響いた。そして、玉座があったであろう場所に、誰よりも豪華な衣装を身にまとう、威厳を漂わせた大男が姿を現した。
「お久しぶりです、大公」
よく通る声で、レティシアは言った。大公は、地面から這い上がるような低い声で、言った。
「また借り物の衣装か。惨めだな」
「黒いドレスを、相変わらず持っておりませんので」
レティシアはさらりと言った。それに対して、大公の表情は、豊かに蓄えた髭のせいで動きが見られなかった。
処罰を受けるというので、椿は吸血鬼達にも法があり、レティシアは裁判のようなものを受けるのだと思っていたが、実際は吸血鬼達がレティシアに言いがかりと一方的な怒りをぶつけ続けるだけの、理不尽極まりないものだった。ずいぶん長い時間をかけて、特に激しく詰ったのは、上座近くに座るイヴと呼ばれる仮面の女と、ルーク卿と呼ばれる蝙蝠の翼を生やした男だった。
「ようやく大人しく贄をとったかと思えば、人狼と魔法使いを始末するなんて。奴らが人を殺めるなら、むしろこちらが過ごしやすくなるというのに」
イヴは殊更、高慢に言った。
「隠れる蓑をふたつ失ったと考えるなら、損害ですらあるわい」
ルーク卿は苦々しく言った。
「あなた方は極東とは日ごろ、関りが無いでしょう。だからこそ私を飛ばしたのだから。私のことなど気になさらなければよろしい」
「これは、お主一人の問題ではない!」
「都合の良い時だけ仲間扱いするのは止めてもらえないですか、ルーク卿」
「セーヴェラ・ザーパドを一匹、連れまわしておるだろう! もとは吾輩のじゃ、返せ!」
「彼の方から慕ってついてきてくれるのです。それに、自身は吸血鬼だと驕って優秀な侍従を手放したのはそちらです。背に蝙蝠の翼を持ちながら彼らを見分けることもできず、私の様子を見るために適当にイリヤを選んだのでしょう」
「その名で呼ぶな! 獣に名などつけおって!」
ルーク卿は顔を真っ赤にし、息を荒くしながら叫んだ。椿には、彼がイリヤよりもどう偉いのかわからなかった。
「もうよい、貴様に誑かされた獣の事など。人狼には何故、手を出した。向こうから襲ってきた魔法使いと違い、こちらにはまったく関係がないではないか」
「あなたたちが手配した学校の、私のクラスメイトでした。関係はあります」
「そんなもの、人間に紛れて贄を探す常套手段の膳立てをしたまでであろう。人間と慣れあえとは言っておらんわ」
「あなた方はいったい、私にどうしろというのです」
いい加減に呆れたとでも言いたげなレティシアの問いに、大公が自ら、わざわざといったように緩慢に口を開いた。
「無駄に吸血を拒否するのは止め、本来の能力をいかんなく発揮せよ。極東では最低十の贄を囲め。千の贄を協会に提供せよ。そして協会のために献身的に働くのであれば、協会をまとめる儂の役割を継いでやってもいい」
「お断りいたします。その気は毛頭ございません」
即答したレティシアを鼻で笑い、イヴは言った。
「大公があれほどあなたを大事に育てたうえに、地位まで譲ろうとしているのに、愚かな子。そんなだから、東洋の思想に誑かされるのよ」
「そうじゃ、蝙蝠と儂らが等しいなどど言いおって。どうせ来世などというものもあるとでもぬかすんじゃろうが、そんなものは無いわ。死んだら消えて終わる。丈夫な身体を持つ儂らは獣どもより尊い。いい加減にわからんのか!」
「わかりません。それが何か」
「つまりな、そこにいる小娘ですら、贄ではないのだろうということじゃ」
いよいよ、狂犬よりも荒くなった息を整えるのも煩わしい様子で、ルーク卿は言った。まだ早いんじゃない? と、イヴは耳打ちしていたが、その声が嗤いを含んでおり、止める気配は一切ない。
「その血を今、飲んでみせい」
にぃっと口角をあげて、ルーク卿は言った。すでに外野と化していた他の吸血鬼達からは喝采が沸き起こる。それを受けて、大公が厳かに告げた。
「お前は牙を削っていたからな、代わりの刃物を用意した。一思いにその娘を屠り、その血を飲んでみせよ」
三匹の蝙蝠が、大げさな斧を運んできた。立たされた上に斧を握らされたレティシアと、同じように立たされた椿が向かい合った。斧をしばらく見つめたレティシアが、ゆっくりと口を開いた。
「お訊ねしてもいいですか」
「なんだ」
「私が彼女を連れてこなかったら、どうしていたのです」
「そこの、イヴの贄を使う予定であった」
大公のその言葉に、ひとり鎖でつながれていた贄の女性が、びくりと肩を震わせた。
「……本当に、ただの食料なのですか」
「当たり前であろう」
「極東では食料に対しても礼くらい言いますが」
冷たい視線を大公としばらく交わしてから、レティシアは椿を見た。吸血鬼達は余興を楽しむように、レティシアと椿を取り囲み、冷やかしと野次を二人に浴びせかけた。
椿は困惑していた。レティシアが椿を殺すとは全く思えなかったが、この状況を切り抜ける術も、椿には思いつかなかった。一方のレティシアは、訊きたいことを訊く前に怒りの沸点を超えてしまったのだろうか、いやに冷静だった。
「椿」
椿にはとても長く感じられた間の後、レティシアは言った。
「すまない」
レティシアは椿の腰の金具をドレス越しに掴み、渾身の力でシャンデリアにとまったイリヤに向けて投げ飛ばした。その瞬間、わかっていたかのように飛び立ったイリヤに、椿はすんでのところでしがみ付くことができたが、衝撃で蝙蝠達が一斉に飛び立ち、天井は真っ黒に染まった。
そしてレティシアは動きづらいドレスをものともせず、斧を構えて跳躍し、何人か吸血鬼の頭を踏みつけテーブルの上の食器を蹴飛ばしながら、玉座めがけて駆けだした。呆気にとられ、誰もが大公に振り下ろされると思ったその斧を、レティシアはイヴと贄をつなぐ鎖に振り下ろして切ってから、玉座の後ろの壁に向かって斧を投げ捨てた。重苦しいカーテンの向こうで、ガラスの割れる音がし、微かに朝焼けの光が室内にちらついた。ホールには吸血鬼達の悲鳴が響き、日の光を嫌う者たちがより濃い影を求めて逃げ惑った。その中を、鎖の切れた贄は一目散に逃げ出した。
「行け!」
イリヤと椿に向かって叫んだレティシアに、大公は初めて、肩を怒らせて怒鳴った。
「レティシア、貴様! 自分が何をしたのかわかっているのか!」
「そちらこそ。私があれほど嫌がった吸血をさせることで留飲を下げる。飲まないなら贄を殺して無理に飲ませる。私はまた禁断症状で苦しむことになる。……悪趣味な憂さ晴らしですね」
朝日がだんだんと強く差し込んでくる窓を背中に、レティシアは大公を睨みつけた。
「私も聞きたいことがあります。東洋の魔法使い――無理に目覚めた哀れな男が、私のことをいやに細かく知っていました。あれこれ吹き込んだのは、大公、貴方ですか」
直哉を目覚めさせようとしたあの男は、レティシア自身はあまり進んでは語らない過去を嬉々として語ってみせた。マダムには、彼はレティシアを羨ましいと、そして腹がたったのだと言ったという。怒りの感情さえなければ、彼の最期はもっと穏やかなものになったかもしれなかった。
「奴は結局、役立たずであった」
大公は、あっさりと肯定した。
「魔法使いは、気が狂っていた上に、人狼の件で酷く怒っていましたが、陽気そうな男でした。どう唆せば、あれほどまでに私とその贄を恨むのです」
「何者にもなれないくせに、誇りはやけに高いあの男に、目の前にいるのが育つのには成功した吸血鬼だと、奴の気に障る言い方で吹き込んだまでだ。他愛ない」
記憶の中にある男を蔑むように言う大公に、レティシアは氷の様に冷たい視線を向けた。
「よその者を頼るほどに、私のことが目障りですか」
「儂が直接に手を下さない程度にはな。絶望したか」
その言葉を聞き、一度ゆっくりと瞬きをしたレティシアの瞳には、冷たい怒りは秘めながらも、普段の輝きが戻っていた。
「いえ。そんな事だろうと思っておりましたので。ただの確認です」
レティシアを取り囲むように、黒い霧が立ち込めた。それは我慢ならなくなったイヴが、レティシアを捕えようと生み出したものだった。逃げ惑う吸血鬼達の声が更に大きくなる。
「イリヤさん、降ろして! レティが!」
騒ぎになっている広間を、イリヤにしがみついたまま空中から見下ろして、椿は叫んだ。いつもと違いその首にしがみつかれて、イリヤは荒々しく翼を動かして不安定に飛んでいた。普段は蝙蝠の鳴き声にしか聞こえないイリヤの張り裂けるような心中が、赤い宝石の力で椿に痛いほど伝わっていた。主を助けたい、しかし主が大切にしている友人も助けたいという切実な思いが、イリヤに逃げることすら許さなかった。
この時、椿は初めて、蝙蝠の姿のイリヤの瞳をしっかりと見た。思いの外透き通った瞳と向き合っていると、イリヤに無茶な考えが浮かんだのがわかった。椿は迷わなかった。
この二人が、枯れ時にあっさりと花を丸ごと落とす椿の花の様に、レティシアについて潔くなれるはずがなかった。
「レティーーーーーーーーーーーーーー!!」
椿は大きく息を吸い込むと、イリヤから手を放し、黒い霧の中へ叫びながら飛び込んでいった。不安定な揺れから解放されたイリヤは即座に体勢を立て直し、椿の背中をまっすぐに追った。
あとは、二人が逃げられたらそれでいい、素直に投降して、吸血鬼初の贄にでもなってやろう、簡単には死ねないだろうから地獄の日々ではあるだろうけれど、構わない。訊きたいことを訊いて、気が済んでしまったレティシアは、そう思っていたのだが。
自分を呼ぶ、だんだん大きくなってくる声に、信じられない気持ちで振り返った。
空から、真っ黒い天使が、両手を差し出して飛んでくるようだった。
本当全くこいつらは、と頭の中では散々悪態をついたが、その手を拒むという選択肢は、レティシアにもまた、なかった。
レティシアが飛び込んできた椿を受け止めると、その瞬間にイリヤが椿の背中を足で掴み、羽ばたいた。そしてそのまま、先ほど割れた窓にカーテンごと突っ込んだ。カーテンは破れ、窓に残っていたガラスは砕け散り、朝日が広間を満たした。そして三人は、日の光を浴びながら、脱出したのだった。
どれほど飛んでいただろうか。すっかり日も上ったころ、レティシア達は、崖に守られているような、誰もいない海岸に降り立った。少し離れたところに、いくつか実をつけた木が生えていた。少し休んだら取りに行こう、と、椿は砂浜に大の字になって転がった。イリヤもわざわざ人の姿になり、それにならう。何かが可笑しかったのか、それとも気が抜けたのか、椿はからからと笑い始めた。さらにつられて笑い出したイリヤと椿を、レティシアのげんこつが襲った。
「お前たちは、本当の本当に、馬鹿なのか! 椿が吸血鬼の群れに飛び込むなんて、無茶にもほどがあるだろう!」
心配ゆえのレティシアの怒りに、椿とイリヤはまるで反省する様子もなく、むしろ抗議した。
「えー、レティに言われたくないよ」
「しょうがないじゃないですか。椿様と私ですよ? むしろ椿様でなかったら私はさっさと見捨ててレティシア様を助けています」
「そうそう。レティ、諦めよ? あ、イリヤさん、助けてくれてありがとう」
「いいえ、こちらこそ、無礼なお願いをきいていただき、ありがとうございました」
「本当に、このチョーカーつけててよかった! 便利だねぇ」
先の件で妙な連帯感が生まれてしまった二人を見て、レティシアもとうとう気が抜けた。砂浜に突っ伏し、そのまま仰向けに転がる。
「あー、もう……最高か、お前ら」
「あ、褒められた?」
「さあ、どうでしょうね」
「……ありがとう」
「感謝された! こちらこそありがとう、レティ!」
「これは疑いの余地がないですね」
そうして、三人はしばらく転がっていた。疲労もあり、すこしうとうととしたかもしれない。しかしやがて椿が起き上がった。
「この服、やっぱりきつい! 脱ぐ! 下着って言ってたけど、今の時代じゃただの黒いワンピースだし、上のドレスとコルセットくらい外しても別にいいよね?」
「ただのって、おそらく最高級品なんだが。まあいいんじゃないか、別に何が見えるわけでもないし。私も脱ごう」
そうして二人は、人手が足りないために悪戦苦闘しながら、ゴテゴテとした動きづらい服と靴、アクセサリーを脱ぎ捨てた。もちろん、あのフラフープのような金具も。ただ、椿は、あのチョーカーはつけたままだった。
そして再び、砂浜に寝転んだ。その間にイリヤは木の実をもいで持ってきた。なんという名前の実かは椿にはわからなかったが、食べてみるとみずみずしく、喉が潤った。
「はー、生き返る」
「今時、あの服装は、やはり無理があるよなぁ」
「レティもそう思ってたんだ」
「腰の金具は意外と掴みやすかったが」
「あれ、やられる方は腰からちぎれるかと思ったからね?」
「先に謝っただろう。許せ」
「そういえば、制服、置いてきちゃった」
「私のを使えばいい。家に帰ったら渡そう」
その言葉を聞いて、椿はレティシアを見た。
「やっぱり、出ていっちゃうの?」
「ああ。さすがにああなった大公達が来ると厄介だからな。本当はすぐにでも逃げた方がいいんだろうが」
「大丈夫でしょう」
イリヤが断言する。
「彼らの蝙蝠達は、そんなに速く彼らを運びません。それほど大事な主ではありませんから。それに彼らは癇癪持ちのわりに体面を気にするので、一度散会した後、出発の準備にも時間をかけるでしょう。ひと月ほどは大丈夫です」
「さすがだな」
「優秀な侍従ですから」
そう言うイリヤは誇らしげで、椿は彼がレティシアについていけることが羨ましかった。しかし、これ以上自分の人生をそっちのけでレティシア達に執着すると、もはやレティシア達の友人ではいられなくなる気がしたから、黙っていた。レティシアは言う。
「では、年明けには出発するか。どこに行くか……もうひとつの吸血鬼協会にかくまってもらうか、いっそ空か海底にでも逃げるか」
「そんなところでも生きていけるの?」
「丈夫だからな。案外なんとかなるぞ」
「私は海底は好かないですけどね」
「私もだ。ほとぼりが冷めたら、必ず地上に戻って来よう」
さて、と、レティシアは立ち上がり、二人に手を差し出した。
「今は、とりあえず、今の家に帰ろうか」
椿もイリヤも、やはり迷いなく、その手を掴んだ。




