たとえ化け物だったとしても
月夜の奥方が洋館に姿を現したのは、寒椿が見頃を迎えてからだった。黒猫の姿で玄関に入ると、すぐにあの花魁のような姿に変わった。魔法使いの一件の時には身に着けていなかった、黒い毛皮のストールを巻いている。レティシアにはそれが少し早く感じられたが、マダムはすでに寒いらしく、ヒトの姿になっても毛皮は手放せないらしい。今年こそはなんとかして、ダウンコートとやらを手に入れられないかと、マダムは真剣に検討していた。
「先ほど、お庭にお邪魔したのですが、咲いているのは椿ですか?」
「仲間ですが、寒椿です。サザンカのように、散るときは花びらが一枚ずつ散りますよ」
「植木鉢も増えていましたね」
「スノードロップだそうです。友人達が植えました」
夏に植えたローズマリーの隣に新たに増えた鉢には、あの男のカフスボタンも埋められていた。スノードロップの花言葉は「希望」そして「慰め」である。
「優しい仔達」
「ええ、本当に」
「あなたのことも言っているのですよ」
マダムはイリヤから出されたホットミルクを口に含むように少しずつ飲んだ。イリヤは更に、マダムには煮干しとチーズ、レティシアにはホットチョコレートとクッキーを置いていった。前回よりも手厚いもてなしにマダムが困惑した様子だったのを見て、レティシアは苦笑して言った。
「先日の魔法使いの件で、その場にいなかったことを責めているんです。気にするなと言ったのですが」
「そうですか、殊勝なことです。念のためのご報告ですが、例の男の件は、人間の方の手続きについては滞り無く終了しました。協会側としては、前科の裏付けが難航しておりますが、ようやく終わりが見えてきたところです。なにせ数がありますから、時間がかかりますが」
「そうですか」
「彼の件の影響で、今後、協会では、魔法使いについて生死問わず、その魔法まで含めて改めて捜査し、管理を強化することになります。同じような事件で、あなたの手を煩わせるようなことはもう無いと誓います」
「今回のことは、しょうがないことです。何かあったときはお互い様でしょう」
「あの仔達は、元気ですか?」
「ええ」
スノードロップの球根を手に入れてきたのは、椿だった。魔法使いの件があって1週間後に、直哉とともに鉢に植えていた。しかし、それ以外では、レティシアは椿と話していない。心配した直哉はいつもよりもむしろ頻繁に洋館を訪れていたが、椿とは気まずいままだった。それを察したのだろう、マダムは気づかわしげに言った。
「どんな生き物でもそうですが、信頼関係というのは脆いものです。我らは、あなたにそれを差し出させてしまった」
「あの時に話した過去は事実です。仕方のないことでしょう。直哉――人狼の少年はともかく、椿は少々自分の身を顧みないだけの、普通の人間です。私が吸血鬼と知っても交流を続ける方がどうかしているのです。何が彼女にとって赦し難かったのかはわかりませんが、心当たりはありすぎます。思えば当然のことです」
「それであなたはいいのですか? あなたにとっても過去の件は、不本意なことでしょうに」
「私の一存ではどうしようもありません」
淡々とそう言ってのけたレティシアを見つめながら、マダムは言った。
「人間は、我らよりもずっと儚いものですよ。呼ばれているのでしょう? 赤い封筒で」
赤い封筒、と聞いて、レティシアは思わず顔を上げた。そして、その表情を見て、マダムはやはり、と言った。洋館に黒い蝋で封をされた真っ赤な封書が届いたのは、二日前のことだった。どうしてそれを知っているのかと問うレティシアに、仔猫たちが見たのです、と、マダムは言った。
「赤い封筒は、処罰の知らせ。目立つものです。……戻るのがいつになるか、そもそも戻れるのかも、わからないのでは?」
「いいのです。ちょうどこちらにも、出向く用がありますから」
レティシアは潔く言い切ったが、マダムの言葉を否定はしなかった。現代において、吸血鬼は魔法使いよりもその絆が強固であると言われていた。その中で受ける処罰がどれほど重いものなのか、マダムにはわからなかったからこそ心配だった。しかしレティシアは、自身のことではなく、友人のために口を開いた。
「マダムには、無礼を承知で、お願いがあります。人狼の少年――直哉、と言いますが、彼に少し事情があります。彼が困ることがあったら、助けてやってほしいのです。マダム自らでなくて構いません」
その事情を知らないマダムは、胸を衝かれる思いだった。そういうことを言っている場合か、と、言いたいのをこらえて、マダムは訊いた。
「あなたは、彼が、目覚めさせられる過程で、猫を殺めていることも知っていますね」
「……はい。おそらくマダムがご存知であろうとも思っておりました。しかし、他に頼れるヒトが、私にはいないのです」
「……わかりました。スノードロップの隣の、ローズマリーに免じて。彼も不本意でしたし、罰が必要というのなら、彼が殺めた仔がそのうち自分でするでしょう。しかし、魔法使いの件とは質が違います。……さすがに、この件で、無償というわけには」
「わかっています。イリヤ、鋏と盆を」
イリヤは無表情で、しかしどこか悲し気に、真鍮の鋏と盆をテーブルに置いた。レティシアは鋏を握ると、その長いブロンドをためらいなく切り落とし、盆にのせた。髪の毛は魔法使いにとっては良い材料になることを知ってのことだった。
「不足でしたら、丸坊主にしても構いません。あとは、骨でも爪でも」
そう真剣に言いつのるレティシアをしばらく見つめ、マダムはようやく、結構です、と答えた。
「……少女の方は、どうなのです」
「椿は強くなりました。夏を超えて。私以外にも友人と呼べる人間がいます。今回のようなことが無ければ……私もいなければ、厄介ごとに巻き込まれることはありません。彼女自身の問題は、やがて彼女が自ら解決していくでしょう。」
「もっと我が儘を言ったらどうです。仲の良い友人で居続けるために、全員守ってほしいと」
「すべての骨を捧げても、対価としては不足でしょう?」
「どうでしょうね、あなたが言うなら考えないことも無いのですが」
とは言いながら、マダムも、人間の仔二人とレティシア、そしてもしかしたらイリヤも含めて守るとなると、確かにレティシアの髪と骨と爪では足りないとわかっていた。マダムは東洋の魔法使いの頂点であり、他の魔法使いへの影響もある。力の安売りはできない。そしてそれを、レティシアもわかっているのだ。マダムはつい、レティシアに、小言めいたことを言った。
「あなたは、あなたを育てた大公の様に、もう少し厚かましくなった方がいいんじゃありませんか。吸血鬼というのは、もっと自分勝手なものでしょう」
「それだと怒るヒトがいるのです」
レティシアは苦笑した。
「私には、人間の師匠がいます」
野に捨てられてから、何十年か経ったときのことだった。レティシアはある山地に臥せっていた。いつ変えたかわからないドレスが泥だらけだっただけでなく、あまりに長い時間その場所で横になっていたために、身体には苔が生えてきていた。太陽が昇り、月が現れるのを、木々の間からぼんやりと見つめていた。太陽の光で灰になれないことはすでにわかっていた。命を絶つ方法は万策尽きたが、その時はそれまでで一番長く血を絶っていたせいか、激しい吸血の衝動は治まっていた。しかし、やはり慣れないのであろう、まったく動く気力が湧かなかった。そのまま苔と共に、山の一部になれたらと思いながら、眠るかまどろむかという日々が続いた。
しかし、そんな日々は唐突に終わりを迎えた。ある日、レティシアが目を覚ますと、見慣れない小屋に寝かされていたのだ。長く水分をとっていなかったため喉が貼りついて声も出ず、目を開けることすら億劫ではあったが、さすがにレティシアは驚いた。しばらくすると、部屋のどこかにいたのだろう、レティシアの視界にひょっこりと老人が現れた。
「ほほぉ、目が覚めたか」
老人は、東洋の言葉で話した。剃り上げた頭は光っており、口元には白く長いひげが生えていた。衣は元が何色だったかわからないほど使い込まれていたが、清潔だった。老人は水をレティシアに差し出して言った。
「とりあえず、水は飲むかの。喉が張り付いていては、話もできんじゃろうて」
レティシアが軽く目くばせしたのを了承ととらえたのだろう、老人はゆっくり、ゆっくりと水をレティシアの口に注いだ。ほのかに温かいその水は、一度沸かしたものだとわかった。少し身体が温まったので、レティシアは身体を起こした。普通の人間ならばそれほどすぐには回復しないだろうに、起き上がったレティシアを訝しむことも無く、老人は「よいよい」と言って目じりを下げた。そして老人は、起き上がれたのなら飯かのぉ、と言って……小型の刃物を、剥きだした腕に当てた。混乱したレティシアが慌ててそれを止めると、
「違ったかの?」
老人は、はて、と、首を傾げた。老人は吸血鬼という存在を知っていたようだった。
「おぬし、山より西の出じゃろう? 金の髪と青い瞳の者は山沿いの村にもおるが、着とった服がなぁ、飾りがあまりに多いんで、洗うのが難儀じゃった。普通の女子が、あれほど面倒な服を着てあの山は越えられまい。あとは、その歯じゃな。何があったのかは知らんが、歯は大事じゃぞ? そんなに削らんでもよかったろうに」
レティシアは吸血を絶って苦しんでいるとき、壁や装飾品を噛み締めたため、吸血鬼特有の鋭く尖った犬歯が削れていた。今となっては人間とそれほど変わらない歯をしているが、当時はまだ歯の表面に削れた痕が痛々しく残っていた。しかし、レティシアには、それよりも気になることが老人の言葉の中にあった。
「今、服を洗ったと言ったか?」
それは、レティシアが育った館では、奴隷である吸血蝙蝠達の仕事だった。自分で洗わないからこそ、面倒な作りになっているのだ。しかし、老人はこともなげに言った。
「うむ。いかんかったかの?」
レティシアは小屋をとび出した。その時に気が付いたのだが、たしかにレティシアは見慣れない着物を身に着けていた。そして、玄関先すぐのところで、泥汚れで茶色く染まっていたはずのドレスが、ずっと白く輝き、風を受けて物干し竿で揺れているのを見た。そのドレスは、黒いドレスが正装だった館から追い出されるとき、わざわざ辱めに着せ替えられたものだった。真っ黒になるほど血を浴びるまで、顔を出すなという意味を暗に込めて。それが、青空の下、何かから解放され、踊っているように見えた。
「安心せい、着替えは女子に頼んだからの」
ドレスに見入るレティシアに、老人は心配そうに見当違いな声をかけた。
老人は僧侶だったが、寺ではなく、先ほどまでレティシアも寝ていた古ぼけた小屋で生活していた。もう一つある部屋で読経をしたり、僧尼などに説法をしたり、近所の貧しい村の子供たちに読み書きを教えたりして暮らしていた。炊事や畑仕事などもしており、信仰の無いレティシアが考えていた僧侶に比べると、随分と庶民的な生活を送っているようだった。
「尼たちにお主を預けんかったのは、吸血鬼と気付いたからじゃ。出家しとるとはいえ、まだ若い。何かあったら可哀そうだからのぉ」
「……何かあるかもしれないとは、思ったのか」
「そりゃあの。お前さん、寝ておったしのぉ。儂らを襲いますかと確認もできん」
「それでも連れて帰ったのか」
「そりゃあの。お前さん、倒れとったからのぉ」
老人にはその過程に一切矛盾が無いらしかった。よく考えた結果、レティシアは言った。
「つまり、お前は馬鹿なのか」
「知らんが、よくそう言われるのぉ」
ほっほ、と、老人は愉快そうに笑った。
「儂の中では道理は通っとるんじゃが、どうも、普通とは違うらしい。寺でも融通がきかんだの頭が悪いだの言われての、しまいには追い出されてしもうた。しかし、儂は間違ったことはしておらん」
「私を助けたことが、間違いとなることは考えなかったのか」
「行き倒れとるおぬしを助けるか否かは儂の問題、助けられた後にその相手に手をかけるか否かはお前さんの問題じゃよ。儂のせいにしてはいかん」
そう言ってまた老人は、ほっほと笑った。老人の心は海のように広かったが、同時に山のように逞しかった。
それでも、なぜ自分を助けたのか納得がいかなかったレティシアがそう訊ねると、老人は逆に訊き返した。
「お主、何か信じとるものはあるかの? 西欧では、神を信仰する者も多いと聞いたが」
「宗教はない。与えられなかった」
「そうかの」
老人は思案するように、ふむぅ、と唸った。
「儂らの宗教ではな、皆が皆、仏性というものを備えておると信じておる」
「ブッショウ?」
そうじゃのぉ、と、老人は再び唸った。この話題の時、老人は慎重に言葉を選ぶため、度々長い唸り声をあげた。彼にしてみれば、彼よりよほど年上だが宗教的素地のないレティシアに説明するのは、物を知らない子供にするより困難だったのだろう。やがて、ひねり出したとでも言うように、老人は言った。
「すごい、命じゃ」
「すごい、命?」
「そうじゃ。想像もできんくらいの、すんごい命じゃ」
彼はかみ砕きにかみ砕き、わかりやすいようにと身振りをまじえてそう言ったのだが、当時のレティシアは心底、馬鹿にしているのか、と思った。おそらくそれが顔にも出ていたのだろう、老人は頬を掻きながら言葉をつむいだ。
「吸血鬼には男女の差別はあるかの?」
「能力が高いなら、無い」
「そうかの。その点、人間よりも進んでおるかもしれないのぉ。人間の今の世の中では、男女に差別があってな、広く常識では女は男より劣っているとされておる。昔はもっとひどかった。じゃから、そのすごい命も、持っているのは男だけだと考えられておった。しかし、女子で自身にそれがあると証明したものが現れた。何者だと思う?」
含むような言い方をされても、レティシアには見当もつかなかった。
「竜王の、たった八歳の娘じゃ。性別も年齢も驚きじゃがな、人間ですらなかったのじゃ。レティシアよ、竜の娘に仏性があって、吸血鬼のお主に無い理由があろうかの?」
そう言う老人の瞳は、透き通ったように輝いていた。
「お主が信じようと信じまいと、儂は信じておるよ。じゃから、自分を粗末にはしてくれるな。糧となった命たちにも恥じぬくらいに、より良く生きなさい。他者の命が尊いように、自分の命もまた、尊いのだから」
老人はその二日後、眠るように亡くなった。六十歳という、当時の人間としては長命だった。微笑んですら見えたその死に顔を、静かに涙を流しながら、レティシアは葬った。
「多少、私がマシに生きているのだとすれば、それは彼のおかげでしょう。融通が利かないところも。私は、より良く生きたいのです。死ぬまで」
そうマダムに言うレティシアの瞳は、知った者が見ていれば、どこかその老人と似ていると思ったことだろう。マダムは、そのきらきらとした瞳を見つめた。
とはいえ、俗世にまみれて生きているという自覚があるマダムは、そのきらきらとした瞳を持つ仔を放っておくのは忍びなかった。洋館からの帰り道、黒猫の姿で、煌々と輝く月の下、マダムは思案した。鈴の中のあの小部屋には、レティシアの髪が束となって収まっている。
「吸血鬼の美しいブロンドの髪。……ヒトの仔一人を守る為だけにしては、貰いすぎですね」
そう、誰に言うともなく、つぶやいた。
レティシアの髪がショートカットになったことに光が悲鳴をあげた数日後、直哉と椿は一緒に下校していた。いまだに気まずい雰囲気の椿とレティシアを気にかけ、レティシアが朝から休みだったその日、直哉が誘ったのだった。そして、レティシアのことで何か悩んでいるのかと椿に訊ねると、返ってきたのは意外な言葉だった。
「レティ、大変な目に遭ってたんでしょ? どうすればいいかなってずっと考えてたんだけど、何も浮かばなくて」
「え、もうレティが嫌になったとか、そういうことではないの?」
「どうして?」
てっきりレティシアの過去の話を聞いて椿はレティシアのことが嫌いになるか怖くなるかしたために、二人がすれ違っているのかと思っていた直哉はそう問いかけると、逆に訊き返されてしまった。
「どうしてって、結構、衝撃的だったでしょ? 血を飲んでたこととか、人を殺しちゃったことがあるとか」
「それは、吸血鬼なんだし、普通のことなんじゃない……? 今のレティが凄いだけで」
きょとんとした様子で言う椿に、直哉は唖然とした。直哉は直接、レティシアが血を飲んでいるところは見たことが無いし、レティシアの振る舞いが想像の吸血鬼とはかけ離れていたため、彼女が吸血鬼であることはほとんど意識していなかった。レティシアの過去の話を聞いてようやく実感したくらいで、それでも直哉がその話をなんとか冷静に飲み込めたのは、人狼だったことと魔法使いに関わったことが大きかった。だから椿の気持ちを理解できるつもりでいたのだが、その実まったく理解できていなかったことを知った。椿はもちろんレティシアと人間同士のような友情を育んでいたが、レティシアが吸血鬼であることを忘れたわけではなかった。むしろ、受け入れていたとさえ言える。
「直哉の時は、レティはいろいろしてくれたでしょ? その時に、レティも辛いことがあったんじゃないかって想像はしてたんだけど、でもいざ本当にってなったら、どうしたらいいかわからなくて」
そう、しょんぼりと、椿は言った。こうなると今度はレティが不憫だな、と、直哉は思った。
「もしかして、最近なんだか二人がぎこちないのって、そのせい?」
「たぶん……意識しすぎちゃって……あと、なんだかレティにも避けられてる気がするし」
「それ、たぶん、椿が原因だと思うよ。普通は、って言っていいのかわからないけど、あの件の後に避けてるみたいにされたら、レティは椿に過去を知られたから、嫌われたんだと思うよ。おれもそう思ったし」
そう言われて、椿はええ!? と叫んだ。
「嫌うなんて、そんなわけないよ」
「それ、レティに言ってあげたらいいんじゃないかな」
不器用な友人達に苦笑しながらも、直哉は心配事が解決して安心した。
「何したらいいのかわからないって言ってたけど、これでまず一つ、できることがあったね。 レティは寂しがってると思うし、聞いたらきっと喜ぶよ」
ね、という直哉に、椿が、
「うん、そうする。明日、学校で」
と、答えた、ちょうどその時。
にゃあん、と鳴き声をあげながら、直哉の頭に仔猫が落ちてきた。
「あなたが直哉様ですねぇ!?」
違ったらどうするんだと直哉は思いながら、そうだけど、君は? と訊ねた。仔猫は雄のようだが、めずらしく三毛だった。左目を晴れた空のような青に、右目は母譲りの金色に輝かせ、えへん、と胸をはった。
「わたくしは、青空の王にございます! 我が母、月夜の奥方に命じられ、眠りし人狼であらせられる直哉様の護衛に参りました!」
「へえ、王様がわざわざ?」
「そうなのです! 大事な方だということで、特別なのですよう!」
「それはありがたいな。ところで、護衛って、どういうこと?」
「母がご依頼をいただいたのです。吸血鬼のお嬢様から。なんでも協会の夜会に参加するために、長く留守にされるということで」
あ、言っちゃった、とキングは口を閉じたが、椿はすでにキングを凝視していた。レティシアが所属する協会は、レティシアを捨てた吸血鬼が作ったものだということを思い出していた。直哉も思い至ったのだろう、キングに問いかける。
「留守って、いつから?」
「もうすぐですよ? 母が見送りに行ってます」
おどおどとした様子のキングと焦っている直哉を置いて、椿は駆けだした。
マダムはレティシアを見送るために、洋館のバルコニーにいた。変わらない様子に見えるレティシアとイリヤだったが、マダムには寂しそうにも見えた。マダムも予想していたことではあったが、レティシアは人間の友人達にやはり何も言っていないようだった。旅立つと聞いていれば、あの二人が見送りにも来ないわけがない。
「お世話になりました、マダム。そして、申し訳ありませんが、お願いした件、よろしくお願いいたします」
しっかりとレティシアは挨拶をして、すでに蝙蝠の姿に戻ったイリヤの足を掴んだ。マダムが頷くのを待ってからイリヤが羽ばたくと、レティシアの身体もふわりと浮かんだ。猫としての性で、跳びかかりたい衝動にかられたが、マダムはぐっと我慢をして、夕焼け空に消えゆく吸血鬼を見送った。そして、ふと、地上を見下ろして、椿が少し遠くから、洋館に向かって走って来るのを見た。
マダムは賭けたのだ。自分の仔の中でも陽気な三毛が、口を滑らせることを。そしてそれを聞いた人間の仔が、やってくることを。これはあくまで依頼ではなく、言わばおまけくらいの気持ちであった。そして賭けに勝ったことを知って、マダムは高揚した。異種間の友情を育むのは難しい。だからこそ、目の前にそれがあるのなら、大切にしたいと思った。
マダムは風を生んだ。風は椿の両足が地面と空気を蹴るのを手伝い、椿の身体は宙に浮かんだ。そして、椿は、レティシア達をめがけて、空を駆けあがっていった。途中でマダムを見つけ、目で礼を告げながら。
せめて、レティシアが旅立つ前に、二人には絆を取り戻して欲しいと願いつつ、椿が降りてくるときに受け止めようとしばらくマダムは待った。しかし。
「おや」
後から来て慌てる我が仔と直哉をよそに、若いわねぇ、と、マダムは息をついた。
まさか椿がそのままレティシアにしがみついていくとは、マダムも予想していなかった。
一方、空中では。
「はぁーーーーーーーーーーー!?」
レティシアが生まれて初めて、体面を気にせずに叫んでいた。空を飛んでいたら腰に友人がしがみついてきたのだから、当然である。
「こら、椿、離れろ! イリヤ、降ろせ!」
「嫌! イリヤさん、飛んで!」
負けじと椿も声を張り上げる。あまりにもうるさく叫び、しかも激しく動くので、飛んでいるイリヤにはたまったものではなく、抗議するようにキキッと鋭く鳴いたが、二人とも聞きもしない。
「ふざけるな! 遊びに行くんじゃないんだぞ!」
「だと思った! なんで勝手に行っちゃうの!? 大公とかいうヒトのところでしょ!? 行きたくないくせに!」
「呼ばれてるんだ、しょうがないだろうが! 降りろ!」
「落とせば!?」
それは、椿にしては駄々っ子のような、やけっぱちのような、しかしレティシアは絶対にそんなことをしないとわかっているような言い方だった。
「そんなに連れて行きたくないなら、落とせばいいじゃない! 私、死んじゃうけど、それでもいいんなら! 私は降りない!!」
意固地になってさらに強くしがみついてくる椿を見て、脳裏をよぎったありとあらゆる言葉を結局発せぬまま飲み込み、レティシアは盛大にため息をついた。椿はただのいい子のように見えてとんでもなくお人好しで、さらに頑固だということを思い出した。イリヤが今度は、レティシアに判断を仰ぐように、小さく鳴いた。
「イリヤ、もういい。行け」
そして、レティシアは負けた。あからさまに嬉しそうな顔をする椿に、内心で暢気なやつめ、と悪態をつきながら。
「椿、お前、私を見限ったんじゃないのか」
「血を吸ってたとかそういう話なら、当たり前じゃない? 吸血鬼なんだし」
「じゃあなんで、最近私を避けていたんだ」
「なんて言ったらいいか、わからなくて。両親が亡くなって、育ての親に捨てられて、辛かったんだろうなって思ったら……あ、嫌うとかじゃないよ」
ごめんね、と言う椿は、やはりとんでもなく、お人好しなのだとレティシアは思った。
「……辛かったことばかりじゃない。特に、捨てられてからは。後で、私を本当の意味で育ててくれた人間の話をしよう」
レティシアは苦笑――本当のところは安堵――するしかなかった。
「というか、レティだって避けてたでしょ?」
「……何となく、嫌われただろうなと思って……」
「言っておくけど、レティを面倒に巻き込んでるのは、私の方かもよ?」
「……そんな気がしてきた」
そんな会話が、この日、日本の上空で行われていた。




