何者かになりたかった
万歳、万歳と見送られて、青年は戦地に送られた。
その青年は幼いころから変わり者として見られていた。役立たずと蔑まれていた。だから、国の誇りだと言われたとき、ようやく何かの役に立てるような気がして、嬉しかった。ずたずたになり、戦地に臥した時も、ぎりぎりまでそう思っていた。戦地となったその場所に住んでいた老人が、自分を見てぼろぼろと涙を流す様を見るまでは。
「ワカル子」
お互いに理解できる言葉が少なかったが、老人は複数の言語を混ぜながら、確かにそう言った。
「オマエ、ワタシ、同ジ、ワカル子。時ガ、時ナラ。モウ遅イ。可哀ソウニ」
「うるさい」
青年は、哀れまれたことに腹が立ち、銃を抜いた。すでに弾は自決用のものしか残っていないことは、自分でもわかっていた。ただの脅しのつもりだった。
「野蛮人。その頭、帽子ごと吹き飛ばすぞ」
「オワッタ」
しかし、老人から言われた言葉に、青年の心は打ち砕かれた。
「戦争、オワッタ。ヒト月前ニ、オ前ラ、負ケタ。オ前ラ、知ラナイ。知ラサレナイ。……何故、戦ウ?」
また一粒、涙を流した老人の顔を見て……それからしばらくの記憶が、青年には無い。
通信技術が発達していなかったころには、戦況が正しく最前線に伝わらずに血が流され続けるのは、よくあることだった。伝達の漏れや誤報、情報操作など、理由はそれぞれあった。敗戦の情報ともなれば、負けを認めたくない者による隠蔽などもあった。その悲惨な事実を知るころには、青年はすでに人ならざる者へと変貌を遂げていた。
おそらくはあの戦地で出会った老人も含めて――その記憶が彼には無かったが――青年は何人もの人間を手にかけた。放浪する中で、老人が言った“わかる子”というのが、魔法使いの素質のある者の事だとわかった。しかしすでに青年は魔法使いとしてまっとうに育つためには歳を重ねすぎていた。青年は、変わり者と周りがただ蔑むことしかしてくれず無為に流れた自身の幼少期が悔しかった。だから、それからはさらに、手段を選ばなくなった。戦場の跡地に遺された魔法があれば盗み、魔法使いの墓があれば暴いた。隠遁していた魔法使いは殺し、戦火があれば駆けつけて罪を繰り返した。
青年はあらゆる手を尽くし、悲願のとおり、魔法使いとなった。しかし、幼いうちからの自然な目覚めではなかったせいだろう、気付いたころには身体は冷たく、治癒も老化もしないただの物体となっていた。それでも青年は、ぼろぼろになっていく身体を縫いとめ、眠ろうとする自分の命を叩き起こし、血の通わない冷たい四肢を酷使して、自分で自分の寿命を騙しながら、生き続けた。もはや生きる意味も、自分の今世の終わり時も、わからなくなっていた。皮肉にも、物体となった身体は、懸命に手入れさえすれば、傍目には他の魔法使いと同じ不老長寿の身体にも見えた。しかし、命の入れ物としては、やはり無理があった。
こんなところで、このままで、死んでたまるか、と、自らの名前を忘れるほど長い時を経てなお、青年は強く思っていた。
「ボクは」
ぼろぼろと崩れる身体の中で、男はその表情を絶望に歪めていた。腕をマダムに向かって懸命に伸ばしたが、その腕もちぎれて落ちてしまった。マダムは男を哀れに思ったが、手を貸そうとはしなかった。
「ボクは、まだ」
それが、魔法使いとなった青年の、最期の言葉になった。
マダムは、部屋の隅に転がっていた鈴を取り上げ、中からレティシア達を出した。瞬間の感覚の変化にふらついたもののレティシアと直哉は立ち上がり、部屋の様子から、男が倒されたことを知った。部屋には男の、色の組み合わせがちぐはぐな、ネクタイとカフスボタンが転がっていた。
「マダム、ありがとうございました」
そうレティシアが言うと、マダムは首を横に振った。
「いいえ。彼の存在は災難でした。彼自身にとっても。ようやく眠れるでしょう。見るのは悪夢でしょうけれど」
マダムは悼むように、しかし現実を知っているように、淡々と言った。直哉の表情も暗かった。
「椿」
「レティ……」
ただひとり、椿だけが、立ち上がることすらできずにいた。魔法使いについて解決した今、椿の脳内を男の言葉が駆け巡っていた。
『母の血の味は、覚えてるんですか? ニンゲン生まれの吸血鬼さん?』
椿のその様子に、察したのであろう、レティシアは、転がっていたカフスボタンを拾って言った。
「帰ったら、少し話そう。イリヤに紅茶を淹れてもらって」
レティシアは、少し寂しそうに笑った。
レティシアは、ゴードン・ヘイグという男に育てられた。彼は生粋の吸血鬼であり、住処である豪奢な館には、折に触れて西欧の吸血鬼達が集まった。彼は大公と呼ばれ、吸血鬼のなかでも最も強い権力をもっていた。館には召使として、吸血蝙蝠達が数十もおり、贄がいる牢屋もあった。レティシアはそのような環境下で幼少期から暮らしていた。彼女のその容姿は周囲の者たちを虜にし、お嬢様として可愛がられていた。ゴードンもレティシアにさまざまなことを教え、与えていた。
ただ、ゴードンがレティシアに与えようとしなかったものがある。ひとつは宗教や哲学といった思想。十字架に弱い吸血鬼達の存在から、ゴードンはそれらがレティシアの精神的な弱点となることを恐れていた。もうひとつは家族だったが、これについては、レティシアには理由を知らされなかった。ある日、レティシアが、育ての親と言ってもいいゴードンに、あなたは父親かと訊ねた時、そんなわけが無いだろうと一蹴された。では、ゴードンという男が自分にとって、何なのか。わからぬままに、レティシアは淡々と、日々を過ごした。モノに不自由はない。贄にも恵まれて、頼まなくても時間になれば食事として提供される。退屈は語学を学んだりして紛らわせた。そんな中で、レティシアは完全に吸血鬼として覚醒し、育っていった。
何十年も経過したある日、ゴードンのもとをごく近しい吸血鬼達が訪れ、夜会を開いた。そのころには大抵の行事には参加するようになっていたレティシアが、その時は外された。不審に思ったレティシアが、何の気なしに夜会の様子を盗み見たときに、その話がされていたのだった。
「おめでとうございます、大公! これでお嬢様は、あなたの地位を受け継ぐのに何の問題も無いでしょう。彼らが死んだなら、お嬢様が人間の生まれであることなど、証明する術がもう無いのですから」
「たく、脆い人間のくせに、あれから何十年も経とうというのにしつこく探りまわりおって」
「お嬢様を宿した夫婦だからと見逃してやれば調子に乗って。この家の贄にするには都合が悪くても、いっそ他家の贄にでもしてしまえばよろしかったのに」
「いやいや、レティシアが人間の生まれだということが広まって、長となったときに障害となってはいかん。何十回も話したことじゃ」
「しかし大公は本当に聡明なお方だ。いくつもの家系図を読み解き、あの時、あの夫婦にレティシア様のような吸血鬼が産まれることを予見されたのだから」
もてはやす声に、気をよくしているであろうゴードンは、普段より饒舌に語った。
「今でも思い出す。レティシアは母が怪我をしたとき、その血を舐めたのだ。間違いなく、吸血鬼としての才能の片鱗を見せておった。まだ歯も生えていない、赤子がだ。それを、愚かしいことに、あの女、隠そうとしていた。ただの、つまらない人間として、レティシアを育てようとした。儂が事前にあの家を見張っていなかったら、あやつを見つけるのがあと十年遅かったら、あやつはただの人間として生き、老い、死んでいったであろう。儂があやつを育てたからこそ、その才能が花開いた。にもかかわらず、死の間際までこそこそと嗅ぎまわりおって。不快な奴らだ」
ワイングラスに残った血を一気に煽って、ゴードンは嗤った。
「愚かしい奴ら! 年老いたくせにレティシアを探して旅をして、崖から落ちて死んだという! 子供の一人くらい諦めて、静かに暮らしていればよかったものを!」
ゴードンと取り巻きの高らかな笑い声が、レティシアには知らない生き物の鳴き声の様に聞こえた。
レティシアが初めて吸血を拒否したのは、間も無くのことだった。その時すでに何十年と生きていたはずなのに、まるで幼子のような癇癪を起こした。父も母も、存在さえ知ることのできぬまま、二人はレティシアを置いて逝ってしまった。吸血鬼として育てられたのでなければ、追いかけもしたかもしれないが、それすら叶わなかった。
それからの日々は地獄だった。何十年もかけて覚えた血の味が、拒んでも拒んでも、レティシアを襲った。血を断った反動で抑制が効かず、何人か贄を殺してしまった。息絶えた贄達を見て、父と母を思い、自己嫌悪で血を拒んでは、また繰り返す。終わることのない苦痛に、自らが死ねる方法を探してみたが、丈夫に作り変えられた身体は死ぬことは無く、レティシアはさらに苦しむことになった。
数十年後、そんなレティシアを、気が狂ったとしてゴードンは野に捨てた。自身が作った協会に強制的に所属させ、監視だけはしながら。都合よく振舞うことのできなくなったレティシアは、彼らにとってはもはや厄介者でしかなかった。
「そして、私は、あちこち放浪して、いくつかの出会いをして、ここにいる」
いつもの洋館で、いつもよりも重苦しい空気の中で、レティシアは語った。イリヤが紅茶を淹れ直す音だけが、静かに響いた。
「あの魔法使いにも言ってやればよかったかな。順調に才能を開花させたところで、必ずしも幸福なわけではないと。……直哉、お前はせめて教訓にしてくれ」
レティシアは、直哉には皮肉まじりにそう言ったが、話を聞いてもなお一言も発せない様子の椿には、ただ微笑むだけで、何も言わなかった。




