第9章 変えられない明日
暦は6月、九州地方が梅雨入りしたとみられるとテレビで言われる季節になった。
「蒸すねー、ほんと、梅雨は苦手だな」
生まれも育ちも秋田で、大学、そして医師として10年ほどを仙台で過ごしたから梅雨には慣れているつもりだったが、東京のそれは格別の様な気がした。
松田紗月は、この日曜日、冷房にあたるために、借りているアパートから地下鉄で一駅行った所にあるデパートにいた。
更心寮を退寮してから約3ヶ月。新京電設工業での仕事にも慣れ始め、彼女の社会復帰はまずは順調と言ったところだった。
「それにしても、会社選び、しくじったね」
会社での紗月の仕事は経理と奥さんの補助とお茶出しと電話番、掃除といった所だった。
給料には正直、驚いた。
会社で働いて受け取る給料は時給980円で1日8時間だから日当約8,000円で退勤時に奥さんから封筒に入れられたそれを受け取り領収証に判をつくことを出勤した日は毎日、繰り返した。
もちろん、所得税がさっ引かれた後の金額だから、紗月の手取りは約7,500円となる。会社は原則週休二日制だから毎月満度で働いて約17万円程度の収入は得られる筈だった。尤も紗月の出勤日は社長の奥さんの裁量で決められるのだ。本来は前年度の決算業務で多忙を極めるはずの4月でさえ奥さんから「お前の給料代が出ない」からといい、都合5日間、会社を休むように言われた。むろん、最初の話の通り、給料は休んだ日の分は出ない。結局、紗月は3万円以上の減収となった。
これには紗月も面食らった。
収入は減っても家賃などの支出はそれにスライドして減ると言うことはないから、紗月は結局、貯蓄を切り崩しながら暮らすことになった。
更に彼女を不安にさせることがあった。
紗月は更心寮の吉田しのぶに勧められたこともあり簿記検定を通信講座で勉強し3級に合格したのだが、その紗月からするとS社の経理に理解できないところがあった。
最初、紗月はそれを前任者のせいと単純に割り切っていた。
奥さんの姪っ子で、結婚のために今年の2月に出身の青森に帰ったというその事務員は、仕事が余程嫌いだったらしく、紗月からすると経理は正に単純ミスのオンパレードだった。だが、次第に仕事に慣れると「単なるミス」では済まされない箇所が経理簿のあちこちにあることに気がつき始めた。
とにかく会社の経理簿は複雑だった。紗月にしても簿記3級程度の知識しか無いから大きなことは言えないのだが、中にはごまかそうとしているとしか思えないような箇所もあった。極めつきは、社員の出勤簿や賃金の支払伝票、金額の大きな領収証の筆跡が限りなく奥さんのそれに似ていることだった。
尤も、紗月はここで頭を使うことを止めた。
どうせお金に困ってたどり着いただけの会社だ。傾いてひっくり返っても一切、痛痒しない、そう割り切った。
尤も、悪いことばかりでも無かった。
彼女は本名の松田紗月を名乗りたくなかった。なにせ彼女が事件を起こしたとき、マスコミや週刊誌がそれについて言いたい放題だったことは彼女より後に下獄してきた女たちから聞かされている。あれから約7年が経つが誰かが覚えていないとも限らないのだ。
会社に初めて出社した朝、事務所に社長はいなかった。今日は現場直行だという。そこで、奥さんに、自分の本心は説明せずに「田本なつき」ここでは名乗りたいといい、奥さんは、紗月が拍子抜けするほどその申し出をあっさりと受け容れた。要するに奥さんの頭の中は会社の経営で一杯だったのだ。
かくて会社で働いているアルバイトの事務員は「田本なつき」となった。
その日は朝から篠突くく雨が降っていた、紗月が奥さんと二人で会社の事務所にいるとスーツ姿の中年と若者の2人の男性が来た。彼らは2人とも会社の取引先の営業マンで、用件は担当営業マンの交代挨拶だった。
2人は専務でもある奥さんと型どおりの名刺交換をしたが、アルバイトの紗月は名刺など持っていないから、事務所の応接セットのソファに腰掛けて専務でもある奥さんと談笑する2人にお茶を出しただけだった。
来客の前にお茶をおいて、失礼します、と言って下がろうとして、新しく担当になったという若い方の客を見て思わず声が出そうになり、その客も紗月を見て大きく目を見開いた。
「吉田君、この方のことを?」
「ええ、少しだけ」
2人の様子を見た中年の先輩営業マンは横のソファに緊張した面持ちで浅く腰掛けた後輩の方を見ながら言った。
「いえ、そんなはずありません。初めてお目にかかるはずです」
紗月は若い方から視線を逸らさずに声を上ずらせながらしっかりとした口調で言った。
「田本なつきさん、ですか。今度から吉田がお世話になります ので、よろしくお願いします。」
吉田の隣に座った先輩はにこやかに言い、紗月もお盆を両手で胸の辺りに持って、よろしくお願いします、と言って下からがった。
やがて、2人は次の予定があると言い事務所を出た。
2人を送り出した奥さんは自分の席で伝票を整理していた紗月に
「おまえ、あの吉田という若い人のことを知っているのかい?」
と聞いたが、紗月は、人違いでした、他人のそら似ですね、と奥さんの方を見ようともせずに言っただけだった。
この日、紗月は仕事で小さなミスを連発して、その補正に時間が取られて少しばかり残業になってしまった。残業代は出ないからサービス残業になってしまうが、紗月は諦めた。
そして、退勤後、彼女は一人暮らしのアパートで寝間着に着替えてベッドに腰掛けた。
今日、会社を訪れた取引先の営業マンの若い方は吉田卓といい紗月が更心寮にいたころに働いてたコンビニで一緒だった大学生のうちの1人だった。
今日の吉田の様子からすると紗月のことを思い出したことは間違いない。そして、会社で「田本なつき」という偽名を使って働いていることも制服の胸に付けたネームプレートで分かったはずだった。
今、紗月の住むアパートのトタン屋根は雨粒に打たれて音を立てていた。その音を聞きながら、紗月はしばらくの間、部屋の灯りを点けないまま寝間着姿でベッドの上に腰掛けると身じろぎ一つせずに所々がクリーム色に変色した壁を見続けた。
そして、数日後、不意に吉田が紗月の働いている会社の事務所に来た。
「こんにちは、先日、言われたお見積書お届けに上がりました。」
吉田は快活な人柄をそのまま現したような爽やかな笑顔を見た紗月は、緊張した。
「こちらになります」
「お疲れ様でした」
その日、社長は他の職人達と現場に直行で、奥さんは用事で出かけていたから事務所には紗月しかいなかった。
彼女は事務所の出入り口に置かれたカウンター越しに彼から会社名の入った封筒に入れられた見積書を受け取ると軽く会釈して席に戻ろうとした。
「松田さん、更心寮の人だったんですね」
彼女の背中に向けて吉田が言い、紗月が立ち止まった。
「どうして、それを?」
「コンビニで店長の小山田さんと岸谷チーフが話しているのを聞きました」
紗月の嫌な予感は的中していた。
「それに、ここに来たとき、松田さんが田本なつきって名乗っているから、やっぱりって思った」
紗月はカウンターの向こう側にいる吉田を振り返ることすら怖くて出来ず、2人は背中越しに会話した。
「吉田さん、更心寮ってどういう所か知っているの?」
「ええ、知っていますよ。大学の刑事政策の講義で刑務所から出たけど身寄り無い人が一時的に住む施 設だって習いましたから」
紗月は吉田に言われて小さく頷いた。そして、不意に振り返ると不意に大股で歩いてカウンターに近づいて、向こう側にいる吉田のスーツの襟の辺りを掴んで
「お願い、吉田さんの会社では、そのことは誰にも言わないで。もし言いふらされて、それで、この会 社に迷惑がかかったら、私、ここにいられなくなる。ここだってやっと見つけた勤め先なの、だか ら、お願い」
と半ば涙声になりながら、彼女は吉田に大声で言った。
「安心して、僕はそんなことはしないから」
「ありがとうございます」
紗月はかれの前でうなだれて足下を見ながら言った。
「他にも誰か私が刑務所帰りって知ってる人は?」
「多分、全員が知ってると思う」
「なんで全員が知っているの?」
「佐々木さんて覚えていない?彼女、バスに乗っているときに松田さんが更心寮から出てくるところを 何度か見たんだって。松田さんは気づかなかったようだけど更心寮の近くの駅から松田さんが電車に 乗ってきたのも見たって。彼女、それを店で松田さんがいないときに言いふらしていた。」
佐々木という女の子は紗月もうっすらとだが覚えていた。コンビニで同じシフトの時はいつも紗月鋭い目つきで見る女子大生だった。
「その佐々木さんって人、なんで、私のことを言いふらしたの?」
「詳しいことは分からないけど、彼女、松田さんのような刑務所帰りの人はもっと謙虚にしてろって 言ってたよ」
「その佐々木さんが言うのを誰も止めなかったの?」
「止めるって」
「例えば松田さんが可哀想だとか、失礼だぞとか言った人はいなかったの?」
「チーフの岸谷さんは、いろいろと言ってたな」
「いろいろって、どんなこと?」
「あの人、頭悪くてとろいから刑務所に行ったんだろうって、一緒に働いているとわかるって言ってた よ」
紗月は吉田の言うのを聞いてカウンターに手をつくと両膝から崩れ落ちそうになるのをどうにかこらえた。
小山田店長にはさんざん嫌みを言われて、それを察して励ましてくれたのが、他でもない岸谷利香だった。その彼女が陰に回って紗月への悪口をあおっていたと知って、紗月はショックだった。
「佐々木さんは、今は?」
「この4月から国税専門官になったよ。今は税務署の中の学校に行っているはずです。」
紗月はうなだれたまま無言で頷いた。
その時、紗月の机の上に置かれた電話が鳴った。
「じぁ、僕はこれで失礼します。ありがとうございました」
吉田はそういうと紗月に向かって腰を折ってから事務所を出て、紗月は急いで電話に出た。
その日の夜、紗月は会社から定時で退勤して、そして、部屋に帰ると寝間着に着替えてベッドの上に寝転んだ。夕食を食べていないことも銭湯に行っていないから汗まみれのままであることも、気にならなかった。
紗月は、今日、会社で取引先の会社員となった吉田から聞かされたことを繰り返し思い出した。
紗月にしても更心寮に住んでいること、つまりは刑務所帰りということがそのコンビニで働いている人たちに知られるのではないかと思っていた。そして、その懸念は的中していたと吉田卓から教えられて、やはりショックだった。
紗月は吉田が言った佐々木という女子大生をおぼろげにしか覚えていないが、彼女と一緒のシフトになったとき、何故か紗月への態度が冷たかったことは覚えている。
紗月には彼女の何が佐々木という女子大学生に傲慢と写っていたのかが分からない。
紗月はコンビニの店員として精一杯働いた。少しの失敗はあったと思うし、例の酔っ払いの中年女の扱いには小山田店長の力を頼ったりもしたが、それでも傲慢と言われるような行いはなかったはずだと思う。もし佐々木という子と会うことがあったら、私は真面目に働いただけですよ、と言ってやりたいと思った。
あのコンビニで一緒に働いていた店員たちは皆、紗月が刑務所帰りの女だと言うことを知っていた。
きっと彼らは紗月を陰で好奇の目で眺めて、そして、後ろ指さしたり陰口を言ったりしていたに違いないと思う。
紗月は、どこかの人通りの多い場所に置かれた檻の中に首から「刑務所帰り」と書かれたプレートをぶら下げて刑務所での作業着姿でそれに入れられた自分が通行人たちの好奇の目なさらされている光景を思い浮かべて、涙が出そうになった。
刑務所で釈放が近づいた頃に受けた講義で、刑務所帰りの人間に世間が向ける視線の厳しさと冷たさは耳にタコが出来るほど聞かされた。それでも、刑務所を出てから最初に接した「世間」だった更心寮の職員はだれもが優しく、親切だった。同じ寮生だった女達とも仲良くやれたと思っている。
更心寮の職員から受けた労りや優しさも、もしかしたら、軽侮の裏返しだったのだろうか、今の会社の専務でもある奥さんの態度が冷淡なことも、紗月が刑務所帰りだからなのか、だから、紗月は奥さんから徹底的に軽蔑されているのだろかと思うと悔しさがこみ上げる。
笑顔で抱きしめて欲しいなどとは言わない、明るく挨拶することを受け入れて欲しい、並んで歩いて欲しいなどとは言わない、せめて追い立てないで欲しい、自身がそう思うことすら許されない存在になったとは思いたくなかった。
この日の夜、彼女は一睡もしなかった。そして、翌日、彼女は会社を休んだ。訳も言わずに電話で休みたいと言った彼女に、奥さんは、給料はカットだよ、と言っただけだった。
紗月は、この日、無性に海が見たくなった。だから、関東地方の地理に不案内なことなど忘れて、最寄り駅の路線案内図だけを頼りに千葉県の外房の何処かを目指して電車に乗った。
寝不足でふらふらになり、折からの暑さで朝から汗をかきながら通勤時間帯を過ぎた頃に朝にアパートを出発して目指した町の駅には午前10時前に着いた。
彼女は改札口を出ると観光案内所に立ち寄り、そこで貰った地図を見るなどして海岸を目指して路線バスに乗った。
5月も半ば過ぎとなると房総半島の野山の緑は濃く、その日の外房の海は穏やかで、その海と陸の上に薄曇りの空があった。
駅前のバスターミナルを出てから30分ほども走ると彼女を乗せたバスは海岸を走る道路に立てられたバス停で止まった。
バスから降りた彼女は濃い潮の香りに包まれた。彼女は精一杯の深呼吸で、肺の奥までそれを取り込んで、そして、急に深呼吸したものだから、むせてしまった。
彼女の目の前には広い砂浜、そして、その向こうには太平洋の大海原があった。
バスを降りてから少し経ってから彼女は貰った地図を見ながら、海の見える喫茶店を目指して歩いた。
最初に訪れた店は「定休日」の看板をドアにかけていて、窓越しに中をのぞいても無人のようだったから諦めて、次を目指して歩いた。そして、1軒目の喫茶店から10分程も歩くと海岸にぽつんと建つレストランのような建物が見えてきた。
「いらっしやいませ、お好きな席にどうぞ」
紗月が中に入ると揃いの青いエプロンを着けた初老の男女が並んで彼女を迎えた。
2人とも頭は銀髪ともいえる白髪だが、肌は桜色で年齢を感じさせず、年相応を意識して選んだと思われる洋服が彼らの人柄を現しているようだった。店の脇に2台の乗用車が並んで止められていることからすると彼らはここに住んでいるわけではなく何処かから通っていることが察せられた。
店内には5脚の椅子テーブルで囲まれた丸いテーブルが3脚置かれているほかに窓に面してカウンターが作られて椅子が10個ほど並べられていた。
紗月が店内に入った時、客は彼女1人で、迷わず窓側の席に座ると注文を聞きに来たエプロンの胸の辺りに「店長 高野」というネームプレートを付けた男性にレモンスカッシュを注文した。
喫茶店に入ったのは事件を起こして以来だから約8年ぶりだ。
平日の午前中ということもあってか、店内に客は彼女だけで、その店内には彼女が題名さえも知らない、しかし、決して耳障りではない弦楽器の曲が流されていて、彼女は潮騒とその曲の両方に耳を傾けながら凪いだ海を眺め続けた。
「お待たせしました」
さきほど店主らしい男性と並んで紗月を迎えた女性が注文されたレモンスカッシュを運んできて紗月の前に置いた。
「海はお好きですか?」
「ええ、海を見ていると何だか落ち着くもので」
紗月は笑顔で答えて、女性は、ごゆっくり、と言って彼女に向かって会釈すると下がった。
実のところ、紗月は殊更に海が好きというわけでもない。事件以前は夏になると友人達と連れだって海水浴場ではしゃいだこともあったが、1人で海を眺めている自分の姿を思いうかべると辛気くさいような気がするのだ。しかし、今の彼女には凪いだ外房の海が必要だった。
少しの砂浜には平日だからなのか人影はなく、その向こう側に広がる海は凪いでいて、漁船とおぼしき数隻の船がぽつんぽつんと海の上に浮かんでいた。ふと目を空に遣ると数羽の海鳥が舞っていた。
誰もいない砂浜と海を眺めていると不意に誰かに話しを聞いてほしくなった。
今朝、紗月はアパートの最寄りの地下鉄駅の公衆電話から更心寮の増井諒順に電話しようかと思い、受話器を持ち上げて、しばらくしてから、何もせずにそれを元の位置に戻した。
自分が起こした事件や、その後に起こったこと全てが今の境遇に繋がっている、誰にも世間の目を変える力などないと思い、だから、彼女は諒順に電話することをやめたのだった。
その彼女は、今、沖の方に視線をやった。
それにしても海は広いと思う。
高曇りの空に遮られた日の光に照らされた凪の海の上を名も知らぬ数羽の鳥が悠然と舞っている。彼女の視線を遮るものはなにもなく、ただ、波が静かに浜辺に押し寄せては砕けるだけで、それを眺めていると彼女は不意に海に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
規則正しく繰り返される波の音と濃い潮の香りに包まれながら大海原を眺めていると東京での日々の暮らしに本当に疲れていたのだと思う。
誰もいない砂浜とその向こう側にある海にこんなにも慰められるとは思ってもみなかった。
昨日、会社の取引先の従業員となった佐々木から聞かされた話しだけが原因ではないが、紗月はつくづく人間は嫌だと思った。
これからの人生に何かを期待しているわけではない。ただ事件を起こしたせいで天涯孤独孤立無援となっても誰かを恨むこともせずに、口に糊するだけのために働いたのに、それすら傲慢と言われては立つ瀬がない。この胸の内を誰にも察してもらえない寂しさが辛かった。
彼女は片方の肘をカウンターにつき頬杖をしながら、低く鼻歌を歌った。
海を眺めていると不意に辺りが暗くなった。
彼女は気がつくと更心寮で暮らしていた頃に働いたコンビニの制服を着ていた。
彼女がレジコーナーに1人でいると不意に数人の制服姿の警察官がやってきた。そして、レジカウンターを挟んで彼女に
「松田紗月さんですね、分かっていますね」
と言いながら逮捕状を見せて、別の警察官が彼女に手錠をかけて腰縄を打った。
彼女は状況がまるで飲み込めないまま暫くの間、呆然としていたが、警官達は有無を言わさず彼女を店外に連れ出した。
店の外には大勢の見物人が詰めかけて彼女がパトカーに乗せられる様子を見ながら何かを言っていた。そして、道路の反対側の歩道には涙を流した両親と兄が無言でこちらを見つめていた。
「違うの、私は何も悪いことをしていない、これは何かの間違 いなの」
紗月はパトカーの横で彼女を拘束した警察官に抗議し続けたが、彼らは無言のままだった。そして、彼女はその後部座席に押し込まれそうになった時、
「嫌だー」
と声を上げながら、立ち上がった。
目を開けてあたりを見回してもパトカーもコンビニも大勢の見物人も涙を流す両親や兄の姿もなく、あるのは窓越しに見える穏やかな外房の海だった。
彼女は夢を見ていた。
慌てて店内を見回しても客は彼女だけで、彼女の様子を見た店主達が驚いた様子でこちらを見ていた。
椅子に腰掛け直して少し落ち着きを取り戻すと全身汗まみれになっていることに気がついた。
彼女は恥ずかしさの余り赤面すると椅子に座り直して、急いで目の前に置かれたレモンスカッシュを飲み干した。
「これ、もし良ければお使い下さい」
さきぼと紗月が来店したときに出入り口で並んで彼女を迎えた男女のうち女性の方が笑顔でタオルを差し出した。
「汗でお辛いでしょう」
「ありがとうございます」
紗月は彼女から差し出されたタオルを受け取ると額の汗を拭いてから丁寧にたたんでカウンターの上に置いた。そして、忘れ物がないことを確認すると会計を済ませて、ありがとうございました、の声を背中に受けて急いで外に出た。
彼女が足早に遠ざかろうとした時、
「お客さん」
と呼ぶ声がしたので振り返ると、彼女の後ろには店主の男性がいた。
忘れ物でもあったろうかと思っていると
「これ、もし良かったら」
と言って彼は紗月に1枚の綺麗なパンフレットを差し出した。
それは地元の自殺防止団体の発行したものだった。
「僕もこの団体に関わっていましてね、うちの店にもいろんな人が来てくれるものでね、宣伝しようと 思って」
彼の人柄をそのまま現したような笑顔を見ると無碍に断ることも出来なかった紗月は
「ありがとうございます」
と言って受け取ると来ていた上着の内ポケットにしまった。
高野店長が、それでは、と言って店に戻っていき、紗月は彼と別れるとバス停を目指して歩き始めた。
その途中、彼女はふと立ち止まると再び海の方を向いた。
高曇りの空の下、水平線は沖で空と混じってぼんやりとしていて、凪いだ海には数隻の漁船らしき船影が見えるだけだった。
紗月はしばらくの間、立ち止まって海を眺めて、そして、再び、バス停を目指して歩き始めた。
今朝、彼女はアパートを出た時から分かってはいたが、こうして千葉の外房の海を眺めても、何も変わらなかった。そして、今、彼女は、あの狭くて湿気て蒸し暑いアパートに戻ろうとしている。明日になると世間の目に怯えながら会社で奥さんの横に座って働く。取り立てて不満をいうほど辛い仕事でもないし、仕事は生活費を稼ぐためにするものと割り切っている。
紗月は下獄したことで、それ以前の全てを失ったことは分かっているつもりだった。でも、釈放されてからの世間で恥をさらすことなく暮らしていくために頑張っていること位は認めて欲しいと思うのだ。
紗月がバス停について10分ほどもしてからバスが来た。
乗り込んだバスは空いていて彼女は海を見渡せる席に座った。
誰もいない砂浜や海を見て、その空白と静寂が今の彼女には酷く貴重に思えた。
紗月は駅に着くと時刻表を見て、東京にあるアパートに帰るための電車の発車まではまだ時間があることがわかり、駅待合室に行こうとして、先ほどのレストランの店長から受け取ってバッグにしまい込んだ自殺防止団体のパンフレットを取り出すとあらためて眺めた。
それに書かれた優しそうな表情をした女性のイラストには「あなたの声を待っている人がいます」という台詞が添えられていた。 紗月は駅に設置された公衆電話のところまで行くとそれに書かれた電話番号にかけようとして、そして、辛い胸中を誰かに打ち明けて形ばかりの同情と共感を得ても、世間の目を和らげることも日々の暮らしが楽になることもないことに気がついて、だから、彼女はそっと受話器を元の位置に戻した。