第8章 桜(はな)の咲く頃に
木田真奈美の死亡の件については、数日後に警察は事件性はなく自殺として処理したと更心寮に連絡してきた。
松田紗月は通告通りに2月いっぱいで協力雇用主制度に登録している三池商会が経営していたコンビニを解雇された。おかけで彼女は仕事探しに精を出すことになるが思うようには行かずに落ち込んでいた。そんな三月半ばのある日のこと、増井諒順の姿は東京駅にあった。
今日の彼女は更心寮で何時も来ているねずみ色の作務衣ではなくて、ライトグレーのスーツにスカートという、彼女にしては珍しい格好で、化粧も心なしか派手だった。
彼女は辺りを見回し、しきりに誰かを探している様子だった。
さすが日本の首都の名前を冠する駅だけのことはあり平日の昼間の人通りはおびただしく、少しでも気を抜くと待ち合わせの相手と出会えないと思われた。
「諒順さん、久しぶり」
駅舎の中で柱を背に立っている諒順に向かって片手を上げながら笑顔で諒順に近づいてくる男がいた。
彼は髪の殆どが白くなり紺色のピンストライブのスーツに水色のシャツと、それらにぴったりの柄と色のネクタイを締めていて、一見するところ、何処かの大会社の重役といった趣だが、法名を八町峻渓という僧侶だった。
彼と諒順は、古代インドの言語で仏典研究にはその知識が欠かせないパーリ語の研究を通して知りあった。諒順がその学習を始めた時期が40歳前後であったこともあって、その学識は峻渓には見劣りするが彼の謙譲な人柄にすっかり好感と信頼を寄せていた。
峻渓は大学では経済学を専攻し、そこを卒業後の就職も旧財閥系の大手商社だったのだが、大学時代に出会った仏典の研究の魅力にとりつかれ、25歳の時に家族の誰にも告げずに退職出家した。それが祟ったかして一時は特に父親とは殆ど絶縁していたが、40歳くらいの時に和解したと彼自身から聞いた。親しくなってから独身でいるわけを問うた諒順に本人曰く家族と過ごす時間よりも本を読んでいるときの方が幸せを感じるそうだから、根っからの学究肌なのだろう。そんな峻渓だから、宗派の異なる諒順ともおおらかに接することが出来るし、幾つかの研究会の役員も頼まれていた。
「今日は、お洋服なんですね」
普段は関西地方の某地の寺で住職として住む彼が、一昨日のこと、上京する用事が出来たので、ついでに会いたいと諒順に電話を寄越した。
「諒順さんもじゃないですか、僕は今日は研究会の用事で来たから、この通り」
長い時間、立ち話をするわけにもいかないので、2人は駅の中にある喫茶店に入って、ひとしきり世間話に花を咲かせた。
峻渓の研究は相変わらずで、近々、研究仲間と共同で本を出版する計画もあるそうで、寺や宗派、そして研究と忙しい日々を送っているそうだ。
「忙しいところ来て貰ったのは、実は諒順さんにお願い事があるんですよ」
峻渓が改まった様子で声の調子を変えて諒順に言った。
「私にできそうなことでしょうか」
峻渓は少しばかり不安がる諒順に優しくほほえみかけてからゆっくりと話し始めた。
峻渓の従兄弟が瀬戸内海のある島で診療所の医師として働いていた。問題はこの従兄弟が健康が優れず、医師を引退しなければならなくなったことだった。
この医師は結婚が遅く、彼の息子は未だ医学生だった。息子は十中八九、医師試験には合格するだろうが、その後も更に研修期間を終えなければ帰郷して診療所を継ぐことは出来ない。彼ははっきりと実家の診療所を嗣ぐ意思を示しているが、父親の体がそれまで持つかどうかが分からなくなってしまった。
「つまりは、これから3年から4年の間だけ診療所の医師を引き受けてくれて、息子が帰ってきたら あっさりと辞めて何処かに行ってくれる医師を探して欲しい、と言うことなんです。」
峻渓は、私も虫が良すぎると忠告はしたんですかね、と付け加えた。
1年間だけならまだしも3、4年前後も小さな島の診療所で働いて息子が帰ってきたら文句を言わず出て行ってくれる、確かに虫が良すぎると諒順も思った。
「私はこの通り坊主と学者の二足わらじで世間が狭いですしね、諒順さんなら東京にいるから私よりは 顔が広いんじゃないかと思いましてね」
言われて諒順は、一人の人物を思い浮かべたが、その時は、あ えてその名前を口にしなかった。
「そうですねぇ、私も尼僧と保護司を兼ねていますけど、正直、ご期待に添えるかどうか」
「いや、私も無理を言っていることは百も承知なんです。ただ、親戚の頼みだから無碍にはしづらく て、こうやって探したという形だけでも作っておきたいだけなんです。無理を言っていることは、お そらく先方も知っているはずだから」
目の前に置かれたコーヒーを口に含みながら道理を弁えた話しぶりに諒順は、ひとまず安心した。
その後、諒順と峻渓は再会を約束して別れ、彼女は更心寮に戻るために地下鉄に乗った。
増井諒順が八町峻渓と会っているころ、松田紗月は区立図書館にいた。
紗月はコンビニを解雇されてから寮に備え付けてある「協力雇用主」制度に登録している企業の名簿をめくって事務系の求人を出している会社に片端から当たった。とにかく退寮期限が5月末とあっては一日も早く次の職場を決める必要があったのだ。そして、この日の朝、多少は脈がありそうだった会社から、縁が無かった、という電話を受けた。その時、紗月は、表向きは、慣れたものさ、とばかりに平静を装ったが、内心は穏やかではなかった。そして、寮の自室で事務系の仕事につくために役立つと思われる資格をとるための勉強をしても、さっぱりはかどらなかった。そこで場所を変えたら少しは気分も変わるだろうと思って、ついでに運動不足の解消もかねて図書館まで歩くことにした。
この頃の紗月は何をやっても、さっぱり楽しめなかった。
寮では寮生たちのストレス軽減などのために地域の更生保護女性会会員や篤志家を招いて料理教室や美容教室などの事業を実施していて、紗月も参加しているのだが、それでも気持ちはれない。尤も、親しくなった寮生たちと話すと大抵は紗月と似たようなもののようだから、こんなものか、と思ったりもする。
紗月は、これからが不安で仕方が無かった。
どのように言葉を飾っても今の彼女は刑務所帰りで天涯孤独の中年女でしかない。それでも胸襟を開いて語り合う友人や多忙な中にもやり甲斐のある仕事があるなら良かったが、それもない。今の彼女はまさにないないづくしで、しかも努力したら見えてくるような将来を思い浮かべることも出来ずにいた。
時々、彼女は誰にも言わないが再び医師として働いてみようかと思うときもある。
よく考えると事件を起こしたときだって医師という仕事と言うよりも職場と合わなかっただけかもしれないのだ。今度は自分の馴染める職場を得ることが出来たら、案外とうまくいくのではないかと思うのだ。
そんなとき、私って本当に馬鹿なのかしら、と思う。
彼女がコンビニで働いていたとき、刑務所で一緒だった女が何人か客として訪れた。彼女たちを見たとき、紗月は心底驚いて、それは客としてきた女たちも同じことだった。
紗月が在監中も、一度は釈放されて世間並みの暮らしを営んでいたのに刑務所帰りということが世間に広まって暮らせなくなり結局は刑務所に逆戻りという受刑者たちを何人か見てきた。
紗月も事件を起こすまでは医師として働いていた。その時、つくづく世間など広いようで狭いと思うようになった。
これから医師として働くとして、患者や家族として刑務所で一緒だった女たちが自分の前に現れたときのことを考えると医師という選択肢はなかった。
その次の日の昼、諒順は紗月を第1会議室に呼び、並べた椅子にこしかけた。
「松田さん、これから言うお話、落ち着いて聞いて欲しいの」
紗月は、おや、と思った。
諒順は紗月を呼ぶときは何時も「紗月さん」と言っていた。「松田さん」と呼ばれることはめったになかった。それに、こんなに深刻な表情の諒順は初めて見た。
アルバイトの面接に落ちた腹いせに自分の部屋のゴミ箱を思い切り蹴り上げたことがばれたのだろうか、だが、あのゴミ箱は自費で買った物なのだが、などとバカなことを考えながら紗月は諒順に促されて椅子に腰掛けた。
「実はね、私が仏教の勉強でお世話になっている方がいて」
諒順は言葉を選びながら慎重に峻渓の話を紗月にした。
諒順の話を聞いていて、紗月は無表情になって、俯いた。
「どうかしら、悪いお話ではないと私は思うけれど」
紗月は机の上に置いた手を身じろぎ一つせずに見つめた。
「あの、私、2度と医師になるつもりはないと刑務所にいた時も何回か」
紗月の返答に諒順は言葉に詰まった。
確かにそうなのだ、武州刑務所で初めて教誨師として紗月と会ってからしばらくして、彼女が出所後の身の振り方について相談してきた。諒順は軽い気持ちで医師に戻ることを薦めたが、紗月は頑としてそれを拒んだ、その姿勢だけは出所後も変わっていなかった。
「そうよね、確かにそう言ってたわよね。お医者さんだった時は、つらかったのよね。」
言われた紗月は大きく頷いた。
「私は、紗月さんはお医者さんに向いている人だと思うの」
「そんな」
「紗月さん、少しだけ私の話しを聞いて。私は今まで大きな病気をしたことや入院したことは一度も無 いの。だから、親しくしている人の中でお医者さんは紗月さんだけよ。その私が言うのも変だと思う かも知れないけれど患者からすると診てもらうお医者さんには優しい人であって欲しいと思うものな のよ、私ならそうだな。私は紗月さんの第一印象は頭の良さそうな人だなってものだった。そして、 話していて優しい人だってことも分かったの。今、話した診療所のある島は小さくてね、患者さんの 殆どは高齢者だそうよ。紗月さんの優しさはきっと患者さん達に喜ばれると思うけどな」
紗月は無言のまま俯いて諒順の話しを聞き続けた。
「紗月さんはお医者さんという仕事と合わなかったのではなくて、勤めていた病院と合わなかっただけ だって考えたことはないの?」
「それは、まあ、ありましたけど」
「それなら、なおのこと、その瀬戸内海の島の診療所でお医者さんになった方が良いと思うけどな。 きっと島の人たちも喜ぶわよ」
諒順は横に並んで座った紗月をなんとか説得しようとするが、紗月は俯いたままだった。
「紗月さん、私、お医者さんの仕事なんてまるで分からないけど自信持って良いと思うよ。紗月さんが 自分の過去のことが誰かに知られることを恐れる気持ちは私も痛いほど分かるし、だから、人と接す る仕事はなるべく避けたいというのも分かる、私だって紗月さんの立場だった同じように考えたと思 うわ。でもね、これから先の人生で怖がってばかりで、それで人生を終えてしまったら空しいよ。誰 かの役に立てないまでも力になろうとして努力するって、とても価値のあることだと思うよ」
話し終えて、紗月の方をちらりと見ても彼女は俯いたままだった。
「諒順さん」
「なに?」
ようやく紗月が口を開いて、待ちかねていた諒順は彼女が自身の提案を受け入れたと思い、思わず紗月の方に向いた。
「私、医師をしているときにつくづく思ったんです、私は結局、何も出来ないって」
諒順は横に並ぶ紗月の横顔を見てうろたえ、声をかけた。
「紗月さん」
「確かに私は医師免許を持っているし、この免許を他人の役に立てるように使うべきだとは思います。 でも、結局、私は何も出来ないんです。どんなに高度で専門的な知識を駆使しても人は死んでいきま す。それに、私だって人間だからミスを犯します。機械じゃ無いんです、私は頭の悪い何も出来ない 女の子が何かの拍子に大学医学部に受かって医師免許を取ただけのことなんです。だから、嫌なんで す、人と接したり、人の命を救おうとすることが、私は嫌なんです。医師という仕事で世間の役に立 たなければならないという理屈は分かってるんです、でも、私は辛いんです、怖くて仕方が無いんで す、医者という仕事が。」
紗月は涙を流しながら支離滅裂に感情を爆発させた。
、諒順なら、あの辛い思い出しかない武州刑務所に教誨師として現れ、仏教以外の話もしてくれて、この更心寮に入るために力になってくれた諒順なら、気持を分かってくれていると思っていただけに、医師として働くことを勧められて酷く落胆していた。
「分かったわ、紗月さん、この話はなしということにしましょう」
諒順は紗月が話し終えてからしばらくして、小さくため息を漏らすと紗月に接するときは何時もそうするように優しい笑顔で言った。
しばらく無言の時間が有った後、紗月は諒順に一礼すると自室に戻った。
紗月がいなくなると、諒順は椅子にかけ直してそっと服からタバコと携帯灰皿を取り出して、一服つけた。
諒順が、今、この部屋で紗月に言ったことの殆どは建前だった。 諒順が心配していたことは、詰まりは紗月の懐具合だった。
紗月が就職で苦労していることは吉田しのぶたちから折に触れて聞かされていた。
八町峻渓の従兄弟が経営する診療所で働くと取り敢えず食べるに困ると言うことはない。
諒順は紗月は貧乏を恐れていないのだろうかと思う。
よく考えると紗月は秋田で会社を経営する両親の許に生まれて、その愛情を受けてぬくぬくと育った女だ。その彼女に、貧乏は恐ろしい、などといっても通じないのかもしれないとも思う。
諒順は仕事との相性やそれへの情熱などといったことを言うつもりはない。世の中、そんなきれい事で出来ていないことぐらいは彼女も知っている。だが、お金がなくては生きていけないか、詰まるところは泥棒でもして挙げ句の果てに刑務所行きだ。諒順が刑務所で教誨師として直に接した女達の多くは貧困に耐えかねて窃盗を働くなどして下獄していた。紗月は自分だけは例外でいられるとでも思っているのだろうかと思う。
「まだガキだな、松田紗月、30半ばにしては、ガキだな、あの女」
諒順は苦々しげに呟くとハイライトの煙を深々と吸い込んだ。そして、ふと自分の目の前に漂う煙に目を遣り、慌てた様子で窓を開けてそれを外に逃がした。
紗月は自分の部屋に戻りドアに鍵をかけるとベッドの上に横になり、丁度、ラッコの様に腹の上に両手を載せると天井を見上げた。
紗月からすると諒順の話しを聞いても、あれだけ医師は嫌だと言ったのに、だった。
紗月にしても今のままなら日を経ずして貧困に直面するかもしれないことは分かっている。それが全く恐ろしくない訳でもない。乳母日傘で育てられたことは自覚しているから、貧困に耐えられるのだろうかとも思う。だが、それでも紗月は医師という仕事が嫌だった。その何もかもが恐ろしくて仕方が無かった。事件にいたる経緯も含めて世間からすると些事であることは分かっているが、諒順さえも苦しんだ日々の辛さを理解してくれない。
紗月は私って本当に独りぼっちなんだと思い涙した。
諒順が紗月に瀬戸内海の小さな島の診療所に勤める医者になることを薦めた日の翌日の午前中、自室で資格試験の勉強に励んでいる紗月に電話があった。
かけてきたのは協力企業となっている新京電設工業株式会社という土木工事会社だった。この会社は紗月が以前、アルバイト採用の面接を受けに行って落とされていたのだが、事情が変わったとかで、アルバイトで良いなら来て欲しいと言うのだった。
その日の午後、小雨の降る中、紗月は早速、再度、面接を受けるためにその会社を訪れた。
紗月を面接した女性は会社の専務で社長の奥さんだという。
面接と言っても話は給料の説明くらいだった。
時給は980円でアルバイトだから何時解雇されても文句は言えない、給料は日払いで、他に手当も付けられない。条件は正に最低だったが、ここで断ったら次がある保障は何処にも無いので採用して貰うことにした。一つ、住む場所に困った。なにせ東京に身寄りの無い紗月だから、アパートを借りなければならないのだが、ツテがないのだ。奥さんにそのことを言うと「駅前に不動産屋があるよ」とだけ言った。
冷たい人だと思ったが、恨んでみても部屋は見つからないので言われた不動産屋を訪ねることにした。奥さんにそのことをいうと、とにかく1日も早く来て欲しいというので、3日後から出勤しますと伝えて会社を去った。
S社からの帰途、彼女は奥さんから教えられた不動産屋を訪ねた。
そこはS社の最寄りの地下鉄駅に近い、見るからに不景気な印象の小さな不動産屋だった。
「こんにちは」
金属製の引き戸を引いて中に入ると、殆ど髪の毛の無い頭で鼻眼鏡の主人が愛想笑いの見本のような笑顔と声で紗月を迎えた。
「あの、この近くに部屋を探しているのですが」
恐る恐る言う紗月に、この店の主と思しき男性は
「はい、で、どのような部屋がご希望ですか」
紗月は店の中の応接セットの椅子に腰掛けて、向かい合わせに座った主人から資料を見せられたり話を聞いたりした。
とにかく、賃料の安い部屋が希望だった、築後年数だの間取りだの周辺環境だのと言ったことを問題にするつもりは無かった。刑務所帰りと言うことが祟ってこの大東京で寄る辺ない身となった今、生活を楽しむ等ということは期待しない。正に紗月の人生は持久戦、それも別命あるまで持久せよと命ぜられて別命も補給も来ない前線将兵のようなものなのだ。
紗月は渡された資料のページをぱらぱらと捲った。
幾つかの物件が目にとまり、その中で最低価格の物件を見せて貰うことにした。
そのアパートは、この不動産屋から歩いて5分とかからない位置に在る。
主人から傘を借りて実際にそのアパートを見に行くことにした。
築後47年にして6畳1間、風呂は無くトイレは共同、台所だけは室内にしつらえてあり、これで月30,000円、東京都内で、この条件の物件として高いか安いかなど紗月には分からない。ただ、あの新京電設工業の社長夫人兼専務に「3日後に出社」と言ってしまっているから、これ以上、部屋探しに時間をかけるわけにはいかなかった。
「ここでお願いします」
紗月はきっぱりとした口調で、後ろに立った不動産屋の主に言った。
「ここでよろしいですか、ありがとうございます」
作り笑顔の主人は嬉しそうに言った。
店に戻るなり、早速、契約書の作成に取りかかった。ここで、主人と紗月との間で一悶着あった。
主人は紗月に保証人を求めた。
保証人を引き受けてくれる人など、東京はおろか仙台にも秋田にもいるわけが無かった。そうかと言って今、数時間前まで全くの見ず知らずだったこのはげ頭の商売っ気丸出しの不動産屋の主に
「刑務所帰りだから保証人は無理です」
とは言いたくなかった。
押し問答のようなやりとりを主人と繰り返した後、主人は妥協案として、家賃3ヶ月分相当額を「保証金」として前納、その他に礼金と敷金をそれぞれ家賃の3ヶ月分相当額を要求し、それが駄目なら
「余所にあたって下さい」
と言った。
紗月は、自分の立場が不利な立場にあることを思い知った。
明日、お金を持ってうかがいます、と紗月がいうと、主人は途端に、例の作り笑いと猫なで声で
「お待ちしています」
と言い、紗月に契約書を差し出したので、彼女は署名捺印した。何のことは無い、紗月は半年分の家賃に相当する金額を前納しなければならなくなったのだ。
紗月も作り笑顔で
「では、明日、よろしくお願いします」
と言ってそこをさった。そして、その足で彼女は、家具屋に向かった。
家具と言っても借りた部屋が6畳一間だから入れられる物は精々、ベッドと机と冷蔵庫ぐらいに限られるのだが。それらを中古品で済ませようとも思ったが、そもそも東京の何処に行くと中古品のベッドなどがうられているのかすら紗月には分からないから全部、新品で買うことになった。
更心寮に戻り、紗月は吉田しのぶに新京電設工業とのことを伝えた。そこでの賃金などを紗月から聞くにつれてしのぶの顔が曇った。
「もう、職探しに疲れたんです」
何か言いかけたしのぶに紗月は俯きながら呟くように言い、それを聞いたしのぶも俯くしか無かった。
翌日、退寮の手続き書類に署名捺印すると荷物を、といっても刑務所から釈放される領置品として受け取った物とこの寮に来てから買った着替えの衣服、そして、ほんの僅かな化粧品だった、紗月はまとめた。
前日は所用で出かけていて紗月から直接、新京電設工業でアルバイトに雇われたという話を聞いていなかった諒順は今朝になってしのぶから伝えられた。
諒順はしのぶの話を聞いて、落胆した。
紗月は社会をなめているとしか思われなかった。アルバイトでで働くと言うことはいつ解雇されても不思議は無いということだ。これと言って助けてくれそうな身寄りの無い紗月が、さらにそんな不安定な仕事に就くということは、諒順からすると自殺行為だった。
何故、紗月が自分の話に耳を貸そうとしないのか、紗月とはその程度の人間なのだろうか、諒順は怒りに震えて紗月の所に行った。
「あの、紗月さん、もしかして、私の言ったことを」
ジャージ姿で自室を掃除している紗月の部屋にやってきて諒順が尋ねた。
紗月は、こういう諒順さん、苦手だな、と彼女の顔を一目見て思った。
一切の表情が消えた顔で腰をかがめながら話す諒順は努めて冷静を装っていることがはっきりと見て取れた。
紗月は顔の前で自分の右手を何度も往復させて言った。
「違います、違います、ただ、ほら、私、もう35歳だから、親からも勘当されて誰も頼ることが出来な いから、だから、少しでも早く自立しなくちゃって、ここにいられるのもあと2ヶ月くらいだし、だっ たら早いほうが良いから」
「だったら、なおのこと、私の言うことを聞いて医師になることを考えられないかしら」
諒順は語気強く紗月に迫った。
「あの、諒順さん、私、自分が我が儘だってことは分かっているんです、この間のお話、断ってすみま せんでした。あれから私も色々考えました。でも、やっぱり私、怖いんです。それに私、医学の知識 を忘れてしまったんです。」
紗月は下獄してから少しして、自分の変化に気がついた。
医師として現場で習得したことや、医学生だった頃に努力して暗記した知識などを思い出すことが出来なくなっていた。尤も、その頃には釈放されても医師を続けるつもりはなかったから、気にとめてはいなかったが。
「だから、どう考えても私には無理なんです。」
紗月はいつの間にか泣き出してしまった。
「辛いことから逃げようとしてるだけなんですよね、私って。自分の弱さが悔しいです。でも、もう、 次に挫けて、また何かやったら、次はないから。恥ずかしいとか悔しいとか言っている場合じゃない んです、私って。諒順さんと初めて会ったのは、武州刑務所でしたね、私、今でも思うんです、囚人 と教誨師じゃなくて、もっと別の形で、たとえば大学の先輩後輩として諒順さんと会いたかったなっ て。」
「諒順さん、今までお世話になりました。本当にありがとうございました。このご恩は一生、忘れませ ん」
紗月は涙声に成りながら、それでも諒順の方に真っ直ぐ向き直り、腰を九十度に折って諒順に向かって頭を下げた。
「紗月さん」
紗月が姿勢を直すと諒順は紗月の両手を取った。
諒順は紗月へのわだかまりが全て消えたわけではない。彼女はあくまでも天動説だとこの瞬間も思う。そして、彼女を説得できない自分が情けないとも思った。だが、彼女なりの覚悟を諒順はその表情から読み取った。
医師という、今のこの国では安定した生活に最も近道のパスポートを自ら放棄して世を渡りきれるほど紗月が強靱な人間だとは諒順には思われない。むしろ、ひ弱な女の筈だ。だが、「医師という仕事が怖くて仕方ながない」と言い流した紗月の涙は嘘では無いと諒順は思う。
自分に医師という職業の適性が無いと言うことを自覚する紗月。だから、たとえそれが安定した生活への最短ルートと知っていても敢えて放棄することを言う。
誠実であり健気だと、今、諒順は紗月を見ていて思う。
紗月への怒りはいつの間にか静まり、同情と彼女の今後の生活への懸念が弥増した。だが、だからといって、諒順が紗月に代わって彼女の人生を生きることなど出来ない。
2人の間で賢愚優劣を問うは愚かと諒順は知った。
諒順は紗月の痩せた体を抱きしめ、その頭を撫でながら、
「紗月さん、一言だけ言わせて、無理はしないでね、親御さんとはそのうち、必ず仲直りできる、私はそ う思うの、そして、覚 えておいて欲しいの、私やしのぶちゃんや五平課長や寮の職員は皆、寮生の人 たちがここを出ても元気で暮らして欲しいと思ってる、この気持、分かってね、お礼を言うのはこちら の方よ、本当に今までありがとうございました、紗月さん」
と言った。
この日、 午後1時少し前、紗月は更心寮を退寮した。
中くらいの大きさの段ボール箱で2つ程の引っ越し荷物は宅配便で送った。
そのとき、すっきりした顔をした松田紗月の姿が更心寮の正面玄関にあった。増井諒順、吉田しのぶといった紗月と関わる機会の多かった職員や寮生たちが並んで見送ってくれた。
「では、私、これでおいとまします、長い間、本当にお世話になりました。」
紗月はバッグを手に持つと居並ぶ皆に向かって深々と腰を折って謝意を表し辞去の挨拶を述べた。
「がんばってね」
「体に気をつけてね」
「遊びにおいで」
皆、口々に紗月を励まし別れを惜しんだ。
昨年の11月、彼女は武州刑務所を満期で釈放された。少しは期待していた家族のぬくもりや労りはなく、あったのは社会復帰に向けた厳しい現実だった。それと格闘する紗月に雨露しのいで暖かい部屋と食事を提供してくれた更心寮。正直、ここにいる間、他の寮生たちを「仲間」と思ったことは無かった。皆、どこか刑務所の延長のような気がしていた。それでも、今、こうして東京の空の下、独りで人生の再出発に向けて歩み始めると、急に寮での暮らしが懐かしくなった。
弥生3月薄曇りの空の下、更生保護法人日本仏教団体連絡会更生保護会更心寮は、その日も、今一度社会に受け容れて貰おうと奮闘する女たちのひとときの宿としてひっそりと東京のまちに建っていた。
紗月は数え切れないほど利用した更心寮の最寄り駅に向かってとゆっくりと歩き、そして、立ち止まると人目も憚らず寮に向かって深々と腰を折った。
「みんな、頑張って」
紗月は、寮生と職員の皆に向かって、心の中でそう呼びかけた。
桜も盛りのこの東京で、春は人々に優しかった。