第6章 足下に枯れ葉が舞って
「おはようございいます、今日は私のためにすみません」
「おはようございます、気にしないで下さいよ」
五平総務管理課長と面談した翌日の朝の9時半過ぎに紗月は吉田しのぶ指導員と連れだって更心寮を出た。
「松田さん、一つ訊いて良いですか?」
「なんでしょう」
更心寮から最寄り駅までの道すがら、紗月の隣にいるしのぶが遠慮がちに言った。
「松田さんってお化粧しない主義の人ですか?」
「主義、ということはありませんが」
事件を起こして拘置所にいるときに母の実弟、田本剛造が差し入れてくれた紺色の地味なスーツを着込んだ紗月の顔には一目で肌荒れが目立ち唇はくすんで見えた。
「化粧品、もって無くて」
「この間のお買い物のときには?」
「シャツとか寮で着るジャージとか買ったんです。」
「化粧品も買えば良かったのに」
「無駄使いのような気がして」
紗月の言葉を聞いてしのぶは苦笑した。
紗月にしてもデパートで買い物したときに、化粧品も買おうかとも思った。
彼女は釈放後に暮らす社会で刑務所帰りの人が周囲から冷たくされる現実を他の受刑者達から問わず語りに聞かされていた。だから、どんなに綺麗になったところで、所詮は化粧品などゴミの山程度にしか思えずに、結局、何も買わなかった。
「女の子が綺麗になろうとしてもバチは当たりませんよ」
しのぶの言葉に紗月は微笑んだ。そして、2人は最寄りの駅から電車に乗って協力雇用主の三池商会に向かった。
三池商会の本社事務所についた2人は更心寮から来たことを受付で言うとすんなりと事務所の中に入れらて衝立で仕切られた一角につれて行かれた。
受付の若い女子事務員が、少々お待ち下さい、と言ってどこかにいってしまい、二人は目の前に置かれた応接セットの椅子を見下ろしながら立ち続けた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ、ここはうちの協力雇用主にもなっている理解ある会社ですから」
六谷は横に立って震えんばかり緊張して俯いている紗月を小声で励ました。
「お待たせしました。会社で協力雇用主事業を担当している小川といいます。」
スーツ姿で背が高く痩せていた眼鏡をかけて如何にも神経質そうな空気をたたえた小川は、よろしくお願いします、と言って彼に向かって深々と腰を折る二人に無表情な一瞥をくれると椅子を勧めて自分も応接セットのテーブルを間に挟んで椅子に座った。
「こちらが松田紗月さんです」
しのぶが並んで座っている紗月をちらりと見ながら言い、紗月はかたくなり俯いたまま消え入りそうな声で
「よろしくお願いします」
と言いながら頭を下げた。
「早速ですが、松田さんは殺人未遂罪で6年間武州刑務所で服役して、1週間ほど前に刑務所を出て更 心寮に住むようになったということで間違いありませんね。コンビニで働いた経験はない、これは問 題ないでしょう。心身共に健康、と。」
小川はクリップボードに挟んだ紗月の顔写真付き履歴書だけを見ながら言い、紗月は冷や汗を書きながら小川を見つめた。
「ウチのコンビニは初めは時給900円から始まります。勤務時間はシフト制を取っていますから勤務 時間帯については現場の店長の指示に従って下さい。勤務場所は××区**町の店です。ここは寮から は少し距離がありますが、地下鉄に乗れば通えるでしょう。勤務開始は明後日からということで。 店にはこちらから連絡しておきます」
小川は事務的に淡々と情を排除した声のままでいい、紗月は小川を無言で見続けた。
「こちらからは以上ですが、そちらからは何か?」
小川に言われて紗月としのぶは顔を見合わせたが二人とも質問すべきことが思い浮かばなかった。
「では、お引き取り下さって結構です。お疲れ様でした」
小川は慇懃に謝辞を述べて紗月たちに一瞥くれることもせずに席を立った。後に残された二人は余りのことに半ば呆然としたが、しのぶに促されて席をたち受付で丁寧に礼を述べると外に出た。
「気にすることはありませんよ、松田さん」
しのぶは横を俯きがちに歩く紗月に声をかけて、紗月も、はい、と答えて、それきり二人は更心寮につくまで無言だった。
寮に着くと紗月は引率してくれたしのぶに丁寧に礼を述べてから自室に入り、例の濃紺のスーツを脱ぐと部屋着のジャージにTシャツを着て、乱暴に椅子を引くと腰掛けて、机に向かった。
さきほど三池商会で会った小川という男の顔が繰り浮かんでは消えた。
不愉快な思いなど刑務所で味わい尽くした。侮辱されたことも夥しかった。だから、それらのことには慣れたつもりだった。だが、あの小川ほどにはっきりと優越感を現す輩に刑務所の外で会うことになるとは思わなかった。
紗月ははらわたが煮えくりかえる思いがして、そして、惨めだった。
しばらくの間、目の前壁を無言で眺め続けた紗月は天井を見上げて大きくため息をついた。
そして、その翌々日のこと。
紗月は一番乗りで食堂で朝食を取り終えると自室に戻って化粧した。
一昨日、三池商会で酷く不快な思いをした後、寮に戻ってから化粧品などを買うために出かけた。予算は5,000円以内と決めていたから買った化粧品はどれも聞いたこともないメーカーの製品に限られたが、それでも最低限、必要な物は買うことが出来た。
「お化粧って、どうやるんだっけ、忘れちゃったな」
小さい手鏡をのぞき込むようにしながら、紗月は化粧を始めようとして、手を止めた。
刑務所でも買い物は出来る。代金は刑務内作業報奨金として支給される金銭で支払われるのだが紗月は化粧品は無駄遣いと思って買わなかった。
6年ぶりの化粧は、出来映えを褒めてくれる人などいないことは分かっていても心が浮き立った。そして、彼女のくっきりとした目鼻立ちの整った顔は化粧で映えた。
翌日の朝のこと。
「いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけて」
更心寮の玄関で自分の名前が書かれた木札を裏返すと小窓から中にいる職員に挨拶をして外に出た。
紗月は少しだけ歩いて立ち止まると深呼吸しながら、青く澄んだ空を見上げた。
大学を出てから事件の時まで医師として働いた。懲役として刑務所でも働いた。だから、働くと言うことに何の感慨もない。客商売について行けるのだろうかと思うと俯きそうになるが、ここで挫けてはずるずると後退して、終いには刑務所に逆戻りになりそうな気がする。
頑張ろう、そう思いながら、紗月は最寄りの地下鉄駅を目指して歩き出した。そして、地下鉄を降りて、昨日、三池商会で帰り際に受付で渡された略地図を片手にしばらく行くと目指すコンビニについた。そして、カウンターにいた若い女子店員に
「今日からこちらでお世話になる松田という者ですが」
と言うと酒類コーナーで何かをしていた30歳前後の制服姿の男の店員がやってきて、いいよ、と言って紗月をバックオフィスに連れて行った。
「僕はここの店長を任させている小山田です。社から連絡は受けてるよ。あんた、更心寮の人なんだっ てね。ウチには前にも更心寮の人がいてね、仕事は覚えないし文句は言うしで困ったよ。こっちは頼 まれて雇ってやってるってのに、全然、分かってなかった。あんたも同じだったら直ぐに辞めてもら うからね。」
小山田は紗月を連れて入ったバックオフィスで彼女と向かい合わせになると両腕を組んで低くて良く通る声で言い、その一言一言が紗月に刺さり、彼女は彼の冷たく鋭い光をたたえた目を直視することが出来なかった。
小山田は、しっかりやってよ、と言いながら店内に戻っていき、紗月は彼から渡された店の制服を手に持ったまま呆然として立ち尽くした。
ほんの僅かな間、そこに一人でいた紗月は、こうしてはいられないとばかりに制服に袖を通すと店に出た。
後から分かったことだが、このコンビニは三池商会の社員は小山田の他にもう一人、岸谷という女性がいて、他の店員は皆、紗月と同様にパートかアルバイトだった。この日は岸谷は休みを取っているが、明日は出勤すると言うことだった。店長の小山田は他にもコンビニを任されているから、実質的には岸谷が店長のようなもので、他の従業員のシフト管理や本社との事務連絡なども彼女が仕切っていた。
紗月にしても初対面で恩着せがましいことを言う小山田と毎日、顔を合わせなくてすむのは嬉しいが、もう一人の岸谷という女性のことが気になった。
そして、この日はシフトに従って出勤した大学生と交代して午後3時過ぎに寮に戻り、玄関の壁に掛けられた木札を返して小窓から職員室に
「松田紗月、ただいま戻りました」
と言って、自室で部屋着に着替えて浴室に向かった。
更心寮の浴室は2人が同時に入浴出来るように作られているが、この時は紗月以外に誰も入浴者がいなかった。
紗月は洗い場で髪を入念に洗った後に、浴槽の中で膝を抱えるようにして湯につかった。
彼女は丁度良い暖かさのお湯に満たされた浴槽の中で、目を見開き全身を強ばらせたまま小刻みに震え続けた。
彼女は今日、コンビニであったことを思いうかべた。
特別なことは何もなかった。
生まれて初めてのコンビニ勤めだから仕事は一から教わったが、それでも大きなミスはなかったはずだった。
ただ、人が怖かった。大勢の見ず知らずの人たちが客としてやってくる。その客達の何に怯えているのかが分からないのだが怖いと思い続けた。
いつからこんなにも人を恐れるようになったのかは分からない。学生時代や医師になった直後は結構、他人と上手くやれてたはずだった。それなのに、今日はコンビニの店内に客が入って来る度に少しだけ体に力が入って、お陰でくたびれた。
浴槽の中で小刻みに震えて表面に小さな波紋ができた。その様子を見ながら、それでも彼女は今のコンビニ勤めにしがみつく意外に途はないと思った。
彼女は浴槽から出ると洗い場の鏡で自分の顔を見た。
それに写ったの頬にはくっきりと涙の跡があった。
この顔を誰かに見られてはならないと思い、彼女は体を洗うこともそこそこに浴室から出ると手早く服を着て自室に戻って薄く化粧をして夕食の時間を待つことにした。
紗月は自室の目の前のクリーム色をした壁を見つめながら、私は刑務所帰りだもんね、と自嘲した。
30代も半ばになって、他人が怖いなどといって誰かに泣きつくような真似はしたくなかった。それに、在監中、釈放後は辛い日々が続くことも少しは覚悟していたはずだと自分を叱咤して、そして、彼女は深くため息をついた。
翌日、紗月が決められた時間に出勤すると昨日は休みを取って不在だった岸谷が出勤していた。
「おはようございます」
「おはようございます。昨日からこちらでお世話になっている松田紗月です」
「会社から聞いています。私、ここのチーフになっている岸谷利香です。よろしくね」
レジの所に1人でいた岸谷に挨拶してからバックオフィスで着替えた紗月は早速、店に出ると岸谷から指示された通りに働いた。
このコンビニの近くには大きなオフィスビルが建ち並んでいて、昼時ともなると結構な利用客が訪れた。紗月も他の二人と一緒になって働いて、一息いいた時には午後1時を過ぎていた。
「松田さんて、更心寮の人なんだってね」
アルバイトの女子大生が食事を取るためにバックオフィスに入って紗月と二人でカウンターで並んでいると岸谷利香が店内に顔を向けたまま小声で言い、紗月はドギマギしながら小さく頷いて俯いた。紗月が彼女が次に何を言うのだろうと思い身構えたが、利香は何も言わずに彼女に握手を求めただけだった。
「怖がらなくて良いよ、ウチには前にも更心寮の人が来たことが あるし。小山田は嫌な奴だけど毎日いる訳じゃないしさ」
岸谷利香はそういいながら紗月に笑顔を向けて、それを見た紗月少しだけ安心した。
暦は進んで1月になった。
松田紗月が半年間の期限で仮の宿を求めた更心寮でも玄関先には小ぶりながらも新年を祝う松飾りが付けられたりした。
紗月は他の寮生達がそうであるように年末年始も寮で過ごした。それだけでなくパート先のコンビニでの仕事も積極的に引き受けた。
そして、1月も半ばを迎えたある日のこと。
紗月が勤勉だとはいっても、さすがに1ヶ月以上も土日返上で正月休みさえも取らずに働いたとあっては疲れていて、コンビニでチーフになっている岸谷に休みが欲しいとというとあっさりと認められて、平日のこの日、紗月は寮で1日を過ごすことにした。
寮の談話室はほどよく暖房が効いて快適だった。
紗月は、その談話室の図書コーナーの本棚で面白そうな本を選んでいた。なにせコンビニで働く以外に収入の途が全くない彼女からすると支出は必要最低限のみのしか許されず、当然、暇つぶしで読む本など買うわけにはいかないのだ。
「こんにちは」
紗月が唯川恵の書いた小説を手に取ったとき、彼女に声をかけた女がいた。
「こんにちは」
紗月は振り向いて声をかけてきた寮生を見つめた。
「524番だった松田紗月さんよね。私のこと、覚えてない?。281番だった木田真奈美。武州刑務 所で同じ縫製工場で働いていたでしょ」
同じ縫製工場で働いていた、と言われても沢山いた女達の中で誰かを覚えていることは容易ではない。
「すみません、私、ぼーとしてて覚えて無くて」
「あやまることは無いわ、私も刑務所の中で会った人なんて忘れてる方が多いから。ただ、何となく松 田さんのことを覚えているだけよ。松田さん、仮釈放の期間は何時になったらあけるの?」
「私、満期だったから。木田さんは?」
「あと1ヶ月半てところかな」
彼女は紗月を見ながら微笑んだ。
木田真奈美は、すわりませんか、と紗月を誘い、紗月も言われるままにテーブル席についた。
「唯川恵が好きなんですね」
真奈美は紗月が手に持った文庫本を見ながらいった。
「刑務所の図書室でよく読んでいたんです。」
紗月はテーブルを挟んで向かいあわせになった真奈美の持った本を見た。
「歎異抄ですか、難しい本を読むんですね」
言いながら紗月はあらためて木田真奈美を見つめた。
彼女は紗月より少し年上の様だったが、少しばかりの白髪を含んだ髪は肩の辺りで揃えられて、全くのすっぴんと一目で分かるがだらしない印象はみじんもなくて、紗月をしっかりと見据える両目は強い光をたたえ、言葉遣いは丁寧だが声音は落ち着いて聞く者を引きつけた。
「これを読むと心が落ち着くのよ。善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、とかね」
真奈美は手にしたそれを見ながら言った。
「松田さんって、今、どこで働いているの?。」
「××区の**町のコンビニです。木田さんは?」
「私は新宿の居酒屋のホールスタッフよ。」
「大変そうですね」
「うん、大変。酔っ払いのお客は本当に我が儘だし、スタッフの中には意地悪な奴もいるしさ」
「私のところも同じです」
紗月は言いながら、勤めているコンビニのことを思いうかべた。
「私、本当は事務系の仕事に就きたいんてすよ」
「私も一緒です」
「でも、前科が引っかかるらしいのね、だから、どこの会社のだめで、結局は居酒屋のホールスタッフ なの」
真奈美の言葉に紗月も深く頷いた。
「あの、木田さんは自分が前科持っているってことは職場で知られているのですか?」
紗月は今、一番気にしていることを木田真奈美に聞いた。
紗月は、今のところ、紗月は自分の過去が同じコンビニで働く他のスタッフに知られてはいないと思う。だが、それが誤解ではないと言い切る自信もなかった。
三池商会の担当の小川や店長の小山田が紗月の知らないところで彼女の過去を公表していたら、そして、それを聞いた誰かが来店客に言いふらしていたらと思うと、その羞恥地獄に耐えられそうもなかった。
「知られてるよ、だって、店長が開店前の夕礼のときに、みんなの前で、協力雇用主制度でウチで働く ことになった木田さんですって言ったもの。あのときは、さすがの私も、なにもここで言わなくても 良いのにって思って、泣きそうになったよ、それに刑務所で私と顔見知りだった人が客で来たこと あったしね。でもね、誰も私の前科なんて気にしていないんじゃないかな。そもそもあそこで働いて いる人はパートやアルバイトばっかりで入れ替わりが激しいからね、他人の過去なんて誰も気にして ないって」
紗月は真奈美の淡々とした口調に一驚した。
「諦めるしかないんだよ、私たちって、世間では一生、嗤い者にされるようになったんだもん」
「でも、それって、辛いよね」
紗月の言葉に真奈美は大きく頷いた。
「ところで、松田さんは、年賀状は?」
紗月は不意を突かれて曖昧に首を横に振った。
「私も一緒。折角、家族に書いたのに」
「ご家族に書いたの?」
「書いたよ、でも、向こうからは1枚も来ない。松田さんは書かなかったの?」
「私、刑務所にいたとき家族とかに手紙書いても、一度も返事が来なかったから。もう駄目なんだって 思ってて」
二人とも、それきり俯いて黙った。
「私たちの様な女って、家族の前から完全に消えてあげるのが、多分、あの人達への最後の思い遣りな んだよね」
「そんな」
真奈美の言うことを聞いて紗月は何かを言いかけて、そして、俯いて沈黙した。
「さて、私は部屋に戻って一眠りするわ、今晩も仕事だしね、またね」
真奈美は紗月に微笑みながら席を立つと談話室を出て行き、紗月は黙って見送った。
そして、数日後のこと
「おはようございます」
その日の紗月は午後4時から10時までの勤務だった。
店ではチーフと呼ばれる岸谷の他に2人の店員が働いていて、その人たちもシフトに従って6時を過ぎた頃には、お疲れ様でした、という声を残して去って行った。
紗月は店で同僚として働いている人たちのことを名前以外は何も知らない。この店に入ったときも歓迎会のようなものもなく、同じシフトで働いている同僚達とも仕事のこと以外は話す機会もない。仕事中は私語を慎むように言われていることもあるが、店員同士の距離があった。紗月にしても自分の過去が知られては困るから、よそよそしいことがかえって好都合ではあるのだが、こんなにも皆が他人との間に壁を作らなくても良いのにと思ったりもした。
その日は土曜日で、紗月はあの小山田店長と一緒のシフトになってしまっていた。
そして、夜の8時を少し過ぎた頃のこと。
彼女が店長と2人でカウンターにいると先ほど買い物をして出て行った中年は過ぎたと思われる女性の客が、顔面を紅潮させて店に入ってきた。
明らかに酒によっている彼女は近所の住人で、この店ではお得意様だと彼女はいう。
その物腰といい、言葉遣いといい紗月たちに優越感を丸出しにするこの女は、さきほど買い物した際に釣り銭をごまかされたと酒のせいでろれつが回らない口で何回も言った。
彼女の買い物を精算したのが紗月で、だから彼女は女の申出に説得力のある反論を柔らかい口調に笑顔を副えてするが、それが彼女の怒りを煽り、しまいには整備不良のトラックのブレーキ音のような女声が店中に響いた。
たまたま側にいた小山だ店長が彼女の機嫌をとりながら何とか事情を説明して理解を促し、その酔っ払いの中年女も多少は理性を取り戻して、小山田の説得に納得した様子で、どうもねー、と言い残して店を出て行った。
女の背中を見送りながら、これだから人間相手に働くのは嫌なんだよと胸中で呟く紗月を店長がバックオフィスに呼んだ。
「あんた、ガキと一緒だね」
店長は眼鏡の奥から明らかに苛立ちの光りを湛えた目で紗月を見つめながら言った。
「少しは頭使えよ、いい年なんだろう」
慰めなど期待してもいないが、こうもあからさまに侮辱されると紗月も頭に血が上る。
反論しようと思って口を開きかけたとき、店に来客を知らせるアラーム音がなった。
「辞めるなら何時辞めても良いよ、代わりはいくらでも居るんだ からさ」
店長はそう言いながら、店に出て行った。
結局、紗月はこの夜、定時に小声で、お疲れ様でした、と言い、更心寮に帰った。
寮の正面玄関は夜7時で閉じる規則になっていて、職員室も常夜灯の薄暗い灯以外は全て消されていた。
彼女は裏玄関から入ると出かける時に裏返した木札を表にして自室に入った。
「あーあー、だね」
結局、私の人生、これの繰り返しだよと紗月は思う。
医師だったときも、釈放されて世間で働き始めた今も、理不尽なクレームに神経をすり減らさなければ生きていけない。
どこかに、余り他人にかかわらずに、それでいて、そこそこ収入が得られる仕事はないだろうかと思う。
考えてみると紗月のこれまでは「嫌なことしかない人生」だった。
他人の嗤い者になることが嫌で、家族に見捨てられることが嫌で、世をすねたような生き方が嫌で、だから、嫌なことを避けるためにひたすら努力してきた。高校生の時の河北大医学部合格を目指して努力していた頃の自分を思い浮かべると我ながら感心する。
紗月の高校時代の担任は、仕事は人生を楽しむ殆ど唯一の方法だと言い紗月も表面では担任の考えに頷いて見せたが、内心は違っていた。
彼女にとって仕事とは苦しむことだった。
実家の父も、紗月より学齢で七つ上で紗月が高校生だったころ既に東京で裁判官になった兄も仕事は大変だと言っていた。親戚中を見回しても仕事を楽しんでいる人を紗月は知らないで育った。唯一の例外は画家となった父の従兄弟の息子で、この人は年収が限りなくゼロに近く、親のすねかじりに徹していて、だから、彼は仕事を楽しんでいた。
紗月の父、正幸は会社の社長ではあっても決して会社経営を楽しんではいなかった。家族ならそれは分かることなのだ。
あれは紗月が大学4年生の年の秋口のことだった、正幸から食事に誘われたことがある。秋田県の経済団体の用事で東京に出張した帰途、仙台に1泊することにしたので食事でもと言うのだ。
紗月はその日、おしゃれして正幸と仙台駅で落ち合って、紗月が予約した仙台市内でも一、二を争うホテルのレストランに連れて行ってもらった。
店内の調度品も従業員の物腰もピアノの生演奏のBGMも全てが高級感を醸し出すための演出だった。
「ここ、よく来るのか?」
父が席に着くと向かい合わせに座った娘に尋ねた。
「まさか、ここ、凄く高いんだよ、私のような大学生にはとても、とても」
しばらくして2人は注文したワインで乾杯し、料理を食べた。
「珍しいね、お父さんから誘ってくれるなんて」
「去年はお前が一度も帰ってこなかったからな、顔を忘れられても困ると思ってさ」
「忘れるわけないじゃない」
父の冗談に娘が楽しそうに笑った。
「医学部の勉強、忙しいのか?」
「うん、今も大変だけど5年生になったら病棟実習が始まるしね、もっと大変になるみたい、でもね、 人の命を預かる仕事だから、これくらいで弱音は吐けないよ」
父は娘の答えに微笑んだ。
「紗月、父さん、65歳になったら仕事辞めようと思ってるんだ」
四方山話がつきて、2人が黙った頃に、正幸が真剣な面持ちで紗月に言った。
「辞めて、何するの?」
「決まってるだろう、写真家デビューだよ」
これより2年前、紗月が大学2年生の夏休みに帰省した時、母が所用で外出していて、珍しく父と2人で酒を飲んだことがあった。
紗月は酒の酔いに任せて父がかつて抱いた夢などについて尋ねた。
成人した娘相手に隠しても詮ないと思ったかして正幸は饒舌に来し方を語った。
正幸は父の貞幸と折り合いが悪く、当人が言うには口も利かない間柄だった。その貞幸と正幸の実母のイセが、正幸が31歳の旧正月に帰省した折に彼と既に結婚していた眞知子を家の仏間の上座に据えて、夫婦して畳に額をこすりつけるようにして正幸に家を嗣いでくれるように頼み込んだ。それまで折り合いの悪かった父の突然の変貌に正幸は面食らったが、1時間以上に亘る声涙降る両親の説得に、ついに了承した。尤も、妻の眞知子は実家が松田家と同じように地元では有名な会社を経営する田本家だから、正幸と結婚したときから何となくこんなことになるだろうと思っていたと大分、後になってから正幸に言った。
正幸は大学生だった頃、風景写真家になりたかった。秋田にも写真の優れた素材は沢山あるが、彼が撮りたいと思った景色は外国のそれだった。だが、それは建前だったかも知れないという。本音は、会社の経営に興味が持てなかったのだ。それも、その会社グループを経営する松田一族の本家継嗣に生まれたという自分の運命から逃れたかっただけかもしれないと正幸は酒で頬を染めて紗月に言った。
今日びの65歳なら十分、体力がある。体と相談の上だが、1日も早く嫌いな社長職を退いて好きな写真に打ち込みたいと言う父の、未だかつて見たことの無い輝いた顔に娘は否とは言えなかった。
「お父さん、なんで今まで働いてこられたの?」
父の話が終わり、しばらく間を置いて娘の発する余りに真正面からの問いに父は答えに詰まった。
問われて、しばらく間の後、言葉を選び終えた父は口を開いた。
「意地、かな」
「意地?」
多くの従業員や取引先を抱える会社グループを経営する松田一族の本家継嗣に生まれたという自らの運命から逃げ出すことだけはしたくないという意地が全てだったと正幸は言う。
「お父さん、いままで、ありがとう」
選んだワインのアルコール度が強すぎたかして酔いが回った娘は俯いたまま、父に言った。
「なんだ、どうしたんだ、急に」
「私ね、お母さんから聞いたの」
いつのことだったか、紗月は母、眞知子から、父の経営する会社に経営危機があり、紗月が中学校1年生から高校2年生までの間、正幸は会社の建て直しのために神経をすり減らしていたと聞かされた。あるときなど、紗月が家族で住んでいた家の土地と建物が抵当に入っていたという。
「僕も辛い時期はあったよ、でもね、ここで逃げ出して無様なことにはなりたくないって思ったんだ、 それだけだよ」
「僕よりも能力もあって努力している人でも事業に失敗した例を僕は幾つも見ているからね、僕は運が 良かったんだと思うよ」
歯を食いしばり拳を握りしめて自らの運命に果敢に立ち向かい切り開いてきた父。「仕事を楽しむ」だの「仕事を通しての自己実現」だのといった当世風の尾ひれ羽ひれは全くなく、玉砕覚悟で突き進み手にした成果を僥倖という父の表情に建前を読み取ることを娘は、しなかった。そんな父の姿を紗月は間近で見続けた。だからなのか、何時の頃からか、紗月は働くことは苦しむことだと思い込むようなった。紗月が、ぼろぼろになるまで医師という仕事にしがみついたのも「仕事とは苦しむこと」と思い込んで、どんなに苦しくても周囲に助力を求めようとしなかったのは自分が苦しみから逃げる惰弱な人間と認めたくなかったからに過ぎない。
泣きながら彼女はため息をついた。
辛い胸の内を聞いてくれる人も、貧困から助け出してくれる人もいるはずのない刑務所帰りの三十五歳の女。だから今は、とにかく日銭を稼ぐために働こう、私にはそれしか出来ないと紗月は思う。
逃げちゃ駄目だよと自分を激励し、一方で、逃げはしないけど少しは休ませて欲しいとも思う。悔しさと悲しさがない交ぜになった思いは鬱屈し、その夜、紗月は久しぶりに泣き明かした。
紗月は、結局、コンビニを辞めなかった。
紗月が更心寮の寮生になったのが去年の11月末頃で、今年の5月末頃には退寮期限を迎える。今、ここで短気を起こしてコンビニを辞めてしまったら収入を得られるようになるまで時間がかかるかもしれない。そして、殆ど貯金がないままに世間に放り出されたら、それこそ日干しになってしまう。紗月の係になっている寮の吉田しのぶ指導員のいうことには寮では半年の滞在期間延長という制度もあるようだが、それを受けてとどまりたくなるほど更心寮に魅力を感じていなかった。
次の日、紗月は午前8時からのシフトに合わせて出勤した。
寮の玄関を出てふと立ち止まり、空を見上げると一面が雲に覆われていた。
弱い風に吹かれながら立ち止まって空を見上げて、そして、紗月は小さくため息をつくと地下鉄駅に向かって俯きがちになりながら歩き始めた。その彼女の足下では数枚の枯れ葉が舞っていた。