第30章 さなぎだに1人
暦は進んで3月となった。
松田紗月の母方の叔父の田本剛造夫妻が思いがけず秋田から彼女を訪ねてきて、自分が起こした事件以後の実家の家族のことを聞き、それからしばらくの間、田中事務所から帰ると庫裡の自分の部屋に閉じこもって泣いていた。紗月の気持ちを推した順照は、そんな彼女に何も言わなかった。
2月一杯で9ヶ月ほど働いた田中事務所を解雇されて、紗月は仕事探しの難しさには閉口していた。
そんなある日のこと。
「紗月、お客さんだよ」
自分の部屋でぼんやりとラジオを聞いていると順照が呼びに来た。
誰だろうと思いながら茶の間に行くと冬木燃料販売株式会社の会長夫人の冬木咲子がいた。
「おばんです、冬木です」
来てきたアノラックをきちんと畳んで足下に置いた彼女は茶の間に来た紗月を見ながら笑顔を浮かべて、紗月も愛想笑いをした。
「冬木さんの奥さんが紗月に話があるそうだよ」
紗月の隣に座った順照が彼女の方を見ながら言った。
「松田さん、前に会った時、経理の資格を持っているって言ってなかったっけ?」
「簿記の2級を持っています。」
「他には何か無いの?」
「秘書検定の2級も取りました。あと一太郎もワードもエクセルも出来ます」
紗月は咲子の目の動きと話し方に何かを感じて思わず早口になった。
冬木咲子が言うには彼女の夫の冬木義雄が会長を務める冬木燃料販売株式会社で長年勤めていた経理のベテランが退職してしまった。今のままではどうしても人手が足らないので後釜を探しているのだった。
「松田さん、どうかな?」
紗月は隣に座った順照と顔を見合わせた。
「お願いしてよろしいのですか」
「私が決めることはできないから、明日、会社に来てよ」
言われて紗月は息をのんだ。
「私、前科者なんです」
紗月は少しの間を置いて冬木咲子を見ることも出来ずに俯きながら言った。
「紗月、お前」
「良いんです、順照さん、隠しておけることではないと思うから。冬木さん、私、今も言ったとおり前 科者なんです。馬鹿な事件を起こして28歳の時から6年間、本州の刑務所にいました。その事件は インターネットで見ることが出来ます。そんな私でも雇って貰えるのですか」
紗月が言うのを聞いて、冬木咲子は驚いて順照を見つめた。
「この子の言うとおりなんです。東京の知り合いから、この子を預かってやって欲しいって頼まれて、 それで。でも、冬木さん、この子は本当によい子なんです。虔陵院で一緒に暮らしていて分 かりました。この子は掃除や洗濯はこまめにするし、本当に気持ちの優しい子です。この子の親兄弟 はもう誰も生きてはいません。皆、死んでしまいました。この子は今、独りぼっちです。私も間もな く釧路からいなくなるから、この子がもし釧路に残っても独りぼっちなんです。でも、この子なら やっていけると思います。」
順照は真っ直ぐに咲子を見つめながら静かに言った。
「私は中学校卒業して直ぐに水産加工場で働いたくらいの学問のない女だからさ、人を見る目だけは 失わないようにしようって、それを無くしたら生きていけないって思ってきたんだ。松田さんとは 町内会の親睦会の時とか檀家の集まりの時とかに会って、いい人だって思ったんだよ。それに、 今、 順照さんから聞いたけど昼間はパートで事務の仕事をしていたのだってね。だったら、なおの こと、うちの会社でほしがると思うよ」
咲子は言いながら、自分の向かいに座って小さくなって俯いている紗月に笑顔を向けた。
「前科があるとは知らなかったけど、でも、それが松田さんの全部では無いでしょ。とにかく、面接だ けでも受けてみたら?」
「よろしくお願いします」
こうして、紗月は冬木燃料販売の面接を受けることになった。
この後、咲子は順照たちと少しばかり世間話をして庫裡を辞去した頃には時計は午後9時を少し過ぎたところを指していた。
「お前にはびっくりしたよ」
2人だけになった庫裡の食卓テーブルに向かった紗月に温いお茶を置いた順照が呆れたような口調で言ったが、目は笑っていた。
「一番大事なことを冬木さんに言うなんて」
「隠しておくことには疲れたから」
「もし冬木さんがご近所さんに言いふらして、釧路にいられなくなったらどうしようって思わなかった の?」
「その時はその時だって。そうなったら、とりあえず島根辺りのコンビニあたりで働こうって。」
「なんで島根なんだい、それにずっとコンビニかい?」
「とりあえずです、そして、お金を貯めて何かをします」
「何かって、何を?」
「それが分からなくて」
順照は紗月の言うのを聞いて、苦笑した。
そして、翌日の昼頃に2人が庫裡にいると冬木咲子から電話があって、紗月に明日の午前10時に事務所に来て欲しいと言った。
紗月は電話に出て分かりましたと言った。
そして、冬木咲子が紗月に夫が経営する会社で働くことを勧めた翌々日のこと、彼女は言われた時間より10分ほど早く冬木燃料販売株式会社の事務所についた。
彼女と面接したのは会社の会長の冬木義雄、社長で会長の長男の冬木義久、そして、板部という専務だった。
紗月は事務所の奥の応接室に通されて3人と向かい合った。
3人がそれぞれに紗月に質問して、彼女はよどみなく答えた。特に板部専務は彼女のパソコン操作の腕前を気にしていて、彼女がそれを使って簡単な文書を作成すると満足げにしていた。
こうして面接は1時間ほどで終わった。結果は電話でお知らせしますと言われた。
紗月が庫裡に戻ると茶の間にいた順照が慌てた様子で玄関まで迎えに出て来た。
「どうだった?」
「よく分からなくて。結果は後から連絡しますって言われたけど」
「お前が前科者だってことは?」
「そのことは誰にも聞かれませんでした。」
「そうかい」
紗月は玄関で立ったまま順照に何とも言えなかった面接の印象を言ったが、内心では少しは手応えのようなものを感じていた。
そして、その日の午後5時過ぎ、庫裡に1本の電話があった。
相手は昼間に紗月を面接した冬木燃料販売の板部専務だった。彼は電話で、アルバイトで良ければ4月から来て欲しいと言った。
紗月は電話口で、よろしくお願いします、と言って受話器を置いた。彼女の傍らには嬉し涙をこらえる順照が立っていた。
暦は進んで4月の末頃となった。
この日も春先の釧路の例に漏れずに釧路の町は濃い海霧の底に横たわっていた。そして、その天候のなかにあっても、カテゴリー3Aという日本国内の空港では最高水準の電波誘導設備を備えたたんちょう釧路空港では順調に飛行機の離発着が行われていた。
松田紗月が冬木燃料販売の事務所でアルバイト従業員として働き始めて1ヶ月近くが経とうとしていた。
彼女の事務所での仕事は経理や電話番、来客へのお茶出しなどで、それ以外にも事務所の掃除をしていた。
この日、釧路の空は海霧に覆われることも無く朝から気持ちよく晴れ上がり、たんちょう釧路空港には東京の本山に戻る渡辺順照の姿があった。
「紗月さん、今まで本当にありがとうございました」
僧衣を着てスーツケースを持った彼女は、訳を言って会社の仕事を少しだけ抜け出して順照の見送りに来た。
「ありがとうだなんて、そんな。私の方こそありがとうございました。」
「本当に釧路に残るんだね」
「はい。この町で頑張ってみます」
「時々は電話をおくれよ。暇になったら東京においでよ、紗月なら大歓迎だよ。」
「はい」
2人はそれぞれに釧路で出会ってからのことを思い浮かべ、そして、見つめ合った。
やがて東京行きの便の搭乗手続き開始がアナウンスされて、それに乗る予定の人たちが動き始めた。
「私は行くよ」
「順照さん、お元気で」
順照はスーツケースを引きながらゲートを通って待合室に入り、そして、間もなく紗月に手を振り笑顔で別れを付けながら機上の人となった。
紗月は順照と同じ便に乗り込む乗客全員が機内に入ったのを見届けてから展望ゲートに移動した。
空港ビルの3階の展望ゲートは露天だから、そこにいる人達は海からの風に吹かれて上着がなければ寒いくらいだった。
そのゲートには紗月以外にも数人の見送り客がいた。
そこからは地上の作業員たちがそれぞれに飛行機を安全に離陸させるための準備を続けている姿が見えた。そして、その飛行機のエンジン音がひときわ高くなったとき、プープーという警報音を鳴らしながら一台の車両が順照の乗った飛行機を誘導路に押し出した。紗月が目をこらすと操縦席に座った白い手袋をはめたパイロットが誰かに向けて手を振っている姿が見えた。
その車両に押し出された飛行機はは誘導路で車両と分離して、自機の推進力だけで滑走路に向かってゆっくりと地上走行を始めた。
その時、紗月は確かに客室の窓を通して手を振る乗客の姿を見た。
「順照さんだ」
むろん、紗月のいるところからでは順照の乗った飛行機とは距離がありすぎて、双眼鏡でも無い限り飛行機の窓を通して中の様子を見ることなど出来ないのだが、それでも紗月は、こちらに向かって手を振る中の乗客が順照だと確信した。
やがて、その飛行機は滑走路の端に着き、少しの間をおいた後、ジェットエンジンの音を轟かせると滑走路を走り、勢いよく晩春の釧路の空に舞い上がって紗月達が見とれている間に右に旋回して、間もなく、その視界から消えた。
紗月はその飛行機が黒い点となり、視界から消えて無くなるまで見つめ続けて、そして、胸中で
「さようなら、順照さん、お元気で」
と言った。
順照が釧路を去った年の10月の半ば頃、彼女、松田紗月の姿は東京都内の某寺の墓地にあった。
彼女はきちんと喪服を着て数珠を持ち、そして、彼女の隣には数珠を持った諒順が立っていた。
2人の目の前には大きな観音像があって、諒順は目を閉じて誦経し紗月も目を閉じたまま合掌を続けた。
この観音像は無縁墓だった。
9月の末頃、紗月がアパートで寛いでいると東京の増井諒順から電話があった。
諒順は、落ち着いて聞いてね、と前置きをしたあとに、渡辺順照が亡くなったと言い、それを聞いた紗月は受話器を落としそうになった。
諒順が言うには、10日程前、順照は所属する尼寺で朝勤めをしている最中に脳内出血を発症して救急車で病院に運ばれた。
彼女を診察した医師が付き添った尼僧に、出血した場所が悪くて手の施しようがない、と言った。そして、順照は意識を取り戻すこともなく病院で亡くなったのだった。
紗月にしても直ぐにでも順照の墓前に手を合わせたいと思ったが、なにせアルバイト事務員だから言い出しにくくて、今日、ようやく1日だけ休みをもらうことが出来たのだった。
「順照さん、娘さんが亡くなって気落ちしたのかな」
墓地での誦経を終えて本堂に戻ると諒順は紗月と一緒に置かれていた長机に向かった。
「娘さんって、あの千葉の病院に入っていたという人ですか?」
「紗月さん、知ってたんだ」
「釧路で順照さんから聞きましたから」
千葉の病院で療養を続けていた順照の娘が、今年の6月の半ばに病院で亡くなった。
「それでも順照さん、娘を看取ることが出来ただけでも幸せだったって言ってた の」
紗月は、順照が自らの背中に彫られた観音様を見せながら自分の罪深さを話した夜のことを諒順に言った。
「それは、辛いわよね」
「そうですね」
2人はそれぞれに知る生前の順照の姿を思いうかべて、しばらく無言になった。
「ところで、紗月さん、順照さんに聞いたけど釧路では実加子ちゃんに優しくしてくれたんだってね。 ありがとう」
諒順は紗月に向かって頭を下げた。
「そんな、私が実加子ちゃんに優しくしてもらったんです」
「あの子もかわいそうな子でね」
「実加子ちゃんのお骨を引き取りに来た人が聞きました」
「その実加子ちゃんのお骨も順照さんと同じ無縁墓に入っているのよ」
「そうなんですか?」
諒順は口をへの字に曲げて頷いた。
釧路で亡くなった四藤実加子の遺骨は実家からの使者として受け取りに来た篠田という人物が確かに実家に持ち帰った。そして、その遺骨を家族の墓に入れるかどうかについて、特に実加子のきょうだいの誰かが強硬に反対した。なにせ実加子は生前、少年院や刑務所に入れられるような不良で、きょうだい達もそれなりに迷惑していたから、実加子に対して冷淡になることも無理からぬことではあった。
「順照さんから聞いたけど、紗月さんのご家族は」
「私が刑務所にいる間に母と兄が亡くなって、刑務所を釈放されて東京にいた年 の夏に父が亡くなりました。」
紗月はテーブルの上に手を乗せて、そして、数珠を握りしめながら答えた。
「そう、お気の毒にねぇ」
紗月は言われて無言で頷いた。
「出来たら、みんなが生きているうちに会って、そしてきちんと謝りたかったって今でも思います。殴 られても良いから、一度、会っておきたかったって思います」
紗月はそういうと涙を堪えようとして、天井を見上げた。
「私のことも、聞いたよね」
諒順は指先で数珠を弄びながら紗月に言った。
「私は以前、増井俊子だったってことや、私も紗月さんと同じように刑務所にいたこととか」
諒順に言われて、紗月は少しだけ間をおいて小さく頷いた。
「実加子ちゃんから聞きました」
諒順は、そう、とだけ言って俯いた。
「私はお母さんを自殺させたの、私も刑務所にいた時は、釈放されたらお母さんの後を追って自殺しよ うと思っていたの、でも、教誨師の先生の話しを聞いて いるうちに気が変わって、生きて世の中 の役に立とうとすることが私のつとめ だと思うようになって、それで尼になって本山で修行した の。私が順照さんと初めて会ったのは本山で修行している時でね、あの人、初対面の時は誰とも目 を合わせられなかった。目立ちたくないって、1人が好きって、いつも言っていたの。私と仲良く なったのは、私が本山で風邪を引いて寝込んだときでね、彼女が親身になって看病してくれたの、彼 女、刑務所の中で受刑者に病人が出 た時に看病する役割をさせられていたのね、26、7歳の時 からずっと刑務所 暮らしだったから慣れたものだって言ってね」
「一見、厳しそうだけど根は優しい人でしたね、順照さんは」
紗月は在りし日の順照の姿を思い浮かべながらふと諒順を見ると、彼女もこちらを見ながら目にうっすらと涙を浮かべていた。
「もう10月か、早いものですね、私、来年の正月は何も出来ないな」
しばらくの間、諒順と並んで何も言わずにいた紗月が、呟くように言った。
「どうしても何も出来ないの?」
「だって、順照さんに死なれたから、私にとって順照さんってそういう人なんです」
「ありがとう、紗月さん、今の言葉は私も本当に嬉しいよ、順照さんもきっと紗月さんのことを思って いるよ」
、 諒順は紗月の方を向いて頭を下げた。
「さて、もうそろそろ釧路行きの飛行機の時間です」
「そうだね、空港まで送るね」
こうして2人は順照の眠る無縁墓が建立されている寺院を連れ立って出ると羽田 空港に向かった。
「紗月さんは今は釧路で働いているんでしょう」
空港では紗月の乗る便の搭乗手続きは始まっていなかった。
「はい。釧路の燃料販売の会社です。」
「紗月さんが刑務所にいたこととかは言ったの?」
「言いました。会長と社長と専務には知られています。社長から他の皆には黙っておこうって言われま した。私も、その方が嬉しいですし。もし、私の過去が知られて、それで釧路にいられなくなった ら、また、何処かの町に流れます。辛いけど、全部、自業自得ですから。でも、釧路の人って優しい 人が多いから大丈夫かなとも思うんですよね」
「もしもの時は東京に来てよ、及ばずながら力になるよ、紗月さん」
「ありがとうございます」
「紗月さん、紗月さんが釧路に初めて行った日のこと、覚えている?」
「釧路に行った日ですか。何かありましたか?」
「私、あの日も紗月さんを見送りに一緒に羽田に来たけど、その時、紗月さんはずっと俯いたままだっ た」
諒順から言われても紗月は思い出すことが出来ない。
「でも、今は違った、紗月さんはずっと前を向いていた。釧路に行ってから変わったんだね」
紗月は諒順に言われて笑顔でこっくりと頷いた。
「釧路って良い町なんだってね、順照さんが言ってた」
「諒順さん、今度、来て下さいよ」
「その時は、あちこち連れて行ってね」
「任せて下さい、案内しますよ」
紗月が諒順に礼を言った直後、釧路行きの便の搭乗手続き開始を告げる放送が流された。
「では、諒順さん、お世話になりました」
「こちらこそ、連絡下さいね」
紗月は小さな手荷物片手に出発ゲートに向かい、彼女の姿が見えなくなるまで諒順は手を振り続けた。
彼女の乗った飛行機は定刻で羽田空港を飛び立った。
順照が死んだことはやはりショックだった。
釧路に流れ着いた最初の日に順照と会って、紗月はその目つきや彼女の体から発せられる重たい何かにたじろいで、場違いなところに来てしまったと思ったことを覚えている。ただ、しばらくすると彼女の暖かい人柄を知った。甘い顔をする人ではないが、酷薄にはならない人だった。
その順照も今はこの世にいない。
実家の両親や兄や四藤実加子も死んだ。
この世とは孤独を知るための一人旅のようなものなのだろうかと紗月は釧路行きの飛行機の中で思う。しかし、1人であることが時として不安になることはあるが、辛いとは思えない。
この世に生きてあるからこそ春に雪割り芽吹く福寿草の強さを知り、秋に散りゆく木々の葉のはかなさを目にすることが出来る。人の世のしあわせとはこのようなことを言うのだと今の彼女は思う。そして、何時の日にか、自分の過ちのせいで家族もろとも地獄に落ちたことも含めて、それら全てが自分の人生だったと穏やかに思い出すことの出来る日が来ると思えるようになった。
機内に響くジェットエンジンの音を聞きながら、紗月は心の中で
「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、順照さん、実加子ちぉん、皆に心配や迷惑ばかりで御免なさい、 大丈夫だよ、私は元気だから。皆に会うのは何時になるか分からないけど、私は私なりに精一杯生き るから安心してね。そして、ありがとうございました」
と言った。
突然、飛行機ががくりと揺れて、シートベルト着用のサインが出てCAたちが乗客達の様子を確認するために巡回した。
座席横の窓から見下ろすと海上には古くぼろぼろになったレースカーテンを敷き詰めたような模様が出来ていた。今日は風が強いようだ。
紗月は、釧路に着いたら銭湯に行こうと思い、そして、職場の同僚達に手土産を買ってこなかったことに気がついて、苦笑した。
今、僕は走ったこともないのにフルマラソンを走り終えたような気持ちでいます。
長かった、小説としては冗長に過ぎるかなとも思います。
あるプロの小説家同士が対談で、小説には男女の感情のやりとりが不可欠と言う見解で一致していました。この「さなぎだに1人」は男性が殆ど出てきません。つまりは基本的構成において「小説」を名乗るに値しないと言われても仕方の無い作品だとは思います。
誰かから、お前はこの作品で何を言いたかったのかと問われても、答えることは出来ません。自分の中に他人に伝えるべき何かがあるとも思えません。詰まるところ、僕にとって文章を書くという行為は趣味の域に止まるのだと思います。
僕は自らの人生を力強く切り開くスポ根青春物語といった小説を好みません。それよりも、賢しらに世を立ち回ることも出来ずに挫けて途に倒れ伏す人々の物語に親近感を覚えます。人の生の営みとは世の営みに抗うでも無く流されるでもなく従うことなのだろうと、その意味で人生とは受動的なのだと今の僕は思っています。
この小説の主人公の松田紗月はせっかくトップクラスの偏差値の大学医学部を卒業して医師になったのに、人生を棒にふり、家族も巻き込んで正に生き地獄のような数年間を過ごしました。それはとでもではないが「いい経験」などと言えるはずのないものでしょう。
人生を棒に振るのは簡単なのだと、今、自戒をこめて思います。
なお、僕は元受刑者という人を1人しか知りません。その人は先年、物故した男性で要は盛り場でのいざこざがもとでお縄を頂戴して6ヶ月ばかり服役していたという人です。まあ、元気が良すぎる小父さんといったところでしょうか。
この小説の後半部分では釧路を舞台にしました。
僕は筆者の僕が体で感じたことを文章に交えなければ、その文章は結局のところ評論になると思っています。ただでさえ松田紗月以下の架空の人物を作り上げて書いた小説なのに、さらに評論のようなことになってしまっては誰も読んではくれないと思ったのです。だから、僕が体で覚えている釧路の気候を書きたかった。「しばれるとは何か」と聞かれて「酷い寒さ」と言うのであれば、それは気象解説だと思うのです。僕が体で覚えた「しばれる」とは「呼吸する度に鼻の奥が痛くなり、時としてむせるような寒気」です。もし、今後、僕が小説を書くことがあったとしても、僕は釧路以外に舞台に出来る土地があるとは思えません。
「さなぎだに」の中では釧路はどちらかというと暗い町のような書き方になってしまいましたが、実際の釧路は夏場の気候が余所に比べて特徴がある以外は平凡な地方都市です。ここ数年の極端な高温が続く関東地方と比べると夏場は「全市天然クーラ完備」というほどの涼しい町でもあります。もし釧路の人が、この小説を読んでくれたら、みんな、頑張りましょうね(笑い)。
以前にも書きましたが、以下にこの小説を作るために参考にした文献等をあげて、それらの制作者諸氏に謹んで謝意を表する次第です。本当にありがとうございました。
乃南アサ著「いつか陽のあたる場所で」 新潮社
「すれ違う背中を」 新潮社
「いちばん長い夜に」 新潮社
上記の3冊が無ければ私の駄文は生まれませんでした。ありがとうございました。
外山ひとみ著「女子刑務所 知られざる世界」 中央公論新社
「All Color ニッポンの刑務所30」 光文社
「刑務所」という全く縁の無い世界を知るためにもってこいの文献でした。
法務省法務総合研究所の研究官諸氏の業績
殺人未遂罪の判決文等は「判例時報」「判例タイムズ」等で読みました。また、東京都内の住宅事情、交通事情、雇用情勢などについてはインターネットで該当の情報を収集しましたが、実態を必ずしも反映しておりません。 事実と齟齬があっても「フィクション」という事でご勘弁下さい。
この小説中に登場する人物や会社、例えば「松田紗月」や「三上君代」、「冬木燃料販売株式会社」等は全て筆者の創作です。もしこのお名前の人物や会社が実在しても、その方々とは全く関係ないことを改めて申し上げます。
最後に一言
すりきれるまで走り続ける悲愴美を生身の人間に求めることは残酷だと暖衣飽食の世にあって思い ます。
僕という文章を読んだり書いたりすることが好きと言うだけの素人の書いた拙い小説を読むために時間を割いてくれた皆様に言葉に出来ない感謝をこめて
きたお




