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さなぎたに1人  作者: きたお
3/30

第3章 全てを失い涙して

「さあ、行きましょう」

 屋根にとまったカラスを見上げて立ち止まっていると石井に促されて、紗月は我にかえって石井の後ろについて、更心寮の玄関を入った。

 玄関扉は頑丈そうで、その奥に玄関ホールが見える。玄関の片方には下駄箱があり、幾つもの靴が入っていた。

 玄関の中に入った石井は壁に付けられたインターホンに何かを話した。

 玄関ホールの土間に2人で立っていると年の頃なら60歳前後と思われる濃紺のスーツを着た小太りで見るからに人柄の良さそうな女性と、グレースーツにスカート姿の紗月よりは年下と思われる女性が現れた。

 「松田紗月さんをお連れしました」

と石井が言い、紗月は

 「初めまして、よろしくお願いします」

 と挨拶した。

 「ここの寮長をしています畑井和佐子といいます、お待ちしていましたのよ、お上がりになって」

 小太りの濃紺スーツの女性が紗月たちを導いた。

 玄関を入って直ぐのところはホールになっていて応接セットが一つ置かれている。全体に採光に配慮した造りになっているからなのか天井の照明は消えていても不思議と暗い印象は無かった。

 紗月は恐縮しながら石井と共に畑井寮長の後ろについた。

 中に入ると、石井は、私はここで、といって「職員室」と書かれたプレートの部屋に入り、紗月は「第一小会議室」と書かれたプレートがある一室に2人と共に入った。

 「改めて、ご挨拶します。私はここの寮長を務めています畑井佐和子と申します、こちらが、今日から 貴方の担当となる吉田しのぶです。」

 窓を背にして並んだ2人は、紗月に向かって一緒に腰を折り、紗月もそれに応えて腰を折った。

 部屋には机が4つ合わせられて置かれていて、8個の椅子があった。それは良いのだが、この中に何故か身長計と体重計が置かれていた。

 紗月は、畑寮長に促されるままに、数枚の書類やパンフレットが置かれているところに腰掛けた。

「お疲れでしょう、でも安心して下さいね、手続きが終わったらお部屋に案内しますから。個室ですから、夕食まではゆっくり出来ますよ」

 畑井寮長の言葉に紗月は笑顔で頷いた。

 寮長に促されるままに数枚の書類に署名した。判子は持っていないから、明日押すことにして、一応の書類作成を終え、続いて壁側に立って吉田指導員にデジカメで写真を撮って貰い、更に身長と体重を計られた。

 寮長の畑井は更心寮の入寮者が守るべき規則について説明した。

 朝食は6時30分から8時まで。昼食は無く、夕食は18時から19時30分まで。入浴も同じ時間だが、入浴日は月、水、金、土に限られる。たとえば勤め先の就業時間の関係で遅くなる場合は事前に担当の指導員に連絡すること、飲酒、ギャンブルは禁止、ゴミ出しは指示に従うこと等々、刑務所の6年間に比べたら思わず笑ってしまうほどの緩やかな規則だと紗月は思った。

 「これだけ自由にしても、規則を守られない人が居るんですよ、松田さんは大丈夫だと思いますけどね」

 畑井の言葉を紗月はそんなものだろうと思って聞いた。

 しばらくの間、吉田と世間話に興じた。尤も、紗月は今朝早くに刑務所を出たばかりだから世間そのものに疎とく会話も途切れがちになるが、それでも、2人とも紗月の心を解きほぐそうとしていることは紗月に十分すぎるほどに伝わった。

 「それでは、お部屋にご案内しますね、吉田さん、お願いします」

 畑井寮長に言われて吉田指導員が席を立ち、続いて紗月も席を立って一礼すると吉田の後について部屋を出た。

 紗月が割り当てられた部屋は二階で階段の直ぐ側にあった。

 「ここです」

 部屋のドアを開けた吉田と2人で部屋に入った紗月は思わず

 「きれい、ですね」

 と言った。

 刑務所帰りの者が一時の宿とするための施設と聞かされ、紗月はもっと荒んだ情景を思い浮かべたが、今、目の前にあるそれは、小綺麗で快適そうだった。

 「夕食は6時からですから。それまでゆっくりしていて下さいね、食事は1階の  食堂です。鍵はこれです、何かあったら呼んで下さいね、では」

 吉田しのぶ指導員はそういうと部屋を出た。紗月は彼女の方に向き直ると軽く会釈して見送った。

 吉田が1階の職員室に戻ったとき、既に石井は何処かへ行ってしまっていた。

 「どう、吉田さん、あの松田紗月さんという人、上手くやれそう?」

 「なんか、とろい感じだけど、何とかなるでしょう」

 畑井寮長の言葉に吉田は彼女の方を見ないで答えた。

 とろい、か、確かに正鵠を射ているかも知れないが辛辣な言い方もあったものだと畑井は思い、苦笑交じりの無言で同意した。

 吉田指導員が職員室に戻り、紗月は、1人で部屋に残るとドアに鍵を掛けてベッドに腰掛けた。

 部屋の中には壁際にベッドが一つと反対側の壁に沿ってテレビ台が置かれ小さな液晶テレビがのっていた。ベッドとベランダに挟まれるようにして小さな机が置かれている。ベランダにはレースカーテンと遮光カーテンが掛けられているから、昼間でも外からの視界を遮ることが出来る。壁は薄いクリーム色で床にはリノリュームがはってあるから全体として部屋の印象を明るく暖かくしていた。

 彼女は1人でぼーとしていたかった。

 疲れているのか居ないのか、自分でも分からなかった。何も考えることが出来なかった。ただ、膝の上に重ねた両手をもぞもぞと動かし、時々、天井を見上げた。

 同じ姿勢でいることにも疲れるような気がして、立ち上がるとベッドメイクをして、スーツの上着だけを脱いでハンガーに掛けると、また、腰掛けて、そして少ししてから、膝を抱えるようにしてベッドの上に寝っ転がった。

 頬に触れるシーツのザラリとした感触が新しさを感じさせて心地よかった。

 いつまでもこのままでいたい、彼女は何故か、そう思った。

 雨の降る音がした。相当強く降っているようだ。その時だった、紗月は何故か自分の頬が濡れていることに気がついた。

 彼女は泣いていた。

 自分で自分が不思議だった。

 泣くような心境では無いのに、涙が止まらなくなっていた。

 彼女は仰向けになった。それで涙が止まると何故か、思った。

 そして、彼女はそのまま寝入って、目が覚めてテレビを点けると6時のローカルニュースをやっていた。

 食堂が少しでもすいているうちに食事を取りたいと思い、彼女はハンガーの上着をひっつかむと部屋から出て足早にそこに向かった。

 途中、トイレの洗面所にある鏡で自らの顔を鏡で見て涙の後が無いことを確かめた。

 食堂では、先に入寮した数人が食事を取っていた。

 食堂には長方形で片方がベランダとなり外には小さな庭があり、綺麗に剪定された樹木が数本植えられている。その反対側には調理場からできあがった食事を受け取るための棚になっていて、その向こうに調理場がある。床はリノリュームが張られ、その上にテーブルと椅子が置かれている。入り口と反対側、一番奥まった位置に大型の薄型テレビがある。全体としてはどこかの会議室のような趣の部屋だった。

 紗月が食堂に入っても、誰もふり向きもしなかった。

 入り口から見ると一番奥の方、テレビのすぐ前の所に4人の女たちがいた。

 皆、申し合わせたように半分白くなった髪を頭の後ろで束ね、全員が小太りで、同じような地味な色のトレーナーにジャージかジーンズという格好をしていた。

 入り口直ぐの席には、同じような赤いジャージを着た20代と思しき2人の女が向かい合わせに席について食事を取っていた。

 日曜日の夕方だからもっと混むと紗月は思っていたが、案に相違してがらんとしていた。

 外で降る雨が窓ガラスに当たってたてる微かな音と小さくボリュームを絞ったテレビの音声、調理場で立てられる音以外何も聞こえなかった。

 皆、無言で食べ物を口にした。

 食堂がすいていて嬉しいとは思ったが、こうまで黙々と食事をすることも無いだろうと紗月は思い、そして、1人になれるように席に着き食事を取った。

 食事の味は良く分からなかった。ただ、刑務所のそれよりは格段に暖かかった。

 「ごちそうさまでした」

 紗月が愛想笑いと共に棚に食器を載せたプラスチック製の四角いお盆を返すと調理場から

 「お粗末様でした」

 と声が返ってきた。

 今日は日曜日で入浴はできないから、この後は、消灯時間まで自室で過ごすしか無い。

 何もすることが無いので、彼女は、この寮に到着し畑寮長たちと面談したときに受け取った幾つかのパンフレットを読むことにして小さな机に向かった。

 A4版の大きさでその表紙には、紗月には分からないが何処かの大きな寺院の仏像の写真と「更生保護法人日本仏教団体連合会更生保護会」と印刷されている。

 中身は型どおりというか、団体紹介の平凡なパンフレットといった趣だった。その他にも3冊ほど冊子を受け取ったが、どれも取り立てて興味をそそられることは無かった。

 雑居房とは比べものにならないほど快適な部屋にいて、しかし、彼女は全く心楽しまなかった。

 消灯時間を過ぎたようだったので、歯磨き洗面を終えて自室に戻りスーツを脱ぐと灯りを消してベッドに潜りこみ、暗い中でテレビを点け音は消して横になりながらテレビを見た。

 もやがかかっていた。

 そのもやに目をこらすと突然、そこに立つ誰かが見えた。

 それは紗月よりも若い女性だった。

 彼女は病院で支給されるクリーム色の服を着て腕に点滴をしていた。

 「なんで助けてくれなかったのよ、この藪医者!!」

 その女性は紗月の方を指さすと精一杯の怒声を浴びせてきた。

 「死にたくないって、あれほど言ったじゃない!!」

 紗月は驚きの余り声が出なかった。

 その女性が誰かすら分からなかったが、自分が非難されていることは分かった。

 非難は猛然と続き、紗月は何の反論も出来なかった。

 ただ、ただ涙を流した。謝罪の言葉すら出なかった。

「ごめんなさい」

 紗月は自分の上げた大声で目を覚ました。

 夢だった。

 呼吸が荒くなり汗をかいていた。

 また、嫌な夢を見た。刑務所の中でも何回となく見た、多分、自分が担当していて助けることが出来なかった患者の夢。恨み辛みを紗月にぶつけるためにだけ現れる患者達。ふとテレビに目を遣ると売れないタレントたちが案内役を務める通販番組を流していた。

 いつの間にか、眠っていたのだ。そして、うなされて目を覚ました。

 いつまで、これが繰り返されるのだろうと思う。

 止そう、何かを考えることを止そう、彼女はそう思った。考えても何も変わらないということを彼女は刑務所で学んでいた。

 とにかく、今は寝ることに集中しよう、そり以外に今の自分に出来ること無いと紗月は思った。そしてふと思った。

 「これから、私、どうなるのだろう」と。


 昨日、結構な風と共に降り続けた雨は夜明けと同時にやみ、初冬の東京の空はさわやかに晴れ空気すらも澄んでいるようだった。

 更心寮の職員出勤時間は9時00分が定刻で、それ以前は宿直組が受け持つ。

 朝食後、仕事のある寮生たちはあらかた出勤し、残っている人たちは職探しの最中か、仕事が休みの人たちだった。

 9時5分、職員室では前夜の宿直だった人と休日の人以外は全員が参加して朝の定例の打ち合わせが行われた。

 「起立、おはようございます」

 「おはようございます」

 壁に付けられたホワイトボードに「日直」とかかれた職員の号令で全員が起立し、朝礼が始められた。

 この誠心寮は畑井寮長以下10人の職員が所属していて、殆どが女性だ。

 今日の朝の打ち合わせの出席者は全員、女性だった。

 昨日はスーツ姿だった畑寮長も吉田補導員も、今日はトレーナーにジャージのズボンという格好をしていた。中にはエプロン姿の職員も居て、更生保護施設というよりは幼稚園のような雰囲気だった。

 今日の職員の動向、昨日の寮生たちの様子がそれぞれ報告された後、入退寮について報告があった。

 「昨日、退寮者はありませんでしたが入寮者が1名有りましたので、担当の吉田さんから報告して貰い  ます。」

畑井寮長に指名されて吉田しのぶが報告した。

 「では、昨日の午後、本寮に入寮した松田紗月について報告します。お手元の資料をご覧下さい、氏名  は・・・」

 氏名は松田紗月、年齢は35歳、出身地は秋田県秋田市、平成**年6月**日に殺人未遂事件の容疑者として逮捕され、裁判の結果、第一審の懲役6年の刑を受け入れ、武州刑務所に服役。本人の申し立てによると服役期間中に2度の懲罰事故を起こしている。

 実家は会社を経営し、経済状態は良好のはず。はず、というのは拘置所や刑務所から何度も謝罪の手紙を書いても一度も返信が無く、実家の様子が分からないことに因る。

 家族構成は両親と7最年上の兄が1人。兄は、紗月が逮捕された当時は九州で裁判官をしていた。祖父母は何れも既に故人となっている。秋田の実家には親戚多数とのこと。紗月自身は小学校から高校まで地元の公立の学校を卒業し、大学は河北大学医学部に進学し卒業。医師免許を保有。昨日、入寮時に簡単に畑井寮長と一緒に面談した時の印象では性格は温和で従順、どちらかというと受動的。受け答えの様子からして精神面でのトラブルを抱えている様子も無く、本人からの申告も無い。知的水準は極めて高い印象。肉体的トラブルも無い模様。本人は生活保護受給に強い違和感を覚えており、1日も早い就職を希望。希望職種は事務系とのこと。本会から武州刑務所に教誨師として派遣された増井諒順を慕っている云々

 「今まで分かっていることを申し上げました、私からは以上です。」

 吉田の報告を聞き、昨日、入寮の時に吉田が取った紗月の写真が貼られた書類に居合わせた職員たちは見続けた。

 「凄いわね、この人、河北大って、旧帝大でしょ、私のような三流私大とは大違いね」

 「お兄さんも裁判官なんて、凄いわね」

 「医者の寮生なんて初めてなんじゃない」

 「なんで実家の親が引き取らないのかしら、親と揉めてるとか」

 「きっとお嬢様なのね、この人」

 皆は口々に感想を述べた。

 確かに皆の言うとおりだと畑井寮長は思った。

 「処遇方針としては心情の安定を図ることを第一に、本人の希望する職種の仕事に就くことが出来るよ  うに指導して参りたいと思います。まあ、手のかからない寮生ですね、指導は主担当として吉田さん、副担当として六谷さんでお願いします。」

  畑井寮長の言葉に皆、頷き、他に議題も無いので打ち合わせ は終了した。

 畑井や吉田たちが打ち合わせをしている間、紗月は割り当てられた自室のベッドで、大きな口を開けて眠りこけていた。

 昨夜、というか朝方に悪夢で目が覚めたものだから、二度寝になってしまい、朝、定時に起きられなかったのだ。

 寮の玄関の壁には、部屋番号の書かれた木の札が掛けられた板があって裏返しにすると外出中を示すことになっている。

 吉田しのぶがそれを確認すると紗月は朝食も取らずに部屋にいるようだった。

 彼女が紗月の部屋のドアをノックした。

 初めは気がつかずに寝ていた彼女もドアの外から

 「松田さん、どうかしましたか、松田さん」

 と呼びかける吉田の声に起こされて、慌ててベッドから飛び出して、ブラジャーにショーツというあられも無い姿と言うことをすっかり忘れてドアを開けた。

 その外には驚きの余り目をまん丸にしたしのぶが、何故か爪先立ちになっていた。

 しのぶの様子を見て自分の格好に気がついた紗月は、慌ててドアを閉めると急いでシャツとスーツを着た。

 ほんの少しだけドアを開け、その陰に隠れるようにしながら、照れ笑いを浮かべた。

 「おはようございます」

 「おはようございます」

 しのぶもとってつけたような作り笑いを浮かべと言った。

 「昨夜はよく眠られましたか?」

 「ええ、ぐっすりと。すいません、寝坊してしまって」

 紗月は吉田と目を合わせなかった。

 「今日、買い物に行きませんか、ほら、松田さん、パジャマとか持っていないでしょう、だから、と   思って」

 「お願いします」

 紗月は直ぐに答えた。

 吉田は午前中は仕事があるとかで、12時過ぎに出かけることにした。

 「買い物かぁ」

  紗月はそもそも今の自分に何が不足しているかすら分からな かった。それでも、正午を少し過ぎた 頃、吉田が迎えに来て一緒に寮を出た。

 紗月は玄関の直ぐ外で立ち止まり、空を見上げた。

 その日の東京の空は青く澄み切っていた。

 風が違っていると思った。

 その日、彼女が更心寮の外で感じた風は、生まれ故郷の秋田とも、大学生として、そして医師として暮らした仙台とも、受刑者として暮らした栃木とも違っていた。

 吉田から、行きますよ、と言われて紗月は歩き出した。

 紗月は、今や一張羅となってしまったデザインと言い生地と言い地味としか言いようのない濃紺のスーツとパンツ姿で、吉田はライトグレーのスーツとスカート姿だった。 

 彼女と並んで立つと自分が途端に老けて見えると紗月は思った。

 昨日は気がつかなかったが、寮の前は大きな通りとなって、自動車がひっきりなしに通っていて、その向こう側に線路が敷かれているのが見えた。反対に、寮の裏には、冬枯れの森があり、東京の真ん中にしては夏ならば緑が濃い場所の様だった。

 紗月が木々を眺めていると吉田が

 「あの向こう側に大きな大学があるんです」

 と言った。

 月曜日の昼間だから、歩道を歩く人たちもそれなりにいた。で、紗月はそれらの人たちとすれ違う度にしのぶの背中に隠れようとした。

 幾度か同じことをしていると吉田が

 「駄目ですよ、松田さん、きちんと歩かないと、ね」

 と言った。

 確かに吉田の言うとおりだ、と紗月は思った。

 堂々とは出来ないにしても、これから一生、誰かの陰に隠れながら生きることが出来ない以上、今は辛くても他人の目に自分を晒すことに慣れなければならない。それがどのように辛いことであっても、だ。

 紗月は小さくため息をついてしのぶに並んで歩いた。

 吉田はそんな紗月を見て笑顔を向けた。

 2人は新宿のデパートで買い物をすることにして、近くの駅を目指した。

 「あの、吉田さん」

 「何でしょう」

 「この近くに東北合同銀行の支店はありませんか」

 駅の近くに来て紗月はしのぶに尋ねた。

 秋田県に本店があり東北地方を主な地盤とする東北合同銀行は地方銀行の中でもトップクラスの規模と財務内容を誇り、地方銀行連盟の幹事行の一つに選ばれていて、歴代の社長の多くはその役員に就任していた。

 「東北合同銀行ですか、この辺りでは見かけませんね。でも、コンビニのATMならカードは使えると  思いますよ。」

 吉田の言葉に紗月は納得し、駅近くのコンビニに入った。

 大学に合格し、秋田の実家を離れると決まったとき、実家の母が作ってきてくれた東北合同銀行のキャッシュカード。暗証番号は母の誕生日だ。

 初な娘はお金のことまで頭が回らずに居たから、それを渡されたときも何の感慨も無く受け取った。

 紗月は財布からカードを取り出すと、少し震える手でカードをATMに入れ、暗記していた暗証番号を押して残高を照会した。

 口座はいきていた。

 彼女は何だか急に嬉しくなった。

 昨日、出所の時に、刑務内作業報奨金の残額の5万円近い現金のうち4万円を預金した。

 何も買わずにコンビニを出て駅で電車にのった2人が目指した新宿だった。

 その駅近くのデパートに入りまずは昼食をとり、その後、買い物をした。

 大勢の買い物客で賑わう売り場。

 種類が豊富で目移りしてしまうほどの商品。

 今日は当面の暮らしに必要なものしか買わないと決めていたが、それでも刑務所では感じることの無かった高揚感を覚えた。

 一緒に居るしのぶの手前もあるので、万事に素早く選ぶことを心かげたが、それでも、楽しかった。

 デパートの中にある携帯電話ショップで領置品として刑務所に入るときに預けた携帯電話の具合を見て貰うことも忘れなかった。

 紗月が医師として働いていた頃、携帯電話の電話帳には小学校から大学までの同級生、親戚、知人、さらに病院に出入りしている業者の担当者の番号まで全部で100件を越える番号を記憶させていた。

 今朝、ふと思い立って携帯電話のスイッチを入れたが反応が無かった。寮では携帯電話は使用禁止だが、それを見ないことには友人知人たちに連絡を取ることも出来ない。だから、修理可能かどうかを見て貰うことにした。

 しのぶと一緒に店に入りカウンター席に座った紗月から話しを聞いた店員は、彼女が差し出された携帯電話機を受け取った後、しばらくお待ち下さいませ、と言い店の奥に引っ込んだ。

 5分もたっただろうか、その係の店員が申し訳なさそうに、電子回路にバッテリーから漏れ出した液がかかってしまい腐食して完全に破壊されて機能しない、おそらく内部のデータは全て失われたはず、と紗月に告げた。

 何となく予想はしていたが、それでも紗月は店員の答えを聞いて落胆した。

 これで彼女が、刑務所に入る前に交際していた人たちに関する電話番号や住所はほぼ分からなくなった。

 気を取り直して、礼を言ってそのショップを出た。その後、冬物の衣類を中心に買い物を終え、3時過ぎの電車で寮に戻った。

 寮に着くと職員室の前でしのぶに丁寧に礼を言い、別れた。

 大きな紙袋二つ分に満杯になった荷物を持って自室に入ると早速、袋の中から部屋着として買ったTシャツなどを取り出し着て、それ以外はベッドの下に付けられた引き出しに入れ、それが終わると、ベッドに腰掛けてテレビを点けた。

 安物とはいえ新品の腕時計はきちんと今の時刻を示していた。

 昨日と同様、なんとなく体が怠かった。

 何故、疲れているのだろうと彼女自身、不思議に思った。

 体力に自信があるわけでも無いが、以前からこんなにも疲れやすかっただろうか、栄養のバランスが悪いのだろうか、内臓に疾患でもあるのか、等々の疑問が頭の中を駆け巡った。

 ベッドの端に腰掛けて何もしないで時を過ごしていた。

 刑務所の中では、平日は工場で「刑務内作業」と呼ばれる仕事に原則として従事した。彼女の場合、それは女性の下着作りで、それがない日は専ら寮舎の部屋で同室の者たちと過ごしていた。

 他人が1人も居ない部屋で過ごす自由など刑務所の中では認められない。気が合うかどうかは別にして、常に周りに他人が居るた6年間だった。

 この寮に入った今、彼女は6年ぶりのプライバシーを手に入れた。

 1人が心地よかった。体は怠いが、それでも小さな部屋で1人でいることが不幸なことと彼女は思わない。

 そのころ、指導員の吉田しのぶは職員室に戻るとそこにいた上司に帰ったことを告げて自分の席に着いて、先ほどまで一緒だった松田紗月という人物について思いを巡らせた。

 昼食を食べないで出たからデパートのレストランコーナーにあるイタリアンの店に入った。

 食事のマナーが良かった。粗雑で不作法なところは何一つ無かった。買い物も難なくこなした。店員への態度も不躾とか無神経なことは何一つ無かった。といって、何かに怯えている様子もない。

 何もかもが普通。

しのぶからすると紗月が普通に振る舞えると言うこと自体が不思議だった。

 吉田しのぶが更心寮で働くようになってから半年以上が過ぎた。

 ここの寮生全員という訳ではないが、中にはしのぶからすると親しくなりたくない類いの女もいる。低学歴がたたって良い仕事にありつけずに経済的に追い詰められたあげくに罪を犯して刑務所経由で寮生となった女が一人や二人ではない。

 しかし、松田紗月は違っていた。2日に満たない間だが、しのぶは紗月に危うさを感じなかった。知的水準が高いことも話していて分かった。

 彼女は机の引き出しを開けて、中にあった、今年の10月に法務省の主催するの研修会で配られた「我が国の行刑について」というパンフレットを取り出し、付箋をつけた所を開いた。

 そのページには、更生保護法人と行刑当局との連携の重要性について書かれてあった。

 女子刑務所の定数は約4,500人で、平均収容率120パーセント程度だから、実際に刑務所の中にいる受刑者は5,000人代前半だ。それに対して女性向けの更生保護施設の収容定数は全国で合わせて約130人しかない云々。

 彼女は、そのパンフレットを閉じると、武州刑務所から松田紗月の身柄引き受けを打診された時のことを思い浮かべた。

 何処かの施設に身を寄せなければ紗月は文字通り路頭に迷う、それだけは避けたいとして協力を求めてきたが、寮側は寮生が既に30人の定員一杯だったから無理として断った。

 その時は増井諒順も受け入れを強く主張しなかった。

 理由は簡単で、紗月の罪名が殺人未遂罪で、刑務所内で2度懲罰をうけている人物を引き受けることに、誰もが逡巡したのだ。紗月が慕っている増井諒順としても同僚たちの不興を買ってまで紗月を受け入れを主張できなかった。まだぺいぺいで臨時雇いに過ぎない吉田しのぶも、紗月の引き受けには賛成できないと思った。

 寮生の中には基本的生活習慣の確立に始まって、遵法精神の養成や協調性の涵養など社会人としてのイロハを教えなければならない人たちもいる。この上更に、知能は高いのに非常識きわまりない人物が寮生の中に加わることは、避けたかった。

 結局、釈放3日前になって、急に退寮する人が出て空きができて、彼女の受け入れが決まったのだった。

 一方、紗月は、その時、何れも新品のTシャツにトレーナー、そしてジャージを穿いて自分の部屋で寛いでいた。

 つくづく、新品は着心地がよいと思った。

 刑務所では希望者には肌着まで貸与される。紗月も下獄後、暫くしてから貸与を申請した。自分の前に誰が使ったかも分からない肌着を身につけることを最初はためらったが、着替えなど殆ど持っていなかったから仕方がなかったのだ。

 夕食を終えて、入浴も済ませ、自分の部屋で小さくラジオをつけるとベッドにごろりと横になった。

 今日も慌ただしく過ぎていった。

 6年ぶりに訪れたデパートでの買い物は楽しみよりも戸惑いが先に立った。

 人混みに驚いたのではない、その大勢の人々が誰の指図も受けずに動いているように見えたことに驚いたのだ。何よりも買い物客の笑顔が紗月にはまぶしく思えた。

「はーい」

 紗月がベッドに腰掛けてぼんやりしているとドアを叩く人がいた。誰だろうと思いながらあけるとそこには笑顔の増井諒順が居た。

 「諒順さん」

 紗月は彼女の姿を一目見て、涙ぐみそうになった。

 「いいかしら」

 「どうぞ、お待ちしておりました。」

 紗月は待ちかねた様子で諒順の手を引くと部屋の中へ入れてドアを閉めた。

 「ようこそ更心寮へ、昨日はごめんなさいね、出張だったから  迎えに出られなくて」

 諒順の詫び言葉に紗月は

 「いえ、こうしてここに居られるのも諒順さんのおかけですから。」

 と笑顔で言った。

  増井諒順は紗月が収監されている武州刑務所に教誨師として訪れていた。その諒順は、昨日から法務省の依頼を受けて関西地方で行われる講演会に講師として招かれていたのだから紗月の釈放を出迎えることができなかった。

 諒順を部屋に招き入れると二人並んでベッドに座わった。

 「紗月さん、釈放おめでとう、よく頑張ったわね」

 諒順は紗月の方を向いて片方の手を紗月の膝の上に置いてそういった。

 「諒順さん、わたし」

 紗月はそう言いながら涙を流した。

 後は言葉にならなかった

 「頑張ったね、紗月さん、刑務所暮らしって辛かったわよね」

 諒順はそう言いながら、無言で紗月の肩を抱き寄せるとその頭 を柔らかい手つきで撫で続けた。

 辛かった、紗月にとって刑務所生活はこの一言に尽きる。

 紗月は嗚咽した。

 紗月にしても泣くつもりなどなかった。もっと明晰に今の心境を打ち明けるつもりだった。だが、諒順と面と向かうと涙が出て止まらなくなった。そして、紗月は嗚咽しながら、私は本当はこれがしたかったのだ、と思った。

誰かにすがりたいと思いながら、それを受け入れる人などいなかった刑務所での日々。

 今、紗月は上半身を諒順の膝に上半身を乗せて泣き続けていて、そんな彼女を諒順は何も言わずに、ただ紗月の背中に優しく手を置いているだけだった。

 諒順は自分の膝の上で嗚咽を続ける紗月を見ながら、この人は私に何を求めているのだろうか、と思い続けた。

 諒順は片方の手で紗月の背中をさすりながら二人が出会ったころのことを思い出した。

 刑務所から松田紗月という受刑者が個人教誨を求めていると言われて出会った。諒順も彼女が殺人未遂罪で下獄した女医だと聞いてびっくりしたことを覚えている。それまでにも殺人罪で服役する受刑者を教誨したことはあったが、元医師の受刑者は初めてだった。

 紗月が教誨を受けるときは、常に真っ直ぐに諒順を向くと

 「よろしくお願いします」

 と言ってから諒順に向かって腰を大きく折り、勧められなければ決して椅子に腰掛けようとはしなかった。そして、諒順の話しを聞いている最中は真っ直ぐに彼女を見つめたままで、それは最後まで変わらなかった。

 聞くと紗月は下獄するまで仏教に関して特に関心を持ったことはなかった。しかし、その彼女が個人教誨を求めた理由を尋ねられても最初は曖昧な答えが返ってくるだけだった。もっとも、そのことに諒順は驚かなかった。毎日、好きでもない者同士が共同生活を強いられる暮らしを続けているとストレスがたまることは目に見えている。その者たちの中に刑務官以外の外の世界の誰かと話したいと思う者がいても不思議はないと思ったのだ。

 諒順は仏教の説話をネタにして紗月の気持ちに分け入ろうとした。

 諒順は目の前に現れた受刑者に犯した罪や刑期等は一切、訊かなかった。刑務所側から事前にそれは出来るだけ控えて欲しいと言われていたこともあるが、刑罰として下獄した彼女たちの過去をほじくり返すことが仏の慈悲にすがる術になるとは思えなかったのだ。

 諒順の教誨を受けるとき、紗月は常に穏やかな物腰で、彼女の質問は常に的を射ていた。その理解力に諒順は舌を巻いた。その紗月がある日のこと、いつも通りの教誨を終えて別れ際、突然、落涙した。

 梅雨時の厚い雲が空を覆い細かい雨粒が幕のようになってふる日のことだった。紗月と同室で年齢の近い幾人かの同囚に娑婆の家族から手紙が届いた。彼女らはそれを手にすると一様にはしゃぎ、中には封も切らずに泣き出す者までいた。

 紗月は拘置所や刑務所から家族や親しみ深く思っていた友人、同僚たちに書いた手紙は、しかし、梨のつぶてて、面会など無論のことだった。

 辛い刑務所暮らしに耐えているのに、同囚の女たちの家族はそれぞれに彼女たちのことを気にかけて慰めや励ましの言辞を連ねた手紙をよこすというのに、紗月の心中を察してくれる人がこの世に1人もいないということに彼女は打ちのめされた。

 「松田さんはご家族に何をして欲しいの?」

 紗月が幾分泣き止んだころを見計らって諒順が言い、言われた紗月は俯いたまま考え込んだ。

 「少しは私の気持ちも分かって欲しいって言うか、私が悪いことは分かっているし、言い訳できないけ  ど、完全に縁を切られることは辛くて」

 2人はそれきり暫く沈黙した。

 「紗月さん、あせりは禁物よ」

 不意に諒順が微笑みながら紗月に言った。

 「今はご家族も紗月さんのことに怒っているかもしれない。でも、いずれは気持ちも静まって紗月さん  の本当の気持ちが伝わる日が必ず来るわよ」

  諒順は、そう言いながら紗月の向かって微笑み、紗月は俯きがちに頷いた。

 それからも何度か諒順は紗月を教誨して、そして、昨日、紗月は釈放されて更心寮の寮生となり、今、諒順の膝に顔を埋めて泣いている。

 諒順は紗月の痩せた背中に片方の手を置きながら、彼女は抱え込みすぎる人だと思った。

 刑務所暮らしは辛いに決まっている、その日々のつらさを彼女は1人で受け止めて来たのだろう、そして、事件を起こす前の彼女も、在監中と同様に全てを1人で受け止めようとしていたのではないだろうかと思った。

 泣くことしか出来ない女と何も出来ないと知っている女。

 言葉など消え失せた部屋の中で、2人は重苦しい沈黙の中にいた。


この章の中に出てくる女子刑務所の定数や収容率は平成25年より前に筆者がインターネットで法務省のホームページ等で検索した結果の数値を元にしています。ですので、現時点での数値とは乖離があると思われます。

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