第29章 父からの手紙
暦は進んで2月となって、日本列島の南の地方では桜の便りも聞かれる頃になっても北海道の釧路は真冬日が観測されても誰も驚かずにいるころのこと。
松田紗月は、この日、勤めている田中事務所の所長、田中恒太郎から仕事を休むように言われたのでハローワークで仕事を探していた。
紗月は、一昨年の職探しの時のことを思い出して、早速、求人票を眺めたり端末を操作したりして仕事探しを始めた。尤も、今日は小手調べ程度の気持ちでいるからさほど熱心に求人票などを眺めることも無かった。
紗月には釧路にいる理由もないが、そうかといって釧路から去る理由も無かった。詳しく調べたりはしなかったが、武州刑務所で一緒に服役していた女性達は関東、東北、北海道の出身者が多かったように思う。だから、西日本のどこかにいくと、それだけ自分の過去が他人に知られる危険が少なくなるような気がする。それで、取りあえず、今日のところは、関西、中国、四国地方の企業で、事務系か清掃員の募集を見ることにした。
ぶつぶつ小声で独り言を言いながら求人情報を見ていると、不意に肩を、ぽん、と叩かれた。少し驚いて振り向くと、顔には見覚えもあるようだが、名前の思い出せない、年の頃なら還暦前後といった女性が笑顔で立っていた。彼女の着た濃紺のアノラックの胸に「(株)冬木燃料販売 冬木」と入れられているのを見て紗月は思いだした。その女性は冬木さんの奥さんだった。
「虔陵院の松田さんよね」
「はい、松田です、お世話になっています」
そういいながら冬木さんの奥さんは紗月が手元に置いた求人票をのぞき込んだ。
「仕事探し?」
「ええ、どこかに良いところはないかと思いまして」
「うちの人から聞いた、順照さん、釧路からいなくなるんでしょう」
昨晩の檀家の寄り合いの席で順照は本山からの指示を檀家達に伝えたのだろう。
「松田さんも居なくなるの?」
「はい、順照さんがいなくなるのに私がお寺には居られませんから」
聞いた冬木さんの奥さんは一瞬、眉間にしわを寄せ、何かを言いかけて途中でやめたようだった。
「松田さん、釧路、嫌い?」
「釧路って良い町ですよね」
少し考えてから、間をおいて、ほぼ初対面の人間に唐突に何を言わせようとするのかと思いながらも相手の声にも表情にも悪意は感じられなかったので素直に答えた。
「松田さん、経理の資格、持ってないの?」
「一応、簿記の2級は持ってますけど」
紗月の答えを聞いて、相手はにっこりと笑い、そう、とだけいうと挨拶を残して、そのままそこを出た。
紗月はきょとんとしてその後ろ姿を見送った。
結局、この日は職探しを早めに切り上げると近くの蕎麦屋の親子蕎麦で体を中から温め、庫裏についたのは1時を少し過ぎていた。茶の間では順照は趣味の写経に忙しそうだったので、昼寝しますね、といい自分の部屋に入った。順照は、目の前の経文から顔を上げることはせずに、お前、この頃お尻が大きくなったんじゃないかい、と冗談を言い、言われた紗月は両手でそれを隠した。
この日の夕方、実加子が逝ってからいつもそうしているように紗月が夕食の支度をし、それを終えると風呂に入って2人は再び茶の間の食卓テーブルに向かい合わせになった。
順照が何も言わないのをいいことに、この頃の紗月は風呂上がりは茶の間でも寝間着で過ごしている。その紗月がテーブルに向かうと履歴書を書き始めた。
「紗月、お前」
紗月が書いているそれを何気なくのぞき込んだ順照は小さな声で言い、紗月は小さく頷いた。
その履歴書の「履歴」の欄には「河北大学医学部大学院博士課程前期課程単位取得退学」とあって、「特技・資格」の欄には「医学修士」とあった。
「書く気になったのかい、お前が元医者だったってことを?」
「だって、私の事件はインターネットに出ているから。履歴書を受け取った会社の人が私の名前で調べた ら簡単に知られてしまいます。隠しておけることではないって、東京にいるときにはっきりとわかりま したから」
「そうだねぇ」
「自慢するつもりで言うのではありませんけど、私は事件を起こした罰として6年間刑務所に入れられて いました、それで全て償ったなんて言うつもりはないけど、2度と馬鹿なことはしないって誓えるので す。」
紗月は更心寮にいるときにパートで働いていたコンビニであったことや大学生だったころに同じ女子寮で暮らしていた吉川加奈さえも自分が役員をしている会社で紗月が働くことを認めようとしなかったことを順照に話した。
「分かってくれない人は一生かけて説得しても分かってくれないと思います、でも、順照さんや実加子 ちゃんのように分かってくれる人も必ずいると思うようになって」
「紗月、お前、強くなったね」
順照が笑顔で紗月に言い、紗月もにっこりと頷いた。
「お前、釧路の保護観察官事務所に顔を出してみたら?」
言われて紗月は頷いた。
順照ももちろんのこと実加子も保護観察官事務所とは釧路では縁が無いから調べたこともないが、確かにこれだけの人口がいて地裁や地検の本庁が置かれている町にそれが組織されていないということもないだろう、そこなら法務省の協力企業を紹介して貰えるかも知れない。
「私、釈放されてから2年以上経っているけど紹介して貰えるのかな」
「一か八かだよ、駄目ならハローワークに通うといいよ、私が釧路を出るのは4月の末頃なんだから」
言われた紗月は再び履歴書を書き始めた。
次の日は、昨晩からの雪に風がついて本格的な吹雪となった。
紗月は浪花町にある釧路地方合同庁舎に釧路保護官事務観察所が入居していることを電話帳で調べて知って、田中事務所の帰りに寄ることにした。
そして、2月も中旬になった頃のある日の夕方のこと、渡辺順照は1人で虔陵院の庫裡の茶の間でお茶を飲んでいた。
今日は彼女と一緒に住んでいる松田紗月は勤め先の田中事務所に出勤している。
順照がふと壁に掛けてあるカレンダーに目を遣ると、それに書かれた日付が一瞬、滲んで見えて、そのことに彼女は苦笑した。
私も年を取ったと順照は思う。
幼い頃から人と争うことが好きで、なによりも他人の風下に立つことが嫌だったから必死になって勝とうとした若い頃、夫の愛人たちを殺害して下獄してからだって、しばらくはその鉄火な気性は相変わらずで、懲罰にかけられることも珍しくはなかったが、ある日のこと、獄中にあって勝敗はあっても優劣はなく、皆、平等に世間より劣っていると思うようになった彼女は、それまでとは別人のようにおとなしくなった。
いまさら、この命を惜しむつもりなどなかった。ただ、自ら命を絶ってしまっては、はからいをすてよ、と言う宗祖の教えに反すると思い、今は、ただ、阿弥陀様からのお迎えを待つだけだった。その順照は日を経ずして東京に戻る。夏の東京の暑さに耐えにれるかどうか、順照も自信がないが、ままよ、獄中で死なずに済むだけでもありがたいと思えば思い煩うことは無かった。
それにしても、一緒に暮らす松田紗月のことが気にかかる。
順照からすると気性の優しい頭のよい子だが、職探しは上手く行かないようだ。
紗月は、何とかします、といってハローワークに通っているが、手こずっている様子はありありと順照にも分かる。
この虔陵院の庫裡で我が子とも思って暮らした四藤実加子が亡き後、順照が東京に行ってしまったら、紗月は釧路で独りぼっちになってしまう。
順照はあの子なら耐えられるとは思うが、しかし、この釧路で、紗月にとってこれと言った係累のないまま独り暮らしをしている様を思い浮かべると憐れを催す。そうかといって、今、残された時間が少ない中で紗月に友人を紹介することも出来る相談ではなかった。
紗月のこれからを案じながら、眼鏡をかけてぼんやりと赤く燃える石油ストーブの炎を見ながら順照が冷えたお茶に口を付けると庫裡に来客があった。
「突然、お邪魔して申し訳ありません」
庫裡の玄関のドアを開けると目の前には如何にも高級そうな黒いコートを着た男性と、その後ろにやはり高級そうな濃紺のコートを着た女性が立っていて、男の方が笑顔で挨拶し、女が恭しく頭を下げた。
寒い外に立たせておくことも出来ないので2人を玄関に招じいれると男はコートの下に着た背広の上着の内ポケットから財布を取り出して、中から名刺を一枚抜くと、私、こういう者ですと言って順照に渡し、受け取った彼女は上がり框に正座してそれを受け取った。
その名刺には「東北合同銀行株式会社 代表取締役社長 田本剛造」とあった。
「田本さん、失礼ですが、私どもの檀家様の方でしょうか?」
「いいえ、違います」
順照に名刺を渡した男は慌てた様子で言い
「こちらにうかがっているはずの松田紗月さんという方に」
「松田紗月は、たしかに家におりますが、失礼ですが、田本さんは松田とはどういう?」
「その松田紗月の生みの母が私の長姉でして」
「ということは、紗月のおじさん、ですか」
男はにっこりとして頷いて隣に立っている女性を、これは私の妻の優子です、と言って順照に紹介した。
順照にしても紗月から親戚の叔父がいること、その人物から事件を起こして拘置所にいた時に、実家の両親から勘当を申し渡されたことを伝え聞いてはいたが、その当人が目の前に現れるとは思いもせず、少しばかり慌てたが、ともかくも庫裡の茶の間に上げた。
順照は秋田からきた2人を応接セットのソファに座らせるとお茶を出した。
「姪がお世話になっておりまして」
育ちの良さがそのまま現れた柔らかな物腰の2人に順照はいつの間にか好感を持った。
「今日は、わざわざ紗月さんに会いに」
「いえ、それだけでもありませんで」
往時、北前船と呼ばれた船舶が釧路地方と東北地方の交易に重要な役割を担っていて、その航路を通じて秋田県民は異郷の釧路地方に多数進出していた。その縁もあり釧路と秋田の経済界は何かとつながりがあり、今回の剛造の釧路訪問も秋田の経済団体の財界活動の一環ではあった。
「どうして、姪御さんが虔陵院にいるとおわかりになったのですか?」
「実は、この写真がきっかけでして」
剛造はそういい、隣に座った優子に促すと彼女が手提げバックの中からティッシュペーパーに包まれた1枚の写真を取り出して順照に渡した。
それを見た順照は思わず声を上げそうになった。
それは去年、本堂で行われた佐藤家の葬儀の時に撮られた1枚で、喪服姿の紗月が手提げ金庫を両手でしっかりと持ってもう1人の男性と一緒に受付から出てきた様子を撮った一葉だった。その写真には紗月の顔がはっきりと写っていた。
この葬儀の主となった佐藤家の老婆は秋田出身の女性で若い頃に仕事で秋田にいた釧路出身の男性に見初められて結婚して、帰郷する彼に伴われて来釧した。去年、彼女の訃報を受けた秋田の親戚の者が釧路を訪れて葬儀に参列したのだった。
「これを撮った人は妻の母方の従兄弟です。これに姪が写っていたもので」
この写真は、その従兄弟が自分の携帯電話で撮ったものだった。彼は紗月の事件など覚えていなかった。ただ、優子が他の用事で出席できなかった実家の法事で、集まった親戚達の写真を彼女に電子メールで送ってきたときに偶然添付されていて、それをプリントアウトして見た優子が驚いて剛造に知らせたのだった。
「偶然とは恐ろしいものです」
順照は剛造が言うのを聞いて、何度も頷いた。
「姪と私どもの次女が同い年で、双子か兄弟のように仲が良かったもので。それがあんなことになっ て、それでこの写真を見せられて、つい一目会いたいと思うようになってこちらにお邪魔したしだい て」
「田本さんの娘さんは今日は?」
「いえ、今日は私と家内の2人だけです。こういうことですから、やはり姪の気持ちも聞いてからで 無ければ私どもの娘に言うわけにはいかないと思いまして」
順照は田本剛造の話しに大きく頷いた。
「あの子、いえ、紗月さんは先月、秋田に行ったのです」
「紗月ちゃんがですか」
驚いた剛造と優子は驚いて顔を見合わせた。
「紗月さんは田本さんのお宅には?」
「いえ、全く」
「そうですか」
順照はそれきり何も言わなくなり、他の2人も口を閉じた。そして、茶の間にストーブの音以外に何も聞こえなくなってしばらくして、ベランダが風に揺られてガタガタと音を立てたとき、不意に順照が口を開いた。
「田本さん、姪御さんを強く叱らないでやって貰えませんか。あの子、本当に良い子なんです」
「叱るだなんて、そんな。私たちは紗月ちゃんが元気な姿を見たくてお邪魔しただけですから」
田本剛造が言うのを聞いて順照は安心した。
「ただいまぁ、順照さん。今日もしばれたね、風も強いし」
田本夫妻が庫裏についてから1時間近く経った頃、紗月が帰宅した。虔陵院には一応、車はあるが事故が怖いと言って紗月は田中事務所に通勤の時には専らバスを使っているのだった。
紗月は玄関にきちんと並べられた男物と女物の二足の口を見て来客があることを知り、誰だろうと思いながら茶の間に入ろうとすると、そこには応接セットのソファに座った田本剛造夫妻がいた。
彼女がドアを開けて茶の間に入ろうとして、ソファに腰掛けてこちらを見て微笑んでいる叔父夫婦を見て目を丸くして、急いで庫裏を出ようとしたものだから順照が追いかけていって、半ば無理矢理に茶の間に引き入れた。
「紗月ちゃん」
「さっちゃん」
茶の間の床に正座した紗月はストーブを背にして遠来の叔父夫婦に対面したが、しばくは顔を上げることも出来なかった。
「紗月」
順照が小さく言うと彼女はコートを脱ごうともせずに改めて姿勢を正すと2人に向かって三つ指ついて
「お二人には私のせいでご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
と言い、頭を下げて、そして、涙を流した。
田本剛造と妻の優子は優しい目で紗月を見つめ続け、彼女は叔父夫婦を正視出来なかった。
「紗月、足が痛いだろう」
順照はそう言いながら彼女の背中に手を当てて食卓テーブルの方に行かせて、田本夫妻もそれに従った。
紗月の隣に順照が座り、そして、テーブルを挟んで田本夫妻が座った。
「元気そうで安心したよ、紗月ちゃん」
田本剛造は本心からそう思い泣き濡れる姪に言った。
「ありがとうございます、叔父さん達もお元気そうで」
「おかげさまで何とかやってますよ」
それきり茶の間には再び静寂が訪れた。
「随分痩せたね、紗月ちゃん。辛い思いをしたんだろね」
「刑務所に入れられてから、急に痩せ始めたもので」
「釈放されてからも、きっと苦労したんだろう?」
田本剛造に言われて紗月は釈放されてからの東京での日々のことをかいつまんで話して、それを聞いて剛造達は頷きながら顔を曇らせた。
「全部、自業自得なんです。私があんな馬鹿なことをしたから当然の罰なんです」
紗月はなおも俯いたまま消え入りそうな声で言った。
「釈放されてから家には連絡しなかったの?」
「1度だけ、東京で風邪がこじれて入院したときに連絡しようとしたけど途中で止めました。だって、 私が拘置所や刑務所から何度も手紙を書いたのに、一度も返事をくれなかったから、きっと駄目だろ うと思って諦めました。」
「では、紗月ちゃんは秋田の実家のことは何も知らないのだね?」
剛造は深刻そうな顔をして俯き加減になり、眞知子はハンカチで顔を覆い、その叔父夫婦の様子を見た紗月は背筋が寒くなった。
「私の実家に何かあったのですか?」
「紗月ちゃん、落ち着いて聞いて欲しいけど君のご両親とお兄さんは皆、お亡くなりなんです」
叔父の田本剛造が言ったこと耳にした紗月の目から文字通り涙が噴き出した。紗月にしても剛造が言うことを全く思い浮かべなかったわけではない。だが、それが現実となって目の前に立ち現れたとき、紗月にはそれは重すぎた。
「皆、死んだのですか、家族が皆?」
「残念だけどね」
と言ってから、彼は紗月が知らない彼女の事件の後の松田家の様子を話し始めた。
紗月の父の松田正幸が紗月の事件を知ったのは、彼が引き受けていた秋田の経済団体の活動で東京に出張した日だった。携帯電話に眞智子から仙台で医師をしている紗月に何かあったらしい、という留守番電話が残されていたが、さして気にとめることもなく、秋田から同行した数名の仲間達と東京のホテルのレストランで食事をしている時に、仙台の河北大学病院で殺人未遂事件が発生というテレビニュースが流れて、容疑者として紗月の顔写真がテレビ画面に映し出された。それを見た正幸は
「お恥ずかしい」
と言いながら額の汗を拭う以外に何も出来なかった。
妹が事件を起こしたことは九州の裁判所で判事として勤務していた兄の幸治にも眞智子から伝えられた。
これ以降、しばらくの間、松田家は大混乱に陥った。
正幸は家庭では大人しい人だった。妻子から軽んじられることは絶対に受け付けなかったが、しかし、時には冗談を言い家族を和ませた。ただ、仕事では自他共に厳しい人で、松田家のことでも自分の弟妹に仕事と同じように厳しく接した。彼からすると本家継嗣としてのつとめを果たしているだけだと思っていたが、受け取る方の心は何時しか彼から離れていた。だから、娘の紗月の事件の時、それら親戚等の許を謝罪のために訪れた時、訪れた先々で非難され続けた。それは正に地獄だった。さらに、事件を聞きつけて東京のゴシップ週刊誌が半ば作文といった趣の記事を書き立てた。正幸と眞知子は手分けして書店でそれらをできる限り回収した。また、某テレビ局のワイドショーの取材班も紗月の実家の住所をかぎつけて、玄関先に現れた。眞知子はそれらの取材にインターホン越しに対応した。彼らが次の事件を追って紗月の事件に関心を示さなくなり、誰も取材に訪れることの無くなった頃、正幸と眞知子は2人とも安堵のため息をもらすとともに、お互いに事件の前に比べてやつれきったことに気がついて、涙を流し合った。それでも、彼らは何処か余所に引っ越すことは逃げ出すことだと考えて、その家に止まっていた。おかげで2人は事件以後、約1年間は殆ど引きこもりのような暮らしを送っていた。
事件が起きて1ヶ月も直後、体調の良いときを見計らって2人は仙台で紗月が暮らしていたマンションを訪れた。
2人は主を失った娘のマンションの室内でしばらくの間、立ち尽くした。
そこはよく片付けられていて、掃除も行き届いていた。風呂場もきちんと片付けられていた。散らかっているのは唯一、紗月が仕事や勉強に使っていたと思われる机の上だけで、そこには読みかけの医学書が広げられていた。
2人はしばらく訳もなく部屋の中を歩き回った、そして、突然、紗月の母の眞知子が膝から崩れ落ちて座ると両手で顔を覆って泣き始めた。それを見た正幸は妻の横にかがんで、何も言わずに、その背中をさすり続けた。その時、正幸も泣いていて、彼の中で娘の紗月に対する怒りがふつふつと湧いてきた。
正幸はそのマンションの契約を解約して、娘の所持品は全て処分した。妻の眞知子も紗月を勘当することは承知していたから、2度と生きては会えないと思い、形見のつもりで何かを持ち帰ろうとしたが、正幸はそれを許さなかった。だから、眞知子は紗月の大学の卒業アルバムを正幸に気付かれないように持ち出すことが精一杯だった。
何度もビジネスの修羅場をかいくぐって生きてきて自信に満ちていたはずの松田正幸は、しかし、よりにもよって愛娘の起こした事件をどうしても乗り越えることが出来ず、事件直後から入退院を繰り返す様になってしまった。それは母の眞智子も同じことだった。
紗月の兄の幸治は将来の最高裁判事候補の一人と周囲から噂される程の能吏だったが、実の妹が事件を起こして下獄したとあっては判事を続けるわけにもいかず、彼は紗月が下獄した翌年の春の人事異動の時期を待たずに一身上の都合を理由に辞表を書いた。
幸治は退職後、妻子を連れて帰郷して秋田の実家で両親と同居することになった。 幸治も又、努力の人だった。彼の周囲は彼に法律家としての天稟を見いだしていたが、当人はひたすら努力して手に入れた職能に過ぎなかった。彼にしても出来るなら将来は日本で15人しかいない最高裁判事になってみたいと思わないでも無かったし、自分にはその資格があるように思いもしたが、しかし、それだとて必死になって努力して手に入れる地位だと思っていた。その努力の成果は、しかし、妹の紗月が事件を起こしたことであっさりと否定された。正幸も又、幸治が職場で将来を嘱望されていることを知人から伝え聞いて陰ながら喜んでいて、息子のためなら会社の地位など惜しくないと言い、自らが経営する会社の社長には松田家にとっては外様と言っても良い会社の重役達の中から選ぼうと思っていたくらいだから、息子の幸治の境遇の変化に同情して娘の紗月への怒りを倍加した。
幸治は秋田の実家で妻子と共に暮らすようになってから、しばらくの間、酒浸りの日々を送っていた。一時は眞智子が彼の手を引いて専門医を受診させて、軽度のアルコール依存症の可能性を指摘された。
幸治の妻も2人の子供達の手前もあって昼間から酒におぼれて時には怒声を発する様になった彼の変わりように困惑した。
幸治と彼の妻は幸治の両親の知らないところで離婚話を進めた。2人が危惧したことは、2人の間に出来た子供達の身内に殺人未遂罪で服役した叔母がいるということだった。幸治は2度と紗月と会うつもりは無かったが、しかし、2人の子供の将来の障害は出来るだけ少なくしておきたかった。だから、2人は離婚して、子供達の姓も妻の旧姓に変わった。息子夫婦の出した結論に正幸は内心では困惑し息子夫婦に遠回しに翻意を促したが幸治が
「僕たちの子供たちが将来、どんなに悪いことをしても最後は家族が守ってくれ るなどという甘ったれた考えを持った人間に育って欲しくない」
といい、それを聞いた正幸は言わなくなった。
幸治は妻子と別れてから間もなく、実家を出て仙台の弁護士の友人の事務所で働き始めた。
紗月が下獄して2年目の夏、正幸の妻で紗月の母の眞知子が自宅で入浴中に脳内出血を発症して病院に運ばれた、そして、彼女は、その夜遅く息を引き取った。
さらに、幸治が紗月が下獄してから4年目の冬に借りたマンションで1人で暮らしていて、急に心臓病で死去した。
幸治の妻は、彼と離婚したがそ本心からではなかったから、夫の急死を嘆き悲しみ、それは子供達も同じことだった。そして、何よりも心のよりどころと思っていた長男が自分より先に逝ったことが紗月の父の正幸を打ちのめして、彼は再び体調を崩して入院する羽目になった。
「兄さんの奥さんとか子供達は、きっと私のことを恨んでいますよね」
「正直言って、幸治君の奥さんは怒っていたよ。どうして幸治君が若死にしなければならないのかっ て、紗月ちゃんにも責任があるはずだって、彼のお葬式の時に言ってた」
「お父さんは何か言っていましたか?」
「幸治君の奥さんや子供達に謝るのが精一杯だったよ。おじいちゃん達が紗月ちゃんの育て方を間違っ たから孫たちにも辛い思いをさせたって」
正幸の心中を察した紗月は大粒の涙をこぼした。
紗月は私が起こした事件は親の責任なんかじゃない、私が馬鹿だっただけなのと叫びたい衝動に駆られた。
「それに、事件の直ぐ後に、被害者の楠田聡子さんが紗月ちゃんを訴えるって連絡してきてね」
「そんな」
「紗月ちゃんの親もびっくりしてたよ。2人は事件直後に被害者のところまで謝罪にいったのに、さら に紗月ちゃんを訴えるだなんてって言ってね」
紗月が刺した楠田聡子は事件直後に勤務先の河北大学病院に入院した。彼女はいかにも重症患者のように振る舞ったが、彼女の主治医を含めて誰もが大げさだといって陰口した。そんな彼女が退院して仙台市内の自宅にいるところに紗月の両親が娘のことを謝罪するために訪れた。
「その時は、まさに剣もほろろ、取り付く島もなかったそうだ」
彼女の住む賃貸マンションの玄関に入れられた2人は、そこで正座して平身低頭して楠田聡子に娘のことを詫びた。相手の聡子はまさにかさにかかって2人をおよそ1時間も罵倒し続けて、それを受け続けた2人は涙するしか無かった。しまいには、2人が手ぶらも何だからと言って折角、買ったケーキを足蹴にして、帰ってよ、と言って2人を追い出した。ただ、2人はこれで聡子からの要求は今後は無くなると思っていた。それだけに、彼女の代理人となった弁護士から紗月を被告として聡子が損害賠償請求訴訟を起こすつもりだと知らせてきたときには、正に仰天した。
2人は慌てて正幸の長年の友人で長年、彼の会社の顧問弁護士もつとめていた三池弁護士に相談した。正幸達の相談を受けた三池弁護士は、法的には楠田聡子がきわめて有利だと言うこと、そして、仮に訴訟となったら、獄中の紗月は釈放後に今度は損害賠償のために働くことになることを説明した。
「私、そのようなこと、刑務所にいるときに何も聞いていませんでした」
「眞知子姉さんたちが弁護士さんとも相談して、形は紗月ちゃんが被告だけど姉さんたちが楠田さんの 言い分を全て呑むことにしたんだ。だから、刑務所の中の紗月ちゃんに連絡はいっていないはずなん だよ」
「向こうの言い分って」
「ずばり言うとお金なんだ。事件の怪我が原因で働けなかった期間の休業補償と慰謝料を取られたよ。 三池先生は先方の弁護士との間で和解調書も作成したから後腐れは無いと思うけどね」
「お金って、どのくらい払ったのですか?」
「たしか全部で700万円くらいかな。三池先生も高いって言ってたそうだけど姉さん達はここで相手 を刺激してはまずいからって、言うとおりに払ったはずだよ」
「私のせいで、そんな大金を」
「まあ、松田家は資産家だからね、700万円くらいなら何とかなるよ」
「だから」
「だから、なに?」
「だから、私のことを見捨てたのでしょうか?」
「紗月ちゃんはお父さん達のことを恨んでいるの?」
「少しは私の話しを聞いて欲しかったって思っていました。事件を起こしたことは事実だから、勘当も 当然だとは思っています。裁判の時は言い訳は許されないと思ったから何も言いませんでした。で も、私だって訳も無く人を殺そうとなんてしません、自分のやったことが悪いことだとは思っている けど、でも、あの人と私の間に何があったのかを家族には聞いて欲しかった、仕事で本当に疲れ切っ て、追い詰められていたっていうことを分かって欲しかった、私、家族には感謝しているんです、温 かい家庭で育てられたって、私は家族とは良い思い出しか無いんです、だから、刑務所にいたときは 赤の他人のように、お前は悪い奴だなんて言わないで欲しいって思っていました」
紗月はしゃくり上げながら涙を拭おうともせずに言い、他の3人は彼女を無言で見続けた。
「私が釈放されたときのことは何か言っていませんでしたか?」
「その時には、もう、お義兄さんしかいなかったからね、お義兄さんもどうして良いのか分からないみ たいだったよ」
「私、無理とは分かっていたけど少しは釈放の時に家族の誰かが出迎えてくれるかも知れないって期待 していました」
「もし釈放の時に家族が迎えに来てくれて、一緒に秋田に帰ろうと言われたら、どうするつもりだった の?」
「殴られても構わないって思っていました。ただ、きちんと謝ろうって、土下座でも何でもして御免な さいって言おうって思ってました。一緒に秋田に帰ろうと言われても、多分、断ったと思います、 だって、申し訳ないから」
紗月は依然として俯いたままで、ときおり、しゃくり上げながらいい、剛造夫妻は共に頷いた。
「お義兄さんは紗月ちゃんを勘当したことは正しかったって、ただ」
「ただ?」
「紗月ちゃんが刑務所から釈放されてからも一切、手をさしのべなかったのは冷たかったって言ってい たよ」
紗月は剛造のいったことを聞くとはじかれた様に顔を上げて剛造を見つめた。
「お義兄さんも紗月ちゃんの釈放後のことについては悩んでいたよ。眞知子姉さんも幸治君も死んでし まっていたから誰にも相談できなくてね。僕がお義兄さんから気持ちを聞いたのは紗月ちゃんが釈放 される2ヶ月くらい前だった。紗月ちゃんは医者の免許を持っているから釈放されてからも日本中の 何処かで医者になって食べていくことは出来るはずだって言ってた。お義兄さんは三池先生に頼んで 紗月ちゃんの医者の免許の効力が回復していることも調べてもらっていたのだよ」
紗月は剛造に言われて涙した。
彼女は下獄以前は考えもしなかったが、釈放後の世間では常にお金の問題に頭を悩ませていた。だから、釈放後、医師になると食べるには困らないのだから家族が何もしなくても良いという父の考えも半分は理解できた。だが、事件以後、家族と一度も連絡していないのに、自分の気持ちを推し量ろうとしてくれなかった父に少しは恨みがましい気持ちを抱いた。
「お義兄さんが亡くなる2週間くらい前だったかな、呼ばれて施設に行ったのだよ。お義兄さんは紗月 ちゃん達が住んでいた秋田の家はこれから先、誰も住まないからって売ることにして、僕の会社のグ ループ会社で買うことになってね、その手続きのために呼ばれたのだよ。あの家を売った代金も含め てお義兄さんの家の財産は全て幸治君の残した家族に渡すことにしたのだそうだ。三池先生が手続き 全部を頼まれていた。お義兄さんは孫達にしてあげられることはこれしかないって言ってね」
紗月は剛造に言われて小さく頷いた。
「お義兄さんは紗月ちゃんの事件の時に、真っ先に幸治君達のことを思い浮かべたたそうだ。彼のお 嫁さんの実家とのこともあるしね。でも、紗月ちゃんが刑務所から釈放されるときに手を差し伸 べなかったのは冷たすぎたって、紗月ちゃんが罰を受けることは仕方が無いけど紗月ちゃんだっ て刑務所の中で遊び暮らしていたわけはないのに、そのことを分かってあげられなかったって。 幸治君のことは彼の家族のことも含めて手厚く気配りしたのに、紗月ちゃんには随分と冷たくし たって、僕は父親失格だって言っていたよ」
紗月は父、正幸が自らを父親失格と言っていたと聞かされて、何度も首を横に振った。
「紗月ちゃん、お義兄さんからこれを預かっていてね」
剛造は手にしたバッグの中から1枚の封筒を取り出して紗月に渡して、受け取った紗月はその中から手紙を取りだした。彼女が手にしたそれには彼女が見慣れた父の字がびっしりと書かれていた。
「それを渡されたのはお義兄さんが亡くなる2ヶ月くらい前かな。僕はその時、紗月ちゃんを探すことを 提案したのだよ。お義兄さんの会社で使っていた信用調査会社では人捜しの仕事も受けるからね。で も、お義兄さんには断られたよ、紗月 ちゃんに会うのが怖いって」
「私が怖いですか?」
「お義兄さんは、お義兄さんの知っている紗月ちゃんと人を殺そうとするような恐 ろしい紗月ちゃんと では違いが大きすぎるって、だから、変わってしまった紗月 ちゃんを見たくないって言ってね。お義 兄さんにとっては紗月ちゃんはいつまで も可愛い娘でいて欲しかったのだと思うよ。その手紙を託さ れたとき、もし紗月ちゃんにそれが渡らなくても仕方がないって言っていたよ」
叔父の田本剛造に言われてから紗月は改めて手にした父からの手紙を読んだ。
「前略 この手紙が君に届けられた時には、僕はこの世にはいないことでしょう。
もう二度と生きて君に会えないことを思うと残念でなりません。君が大事に思っていた君の母と兄は、もうこの世にはおりません。重ね重ね残念です。
僕も年をとったせいか最後に君とゆっくりと話したのが何時だったのかが思い出せません。
君も知っての通り僕は松田家の本家の長男に産まれました。今の時代では考えにくいことかも知れませんが、僕が生まれた頃は僕のような生まれの人が家を継ぐことが当然とされていました。そして、僕は、そのように思う周囲に幼い頃から反感を抱いてきました。
僕は商売に興味がありませんでした。それは今も大きく変わってはいません。
君にも言ったことがあると思いますが、僕は大学在学中に写真家、それも風景写真家になりたい思うようになりました。しかし、自分に才能がないことは直ぐに分かったので断念して商社に入って名古屋で働いていました。当時、僕は不動産部門にいました。忙しい職場でしたが、そこそこ楽しかったことを覚えています。そして、31歳の時、君からすると祖父母から説得されて今の会社に入りました。入社以後は脇目もふらずに走り続ける思いで働いてきたつもりです。
僕も君が逮捕されて拘置所や刑務所から手紙をくれていたことは知っていました。ですが、僕たち家族は誰もそれに返事を出しませんでした。
先ほども言った通り、僕も自分のやりたいことを全て放棄して、やりたくないことも引き受けて努力してきたつもりです。僕は仕事とは、人生とはそういうものだと思っています。だから、君が事件を起こした時も、率直に言って甘ったれるなと思っていました。当時の僕には君が生きることから逃げようとしているように思えて仕方が無かったのです。事件を起こす前に、なぜ僕たち家族のことを思い出してくれなかったのか、僕たちと君との間の家族の絆とはそんなにも弱いものだったのかとも思っていました。君を恨んでいたと思われても仕方がありません。
君が6年間の懲役を終えて釈放されたのに、助けようとしない家族のことを、君は冷たい家族だと恨んでいることでしょう。それも仕方が無いことだと思います。
今、僕は、君の事件の頃の考えは間違っていたと思うようになりました。
僕と君のお母さんは、君の事件の後に、君の住んでいた仙台のマンションに行きました。
その時の君の部屋はきちんと片付けられていました。それは高校卒業まで君が実家で使っていた家の部屋と同じでした。
僕が知っている君は高校生までの君です。そして、その君はいつも笑顔で誰にでも優しくて大人しい君です。そんな君が他人を刺したことは間違いなくても、そうなるにはきっと何かあったはずだと何故、あの時に考えることが出来なかったのかと今、悔やんでいます。君が大きな罪を犯して刑務所に入れられたことは悲しいことですが、家族なのだから釈放後には突き放す以外にできることがあったのではないかと思われてなりません。
君がしたことを思うと、これからの人生ではきっと辛いこともあることでしょう。しかし、どんなに辛いことがあっても君にはそれを乗り越える力があると信じます。
これから先、君が穏やかな人生を送られることを念願しています。
父より最愛の娘、紗月さんへ
追伸 がんばれよ、紗月ちゃん 」
「お父さん、嫌だー」
紗月は父の遺書ともいえる手紙を両手で握りしめて、目の前のテーブルの上に上半身を突っ伏して、そして、大声を上げて泣いた。その姿を見て、田本剛造夫妻も、そして、順照も涙した。




