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さなぎたに1人  作者: きたお
28/30

第28章 しばれる朝に

松田紗月は実加子が亡くなって1週間後には田中事務所に出勤した。事務所の田中も虔陵院の渡辺実加子が死んだことは聞かされてはいるが、何も言わなかった。

 暦は進んで12月となり真冬日になる日もあるようになった。

 生前の実加子は絵を描いている時以外は常に順照、紗月の側にいたがる人で順照などは時にうるさそうにしていることもあったのだが、今、こうして彼女がいなくなると寂しさにさいなまれて、それは紗月も同じことだった。

 実加子の亡骸が荼毘に付されて帰ってきた翌日の夜のこと、順照が茶の間でTVを見ながら寛いでいた紗月に手渡した物があった。

 「お前達が網走から帰ってきた翌日に実加子から預かったんだよ。 私が死んだ  らお前に形見として渡してって言われてね」

 そう言いながら順照は紗月にスケッチブックと封書を差し出した。

 「あけてごらんよ」

 順照に言われて紗月は封のされたスケッチブックを開けた。

 それには実加子が丹精して書きためた数々の風景画がおさめられていた。そして、数ページにはウエディングドレスを着た顔の描かれていない女性像が描かれていて、最後のページには颯爽とスーツを着こなした紗月と和装の花嫁姿の紗月の全身像、そして、玄人はだしのアップの似顔絵が描かれていた。

 「私も、同じような物をもらったんだよ。私のは殆ど尼さんの格好している絵だ  けどね、地味だよね」

 「手紙は?」

 「もらったよ、後で自分の部屋で読むよ」

 この夜、紗月はいつもより早めに自分の部屋に入ると早速、机に向かって実加子からの手紙を読んだ。

 「前略 松田紗月様

   このお手紙は順照さんのお誕生日の夜に書いています。どうして、こんなに  早くに書いたかというと私の病気の症状が重くなると脳に障害が出て読み書き  が出来なくなるかも知れないと本に書いてあったからです。私なりに色々と調  べたんだよ(笑い)。

   紗月さん、私は人生の最後で紗月さんに出会うことが出来て、本当に良かっ  たです。

   東京の増井諒順さんから紗月さんを釧路に行かせたいって話しがあったって  順照さんから聞いて、私は最初は順照さんの取り合いになりそうで嫌でした。  でも、紗月さんと初めて会って、一目見て、この人となら上手くやっていけそ  うって思いました。自慢じゃないけどヤンキーだった頃に色んな女を見てきた  からね、女を見る目はあるんだよ。そして、今、私は神様が私のことをかわい  そうと思って、最後に紗月さんを私の所に連れてきてくれたんだって思ってい  ます。それくらい私は紗月さんのことが大好きです。

   松田紗月さん、短い間でしたが、これまで私のような奴につきあってくれて  本当にありがとうございました。私は地獄に落ちるだろうけどあなたとの素敵  な思い出は決して忘れません。では、できるだけ遅くあの世に来て下さい、あ、  私は地獄で紗月さんの行くところは天国だったね(笑)。

  では、さようなら、そして、本当にありがとうございました。 四藤実加子」

 紗月は両手で手紙を持ったまま動かなくなった。

 今年の1月、東京の更心寮にいる増井諒順から釧路行きを勧められた時には、一瞬、戸惑って、そして、とにかく東京から立ち去りたい思いだけで受け入れた。そして、あの寒い日の夕方、虔陵院の近くにある喫茶室柏木で初めて実加子と会った。

 初対面の時、紗月は実加子を一目見て綺麗な人だと思った。そして、何となく険があるような気がした。しかし、その懸念は虔陵院の庫裡で順照を交えて暮らしているうちに誤解と分かった。

 実加子はとにかく紗月が来たことが嬉しくて仕方が無いようで、紗月が寝ている部屋に毎夜、来ては駄弁っていた。紗月も初めは戸惑ったが、しかし、冬の寒さが身にしみる頃に1人で居ることにも疲れていたから、話し相手ができたことは嬉しかった。

 実加子の体温も体臭も吐息も、どれもこれもが、今、紗月の前から消えた。

 紗月は、闇の中に手を伸ばしても闇があるだけと知って、なお腕を泳がせているような心境になって、涙した。

 

 年があらたまるまで数日を残すだけとなった日曜日のこと、紗月が庫裡の茶の間の片付けをしていると手を休めて壁に掛けられているカレンダーを見つめた。

 「どうしたんだい、紗月」

 いつの間にか紗月の隣に立った紗月は不思議そうに紗月を見た。

 「このカレンダー、11月のままでしたね」

 「そうだったね、実加子のことがあったから気がつかなかったよ」

順照はそう言いながら目の前のカレンダーをめくった。

 「11月**日が2年目だったんです」

 「2年目って、何の?」

 「私が刑務所から釈放されてから2年がたった日でした」

 「そうだったのかい」

 「お祝いしてって言うつもりでした」

 「お祝いって、刑務所に入れられることはめでたいことではないんだから、そこ  から出されたことのお祝いも変だろう」

 「そうではなくて、2年間、生きてきたことのです」

 「大げさだねぇ、お前は」

 「でも、東京にいたころは本当に死にたいって思ったこともあったんです」

 「今はどうなんだい?」

 「自分が馬鹿だったって、はっきりと分かりました。実加子ちゃんに教えてもら  いました。医者だった頃、仕事で生きたくても生きられない人を沢山見て、そ  れから刑務所に入れられたのに、自殺なんて考えちゃ駄目だって、はっきりと  分かりました。」

 「実加子の御利益だね」

 「はい」

 2人はそういうと顔を見合わせて微笑んだ。そして、その時、庫裡を訪ねる人がいた。

 紗月が迎えに出てみると、これまで会った記憶の無い年の頃なら還暦前後できちんと七三に分けた髪をして礼服の上にコートを着たままの男性が立っていた。

、「こちらが虔陵院さんで」

 「はい、ここは虔陵院ですが」

 「渡辺順照さんはいらっしゃいますか」

 紗月が振り返って茶の間に向かって声をかけると順照が出てきた。

 「私が渡辺順照ですが、貴方は」

 「申し遅れました、私、こういう者です」

 男はそういうと1枚の名刺を差し出した。

 その名刺には「四藤義彦事務所 総務 篠田明」とあった。

 順照は渡された名刺をみてから顔を上げて篠田を見つめた。

 「この四藤義彦さんという方は」

 「こちらにお世話になっていた四藤実加子さんのお父上です」

 順照は篠田に言われて、彼を庫裏の茶の間にあげた。

 順照とその少し斜め後ろに紗月が座り、テーブルを挟んで順照の真向かいに篠田が座った。

 3人はしばらく無言でいたが、篠田が一つ咳払いをして話し始めた。

 「増井俊子様から連絡をいただきまして、私が実加子さんのお骨をお預かりし  に参りました。」

篠田に言われて順照は彼を無言で見つめた。

 「篠田様には遠路はるばるお疲れと存じますが、一つだけ教えていただきたい  ことがございます」

「なんでしょうか」

 四藤家の使者の篠田の顔に明らかに困惑の色があった。

 「私は実加子さんや増井諒順さんから、四藤義彦様が実加子さんの実のお父上で  あると聞いております」

 「左様です」

 「何故、寂しく異郷の地で果てたご自分の娘御のお骨をお父上御自らでは無く御  使者の方が受取に見えられたのか、私の悪い頭では解しかねますが」

紗月もお門違いは承知で篠田を精一杯の力で睨み付けた。

 「実加子さんは、四藤家にとって恥ずかしいお方、この上、お骨などいらないが、  それでは不憫だから引き取ってやる、と奥様がおっしゃっいました」

「待って下さい」

 余りのことに珍しく色を成しかけた紗月が正座したまま上半身を乗り出すようにして使者の篠田に何か言おうとしたとき、斜め前に座った作務衣姿の順照が片腕をさっと突き出し紗月を制した。

 「この釧路の虔陵院には四藤実加子という人はこれまでおりませんでした。虔陵  院にいたのはあくまでも渡辺実加子という人です」

ここで言葉を句切った順照が後ろに下がると改めて茶の間の床に三つ指ついたので、紗月もそれにつられた。

 「このこと、どうか四藤の皆様方にお伝え願わしゅう」

 そういうと順照と紗月は篠田に向かって頭を下げた。

 「あの女、いえ、実加子さんを産んだ母親こそ罰せられるべきなのです」

使者の篠田は言い終えて顔を上げた順照と紗月に向かって憤懣やるかたなしといった体で話し始めた。

 実加子の母、光子は夫の四藤義彦が長期の海外出張で東南アジアの某国に滞在している間に他の男と寝て身ごもった。堕胎中絶という選択肢もあるはずなのに信仰がそれを許さないとかで結局、出産した。四藤家の使用人とは言え先代の頃から仕えている篠田も当主の義彦への忠誠心と義憤はただならぬものだったが、義彦自身が実加子に罪はないと言い、彼女を他の子どもと分け隔て無く慈しむ様子を見ていてことを荒立てることもしなかったが、光子は自らの恥の証とでも思ったかして実加子を幼い頃よりいじめ抜いた。とうとう実加子はそんな母親に耐えかねてぐれて中学生の頃に家を出た。そして、事件を起こしたわけだが、その頃には義彦も実加子の度重なる不始末の後始末に疲れ切ったかして熱心に行方を追うこともしなかった。

篠田は胸につかえていたことを順昭達相手にはき出して、すっきりした顔をして出されたお茶を呑んだ。順照はそんな篠田の様子を無言で見ていたが、おもむろに立ち上がると自分の部屋に置かれていた実加子の遺骨が入った骨壺を納めた桐の箱を持ってきて篠田の前に置いた。

 篠田は千歳空港までの特急の時間が迫っているといって順照にタクシーを頼んだ。

 「さき程の皆様のお言葉、この篠田がしっかと四藤の皆様にお伝えします」

 タクシーが到着すると篠田が玄関を出たので紗月たちも見送りに出て、そして、彼の乗ったタクシーが完全に見えなくなった頃を見計らって、紗月は急ぎ足で庫裏の茶の間に行くと青いプラスチックの容器をもって現れた。

 その中身は塩だった。

 紗月はそれを指でつまむと、絵でも描くように丁寧に篠田の通った後に撒き始めた。

 「紗月、何してるんだい?」

 「こういうときは清めないとね、悪霊退散です」

 「おかしってんだよ」

 順照はそういうとやにわに紗月からその容器を取り上げて中身の塩全部を通路全体にばらまいてしまい、紗月は呆気にとられた。

 「日本の女はね、やるときはやるんだよ。何が四藤だい、腹の立つこと、結局は  見栄じゃないか」

憤然と言い放ちきびすを返して庫裏に戻ろうとする順照の背中を見つめながら紗月は、爽やかな気持ちになった。

 そして、その日の夜、紗月は実加子無き後、毎晩しているように夕食を作り、本堂での夕勤めを終えて庫裡に戻った順照と一緒に食べて、それも終わると2人は見るともなしにテレビを一緒に眺めた。

そして、

 「今日の順照さん、恰好よかったですよ」

 と隣に居る順照に言った。

 「今日の私?」

 順照は誰かに救い出して

 「ほら、昼間の四藤家の篠田さんという人が来た時のこと、なんだかやくざ映画  の女親分みたいでした」

 紗月に言われて順照の表情が硬くなった。紗月は軽はずみな一言で順照の機嫌を損ねただろうかと思い少しだけ緊張していると

 「いつまでも隠して置くわけにもいかないね」

 といい、作務衣の上着を脱いで紗月に背中を向けた。

 そこには立派な観音様の入れ墨があった。

 「私はこういう者なんだよ、今は渡辺順照と言っているが、もとは観音のお捷な  んて呼ばれてね、その筋では有名になってしまっていたのだよ」

 渡辺順照はそう言いながら悲しそうな顔になり目が虚ろになった。

 渡辺順照は昭和20年に千葉県の太平洋岸にある小さな漁村で生まれた。いや、生まれたという言い方は不正確で、彼女は、その年の7月に村役場の門の所にぼろきれにくるまれて「この子をお願いします」と書かれた1枚の手紙とも言えないような紙切れを副えられて泣いていた。だから、彼女の出生場所を正確に知る人はいない。ともかくも、その赤ん坊を発見したのが役場の課長をしていた渡辺という人物で、だから順照も名字は渡辺となった。因みに出家する以前の彼女の名前は「捷子(かつこ)」と言った。当時のその村の村長の子息が旧海軍の「(しょう)1号作戦」に従軍し撃沈された乗り組み鑑と運命をともしたものだから、彼は亡き息子を偲ぶよすがに付けたのだった。

 ともかくも、渡辺捷子は親の顔を知らぬまま施設で過ごした。

 もともと体力旺盛で負けん気の強い性質は良い方に向かうと世の役に立つが、悪い方に向かうと救いようがなくなる。彼女の場合は正に後者で16歳の時に些細なことから施設の女性職員と喧嘩になり相手を殴ってしまった。そのまま警察に捕まるのを待つような彼女ではなく、その喧嘩の直後に施設から行方をくらました。施設側はとかく揉め事の種となる捷子のことを熱心に探す風でもなかった。時あたかも東京オリンピックを目前に控えた物情騒然としたころのこと、養護施設からの脱走者など当時の騒然とした社会からするとどうでもよい話だった。

 彼女はしばらくは関東一円のあちこちの夜の町で体を売って生計を立ててでいたが、そのうち地回りの顔役に見初められて19歳の時に夫婦になった。夫となった男の手下は夫のいるところでは「姐さん、姐さん」と彼女をたてるものだから,彼女も悪い気持ちはしなかった。こうして、22歳の時に男の子を、24歳で女の子をそれぞれ産んで、まずは人並みの暮らしを手に入れた。

彼女の転機は26歳に訪れた。

 この頃、夫は家に寄りつかなくなっていた。

 外に女がいることは直ぐに感づいた。そして、ある日のこと、気付かれないように夫の後を付けていくと案の定、女のいるアパートに入っていった。彼女は外で見張り役をしていた手下が目を離した隙に部屋に乗り込んでいって、夫の浮気相手とその友達の女を持参した包丁で刺殺した。悲鳴を上げながら外に出た夫は手下と共にさっさと逃げた。

 騒ぎを聞きつけた近所の人の通報で近くの交番の警察官がやってきて、血の海の中に横たわる女2人を目の前にして血のべったり付いた包丁を握りしめて返り血で体中の赤くなった捷子を見つけて殺人の現行犯で逮捕した。この時、現場に急行して渡辺捷子を逮捕した若い警察官が田中常吉といい、田中恒太郎の亡父だった。

 我に返ってことの重大さに気がついた捷子は、それでも潔さだけは捨てなくて死刑を覚悟し、警察の取り調べにも素直に応じた。

拘置所にいる間は何度も自分の首に縄がかけられ吊される夢を見てはうなされていた捷子だが、裁判所は彼女の予想に反して無期懲役を宣告した。こうして彼女は還暦前後になるまでの約32年間を刑務所で過ごし仮釈放が認められて世間に帰って来た。

捷子は刑務所に教誨に訪れた年の近い尼僧と気が合った。そして、仮釈放を認められて世間に戻っても身の振り方の目処が立たない不安を幾度となく訴えるうちに発心し仮釈放後、その尼僧の手引で某宗派の道場で修行することになり、法名も「順照」となった。その時、別の刑務所から出所して捷子より少し早く「諒順」という法名を師僧より授かって修行していたのが増井俊子だった。

 順照には生き別れになった2人の子どものことが気掛かりだった。師僧の手前もあり、修行中はおおっぴらに子どもの行方を追うことは出来なかったが、その期間を終えて寺に住み込むようになると早速、あちこち訪ね歩いた。

 蛇の道は蛇ともいうが、世間の裏街道を歩いていた頃のつては無いわけでもなく、中には女子刑務所で何くれとなく面倒を見てやったヤクザの女房などもいたから世間に残した家族の消息は少しずつ分かった。それらの話しによると夫は既に亡くなり、夫の元に集っていた若い衆もちりぢりになっていた。その中の1人が、関東地方のある町で結構、はばを効かせていると知り、僧衣のまま会いに行った。

 夫のかつての手下だった男も頭に霜をいただくような年齢になっていて、事務所にいきなり尼さんが現れたから初めは面食らったようだが、それでも、しきたりに従い順照を姐さんと立てた。

 自分の子どもの消息を聞いた順照に男は初めは困惑しきりの体だったが、やがて、びっくりしないで下さいよ、と言って話し始めた。

 捷子の息子は夫の鉄火な血筋を引いたかして夫とにたような暮らしをしているうちに、或る町の盛り場で二十歳を過ぎて間もない頃に揉め事の相手に刺し殺されていた。

 娘は、と尋ねた彼女にかつての手下は口ごもったが、意を決して話し始めた。

 順照の娘は千葉の病院にいた。

 娘は薬物犯罪で逮捕されたのだ。

 逮捕された時、既に神経が現代医学では回復不能なほどに薬物に冒されて措置入院となっていたのだ。

 順照はその男に娘のところに連れて行ってくれるように、土下座でもしかねない様子で頼み込んだ。

 男は渋々と言った様子で、順照の頼みを入れて2人だけでその病院に向かった。途中、車の中で男は、どんなことがあっても驚かないで下さいよ、と念を押した。

 病院の担当医には遠ざかっていた親戚の者として娘を呼び出して貰った。

 娘が幼い時に母は逮捕されてそれ以来、会うことはなく生き別れになってしまった。たださえ記憶が曖昧になっても不思議は無いのに、娘の脳は薬物の影響で機能が低下していたから、目の前の、1日たりとも忘れたことのない母の顔が分からないのみならず、自分の名前すらも分からず、おむつを当てた状態だった。

 順照は、もはや回復の見込のない娘の目の前で膝から崩れ落ちて、声を上げて泣いた。

 それから数年は、順照は尼僧として平穏に暮らしていた。だが、ある日、住み込んでいた寺で、どうにも気が合わない尼僧ととっくみあいの喧嘩をしてしまい、相手に怪我をさせた。

 寺としては、このまま警察に順照を突き出すことも考えたが、それをすると順照は折角の世間での暮らしから又、刑務所に逆戻りとなる。おそらく、今度は仮釈放など認められず一生を刑務所の中で終えることになるだろう。順照が泣きながら土下座して、どんな罰でも受けるから警察に行くのだけは勘弁してくれと頼むものだから情にほだされたかして、10日間ほど自分の部屋で謹慎させられた後、この釧路の虔陵院に住職として住むことになった。

 「もとがこういう私だからね、世間の人達にこの肌を晒すわけにはいかないんだ  よ」

 そういいながら彼女は素早く衣服を直した。

 「世の中にはね、私のように我が子を地獄に落としちまったっておもいながら生  きている親だっているんだよ」

 順照は、そういいながらため息をついた。


 年が明けの正月三が日は穏やかに晴れる日が続いて最高気温が0度前後まで上がるなど釧路の正月にしては暖かく穏やかな日々となった。

 元日の午前のこと、寝間着姿の紗月と灰色の作務衣を着た順照は2人だけで虔陵院の庫裏の茶の間で応接セットのテーブルにそれぞれ肘をつくと見るともなしにテレビを眺めていた。

 実加子が亡くなって間もないとあれば去年のクリスマスはもちろんのこと、今年の正月も虔陵院の庫裏では何もしなかった。

 「お前、色気ないねぇ、着替えたらどうだい」

 ストーブが点けられて心地よい室温に保たれたそこで、順照が斜め横から紗月を見ながらいい、紗月は作り笑いで応えた。たしかに寝間着姿で冬蜜柑の皮をむいては食べている姿に色気を感じることは出来ないだろう。

 その場をごまかそうとして紗月は、お茶入れますね、と言って台所に立ち、しばらくして、順照に、はいどうぞ、と言って緑茶を出し自分は中のコーヒーが湯気を立てているマグカップを片手にベランダに立った。庫裏の庭は道路からは見えないから昼近くになっても寝間着姿でいることが世間にばれる心配はないのだ。

 この時期に釧路に降る雪はさらさらと白い砂のようなそれだから、地面に落ちた雪は少しの風でも動いている様子が見えた。その薄く積もった雪が所々に雪山をつくり、その雪山の上にえさでもあると思ったかして小鳥達がとまったり飛び立ったりを繰り返していた。

 ベランダのガラス窓に近づくと外の冷たさがはっきりとガラスを通して紗月に伝わる。

 去年の1月の末頃に釧路に流れ着いてから、紗月は何度となく今と似たような風景を実加子と共に眺めた。2人はしょっちゅう外に出ては除雪と称して雪と遊んだものだった。その実加子も今はいない。

 ところで、紗月は勤めている事務所の田中恒太郎所長から2月一杯での解雇を予告された。なんでも田中は4月から札幌で転居して向こうの友人達と新しい仕事を始めることにしたので釧路の事務所は畳むのだそうだ。紗月は少し驚いたが、パートだから仕方が無いと思って、諦めた。そして、そんなある日のこと、翌日に寺の檀家の寄り合いを控えた夜、順照が話があるといい部屋で本を読んでいた紗月を茶の間に呼んだ。

 「紗月、実は実加子が亡くなって直ぐに本山から電話があってね」

 順照が低い声で話し始め、その話を聞くうちに紗月は何故か額に汗が滲むような心境になった。

 本山からの電話は順照に東京への帰還を告げた。この方針に逆らうことは順照には許されない、もし異議を申し立てるなら直ちに虔陵院を出て本山とも縁を切られることになる。諒順が重ねて言うには、紗月はあくまでも順照一代限りの食客といったところで、だから、順照がこの寺を去るとき、紗月もここを出なければならない。

 紗月もいつかこんな日が来るとは思っていた。だが、こんなにも早く、実加子を失った直後の今、まだ約三ヶ月の猶予があるとは言え、庫裏を去らなければならなくなるなど考えもしなかった。

 茶の間の食卓で向かい合わせになった順照と紗月は何時しか無言になった。

 「ごめん」

 小声で言いながら紗月に向かって順照が頭を下げ、紗月は慌ててそれを制した。

 「やめて下さいよ、順照さんが謝ることなど何もないですよ」 

 「でも、お前がせっかく釧路に馴染んだのに」

 順照が言い、2人は再び、無言になった。

 「順照さんが釧路からいなくなるまで期間はありますよね」

 「本山は4月いっぱいって言ってるんだよ」

 それきり2人は無言になった。

 「お前は釧路に残りたいのかい?」

 順照からの予期しない問いかけに紗月は考え込んだ。

 「自分でもよく分からないのですよね。残ってもこれといった友達もいないし仕  事も無いですからね、余所にいった方がいいかなとも思いますけど」

 「けど?」

 「余所に行っても独りぼっちになりそうな気がするし、なにより仕事が見つかる  かどうかがね」

 「そうだねぇ、仕事がねぇ」

 順照も紗月の起こした事件が彼女の顔写真付きでインターネットで公開されていることは知っている。

 「まだ少しは時間があるから色々と考えてみますね」

 紗月は、そういってから、お休みなさい、と言って自室に引き上げた。

 紗月は寝ようと思って部屋の灯りを消して布団に入って、さっぱり寝ることが出来なかった。

 紗月にしても順照が釧路を去る日のことを全く予期しなかった訳ではない。心の片隅には常にこの日のことがあったとさえ言える。だが、現実になってみるとおいそれとは受け入れられない。

 紗月は実加子も順照も居なくなって、さらに仕事もないままに釧路にいる理由など思い浮かべることはできない。だが、では、どうすると良いのかが分からない。

 釧路を去って住むようになった余所の町で何かの拍子に世間に世間に事件のことが知られて、嘲笑され白眼視される暮らしに耐えられるだろうかと思う。釧路でなら順照や実加子がいたから耐えられたかも知れない。だが、実加子は既に亡く順照とも遠からず別離する。それなのに、羞恥地獄に落ちて正気を保つ自信が持てなかった。

 やはり誰かに受け止めて欲しい。お前は昔と変わらずに頑張っていると言ってくれる人が欲しいが、それが高望みだと言うことも知っていた。

 そして、暦は進んで1月も下旬にさしかかった頃のこと。

 例によって田中事務所から帰った紗月は順照と2人だけで庫裡の茶の間にいた。

 「どうしたんだい、紗月。この頃、元気ないじゃないか」

 片方の肘を応接セットのテーブルに乗せてぼんやりとテレビを眺めていた紗月の横顔を見ながら、やはりテーブルに肘を乗せたまま順照が言った。

 「ええ、ちょっと」

 紗月は順照の方を見ようともせずにこたえた。

 それきり2人は黙ってしまった。

 「人の縁て大切ですよね」

 「なんだい、この子は、藪から棒に」

 順照は少し驚いて紗月を見つめた。

 「だって、順照さんが居なくなったら、私、誰とも縁が無くなるから」

 「そんなこと無いだろう、釧路で知り合った人たちがいるじゃないか」

 「縁というほど深い付き合いじゃありませんから」

 「それは、そうだね」

 それきり2人は再び黙った。

 「実加子ちゃんのお骨って、きちんとお墓に入れて貰えたのかな」

 「私は何も聞いていないけどね」

 紗月は実加子のお骨の行方を心配するのを聞いて、順照は微笑した。

 「お前、実家の家族に会いたいんだろう」

 言われた紗月は急に順照の方を見た。

 「隠さなくたって良いよ、恥ずかしがることじゃないだろう」

 「でも、私、家族に迷惑かけて、親からも勘当されたって親戚の人から聞いて」

 「だから、なんだい?お前、本当は怖いんだろう、家族の本当の気持ちを確かめ  ることが」

 順照に言われて、紗月はこくんと頷いた。

 「まずは、ここから電話してみたらどうだい、親御さんに紗月が釧路にいるって  ことを知ってもらうんだよ」

 「良いのですか」

 「良いも悪いも、私がいなくなって、それで、お前が釧路に残ったら独りぼっち  だよ。私と一緒に東京に行っても更心寮の諒順さんと私くらいしかお前を知る  人は居ないだろう、お前も大人だから耐えられるとは思うけど心細いだろう」

  紗月は順照に言われて、再びこくりと頷いた。

 「悪いことは言わないから、電話をかけてごらん」

 「ここの電話を借りても良いですか?」

 「良いけど部屋で1人でかけなくても良いのかい?」

 「1人だと心細くて泣き出してしまいそうで」

 順照は紗月が言うのを聞いて優しく微笑んだ。そして、促された紗月は電話機の前にたつと順照に隣にいてもらいながら実家の電話番号にダイヤルした。

 紗月の受話器を持った手は震えて、だから彼女は両手でそれを持ち、目を閉じたまま全神経を耳に集中したが、ほんの数秒後にそれから聞こえてきたのは

 「お客様のおかけになった電話は、現在、使われておりません」という案内音声だった。紗月は電話機のボタンを押し間違えただろうかと思って受話器を置いて、もう一度かけ直しても結果は同じだった。

 「お前、電話番号を間違えて覚えているんじゃないかい?」

 順照に言われたが紗月はゆっくりと首を横に振った。

 「きっとお前の親御さんは電話会社を変えたんだよ、今は色々な会社があるだろ  う、携帯電話しか持っていない人だっても沢山いるのだもの」

 紗月の動揺を察した順照が明るい声をかけた。

 「そうですよね、きっと、そうですよね」

 紗月は順照に言われて急に明るい顔になって言ったが、心の中では、何かが引っかかっていた。

 そして、それから1週間後のこと。

 「私、やっぱり秋田に行ってきます」

 庫裡の茶の間で一緒に夕食を取っていた順照に紗月が行った。

 「そうかい、行く気になったのかい」

 「やっぱり、会って話したくなって、駄目ですか?」

 「駄目も何も私は止めはしないよ。ただ、お前の覚悟が気がかりなだけだよ」

 「私の覚悟?」

 順照は紗月が両親から勘当されていることは数回にわたって聞かさせている。紗月のしでかしたことを考えると彼らを非難する気持ちはない。そして、未だに怒りが収まっていなくても、それを不思議には思わなかった。

 「せっかく釧路から会いに行って、顔も見たくない、と言われたときにお前が大  丈夫かなと思ってね」

 「覚悟はしています。ただ、会って謝りたいだけなんです。それで殴られても仕  方が無いって思っています」

 紗月は箸と飯椀を持って俯きながら小声で言った。

 そして、この週の土曜日のこと、紗月は秋田に向かう汽車に乗るために虔陵院を出発した。

 今日中に秋田に着くには早朝の6時半頃に釧路駅を出発する汽車に乗らなければならない。だから、紗月は前日のうちに汽車の時刻に間に合うようにタクシーを予約しておいた。

 早朝の五時半過ぎとあっては外は暗く真冬の寒さは風が無くても呼吸の度に鼻の奥が痛くなってくしゃみが出た。その寒気の中、紗月は冬用のコートを着て手袋をはめてほんの僅かな荷物をつめたバッグを片手に持って予約したタクシーの到着を待ち、彼女の横に作務衣の上からアノラックを着て立った順照は寒そうに体を動かしていた。

 「紗月、本当に1泊2日で良いのかい?」

 「長居したくないんです、もし長居して、それで昔の知り合いに会ったりしたら  と思うと、やっぱり怖くて。それに月曜日から仕事だから」

 紗月が言うのを聞いた順照は黙った。そして、予約した時間にタクシーが来た。

 「では、順照さん、行ってきます」

 「いっておいで、紗月。大丈夫、案ずるより産むが易しだよ」

 順照は寒さで強ばる頬を無理に動かして微笑みながら言い、紗月は、ありがとうございます、と言ってそれに乗り込んだ。

 紗月を乗せたタクシーは厳冬期の早朝の釧路の町を釧路駅を目指して走り出した、その遠ざかるタクシーに向かって順照は瞑目合唱して、南無阿弥陀仏、と小声で唱えた。

 タクシーに乗って釧路駅についた紗月は発車時刻まで待機していた特急スーパーおおぞら2号に乗り込むと予約した座席に座った。

 土曜日の早朝ということもあって列車の中には空席が目立った。

 紗月は今、ここでも秋田行きを断念して虔陵院に引き返したいという衝動に駆られていた。

 何の前触れもなく約8年振りに会う家族に何を言われるかと思うと恐ろしかった。やはり最初は虔陵院から電話するくらいで止めておくべきだったのだろうかと思う。だが、今、仮にここで秋田行きを断念して引き返しても、何も変わらない。それに、順照のいる今なら、たとえ家族から冷たくされても釧路に帰ってすがることが出来るが、順照が居なくなってからではそれも出来ない。家族に絶望したまま孤独に耐えることの重さを思い浮かべると今が決断の時であることはたしかだった。

 そして、この日の午後7時頃、朝の6時半頃に釧路を特急列車で出発した紗月は汽車を乗り継いで秋田について予約してあったホテルに入った。

 ホテルの窓からは秋田の町が見下ろせた。

 紗月が高校を卒業して大学進学のためにこの町を出てから20年近くが経った。大学生だった頃には結構、こまめに帰省していたが、医師として就職してからは土日返上で働くことも当たり前だったから殆ど帰ってこられなかった。そして、事件を起こして下獄した。

 秋田駅周辺でも随分と再開発が進んだようで、紗月が初めて見る建物も幾つかある。それでも、彼女は、昔、家族や友達と共に暮らした頃の風景を思い出すことが出来る。

 ふと目を通りに遣ると秋田市一の歓楽街の川反かわばた地区の灯りが見えて、夏になると日本全国でも有数の夏祭りとして名高い秋田竿燈祭の竿燈で埋め尽くされる竿燈大通があった。どれもこれも紗月にとっては懐かしい思い出の詰まった風景だった。

 紗月は、このとき、涙が頬を伝っていることに気がついた。

 やはり、あす家族に会うことが怖かった。

 もし、帰れ、と言われたらと思うと、このまま釧路に引き返そうかとも思う。だが、それでは今のままだ。

 紗月は震える手で机の上の電話機の受話器を持ち上げると釧路の虔陵院に電話した。

 「もしもし、虔陵院でございますが」

 電話の向こうから何時もと同じように順照の声が聞こえた。

 「もしもし、順照さんですか、私、紗月です」

 紗月は片方の手で涙を拭いながら出来るだけ平静を装って話した。

 「紗月かい、今、どこにいるんだい?」

 「つい先ほど秋田に着きました」

 「そっちは雪はどうだい?、釧路は晴れてるけど寒いよ」

 「雪は、多いみたいです」

 無意味な天気の話しをして、そして、2人は黙ってしまった。

 「紗月、お前、泣いているのかい?」

 声の様から紗月が泣いていることを察した順照が言い、紗月は数回、頷いたが、無論、その様子は順照には見えない。

 「明日、親に会うことが怖くなっちゃって」

 「それで、どうするんだい?」

 「どうって、会いますけど」

 「良いかい、紗月、お前と本当に親子の縁を切るというものでも親御さんの気持  ちを全て受け止めるんだ、私には釧路でそう言ってでかけだじゃないか」

 「それはそうだけど」

 「今、ここで怖じ気づいて会わないで釧路に戻っても何も変わらないよ。その親  御さんの気持ちを受け入れるのが、今のお前に求められる優しさなんじゃない  かい、そして」

 「そして?」

 「もし親御さんから改めて勘当を申し渡されても、元気に釧路に帰っておいで。  私は待っているよ」

 紗月は電話越しに聞こえた声で順照も泣き出したことが分かった。だから、彼女 は、ありがとうごさいます、お休みなさい、と言って受話器を置いた。

 このあと、彼女はシャワー浴びてすっきりしてからベッドに潜り込んだ。

 いよいよ、明日だ、明日に全てが決まると思いながら、しばらくの間は寝られずにいたが、それでもいつの間にか寝息を立て始めた。


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