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さなぎたに1人  作者: きたお
27/30

第27章 最後のねがい

暦は進んで10月上旬になり、TVニュースでは大雪山系の所々で初冠雪が観測されたことを伝えて、釧路地方の野山の木々も色づき始めたころのこと。松田紗月が虔陵院の庫裡で暮らすようになってから初めての秋を迎えた。

 虔陵院の庫裏で一緒に暮らしている2人には言わないが、紗月はこの頃、去年の今頃の暮らしぶりを思い浮かべることがある。

 去年の9月末に、半年間ほど住んでいたアパートを退去した。その前にアルバイトを解雇されていたから、彼女は住むところも仕事も無いままに東京の町を彷徨う羽目になった。上野公園で野宿も経験した。あの頃、毎日が心細くて糧食に目処の無いまま糧秣払底を懸念しながらの暮らしが辛くて泣いてばかりいた。それが今は虔陵院の庫裏の清潔な部屋で寝起きして、毎日、温かい食事が出される。今の彼女にはこれ以上の幸せを想像することが出来ない。ただ、一緒に暮らしている四藤実加子のことが気にかかった。

 もとが気丈な実加子だから紗月たちの手前は笑顔で取り繕っているが、それでも食事の後の洗い物をしているときに、不意に台所に手をついて肩で息をしているときなどには紗月も不安になる。

 ある朝のこと、いつもより早く目が覚めて、ふと本堂を除くと朝勤めをしている順照の姿があった。

 その朝、彼女の誦経は途切れがちだった。

 順照は泣いていたのだ。

 紗月はそれをみて無理も無いと思った。

 実加子が釧路に流れ着いたばかりの頃、2人は同じ布団で寝ていたという。諒順にとって実加子は娘のような存在なのかも知れない。

 紗月だって実加子には釧路で偶然出会った気の合う同居人以上の思いがある。だが、私には何も出来ないと思う。何よりも河北大病院時代の先輩だった藤田医師が、何も出来ない、というのだから、紗月にはなおさらだろうと思うのだ。

 順照は何かあったら連絡するから携帯電話は常に持っていてと言うだけで、彼女を毎朝、気持ちよく仕事に送り出してくれる。檀家まわりなども順照がバスを乗り継いで出かけることが多くなった。

 そんなある日のこと。

 田中事務所で働いていた紗月は、田中所長の札幌出張のための汽車の切符を買うために旅行代理店を訪れた。そして、そこに置かれたパンフレットに目がとまった。

 それには道内各地の温泉の旅行案内が載せられていた。

 店員に聞くと、お持ち下さい、と笑顔で言うのでそれを手に取り店を出た。そして、この日、いつも通り退勤して虔陵院に戻って夕食や入浴などを済ませると自分の部屋で、それらパンフレットに見入った。

 その翌日の夕方のこと、彼女は夕食の席で、一緒に食べていた実加子に、一緒に網走湖畔の温泉に行こう、と言った。

 突然の紗月からの申し出に実加子はもちろんのこと、順照も驚いたが、紗月は笑顔でかつ真面目だった。

 「網走って、どこだっけ?」

 「網走だよ」

 「そんなところに良い温泉ってあるの?」

 「じゃん、それがあるの」

 紗月は言いながら旅行代理店でもらったパンフレットを実加子に見せた。

 「たしかに、良さそうだよね」

 「朝、早くに虔陵院を出て、網走市内を観光して、そして、そのホテルに泊まっ  て温泉に入って帰ってくるの」

 「お金は、どうするの、紗月さん?」

 「任せてよ、松田銀行が責任持つよ」

 紗月は笑顔で実加子に冗談を交えて言った。

 「いいでしょう、順照さん」

 「折角、紗月が誘ってくれてるんだから行っておいでよ、実加子」

 順照も実加子を見ながら言い、実加子の返事を待つだけになった。

 「やっぱり、私、遠慮ておく」

 「なんで?」

 紗月は実加子が二つ返事で話に乗ってくると思っていただけに、断られたことは意外だった。

 「だって、私、痩せてがらがらだもん、スリムとかっていうのではないんだよ。  こんな体、よその人に見られたくないよ」

 実加子はそれきり俯いてしまい、紗月は言葉を失った。

 「温泉ホテルと言ってもバストイレ付きの部屋があるだろう。何が何でも大浴場  に行くこと無いと思うけどね」 

 「そうなの?」

 順照に言われて、実加子の顔が急に明るくなった。

 「決まりってことでいいよね、実加子ちゃん」

 「本当にお金は紗月さんてことでいいの?」

 「まかせてよ、実加子ちゃん、松田旅行社が責任を持ってお供します」

 こうして、紗月と実加子の一泊二日の網走旅行が決まった。

 そして、それから数日後のこと。

 数日前に紗月は田中に休みが欲しいと言い、田中も快く受け入れた。

 いつもは運転手役は実加子だが、今日は紗月が運転席に座った。

 既に道内の峠では夜間は凍結の恐れが言われて自動車には冬タイヤの装着が推奨される時期になっていた。だから紗月もこの日に備えて数日前に近所のガソリンスタンドで自動車のタイヤ交換をしてもらっていた。

 「では、順照さん、行ってきますね」

 「紗月、運転はお前で大丈夫なのかい」

 「大丈夫ですよ、だって、私、運転免許持ってますもの」

 紗月の根拠の無い自信を見せつけられた順照は不安でたまらないと言った面持ちで2人の乗った車を見送った。

 「さてと、まずは細岡展望台をめざします」

 「おまかせします」

 はしゃぐ紗月の横で実加子は楽しげに微笑んだ。

 虔陵院を出て、しばらくは見慣れた住宅街を走った後、旧日銀釧路支店横を走る国道44号線を通り途中の大きな交差点を経て国道391号線に入った。

 そして、めざす細岡展望台までの道の両側や前方に広がる森林を目にして、2人は言葉を失った。

 2人か乗った自動車は幾つかの上り下りを越えて最初の目的地の細岡展望台を目指して走った。

 「ここ、初めて来た、実加子ちゃんは?」

 「私も、だって、こっちの方に用事無いもんね」

 片側一車線の細く曲がりくねった国道は標茶町や弟子屈町と釧路市との連絡道路でもあり、結構な交通量だった。

 頂上に電波中継施設が設置された小高い山を越えて直ぐに2人の視界に樹海が入ってきた。

 10月ともなると広葉樹は葉を落として枯れ木立となり、常緑針葉樹が緑を誇っていた。そして、それらの木々の所々には葉が真っ赤に色づいたうるしが巻き付いていた。

 交通標識に従って走って虔陵院を出てから1時間程もすると2人が乗った車は釧路湿原を見下ろす細岡展望台に着いた。

 2人は車を駐車場に止めると少しばかり歩いて展望台を目指した。

 風の無い晴天の穏やかな日のこと、2人の眼下には秋枯れの草木に覆われて黄金色の絨毯を敷き詰めたようになり、その中を釧路川が流れていた。

 「ここ、本当に日本なのかな」

 「ほんと、日本ではないみたい」

 都市でも農村でも漁村でも深い森でもない、人の営みを拒むことを誇っているかのような湿地帯を見下ろして、秋のそよ風に吹かれながら2人は言葉を失った。

 「紗月さん、あれ、鶴じゃない?」

 「ほんとだ、丹頂鶴だね」

 実加子が先に見つけて指を指した方角、湿原の中を流れる釧路川の水辺に佇む2羽の丹頂鶴がいた。

 「つがいかな」

 「多分ね」

 「いいな、仲よさそうで」

 実加子が言うのを聞いて、紗月は彼女の方に笑顔を向けた。

 2人の後から他の観光客が来たので車に戻った。

 「では、続いて、摩周湖を目指します」

 「レッツゴー」

 紗月が言い、実加子が拳を突き上げて2人は笑い合った。そして、再び国道に出ると間もなく塘路湖が見えてきた。

 「ここ、冬には結氷して、その上にテント立てたりしてワカサギとかを釣るんだ  って、雑誌に書いてあった」 

 「へぇー、この湖がねぇ」

 実加子は湖が凍ると言われてもぴんとこない様子で、助手席から紗月の肩越しに塘路湖を見ながら感心した様子で言った。

 「紗月さん、今年の冬は一緒に来てワカサギ釣りしようよ」

 「うん、そして、実加子ちゃんが天ぷら作ってよ」

 「まかせてよ」

 紗月にしてもこれから実加子と一緒に居られる時間が長くないこと位は分かっていた。それは実加子も同じはずで、だからこそ明るく振る舞う実加子の心意気が嬉しかった。

 標茶しべちゃ町の役場付近を過ぎて磯分内いそぶんないの市街地に入り天気予報を聞こうとラジオを操作してもノイズが強すぎて使い物にならなかった。どうも釧路のラジオ電波塔からは距離がありすぎるようだ。2人はさすが北海道などと言いながら、車内で世間話に興じているうちに摩周湖について、駐車場に車を止めると2人は歩いて展望台を目指した。

 「きれい」 

 「ほんとう、綺麗だね」

 この摩周湖は流入する川もなく、ここを水源とする川も無い閉鎖湖で、また、湖水の透明度は世界有数であることでも知られている。その湖水は、この日、風も無く静かに青く2人の眼下に横たわっていた。

 「さて、では、野上のがみ峠を越えて網走の天都山(てんとざん)にあるオホ  ーツク流氷館を目指します」

 しばらくの間、摩周湖を見ていた2人は連れだって車に戻って紗月が再びハンドルを握った。

 摩周湖から網走市の天都山までの道中の車内で、2人の会話が途切れることが無かった。2人に共通の話題など必要ない、相手の話しなど半分ほども分かれば会話は成り立つ、今、大切なことは2人しかいない車内で黙り込んでしまわないことだった。

 そして、摩周湖を出てから1時間ほどして、2人の乗った車が天都山の頂上にあるオホーツク流氷館についた。

 「紗月さん、ここ、何なの?」

 「ここにはね、オホーツク海の本物の流氷が展示されてるの」

 「流氷って冬に海に流れてくる流氷?」

 「そう、その流氷、さあ、入ろうよ」

 紗月は実加子を促して受付で2人分の入場料を支払うと濡れたタオルと防寒着を貸してもらって流氷展示室に入った。

 流氷展示室の中はマイナス15度に保たれいて、釧路の冬を体で知っている2人でも袖や襟にアイヌ文様の飾りが付けられた防寒着が無くては寒い。

 「これが海に浮いて流れてくるの?」

 「シベリアのアムール川という川の河口で出来た流氷が流れてくるんだって、ガ  イドブックに書いてあったよ。ちなみに、この流氷展示室には約100トンの  流氷が展示されているんだって」

 「船にぶつかったら怖いね」

 「だから、年によっては冬になると釧路から海上保安庁の「そうや」という巡視  船が網走の大型船を迎えに行ってあげるんだって。「そうや」は砕氷船でもあ  るんだって」

 「さすが紗月さん、詳しいね」

 「ガイドブックの受け売りだけどね、ところで」

 紗月はそういいながら、受付で借りた濡れたタオルを振り回すと僅かの時間で凍ってしまった。続けて実加子も紗月と同じことをしてタオルを凍らせた。

 「さすが、北海道の冬って私たち、釧路から来たから驚きも中くらいだよね」

 紗月の言葉に実加子は微笑んだ。そして、この後、展示室を出た2人は館内をぐるりと見て回ってレストランで昼食をとった後、屋上の展望台に出た。

 「今日は天気が良くて良かったよ」

 「ほんと、雨降りなんて最悪だもんね」

 2人が上った展望台からは青く広がるオホーツク海、そして、峩々として横たわる知床連山、そして、網走市の市街地が見えた。

 しばらく展望台を歩き回っていた2人は、ある案内板に目をとめた。

 「網走刑務所って、今でもあるんだね」

 実加子が口をゆがめながら言い、紗月も苦笑いしながら頷いた。

 2人が見ていた方角には確かに網走刑務所が見えた。

 かつて映画の題材にもなった網走刑務所は法務省の規程で男性で懲役10年以下の判決を受けた受刑者が収容される刑務所とされており、だから、2人には無縁のはずなのだが、2人とも2度と戻りたくはない暮らしを嫌でも思い出してしまう場所だった。

 「さて、実加子ちゃん、この後、私たちは能取のとろ湖に向かいます。」

 2人とも刑務所の方ばかり見ていては気が滅入りそうだと思った紗月は実加子をそれとなく促して知床の山並みが見える辺りに連れて行ってからそう言った。

 「能取湖って、どこ?」

 「いいから、私に任せなさいって」

 紗月が元気いっぱいの様子で言い、実加子は言われるままに紗月について車に乗り込んだ。そして、天都山から40分位も車で走ると能取湖についた。

 「わぁ、きれい」

 「きれいでしょう、2人でこれを見たかったんだ」

 駐車場に車を止めて少し歩いてから2人が目にした能取湖の湖岸には、まるで赤い絨毯を敷き詰めたかのような見事な色合いのアッケシソウの群落が形成されていた。

 「この赤い花はアッケシソウって言うんだって」

 「ここ海水も入るよね、枯れないのかな」

 「海水に耐えられる様になっているんだって」

 「紗月さんって本当に物知りだよね」

 「ガイドブックの受け売りだけどね」

 この後、2人は見事なアッケシソウの群落を眺めたり、近くに居た人に頼んで写真を撮ってもらったりした。

 「さて、では、ホテルに向かいますか」

 「うん、そうしよう」

 アッケシソウの眺めを楽しむために能取湖の湖畔を訪れてから1時間以上がたった頃、紗月の運転する車は実加子を乗せて網走湖畔にある温泉ホテルを目指して走り出した。そして、ホテルにチェックインした2人は部屋に通された。

 「眺めが良いね、この部屋」

 「一番良い部屋取ったからね」

 「ありがとう、紗月さん、お金使わせちゃったね」

 「気にしないでよ、実加子ちゃん、私、釧路に着いてから何時も実加子ちゃんに  助けてもらってたからさ、いつかお礼したいと思ってたの」

 「お礼だなんて、そんな、他人行儀な」

 ベランダに並んで立って網走湖を眺めていた2人は、次第に言葉が少なくなった。そして、このあと、2人はホテルのレストランで値の張る料理を食べて、部屋に戻ってきた。

 2人が戻ったとき、部屋には既に布団が敷かれていた。

 「紗月さん、私、やっぱり大浴場のお風呂に入りたい」

 「私は良いけど、いいの、実加子ちゃん?」

 実加子の唐突な申し出に紗月は少しだけ戸惑った。

 「せっかく温泉ホテルに来たのに、部屋の風呂に入るのは勿体ないし、私、もと  もとお風呂が結構、好きだから。それに、」

 言い淀んだ実加子の言葉の最後を聞きたくないと思った紗月は

 「賛成、今日はホテルも空いているってフロントの人が言っていたから、多分、  お風呂も空いているよ」

 2人が浴衣姿になって風呂に行くと、浴場には他に誰も居なかった。

 「あーあ、人生を洗濯している感じがするよ」

 手桶で数回のかけ湯をして体を軽く洗った後、頭にタオルを乗せて浴槽に体を沈めた紗月は思わず声を漏らした。

 「私、気持ち良すぎて何も言えません」

 紗月の隣でやはり頭にタオルを乗せてお湯につかっていた実加子は目を閉じたまま小声で言った。

 紗月は何気なく隣にいる実加子の肩を見て愕然として、そして、それを実加子に気取られないように反対側に顔を向けた。

 実加子の肩は薄くなり骨が皮を突き破って飛び出してきそうに思えるほどに痩せていた。紗月が出会った頃は豊かだったはずの乳房も垂れ下がり、肋骨が浮き上がった見えていた。

 ふと紗月の脳裏に医師だった頃に担当した数人の末期がん患者の最期の様子が浮かびかけて、そして、それを追い払った。

 「紗月さん、背中のながしっこしようよ」

 朝、虔陵院を出てから車のハンドルを握り続けたこともあって、浴槽の縁に頭を乗せた紗月は微睡みかけていて、そんな彼女を実加子が起こした。

 「了解、お互い、きれいになろうね」

 2人は連れだって浴槽からでると洗い場で並んで座って、まず実加子が紗月の背中を流した。

 「ちょっと、実加子ちゃん、もぅ」

 紗月の背中に回った実加子は目の前に居る紗月の両脇から手を回すと彼女の両方の乳房に触れた。

 「うっしっし、実は一度、紗月さんの胸に触ってみたかったの」

 「もう、男なら犯罪だからね」

 「良いじゃん、女同士なんだから」

 紗月が冗談で文句を言い、実加子もおかしそうにしていた。

 少しの間、紗月の背中を流していた実加子は、交代しようよ、と言い、紗月に背中を向けた。

 その時の実加子の背中を見た紗月は、実加子の背中を流すためのタオルを手に握りしめたまま、しばらく動けなくなった。

 実加子の背中には骨と椎間板の境目がはっきりと分かるほどにはっきりと背骨が浮き出ていた。

 「どうしたの、紗月さん?」

 「ううん、何でも無い」

 その時、紗月は言いたくなかった。

 「もう、何するのよ、紗月さん」

 紗月は沈み行く気持ちを実加子に悟られまいと彼女の乳房に触れようとして、目の前にある実加子の背中に浮き出た肋骨を目の当たりにして思いとどまって、彼女のお尻に触った。そして、実加子くらいの年齢で健康体の女性のお尻にあるはずの弾力を紗月は手に感じることが出来ず、代わりにごつごつとした木質的な感触と実加子の体温があるだけということに落胆した。

 「これでおあいこだもん」

 紗月は笑顔で肩越しに実加子を覗き込んだ。このとき、実のところ、紗月は涙をこらえるのに苦労していた。

 2人が大浴場から出て部屋に戻ると既に布団が敷かれていて、2人はそれに潜り込んだ。

 「実加子ちゃん、今日は楽しかったね」

 「うん、連れてきてくれてありがとう」

 「なに言ってるの、私と実加子ちゃんの仲じゃない」

 「紗月さん、今度は、何処かのスキー場に行こうよ」

 「いいね、そして、その後に温泉に入ってさ」

 2人ともスキー旅行が実現しないことは分かっていた。それでも、夢は語りたかった。

 「紗月さん、もう寝た?」

 部屋の明かりを消してからしばらくして、布団に入ったまま眠られずにいた紗月の隣で寝ていた実加子が言った。

 「起きてるよ」

 「今、何考えていたの?」」

 「実は何も考えられないでいたの、実加子ちゃんは?」

 「紗月さんに質問しようかどうか、迷っていた」

 「質問って、どのようなこと?」

 問い返されて、実加子は暗い部屋で天井を向いたまま目を開いて、しばらく何も言わなかった。

 「ねえ、実加子ちゃん、どのようなこと?」

 「だって、私の質問を聞いたら、もしかしたら紗月さんが嫌な思いするかも入れ  ないから」

 「そのようなことはないよ、どんなことでも聞いてよ」

 「では。私が診てもらっている藤田先生は紗月さんがお医者さんだったときは   どのような先生だったの?」

 実加子に言われて紗月は返答に困り、そして、うつぶせになると枕に顎を乗せた。 「紗月さん、もしかして怒ったの?」

 「怒るわけないよ、ただ、なんでそのようなことを聞くのかなって思っただけ。  もしかして、実加子ちゃん、藤田先生のことが気になるの?」

 実加子は小さく頷いた。

 「私、藤田先生に大人の男を感じるのだよね。私が逮捕されたときの警察官以外  で、大人の男って感じがする人って藤田先生しかいないんだよ、それ以外は子  供っぽい人ばかりでさ。紗月さんと一緒だった頃の藤田先生はどんな風だった  のかなって思ってね」

 実加子に言われて、紗月はしばらく考えた。

 「一言で言うと優しい人だよ、それにいい加減なことは絶対にしない人、他人か  らすると冒険的に見えることでも、きちんと医学的に裏付けのあることしかし  ない医者だよ。それにね、私が初めて主治医として治療した患者さんが亡くな  った時のことだけどね」

  紗月が医師になって初めて主治医として担当した患者は仙台市内の個人病院からの紹介で河北大学病院を訪れた30歳代半ばの女性で、彼女も来院した時には既に癌が全身に転移していて、どんなに手を尽くしても救えない状況だった。彼女には中学生の娘と小学生の息子がいたが、紗月は夫という人に会ったことが無かったから、もしかしたらシングルマザーだったのかも知れない。

 ある日のこと、紗月が巡回で彼女の許を訪れると寝ていたはずの彼女が突然、起き上がって

 「先生、私を助けて下さい、私、死ねないの、死ぬわけにいかないの」

と取り乱した様子で言いながら、両手で紗月の両腕をつかんだ。紗月は驚いて後ずさりしようとしたが、彼女は紗月の腕を放そうとはせずに、先生、助けて、とだけうわごとのように言い続けた。そして、彼女が入院して1ヶ月ほどたった頃のある日の午後のこと、ナースステーションの自分の席でカルテの整理などをしていた紗月に、その患者の容体が急変したという報せがあった。連日、夜遅くまで残業が続いていて、流石に疲れ切って、それでも気力で仕事をしていた紗月だが、その報せに眠気など何処かにいってしまって、急いでその患者の病室に駆けつけた。紗月にしても彼女の検査データを分析してその日が近いことは予想はしていたが、現実になってみるとやはり、恐ろしかった。

 「死なないで、お願い、死なないで」

 紗月は懸命に救命措置をする一方で患者に願い続けた。

 医師になって最初に主治医として担当した患者の最期を看取ることは嫌だった、患者と別れるときは、相手が元気になり、そして、お互いが笑顔で挨拶して相手の背中に手を振りながら見送るはずだった、だが、彼女の願いは叶えられそうも無かった。

 紗月が全身汗まみれになって心臓マッサージなどを続けても患者が息を吹き返すことはなく、その患者の命は紗月の前を去った。

 問題は、その後だった。

 急を聞いて病院に駆けつけた亡くなった患者の実父が紗月を病室の外で捕まえるとに猛烈な勢いで抗議した。それは抗議というよりもヤクザが素人に因縁を付けているように見えた。

 頭に血の上った人間の言い分は意味不明瞭になりやすいが、その父親がまさにそれで、紗月は彼の話しが殆ど理解できなかった。彼が貧乏人だから軽く見られて娘の病気の治療もおざなりにされたと言いたいことだけが辛うじて分かる程度だった。

 紗月は病棟の廊下で大声を上げて責め立てる亡き患者の父親の相手に往生していると偶然、通りかかった第2内科の講師だった藤田医師が割って入ってくれた。

 「この小娘では話にならない、だれか男の責任者を出せ」

 いかにも荒くれ者といった大柄な父親が頸動脈まで怒張させて大声でがなりたてて、そんな父親を目の前にして藤田医師は恐れるでもなくひるむでもなく上手になだめすかして、30分ほどもして、完全にではなくても大人しくさせることが出来た。

 結局、その父親は不承不承といった様子で娘の遺体と共に病院をあとにした。

 紗月はその後、上司への報告などの必要な手続きに気を取られているうちに、うっかり藤田医師に礼を言うことを忘れていたことに気がついて、慌てて藤田が所属する第2内科の外来診察室に行くと、そこにいた藤田は彼女を笑顔で招き入れた。

 「藤田先生、先ほどはありがとうございました」

 「何かあったかな」

 「今日の昼間、助けていただいて」

 「あのことか、僕も何度か理不尽な抗議にあったことがあるからね、亀の甲より  年の功だよ、近頃はあんな遺族が多いよ、僕たち医者も嫌な時代になったよ」藤田は優しい笑顔を向けた。

 「あの時の藤田先生は頼もしかった、大人の男って感じだったな」

 「確かにね、芯の強さを感じさせるよね」

 実加子に言われて紗月は頷いた。

 網走湖畔の温泉ホテルの一室で、紗月と実加子は時間が止まって欲しいと思いながら何も言うことが出来ずに灯りを消した部屋の布団の中で枕を並べて天井を見上げ続けた。その時、2人の耳には微かなオホーツク海の波の音がたしかに聞こえていた。

 2人が1泊2日の網走観光から釧路の虔陵院に帰ってきた日の夜、実加子は

 「今晩から夜は3人で一緒に寝たい」

 と言った。

 順照と紗月は実加子の思わぬ申し出にほんの少しだけ戸惑いの色を浮かべたが、しかし、直ぐに同意した。こうして、その日の夜から、3人は庫裏の茶の間で実加子を真ん中に挟んで寝るようになった。

 「私、紗月さんと出会ってから、ずうっとこうしたいって思っていたの」

 「実加子、私じゃ駄目なのかい?」

 「そんなんじゃ無いってば。ねぇ、紗月さんと順照さん、手をつないで寝ようよ」

 「手をつないで?」

 「私、紗月さんたちと握手したまま寝たいの、良いでしょ」

 紗月は何も言わずに掛け布団の下から実加子の手を握り、順照も同じようにした。

 「ふたりともお休みなさい」

 「おやすみ」

 「おやすみなさい」

 3人で声を合わせてお休みを言って、そして、目を閉じた。

 そして、11月中旬のある日のこと、紗月は田中事務所で働いていた。

 事務所での仕事は勤め始めた頃と全く一緒で、慣れてくると退屈でもあった。

 その日、事務所近くのコンビニで買った弁当を食べていると事務所に電話があった。電話の相手は順照で、

 「紗月、実加子の様子が変だから救急車を呼んだんだ、今、釧路**病院にいる  んだよ」

 と言い、順照から電話越しに実加子のことを聞かされた紗月は、息苦しくなった。

 彼女にしても覚悟はしていた。

 誰が見ても実加子が衰えていることは明らかだった。ここしばらくは夜中、実加子がトイレに行きたくなった時には順照に肩に担がれていた。そもそも主治医の藤田医師から余命幾許もないと言われたことを実加子自身から聞かされていた。

 紗月は田中に、給料はいらないから午後は休みたいと申し出ると彼は快く受け入れた。そして、紗月は挨拶もそこそこに事務所を飛び出すとタクシーを拾って**病院に向かい、病院に着くとタクシーから転がり出るようにして降た。

 「松田君、来たんだね」

 救急外来の受付で実加子の居場所を尋ねていると、丁度、診察室から廊下に出てきた藤田医師に声をかけられた。

 青いスクラブの上から白衣を着た彼は片手にクリップボードを持って近づいてきた。

 「今、患者さんは眠っていますよ。付き添いの方も一緒です」

 「実加子ちゃんは?」

 藤田医師は少し戸惑った様子だったが、

 「もう守秘義務も良いだろう」

 と小声で言うと紗月にクリップボードを差し出した。それには実加子のカルテが挟まれていた。

 「君なら、どう診る?」

 紗月が渡されたカルテの特に最新の血液検査のデータを見入っていると藤田医師が声をかけた。

 「肝機能が低下、というか殆ど失われています。それに肺のガス交換機能が通常  の半分以下です、クレアチニンの値が高すぎます、実加子ちゃんの腎臓は止ま  っています」

 紗月にとっても残酷なデータを提示されて、だから、彼女は涙で滲んだ字を読み取ることに苦労して、涙声になった。

 「僕の経験から言って、この患者さんは既に肝性昏睡になっていても不思議は無  いよ、今朝まで会話できていたなんて信じられないよ。残念だが、あと数時間  だろう、側にいてあげて」

 「ありがとうございます」

 紗月は会釈すると実加子と順照がいる部屋に向かった。

 カーテンを開けて中に入り、順照の隣に座った。

 実加子の体の様子をモニタリングしている機器が規則的に発する小さな音は、実加子の呼吸の音よりもはっきりとしているようだった。

 2人が実加子の側に座って30分も経った頃だろうか、実加子が不意に目を開けて紗月の方を見ると手を伸ばそうとした。彼女と視線があった紗月は彼女の手を握った。

 「紗月さん、だっこしてよ」

 実加子に言われて紗月は彼女の上半身を抱き起こした。

 「紗月さん、私、もう駄目みたい」

 紗月はしばらく涙で何も言うことが出来なかった。

 「何言ってるのよ、実加子ちゃん、弱気になったら駄目よ、実加子ちゃんらしく  もない」

 「今まで仲良くしてくれてありがとうね、私、もっと早く、中学生くらいの時に  紗月さんと出会いたかったよ」

 「実加子ちゃん、気を強く持たなきゃ駄目。春になったらさ、東藻琴の芝桜見に  行ったり、川湯の温泉入りに行ったりしようよ、だからさ、元気にならなきゃ  駄目だよ」

 「ありがとう、紗月さん、私のような奴にはこれが相応しいんだよ。私の最後の  お願い、聞いてくれる?」

あふれる涙で何も見えなくなり、ただ実加子の背中をさすり続けることしか紗  月には出来なかった。

「最後だなんて言わないでよ、何でも言ってよ」

 「順照さんのこと、よろしくお願いします。私、もう無理だから」

 紗月は実加子に言われて涙を流して頷くことしか出来なかった。

 「順照さん」

 実加子は目は確かに開いているのだが、視線が定まらず明らかに何も見えていない目を順照に向けて、かすれた声で呼びかけた。

 「なんだい、実加子」

 「今日まで本当にありがとうございました」

 順照は何度も首を横に振り、実加子の手を両手で取った。

 「何を言ってるんだよ、この子は。お礼を言うのは私の方だよ、お前のお陰で   どんなに助けられたか分からないよ」

 順照も又、涙で言葉にならなかった。

 「順照さん、私ね、順照さんの娘に産まれたかった」

 「実加子、私は確かにお前を産んではいないが、それでもお前は私の娘だよ、も  う良いんだよ実加子、楽におなり、お前は辛すぎた」

「2人とも、みんな、ありがとう」

 「実加子ちゃん!」

 「実加子!」

ありがとうの言葉を最後に、実加子の体の力ががくっと抜けて、モニタリング機器が一斉にアラーム音を立てたので、看護師がカーテンの内側に飛び込んできた。

この日、1人の女が釧路の地で果てました。

 釧路で渡辺という名字を名乗り通した本名、四藤実加子、享年30歳、この一期の長短を論じるは愚かでしょう。

 この日の夜になり、実加子の遺体は葬儀会社の霊柩車で虔陵院に運ばれた。順照は一応、実加子が釧路に来てから知り合った檀家数人にこのことを電話で知らせたが、だれも「高齢で一人暮らしの順照の身の回りの世話のために本州から呼ばれた姪」としか思っていないから弔問客も限られていた。

 紗月は実加子の亡骸の枕頭で順照と向かい合った。

 見る者の心が和む白に包まれた実加子の亡骸は眠るようにそこに横たわった。

 順照も紗月も何も言うことが出来なかった。

 本当は順照も泣き叫びたいに違いないと紗月は思う。

 実加子が自分の余命を知ってから釧路に流れ着いて、その夜からしばらくの間、順照の隣で泣きながら寝る夜が続いたと生前の実加子から聞かされた。順照の子どもに産まれたかったという実加子のいまわの際の言葉は、嘘ではないだろう。

 実加子と初めてあった日のことが紗月の脳裏に浮かぶ。

 釧路に流れ着いて虔陵院についても無人だったから近くの喫茶室柏木でコーヒーを飲んでいるところに迎えに来てくれたのが実加子だった。初対面で綺麗な人だと思った。あれから1年近くの間、彼女とはよく話しよく遊んだ。庫裏の料理番は専ら実加子の役回りで、代わりに紗月は掃除を受け持つようになったからもめることも無かった。

 その実加子が遺体となって、今、紗月の目の前に横たわる。

 紗月は何も出来なかった、医師としても友人としても、何一つ出来なかったと思う。

 今年の6月の町内会の懇親会の夜のこと、実加子の病状を知った紗月はそのことを実加子に言い、そして、紗月の隣に座って、怖いよと言って泣いた。

 あの夜、実加子がまだ世間から少女と呼ばれる年の頃に暴走族に入り仲間内の喧嘩で相手を殺してしまい殺人罪で数年の間、服役したことを知った。そして。その後も、それまで同様に友達として暮らした。

 実加子の亡骸を目の前にした今でも、殺人罪を犯した人間と友達として交際したことがよかったのかどうか分からない。ただ、紗月も又、殺人未遂罪で服役した。実加子と自分の間の背負った過去に大差ないと思ったとき、紗月は実加子の過去を受け容れた、その実加子は、ありがとう、と言い残して逝った。

 実加子の亡骸を目の前にして紗月は思う、自分が死ぬときは何を誰に対して言い残すのだろうか、と。

 事件で、それ以前には確かにあった縁は全て途切れた。釈放されてから世間で暮らし初めても誰にも、こんにちは、と胸を張って言えない人になった。これから先も独りぼっちで生きて死んでいくことになるだろう、その孤独の姿を実加子は教えてくれた。

 今、心の底から紗月は亡骸となった実加子に思う、ありがとう、実加子ちゃん、と。


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