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さなぎたに1人  作者: きたお
24/30

第24章 所変われば

暦は進んで7月初旬となり、松田紗月が河北大学病院で医師として働いていた頃に、仕事で擦り切れそうになっていた彼女を陰ながら気にかけていた藤田登喜子が虔陵院に訪ねてきてくれてから数日が過ぎた頃のこと。

 紗月は朝の風が優しくなってから風が強い日や雨の日以外は徒歩で虔陵院と田中事務所の間を徒歩で往復している。この日の朝のニュースでは朝6時の気温が9度5分と平年より少し低いと言っていたがを庫裏を出る頃にはジャンパーを着たら十分、しのげる気温で、だから、彼女は徒歩で通勤していた。 

 この日、いつもどおり、午後3時に仕事を終わって黒金町の田中事務所を出た紗月は歩いて虔陵院を目指した。

 辺りには濃い霧が漂っていた。

道を行き交う車は時にフォグランプを点け、或いは時折、ウインドウウォッシャーを使うなどしてフロントガラスについた霧の水滴を払いながら走っている。どれもこれもが、この時期の釧路ではありふれた光景だ。

 「ただいまぁ」

 いつものバス停で降り、朝は下りた坂を今度は登り、虔陵院の庫裡に帰った。

 茶の間では、食卓テーブルに向かって実加子が椅子に腰掛けて順照が隣に立っている。見るとテーブルの上には何かが置かれていた。

 紗月はその光景を見て苦笑した。

 「紗月さん、お帰りなさい、今、お茶お入れしますね」

 実加子が顔を輝かせて椅子から立ち上がろうとしたとき、順照が力を込めてその肩を押した。

 「お待ちってんだよ、紗月だってお茶ぐらい自分で入れられるよ、お前は集中し  なさい」

 「だって、紗月さん、疲れて帰ってきたのに、お茶ぐらいお出ししないと失礼だ  し可愛そうだし」

 「紗月だって子供じゃ無いんだからそれぐらい自分で出来るよ、さあ、続けな」

紗月は順照と実加子のやりとりを見ていて、思わず吹き出しそうになった。

 順照は実加子に写経を教えていたのだ。

 順照は年の功なのだろうが手が良い。その彼女は実加子が可愛くて仕方が無いらしく暇を見つけては茶の間に呼び出して食卓テーブルで写経を手ほどきしていた。実加子からすると特に興味の無いお経の写し取りに付き合わされるわけで余り喜んでいる様子では無いのだが、順照もその字の上達ぶりを褒めている。ただ、元々があまり好きでは無いから、少しでも何かあると気が散るのが難点だった。

 「字が大分上達したじゃない、実加子ちゃん」

 腰に手を当て実加子の隣に立った紗月は、半紙の上に書き連ねられた経文の意味をすぐには読み取ることが出来ない。ただ、実加子の書く文字にはなんとも言えない味が合った。

 「紗月の分も用意したからね、今日からお前にも教えるからね」

 紗月は順照がこちらに向けた顔の口を注視した。

 実加子にばかり気を取られていたが、確かに彼女の向かい側には経典と習字セットと半紙が置かれていた。

紗月は自分の身の上に何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

 「私、お経には特別、興味は無いというか」

 「実加子だって最初はそう言っていたんだよ、それが今では一番の趣味だって言  うようになったんだから、お前だってきっと好きになるよ」

 多分、実加子が写経を一番の趣味に上げることは金輪際なさそうだが、圧倒的な自信を見せつけて紗月を写経に誘う順照を目の前にして、紗月は渋々、席に着いた。

 順照に言われて墨をすり、筆を執る。

「紗月、字、上手いねぇ」

 「ほんとう、綺麗な字だね」

 紗月が書き始めてからしばらくして、その目の前に置かれた半紙をのぞき込んだ2人は、口々に褒めた。

 「私のお母さん、書道の師範なんです、頌月(しょうげつ)という名前も持ってい  るんです、私、お母さんに小学校と中学校の時、ずっと習っていたんです」

 紗月は半紙を見つめたまま微笑みながら答えた。

 1時間ほども写経を終えると順照に言われたとおり後始末をして実加子は夕食の支度に取りかかった。

 紗月は茶の間に居てもすることが無いので、自分の部屋に入り部屋着に着替えてラジオをつけた。

 内窓を開けてそとの様子を見ようとするが、そこにあるには白い霧ばかりだった。少し風が出てきたかして、それが何枚も重ねられたガーゼのように辺りを舞う様子が見える。

 海霧はいつまで、この釧路(まち)を覆うのだろうと思う。地元の人が言うには武佐(むさ)の山を越えた辺りは海霧も幾分薄くなると言うが、それでも日が照ると言うことは無いだろう。町全体がくすんだ感じに見えるのは海霧の影響が大きいことは分かる。

 海の波の音以外は何も聞こえない部屋で紗月は小さくラジオをつけた。

 ふと東京でのことが脳裏に浮かぶ。

 6月というと青森以南の大抵の土地は梅雨時を迎える。あの蒸し暑さと湿気を体で知っている紗月からすると海霧の影響で湿気があるが格段に涼しい釧路の気候は

体力を奪われずにすむ。

 部屋の中に海の音以外に聞こえる音が無いのも寂しいと思いラジオをつけると聞こえてきたのは札幌の民放FM局の番組だ。それを聞きながら、紗月は読みかけの小説を手に取った。

 脳の半分くらいは小説を読むことに使い、あとの半分で考え事をした。そして、そんな自分に苦笑した。

 頭の中で組み立てた理屈なんてなんぼのものでもないということは医師だった頃に思い知ったはずだった。だから、紗月は、人生なんてなるようにしかならないのに、と思い、本を閉じるとラジオに耳を傾けた。

 しばらく部屋でラジオを聞いていると実加子が夕食に呼びに来て順照を交えて3人で夕食となった。

 「うわー、今日の夕食は石狩鍋なの?」

 テーブルの真ん中に置かれた鍋を見て紗月は笑顔で声を上げた。

 「平川さんのご主人が、お裾分けですってトキシラズを持ってきてくれたんだよ。  会ったらお礼言っておくれよ」

 「トキシラズって何?」

 「鮭は秋に捕れる魚だけど春から夏にかけても捕れるんだよ。それで時季外れだ  からトキシラズって言うそうだよ。脂がのっていて美味しいんだよ」

 作務衣姿の順照が紗月に言った。

 「この卵焼き、暖かいうちに食べてよ」

 紗月は実加子に言われた卵焼きを箸で持ち上げた。

 「中に入っている野菜、何だか分かる?」

 「よく分からない」

 紗月は実加子に言われて苦笑しながら言った。

 「それはギョウジャニンニクが入れられているんだよ。それも平川さんからもら  ったんだよ。どこかの山で採ってきたんだそうだよ。ニラの仲間だそうだけど  私はこれが好きでね。これを食べると元気が出来るような気がするんだ。紗月  も遠慮しないでお食べよ」

 卵焼きに混ぜ込まれたギョウジャニンニクはニラの仲間というだけあって香りが高く、また、その独特の甘みと歯ごたえが卵の味と混ざり合って、なお一層引き立った。頂き物の初夏の味覚で彩られた食卓を前にして、紗月たちはいつも通り談笑しながら箸を進めた。

 釧路の夜は、この日も濃霧だった。

 

 暦は進んで7月も中旬となった。

 今日は金曜日、これといって週末の予定など無い紗月ではあるけれど明日は仕事が休みと思うと何だか心が浮き立つ。

 昨日は全道各地でこの夏一番の暑さを記録したそうで、札幌、旭川、函館、帯広の各地は真夏日を記録した。一方で、今朝のローカルニュースで釧路根室地方はここ1ヶ月くらい気温の低い状態が続いていて釧路地方気象台は低温と日照不足に関する情報を出して特に農業関係者に注意を促している。テレビの前に集まった虔陵院の3人は期せずして、同じ北海道なのにねぇ、と言い、庫裡のベランダから外を見ると、意外にもさわやかな青空が広がっていた。

 「いってきまぁす」

 なんだか間延びした声を残して、紗月は庫裡を出た。

 ワイシャツの上に紺色の薄手のカーディガンを来てライトグレーのズボンを穿いて黒いパンプスを履いた彼女は、今日も海を見ながら何時もの道を歩いた。

 この頃の紗月はバスに乗ることをしない。何よりもバス代を節約したいからなのだが、それ以上にバスに乗ると好きな景色を堪能することが出来ないことに気がついたのだ。それにバス通勤では虔陵院では運動らしい運動は殆どしないから体がなまってしまう。朝夕の徒歩通勤はバス代の節約とともに運動不足の解消という一石二鳥の効果が見込める。

「おはようございます、今日は良いお天気ですね」

 「おはようございます、なに、どうせ、あさてっかりだ、すぐガスにかってやら  れる、いっつもだもん」

 「あさてっかり、ですか」

 「朝はこうやって気持ちよく晴れるのさ、それがしばらくしたら風に乗ってガス  が入ってきていつもどおりさ、うちら、それをあさてっかりって言っているん  だ」

 虔陵院の近くに住む少しお腹の出た還暦前後と思われる男と朝の挨拶を交わし、ほんの少しの世間話をした後、紗月は会釈してまた、歩き始めた。

 あさてっかり、か、いろんな言葉があるものだわね、紗月はそう胸の中で呟いた。

 海霧はガス、しばれるはとても寒い、あさてっかりは早朝だけ晴れてすぐガスに覆われること、等々、釧路に来てから幾つかの方言を覚えた。

 地元の人が「ガス」と呼んで嫌う海霧が、しかし、紗月は大好きにはならずとも悪くは無い、特に夜霧はロマンチックと思う。

 海霧が発生するメカニズムについてはよく分かっていない。ただ、春先から秋口かけて釧路や根室のある北海道東部の太平洋沿岸地域に連日のように押し寄せる光景が見られる。南の海からやってきた暖かく湿った空気の一団が釧路沖を通る千島寒流に冷やされて、その中に含まれた水蒸気が霧になって現れて上陸するという仮説が最も説得力があるとされている。ともかく、この海霧は厄介で、夏の農繁期にこの地方一帯を低気温にし農業生産の妨げになる。釧路地方で米が栽培されない理由の大半は、海霧による低気温があるとされる。ただ、悪影響ばかりではない。例えばこの地方の沿岸部で盛んな昆布漁では、海で取れた昆布を「干場(かんば)」と呼ばれる平地に石を敷き詰めた乾燥場で干すが、その干し具合をほどよく保つためには海霧が欠かせない。乾燥機を使って人工的に乾かすことも出来るが、それだと時として干しすぎてしまい商品価値が下がることがあるのだ。

 太平洋を見ながら坂道を下って海の上に目を遣ると、水平線の辺りに白い塊が浮かんでいた。その光景を目にすることにも慣れて、紗月は潮風を背に受けて坂を上った。

 通勤ラッシュの時間だから郊外の住宅地から釧路市の中心部に向けて満員の乗客を乗せたバスが何台も走るが、紗月は自分の横を通り過ぎるバスには目もくれずに歩き続けた。道なりにしばらく歩くと眼下に弊舞橋が見えてきた。

 釧路駅から釧路川に架けられた幣舞橋を越えてロータリーまで真っ直ぐに伸びる北大通は電線の埋設工事が完了していて、全体にすっきりとした印象を見る者に与える。

 彼女が坂を下りきると幣舞橋にさしかかった。

 このところ、何時もそうしているように、紗月は橋の上で立ち止まると釧路川の上流の方を向いて立ち止まった。

 釧路川には、河口から幣舞橋、久寿里(くすり)橋、旭橋、貝塚大橋とが架けられているが、紗月はこの位置から眺める久寿里橋方向の景色が特に気に入って、毎朝、この場所にほんの少しの間だけ立ち止まることにしていた。

 虔陵院からここまで歩いてくる間に、南風に運ばれた海霧は辺りを覆い始め、久寿里橋も徐々にかすみ始めた。

 地元の人の誰かが言った、この風景は墨絵に相応しい、と。絵心のない紗月だから墨絵云々の当否は分からないが、静かに漂う海霧にかすむ風景に、何となく心が落ち着いた。

 釧路に流れついてから約半年が過ぎた。虔陵院の近所の人たちや、実加子や順照と買い物に出かける近所のスーパーで会う人たちとも自然に話をするようになった。北国の故なのか、港町だからなのか、皆が余所者の筈の紗月も古くから釧路の住人であるようにする。時々、紗月は彼らが自分の過去を知っているのだろうかと考えるが、疑う自分が非礼のようで気が咎める。

 幣舞橋の上から釧路川の上流の方を見た。

 冬のあの頃、よく晴れた空から降り注ぐ冷たい陽光は川の両岸に積もった白い雪を照らしていた。辺りを行き交う人の吐く息は白く、皆、それぞれに暖かそうな防寒着を着ていた。そして、春になると川面は海から押し寄せる海霧を映して白く、人々は防寒着を脱いで薄着になった。海霧の色が濃く、日の光はそれに遮られて弱いが木々の緑が季節の移ろいを教えてくれる。辛くなるほどの暑さも無く、至極穏やかに人を暖める釧路の夏は、そこにいる彼女を疲れさせることはない。

 幣舞橋から少し歩いて田中事務所につくと所長の田中恒太郎は既に出勤していた。その田中事務所に、今日の午後、丁度、田中が市内の金融機関の担当者との打ち合わせとかで外出している時に、一本の電話があった。紗月が電話に出ると、相手は、東京の大谷という者から電話があったと伝えて欲しい、それだけで分かるはずだと言い電話を切った。

 紗月の終業時間近くになって事務所に戻ってきた田中に紗月が電話のことを伝えると、田中は一瞬、ため息をついて、分かりました、ありがとうとだけ応えた。

 なにか曰くがありそうな気配ではあったが、紗月が聞いても詮ないこととおもい、そのことには触れず、言われたとおり午後3時に事務所を出て帰途に就いた。

 時間は午後3時を少し過ぎた頃、サラリーマン達は会社であくせく働いている時間に自分はこうして仕事から解放されて申し訳ないような気持になるが、あすクビになっても文句は言えないパートの身の上だから、このくらいの贅沢は許されると思うことにした。

 紗月が退勤した頃、一時期、海上に引き上げていた海霧が、この時刻になると再び陸に押し寄せ居座りはじめたようだ。

 何故か急に海霧の様子を眺めていたくなった紗月は、幣舞橋の所まで行って立ち止まると橋の欄干に寄りかかった。こうしていると道を行く人たちも海霧を眺めている酔狂な地元民とは思わず、霧に見とれているロマンチストの観光客と思うに違いない。

 今、幣舞橋の欄干に寄りかかる紗月は風を全く感じない。しかし、釧路川の河口をさかのぼる海霧は、まるで自分の意思を持っているかの様に動き、次々と紗月の前を通り過ぎた。

 紗月の前を通り過ぎた海霧が帰ってくることもない。海霧はいつか解かれ溶けて空気になって人からに見えなくなる。

 紗月はふと何かを聞いたような気がした。

 海霧にも音があった。それは幣舞橋の上を行き交う車の音よりも鮮明に聞こえた。さらに目をこらすと確かに海霧の粒が見える。音もあり姿も見える一粒一粒の水滴がまとまり海霧となって虚空を漂いながら通り過ぎていく。

 しばらく、そこに佇んでいた紗月は、くすり、と微笑んで橋を渡り始めた。

 私も変わったね、年を取ったのかな、と紗月は思う。

 物心ついてから花鳥風月を殊更、愛でたことはない。むろん、例えば大学生だった頃に仙台の七夕祭に浴衣を着て出かけたことはあったが、あれは七夕を愛でると言うよりも好きだった男子大学生と一緒にいたかったからだった。今、紗月は、海霧を愛でている。賑やかな祭の喧噪も友人達の嬌声もない霧の釧路(まち)の橋の上で、儚く消えゆく定めの霧に思いをはせている。

 私も成長したんだよ、紗月はそう思うと橋を渡り対岸を目指して歩き始めた。

 旧日銀釧路支店の建物の前を通り過ぎて横断歩道をいくつか渡ると南大通がある帰るときは多少遠回りになっても急な坂の少ないこちらを選ぶことにしている。

 歩道を歩いていると銀行の支店が見える。この支店では「喫茶室 柏木」の幸子が働いていて、いつだったか虔陵院の用事で訪れた時にそれを知り、彼女に勧められるままに口座を開設した。

 ぶらぶらと歩いていると虔陵院の庫裡に着いた。

 「ただいま」

 「おかえりなさい、紗月さん」

 庫裡の茶の間では先に帰っていた実加子が新聞を読んでいた。

 「実加子ちゃん、なにか面白いこと書いてあるの?」

 「野球がね、今年は優勝できないかな」

 実加子は両手で新聞を持って眉間に皺を寄せると紙面から顔を上げずに紗月にこたえた。

 「紗月、おかえり」

 「ただいま、順照さん」

 本堂で何かしていた作務衣姿の順照が庫裡に戻ってきた。

 「紗月、さっき実加子にも言ったけど檀家さんで亡くなった人がいてね、今日、  7時から虔陵院ここで葬式の打ち合わせがあるから2人とも出てよ」

 「お葬式ですか」

 「佐藤さんのおばあちゃんが亡くなったんだよ。88歳だったそうで長いこと施  設に入っていたそうだよ」

 「わかりました」

 紗月はそういうと自分の部屋で部屋着に着替えた。

 そして、この日の午後7時少し前のこと、虔陵院の本堂に町内会の主立った面々が集まった。

 「えー、では、時間になりましたので佐藤さんのおばあちゃんのお葬式の葬儀委  員会を開始します。司会は私、会長の岡田が務めます」

 紗月が車座になって座っている出席者をそれとなく眺めると殆どが月末に行われた町内会の親睦会の時に見知った人たちだった。

 「では、最初に喪主さん、ご挨拶をお願いします」

 「おばんでございます、喪主の佐藤政志です。この度はうちのばあちゃんの葬式  で皆さんには、お忙しいなかあずましくない思いをかけますけども、なにぶん、  ひとつ、よろしくお願いします」

 座布団に腰掛けて小柄で毛髪が殆どなくなった小柄な男性があぐらをかいたまま頭をちょこんと下げた。

 「では、町内会として葬儀をお手伝いすることになりましたので、町内会で葬儀  委員会をつくります。慣例で委員長は会長の私がつとめます。」

 このあと、葬儀の打ち合わせは他の葬儀の時と同様に淡々と進んだ。

 「婦人部はこちらにお願いします。渡辺さんたちも入って下さい」

 会議の途中から参加者が男女に分かれた。

「女の人は台所でまかないをしますから。出すものはいつもと同じ、ご飯と味噌 汁と焼き魚、それに漬け物でいいよね、材料はいつもどおり土井食料品店さんで、 お酒は杉本酒店さんで。段取りは4時くらいから始まると言うことで」

 小川という町内会の婦人部長は慣れた様子でテキパキと決めていき、他の女性陣は頷いた。

 午後8時前後には打ち合わせもおわり、喪主が、よろしくお願いします、と挨拶して会議は終わり、参加者全員に喪主の佐藤家から缶ビールが1本ずつ振る舞われて、皆がそれを受け取って自宅に引き上げ、順照が本堂の戸締まりを確認してから紗月たちも庫裡に戻った。

 「順照さん、まかないって何をするのか分からなかったんですけど」

 庫裡に戻って一段落ついた頃、紗月は順照に言った。

 「お通夜の後に会葬客を帰して、遺族や葬儀委員になった人たちにご飯が出るん  だよ、それをお手伝いにきた女の人たちが作るんだ。」

 「お酒も?」

 「沢山は出ないけどね」

 順照の話しを聞いても異郷の地の葬儀のありようを上手く思い浮かべることが出来ないが、これ以上、細かいことを聞いても詮ないとわかり、何も言わなかった。

 そして、翌日のこと。

 この日の昼間、紗月は実加子の運転する車で喪服を買いに出かけて体に合った黒いワンピースを買ってきて、どうにか世間体を取り繕うことが出来そうになった。

 昨夜の会議で決まった通りの時間に葬儀委員になった町内会の役員達が集まり始めた。今日の葬儀の喪主は既に職場を定年で退職しているから葬儀委員は町内会の人たちでけで喪主の職場からの応援は期待できなかった。

 午前中から喪主が発注した葬儀社の従業員が来て虔陵院の本堂で祭壇を組んで、午後3時過ぎに棺に納められた故人の遺体が本堂に安置された。本堂の出入り口の外側には「佐藤家葬儀式場」と書かれた立て看板が立てかけられて、内側では折りたたみ式机とパイプ椅子がが並べられて受付が作られた。その受付の内側には大きな段ボール箱が幾つも積まれていて、やはり折りたたみ式机と椅子が置かれていた。段ボールの中身は全て会葬客に持たせる返礼品だった。

 4時頃になるとまかないの女性陣が集まりだした。紗月と実加子も言われるまでもなく彼女たちに加わって台所に立ち、昨夜の打ち合わせの通り、米を研いだり味噌汁を作ったりしてきた。

 「渡辺さん、慣れてるね」

 庫裡でも料理番を買って出ている実加子は存分に腕前を発揮して周囲の女性達から褒められた。紗月も少しは実加子に張り合おうとはしたが経験で培われた技量の差を埋めることは容易ではないと悟り直ぐに諦めた。

 「ちょっと、母さん方」

 まかないで女性達が忙しくしていると葬儀委員長の岡田がやってきた。

 「まかないで1人余ってないかい?」

 「なしたの、岡田さん」

 聞くと葬儀委員として来るはずだった人が2人ばかり仕事で来られなくなって受付で人手が足らなくなっていた。

 「香典の領収証を書いたり、台帳を付けたりして欲しいんだよ、誰かいないか   い?」

 「事務が得意でないと駄目だべさ、うちら誰か出来るんだべか」

 台所にいる女性達は一様に顔を見合わせた。

 「松田、どうだべか?」

  岡田が紗月を見つめながら言った。

 「駄目ではないですが」

 「お願いできませんか」

 「いってやってよ、松田さん、こっちは足りそうだからさ」

 婦人部長から言われて紗月はほんの数瞬、戸惑った様子だったが台所は人手が足りているのは明らかだったから岡田の申し出を受けることにして、黒いワンピースの上から付けていたエプロンを外すと、では、と言って受付の中に入った。

 「これが香典の領収証、そして、これが来た人に持たせる返礼品、中身は砂糖で  す、松田さんには香典帳を付けて貰おうと思って」

 「お香典に領収証を出すのですか」

 「北海道ではどこでもそうなんだよ」

 少し不安が残ったが、1人でやるわけでもないから何とかなるだろうと思い直して、とりあえず席に着いた。

 5時半頃には葬儀委員達の夕食が出されたので、紗月も他の委員と一緒に箸を付けた。

 「このアキアジ、ばっさばっさだな、冷凍物だな」

 「文句言うんでない、バチ当たるよ」

 焼いた鮭の切り身に箸を付けた男性が言い、横でそれを聞いていた婦人部の誰かが彼をたしなめて、2人の遣り取りを聞いていた皆が苦笑した。

 会葬客がくることを思うと誰も食事を早めに切り上げて持ち場に戻った。そして、通夜が始まる午後6時30分近くなると大勢の喪服姿の男女が紗月のいる受付に現れた。

 「これ、3軒いっぺんに、帰りによるわ」

 年配の男性が受付で喪服の上着の内ポケットから香典を取り出して、そこにいた男性に渡した。受け取った彼は、その3枚の香典袋を輪ゴムでまとめて振り向くと後ろにいる男性に渡し、受け取った彼は手際よく香典袋の封を切ると、それぞれの封筒の中身を確認して、入れられた金額と番号を袋の片隅に小さく書いて葬儀社から事前に渡されて喪主の住所と名前が入っている領収証を一件ごとに起こしてから紗月に袋と領収証を寄越した。

 それを受け取ってもどうして良いのかが分からずに戸惑っていると岡田が

「香典帳に袋に書かれた番号と名前と金額を書いて、それから、終わったら、そ  れを僕に下さい。まとめて来た物はまとめたままで下さい」

と言った。紗月が岡田に言われたとおりにすると、袋を受け取った岡田は積まれた段ボールの中から返礼品の入れられたビニール袋を取りだして、その箱一つずつに領収証を差し込んで受付の机に向かっている男性に渡した。

 「だいたい、こんな風だから、簡単でしょ」

 岡田は緊張している様子の紗月の気持ちを推して微笑んで、彼女も無言のまま頭をちょこんと下げた。

 通夜が始まる頃になると岡田は他の人に頼んで自分は葬儀委員長挨拶に備えて会場に行き、また、会葬客が増えだして、紗月もにわかに忙しくなった。そして、予定より少し遅れて、それは始まった。

 葬儀委員長の岡田、そして、喪主の佐藤の挨拶につづいて順照の誦経と説法、そして、誦経があった。その間も紗月たちは受付の中で忙しくしていたが、通夜が始まって1時間半ほどもすると全て終わって会葬客が帰り始めた。

 「浜中の飯田ですけど5軒分まとまったのを」

 「浜中の飯田さん、5軒分ね、これだね、ありがとうございました」

 「浦幌うらほろの下川です、本別ほんべつの山野さんと一緒のやつ」

 「これですね」

 会葬客のうち香典の領収証を受け取っていない人は帰りに受付に立ち寄るから、ひとしきり混み合うが、しかし、時が経つと解消されてた。一方の紗月は香典帳と受け取った香典の金額の確認に追われた。

 「今晩の香典は211万5千円、松田さんは?」

 「こちらも211万5千円です」

 紗月が記入した香典帳は数冊あり、それに記載された香典の総額と彼女の隣でお札を勘定していた男性の言う金額が一致して、受付にはほっとした空気が流れた。

 このあと、葬儀委員長の岡田と紗月は喪主の所に行くと通夜の終了までに受け取った香典が渡された。

 「岡田さんも松田さんもお世話になりました。ありがとうございました。明日の  告別式もよろしくお願いします。受付の皆さんも召し上がって下さい。」

 喪主の佐藤は丁寧に礼を述べながら紗月達に向かって頭を下げた。

 本堂の一角には手伝いの女性達が机を並べていて、少しの酒や酒肴などが用意されていて、遺族や葬儀委員達は思い思いに席に着いていた。紗月は他の女性達の目が気になるから台所で食器洗いを手伝ったりしたが、それも1時間前後のことで、気がつくと葬儀委員達は帰宅して本堂には数人の遺族が残って泊まり込むことになった。

 順照たちと一緒に本堂とつながった庫裡に戻った紗月は着替えてから茶の間に行くと同じように普段着のジャージにトレーナー姿の実加子と作務衣姿の順照がいた。 

「これが釧路のお葬式のやり方なんですね」

「私も最初はびっくりしたよ。香典に領収証なんてね」

 茶の間の応接セットのテーブルを囲むように座った順照たちはさすがに疲れた様子だった。

「ご遺体は通夜の翌日に荼毘に付するのですね」

「明日は午前9時から告別式で午前10時頃にはに葬儀社のバスが来て昇雲台(し ょううんだい)の斎場に故人と遺族を乗せていくんだよ。遺骨が帰ってきたら繰 り上げ法要もあるからね」

「繰り上げ法要って何ですか」

「一周忌の前倒しだよ。告別式の後に遺族だけで繰り上げ法要をやって、一周忌の法事はやらないんだよ。」

 紗月は順照の説明を聞いて、所変われば品変わるとはこのことかと思いながら、大きなあくびをした。

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