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さなぎたに1人  作者: きたお
23/30

第23章 去った人

暦は進んで6月も半ばとなり、北海道以外の日本全域が梅雨入りしたと気象庁が発表したころのこと。梅雨がないとされる北海道でも梅雨前線に沿うようにして北上する低気圧の影響で天候不順になる日が珍しくなく、釧路地方は濃い海霧に覆われる季節を迎えていた。

 実加子の過去と病気のこと、そして、紗月の事件のことは、虔陵院で起き伏しを共にする3人には重すぎて、だから三者三様に胸の中にわだかまった。そんなある日のこと、紗月が田中事務所から帰ってくると庫裏の茶の間では順照がテーブルの上に広げた新聞を読んでいた。

 「実加子ちゃんは?」

 「味噌を切らしたから買いに行ったよ」

部屋着のジャージに着替えた紗月が実加子の姿が見えないことに気がついて言うと順照が新聞を見たままこともなげに言い、紗月は何も言わずに順照の向かい側に座った。

 「どうしたんだい、困ったような顔をして」

 紗月が椅子に腰掛けてからしばらくたった頃のこと、何も言わずにこちらを見ている紗月に気がついた順照は紗月に声をかけた。

 「私、怖くて」

 「何が怖いんだい?」

 「実加子ちゃんの病気のことが怖いんです。もし症状が悪化しても私には何も出  来ないし」

 順照は紗月に言われておもむろに広げていた新聞を閉じた。

 「お前は医者だった時も、今のように考えていたのかい?」

 順照に言われて紗月はこくりと頷いた。

 「医者になりたてのころ、医者は何よりも患者さんを安心させることが大切だっ  て、医学に素人の患者さんは医者に命を預けることになるって、だから、医者  は医者としてのプライドをかけて仕事しろって、内心では病気や患者さんのこ  とが怖くてもあらわすなって教わったし、私もその通りだと思いましたから。  私は藪医者だったから誰も救えなかったけど。だから、今の実加子ちゃんの病  気が怖いんです」

 紗月は俯き加減になりながら言い、順照はそんな紗月を無言で見つめた。

 「紗月、お前は怖いと思うことを恥ずかしいことだと思っていたのかい?」

 「それって、結局は私の力のなさのせいだと思っていました。今だって、医師免  許は持っているのに実加子ちゃんの側に居ても何も出来ないのは、私が弱くて  力が無いからだから。実加子ちゃんを見ていると、ずうっとそのことを言われ  続けるようで」

 「紗月、ものごとを断念することを諦めるって言うだろう、あれは使い方を間違  っていて、本当は「完全に明らかにする」という意味なんだ、でも、人がどん  なに頭を使ったところで世の中のことをあきらめることなんて出来ないよ、私  はそう思うね。実加子も私も実加子の病気が良くなることは断念しているんだ  よ。お前が実加子の病気を怖いと思うことは恥ずかしいことではないよ、病気  は四苦八苦の一つに数えられるくらいだもの、怖いと思うのは当たり前のこと  だよ。お前が医者だった時に何を周囲の人から言われたのか分からないが、医  者だって人だもの、怖いものは怖いし、怖いものがあって恥ずかしいなんて、  私に言わせりゃ屁理屈だね。でもね、紗月、実加子は、あんな体になっても私  や紗月が側にいてくれるから普通にしていられるっていってね。お前にとって  は怖くて辛いことかも知れないけど付き合ってやっておくれよ」

  こちらを真っ直ぐに見つめて穏やかに微笑みながら言う順照に紗月は頷いた。 医師だった頃、怖いと思うことは恥ずかしいことだと思いなが働き続けた。それがどんなに辛くて疲れる毎日だったなど今の彼女に思い出すことは出来ない。ただ、怖いと思うことを当たり前のことだと言われて、胸のつかえがとれた気がした。

 死期が近いと言われた実加子が医師としての技能など期待しないのに一緒にいて欲しいと言うなら、その気持ちに寄り添おうと思う。自分にもそれくらいの強さはあるはずだと思いたかった。

 「ただいまぁ、小雨が降ってきたね」

 実加子が買い物袋を持って帰ってきた。

 順照と紗月は声を揃えて、お帰りなさい、を言い、そして、2人とも実加子に今まで話していたことは何も言わなかった。

 そして、その週の日曜日の今日、昼を少し過ぎた頃、紗月と実加子は、2人して釧路の郊外にあるデパートに買い物に来ていた。

ここには幾つかのブティックも入っていて、今日の2人のお目当ては夏に相応しいファッションだった。2人がもう少し若ければ特急列車で札幌まで服を買いに行ったかも知れないが、そうまでして、とも思うから、今日はここであれこれ選ぶことにした。

 予算は3万円以内で買うのは紗月が着るための洋服と決めたが、見立て役は専ら実加子だった。出来ればもっと多くのブランドを見て回りたいが、いま品物を選んでいるこの店でも十分、買い物を楽しむことが出来る。

 結局はお金なのかなと紗月は実加子と一緒に洋服を見ながら考えた。

 東京で暮らしていた頃、生活必需品以外の物は買えなかったし、それらを買うときも価格が最優先だった。時には、例えば通りかがりのブティックのショーウィンドウで気に入ったデザインの洋服を見かけた時など気持ちが大分、傾いたが、それでも最後にはお金のことを考えて思いとどまった。そもそも値の張る洋服を買ってもそれを着ていく場所がないという現実もあった。

 ささやかな幸福感を胸に抱きながら実加子と2人で2時間ほども店内を歩き回って買い物を済ませ、店内のレストランで食事をとり、2人して虔陵院に戻ろうとしていると実加子がジーンズのポケットに入れた携帯電話が鳴った。電話の相手は順照で、紗月に来客だから出来るだけ早く戻ってきて欲しい、という。

 「私に来客って、誰?」

 「それは言ってなかったよ」

 紗月は釧路に流れ着いてから自宅を訪ねてくるくらいに親しくなった人など心当たりがないから驚いて実加子に訊いたが、実加子は何も答えられなかった。

 「戻ろうよ、紗月さん」

 実加子に言われて紗月は駐車場にとめてある車に向かった。そして、実加子の運転する車の助手席で洋服の入った紙袋を膝に置いたままうつろな目をして前を見続けた。

 紗月からすると、日曜日の午後に虔陵院に紗月を訪ねる人物など思い浮かべることが出来ない。強いて言うなら警察官ぐらいだが、ただ、刑務所を釈放されてからは一度も警察に疑われるようなことをしたおぼえはない。

 紗月は何故、こんなにまで追い詰められなければならないのかと思う。

 刑務所を釈放されてから警察官と話したのは上野公園で野宿しているときに職務質問を受けたのが最後だった。

 多分、虔陵院で紗月たちの帰りを待つ警察官は刑務所で一緒だった誰かのことを聞きに来たのだろう。

 何故、北海道の釧路市に松田紗月という武州刑務所で服役した経験のある女がいると警察が知っているのかが気がかりだった。満期釈放だったから法務省に住所を届け出ることもしていない、東京の更心寮の誰かが警察に話したと言うことも考えられるが、それなら連絡をくれそうなものだ。

 「私、誰かから疑われるようなことは何もしていないよ」

 「大丈夫だよ、紗月さん、うちら、ちゃんしているもん」

 紗月は真っ直ぐに前を見ながら言い、実加子はため息をつく紗月の様子を気にかけて前を向いたまま言った。

 買い物後の楽しい気分などどこかに吹き飛んでしまった2人を乗せた車はデパートを出てからしばらくして虔陵院についた。

 2人とも思って車から降りることをしばらく躊躇った。

 庫裏の前に止まっている車は割と古い型の軽自動車だった。

 紗月と実加子は思わず、顔を見合わせた。

 何故、警察官が軽自動車に乗っているのだろうと紗月は思ったが、取りあえず、庫裏に入った。

 「ただいまぁ」

 自分で買った服の入った紙袋を両手に持って茶の間に入るとソファにグレーのスーツを着てネックレスを着けた、一見したところどこかの保険のセールスのような女性が座っていた。

 「池田さん」

 「松田先生、お久しぶり、お元気でした?」

 紗月はショックの余り全身の力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった。

 紗月が池田さんと呼んだ人物は池田登喜子といい、紗月が河北大学病院第1内科の医局にいた当時、病棟勤務の看護師をしていた。

 医師の間でしばしば軽んじられていた紗月を裏表無く支え励ましたのが、今、ソファに腰掛けて順照が入れてくれたコーヒーを飲んでいる池田登喜子だった。

 「ごめんなさいね、急にお邪魔して、うちの人が昨日の夜に突然、松田先生が釧  路の虔陵院にいるって言うものだから会いたくなったの」

 あの頃と少しも変わらない池田の優しそうな笑顔と声。紗月からすると忘れてしまいたいことの方が多い医師時代のこと共の中で、彼女との間のことはどれも良い思い出だった。

 紗月は買ってきた物の入った紙袋を置くと池田の横に座った。

 「お久しぶりです。」

 紗月は思わず片手を登喜子の膝において作り物ではない笑顔を彼女に向けた。

 「お久しぶりね、松田先生、お元気でした?」

 紗月は無言で数度、頷いた。そして、お互いに何を話して良いのかが分からなくなり2人は沈黙した。

 「池田さんのご主人て、警察の方なんですよね」

 「なんで?」

 登喜子の膝から手をどかして自分の膝をきちんと揃えて伏し目がちに訊く紗月に登喜子は優しい目を向けた。

 「だって、釧路で私がここにいるってことを知っている人は限られていますか  ら。警察の人なら知っていても不思議はないから」

 「違うわよ、**病院の藤田先生よ、河北大病院の第2内科にいたずんぐりむっ  くりの。私達、結婚したのよ」

「そうなんですか?」

 「うちの人、言ってなかったの?、私達、松田先生が河北大病院を辞めた翌年の  2月に結婚したのよ。私は生まれてから高校卒業まで釧路にいたの、そして、  看護学校に行くために仙台に行ったのよ」

 紗月は登喜子が言うのを聞いて目を丸くした。2人は結婚してしばらくは仙台で暮らしていたが、6年ほど前に夫の藤田医師が大学病院を辞めたいと言い出し、そのとき、偶々、釧路**病院で内科の医師を募集していたから、それに応募することにして釧路に来たのだという。

 順照は積もる話もあるだろうから紗月の部屋に行ってはどうかと言い、紗月は登喜子と共に部屋に入った。

 「その節は、本当に申し訳ございませんでした」

 足を折りたたむ小さなテーブルを挟んで登喜子と向かい合わせになった紗月はきちんと三つ指ついて登喜子に向かって謝罪した。

 「やめてよ、紗月先生、私は迷惑なんかしてないもの」

 紗月は登喜子に言われて体をゆっくりと起こした。

 「紗月先生、また会えて本当にうれしいよ。私、先生がどこかで自殺するかもし  れないって思っていたの」

 そういいながら登喜子は片方の手を自分の口の辺りに持って行った。

 「それも考えました。だって、辛くて」

 紗月も在監中や更心寮を出てからの日々を思い出して、すこしばかり涙が出た。

 それきり2人は少しの間、何も言えなくなった。

  紗月からすると思い出したくも無い刑務所でのことども、そして、更心寮を出てからの東京での日々。とてもではないが、どれも良い思い出と言って割り切れるものではなかった。

「私、うちの人から釧路に紗月先生が来ているって聞いてびっくりしたよ」

 「私も藤田先生や登喜子さんに又、お会いできるなんて思ってもみませんでした」

 「今日、私がここに来たって言うことも余所では余り言わないでね。医者には守  秘義務があるからさ、分かるでしょ」

 登喜子は笑顔で紗月を見つめながら言い、紗月も頷いた。

 「髪も短くしたんだね」

 「刑務所の規則で髪は肩までって決められていたんです。釈放されてからは自分  で切ってましたから。短い方が楽だし美容室に行く回数も少なく出来るから」

 「また伸ばせば良いのに。あの頃は河北大病院一長い黒髪の似合う女だったでし  ょう。私も密かに羨ましいって思っていたんだから。ところで、釧路にはどう  やって来たの?」

 「刑務所を出てから施設に預かってもらったんです。そこを出てから少しの間、  東京で働いていたんですけど色々とあって施設の人に紹介して貰って、ここに」

 「虔陵院ここはそういう施設なの?」

 「いいえ、違います。私が東京の施設でお世話になった人がここの知り合いだと  聞きました。」

 このあと、紗月は東京での出来事をかいつまんで藤田登喜子に言い、それを聞いた彼女は眉間に皺を寄せてた。

 「刑務所の中で釈放されてからの苦労は少しは覚悟していました」

 登喜子は紗月の言うのを聞いて、何も言うことは出来なかった。

 「寂しさには慣れているつもりですし、公園で野宿しているときは凍死しても仕  方が無いと思っていました。世間が私みたいな女に簡単に居場所をあてがって  くれないことは分かっていましたから」

 「釈放されてから、昔の仲間とかに連絡はしなかったの?」

 「刑務所の中から何人かに手紙を書いたんです。でも、誰からもお返事を貰えな  くて。だから、釈放されてからは誰にも連絡はしていません。寂しいけど仕方  が無いですよね」

 紗月は登喜子の方を見ようともせずに俯いた。

 「私も酷いよね、友達みたいな顔して、紗月先生が折角、刑務所の中から手紙を  くれても医局の上の方から止められたからって返事も書かないなんて」

「止められたんですか?」

 「紗月先生から手紙が来たら全て報告して欲しいって言われたの、そんなこと言  われたら返事なんて書きにくいわよ」

「私、皆さんの面汚しだから返事が来ないのも仕方が無いと思ってました」

 「そんなこと言わないでよ、紗月先生がいなくなった後、先生達は紗月先生の ことを褒めていたのよ」

「私のことをですか」

「先生のカルテはとにかく分かりやすくて助かるって、他の先生達はみんな言っ てた。中にはいるでしょう、カルテが分かりづらくて他人に迷惑をかける先生  が。紗月先生のカルテは学生向けの見本にしても良いくらいだって、みんな言  ってたのよ」

「カルテはチーム医療の基本だと思っていましたから」

 紗月は確かにまめにカルテを作っていた記憶がある。

 「私、医療ミスを連発する藪医者だったからカルテだけでもしっかり作ろうと思  ってました。」

 「藪医者だなんて言わないでよ、あの当時の第一内科の忙しさを考えたら、誰が  事故を起こしても不思議は無かったもの。先生がいなくなった次の年だったか  な、看護師が過労死したんだよ」

 「本当ですか」

 「本当だよ、まだ二十歳台だったのにさ、夜勤で仮眠室で当直していて心筋梗塞  を発症してね、朝、起きないから別の人が様子を見に行ったら既に冷たくなっ  ていたの。可哀想だった。その人の親御さんが病院の労務管理に問題があるの では無いかって言い出してね、その人、実家から職場に通っていたから親御さ んも娘の勤務は知っていたの。病院では調査委員会を作って勤務表とか全部調 べて、過労死申請を認めてね、結局、それ以降、入院患者の受け入れを制限す  ることにしたの。それでね、その時、私たち看護師は紗月先生の時はどうだっ たのだろうって噂し合ったの。紗月先生がいた頃だって異常な忙しさだったで しょう。先生のことだって、少しは忙しさが関係しているはずだって言ってい  たの。他の先生達がどう思っていたかはわからないけどね。紗月先生のことは  誰も言わないことにしていたし」

 「確かに忙しかったですね、私も毎日、へとへとでした。今考えるとよく過労死  しなかったって思います。他の先生に助けてなんて言えなかったし」

 「あの時の第1内科の先生達は私からすると最悪よ」

 「最悪ですか」

 「今だから言うけど、患者の割り振りを決めていた高野助教授は紗月先生のこと  を嫌っていたの。だから、先生に治る見込みの無い手のかかる患者を押しつけ  ていたのよ。そして、自分が可愛がっている若手には症状の軽い患者をあてて  さ、それでも駄目なときには自分や他の先生が手を貸していたのよ。」

登喜子の話しを聞いて、紗月は高野助教授という人は、やれやれ、だと思った。 ぺいぺいの駆け出しに過ぎない研修医の紗月からすると医局の筆頭助教授の高野とは話したことも殆ど思い出すことの出来ないような正に雲の上の人だった。そのような遠い存在の人に嫌われていたことが紗月には意外だった。

 「それにね、私ね、患者さんから聞いたんでけど」

 紗月と同じように第1内科で看護師として働いていた登喜子はある日、親しくなった患者から、松田先生のことなんだけど、と言って話されたことがあった。

 その患者の頭の上には患者の名前と「担当 松田紗月医師」と書かれたプレートがあった。 

 「要するに第1内科の先生達の中に紗月先生の治療方針が間違っているって患者  さんににおわせた人がいたのよ。」

 その紗月の悪口を言いふらしていた医師として登喜子が口にした3人の名前は紗月もよく知っていて、全員が高野助教授のいわば子飼いだったことは覚えていた。

 「そんな、酷い。だって、患者さんの治療方針って医局のカンファレンスで審議  されてから決められるのに、私1人が独断で出来るわけじゃ無いのに」

 「患者さんに治療方針の決められ方なんて分からないよ。私たち看護師だって、  先生達のやり方に口は差し挟めないしね」

紗月は落胆と怒りで首まで赤くなった顔を登喜子に向けた。

 「紗月先生、医者の仕事は続けるの?」

 紗月は、きたな、と思った。医師という仕事に呻吟していた頃の姿を間近で見ていたはずの登喜子でさえこれだと思った。

 「私の事件がインターネットに出ているんです。私の顔写真まで出ていて。医者  になって、患者の誰かが私の名前を検索した出てきてしまうんです。人を殺そ  うとした医者に診て貰いたがる患者なんて誰もいないと思うんです」

 紗月はそういうとズボンのポケットから携帯電話を取りだして操作して、これです、と言いながらそれ登喜子に渡した。その携帯電話のディスプレーには、紗月が医学部5年生の時に病棟実習を終え時に撮られた例の写真が表示されていた。

 「私、この写真をアップロードした人を知ってるよ。紗月先生と同期で第2内科  に入った佐藤明子先生。ほら、この写真で紗月先生の横に写って居る人」

 「確かなんですか?」

 「確かだよ。だって、うちの人が直接、佐藤先生から聞かされたのだもの」

 藤田医師が釧路**病院に転出することが決まった時に医局の仲間がささやかな送別会を開いてくれた。その時、たまたま同じ時期に他の病院に転出が決まった佐藤明美も参加していた。そして、二次会の席で藤田の隣に座った佐藤明美が酔った勢いで打ち明けて、その話しを聞いた藤田は苦笑するしかなかった。

 「ひどい、私、明子のこと友達だと思ってたのに、刑務所の中から手紙書いて、  彼女だったら返事をくれると思って待っていたのに」

 「彼女、紗月先生は倫理的に許されないことをしたのに自己弁護に終始している  って、だから義憤に駆られてこんなことしたんだって」

 数年ぶりに再会した辛かったころのことを知っている登喜子の前も憚らずに紗月は涙した。

 「医者という仕事が本当に辛かったんです。私だって精一杯やったんです、他の  先生達のような訳には行かなかったけど、それでも患者さんと一緒になって頑  張ったつもりなんです。でも皆、死んでしまった。私は誰も助けられなかった。  それで、遺族に恨まれて抗議されたり殴られたり、殺されかけたりしました。  私だって人間なんです、患者さんと同じように私だって辛かったんです」

 登喜子は、紗月が半ば取り乱して言うのを聞いてほんのしばらくの間、何も言うことが出来なくなった。

 「一ノ瀬教授のことは、ご存じですか?」

 幾分、落ち着いた紗月が、すみません、と非礼を詫びると登喜子は笑顔を浮かべて無言で首を横に振った。

 「一ノ瀬先生は紗月先生がいなくなった翌年に教授を辞任したよ。秋口だったか  な、医学部で学生相手に講義している最中に教室で倒れてね、心臓発作だった、  それで急にやる気をなくして3期目の教授選には出なかったよ」

 登喜子の苦り切った口調と顔つきが彼の一ノ瀬への思いを如実に 現していた。

 「私のせいですね、私のような者がいるから一ノ瀬先生もストレスで」

 「紗月先生、何でも独りで背負い込もうとしない方がいいよ、一ノ瀬教授のあれ  は自業自得だよ、うちの人も言ってたけど一ノ瀬教授は確かに人格的に立派な  方だし幾つもの画期的な業績を上げているそうだけど、あんなに自他共に厳し  かったらストレスで心臓も悪くなるに決まってるってよ」

 紗月からすると確かに厳しい人だったしそれ以上に冷たい人だった、患者のための医療は良いが医者だって人間だと言うことが彼には分かっていなかった。

 事件後の第一内科や一ノ瀬教授のことをひとしきり話したところで2人は黙ってしまっってから、紗月が怖々、

 「あの、ご存じでしたら教えて欲しいんですが、私が刺してしまった楠田聡子さ  んは、その、お元気なのでしょうか?」

といい、言われて登喜子が固まった。

 「紗月先生、本当に知らないの?」

 登喜子に言われて紗月は頷いて、そして、肩を小刻みにふるわせた。

 「彼女は紗月先生がいなくなってから3年経った頃に九州で亡くなったよ」

彼女は後頭部を何かで殴られた様な気がして、思わず顔を上げた。

「亡くなられたんですか、もしかして、あの時の傷が原因(もと) で?」

 いつの間にか紗月の目に涙が溢れかかった。

 「それは違うよ、彼女の死因は脳動脈瘤破裂よ。順を追って話しをすると、楠田  聡子さんは川田先生と結婚したのよ」

 登喜子の言うのを聞いた紗月は目を丸くした。

 「そして、川田先生は紗月先生がいなくなった翌年に九州の病院に転勤して彼女  も一緒に行ったの。そして、買い物からの帰り途に乗ったバスの中で倒れて病  院に運ばれて、その日の夜にお亡くなりになったのよ」

 藤田登喜子は言葉こそ丁寧に楠田聡子の最期を紗月に語ったが、その口調は死者への嫌悪感が露骨にあらわれていた。

 「楠田さんは事件の3ヶ月ほど前に第2内科を受診したの。診たのはうちの人じ  ゃ無いけどね、食欲が無いと言ってね、それで検査したら胃がんだったの。そ  れ自体は発見が早かったから治すことが出来たんだけど手術前の検査の時に脳 のMRIを撮って手術出来ない場所に動脈瘤が見つかったの。」

「川田先生は楠田さんのその病気のことを知ってて結婚されたんですか?」

 「そうよ。純愛だと思うでしょう?、実際は大違いよ。うちの人と川田先生は大  学生だった頃からの友達なの、それでね、川田先生がうちの人に言ったのはね、  楠田さんの親が和歌山から川田先生のところに乗り込んできて、娘と結婚する  か一緒に警察に行くかどちらか選べって猛烈な剣幕だったって、それで押し切  られて楠田さんと結婚することになったってんだって。あの人、川田先生との  間の赤ちゃんを堕ろしてたのよ。その時の医療ミスが元で2度と妊娠できない  体になったんだって。ただね、川田先生は、その赤ちゃんが本当に自分の子供  かどうか分からないってうちの人に言ってたの。全く身に覚えが無いわけじゃ  無いけど日にちが合わないんだって。産婦人科医の友達に聞いて回っていたっ  ていうから、よほど疑わしかったんだね。死んだ人間を悪く言うのもどうかと  思うけど、楠田さんには良い噂は一つも無いよ、彼女のせいで第1外科をやめ  た看護師が何人もいたもの。あそこの教授も何とかして彼女を他のところに回  そうとしたけど、みんな噂を聞いているから引き受け手が無くて困ってたのよ。  それにあの人、とんでもないブランド品狂いでね、亡くなった後にクレジット  会社からの請求を見て驚いたそうだよ。まあ、奥さんの生命保険や何かで何と  かケリをつけることにしたそうだけど、それでも川田先生が500万円近く   の借金を返すことになったって言ってた。」

紗月は登喜子の話しを聞いているうちに急に空しさがこみ上げてきた。

 それきり2人は俯いて黙り込んだ。その時、実加子が2人分のレモンティーを乗せたお盆を持って紗月の部屋に来た。

 「渡辺実加子さんです。大変、お世話になっているんです」

「はじめまして、渡辺です」

 「初めまして、私、藤田登喜子と言います。松田さんとは以前からの知り合いで」

 登喜子は笑顔で言い、実加子は、ごゆっくり、と言って部屋を出た。

 「綺麗な人ね」

 「彼女、とても優しいんですよ、私もお世話になりっぱなしで」

 2人は顔を見合わせて微笑んだ。

 「紗月先生、まだ川田先生のことをのことを思ってるの?」

  登喜子は実加子が運んできてくれたレモンティーを少しだけ飲んでから紗月に言った。

「川田先生が九州の病院に移られたそうですが、それは私のせいで」

「全く関係なし」

 そう言いながら登喜子は目を閉じたまま首を横に振った。

紗月の裁判の時、川田が検察側の証人として出廷した。刑務官に両脇から挟まれて椅子に腰掛けて俯いていた紗月はその川田の姿を見て激しく動揺した。

 楠田聡子が紗月の前に現れるまで、仕事で傷つき疲れ果てた彼女を川田は常に優しく励まし続けた。そんな彼だから、裁判ではきっと自分の弁護側証人を買って出てくれるに違いないと思ったのだ。だが、川田は検察側の証人として法廷に現れた。そして、紗月から言い寄られたこと、実は積極的な彼女が疎ましく思っていたが、彼女はそんな彼の心中などお構いなしに彼に迫り続けたこと、自分は楠田聡子を心から愛していることなどを臆面も無く陳述した。

 川田が法廷で繰り広げる空虚な独演会を目の当たりにした紗月の中で何かが壊れて、彼女はそれ以降、裁判官、検察官、弁護士の三者から何を聞かれても、消え入りそうな声で、はい、としか言わない存在になった。

 「 川田先生が紗月先生の裁判で検察側の証人になったのだって、一ノ瀬教授の  手前を取り繕うためだったって、彼、うちの人にいってたもの。それは上手く  出来たようだしね」

 「でも、結局、河北大病院から出たんですよね」

 「論文盗用よ、あの先生、他の大学を卒業して河北大病院に来た先生の出した研  究論文を無断で引用して自分の業績として医学雑誌に投稿して、それが掲載さ  れたの。一ノ瀬教授も激怒したそうよ」

 紗月の事件については何とか一ノ瀬教授の手前を取り繕うことができたが、さすがに研究論文の盗用はそうは行かなかった。

 彼は一ノ瀬教授以下第一内科の幹部全員による査問委員会にかけられて詰問された。そして、一ノ瀬教授から、できるだけ早く河北大学から去るように言われた。

彼は、その病院でも他人の業績を盗用して、結局、そこには居られなくなって同じ九州でも山間の小さな町の診療所に勤めるようになった。

 藤田医師は川田の二度の不行跡にあきれかえり、付き合いを絶った。

 紗月は、つくづく川田とつきあっていた頃の私はどうかしていたと思った。

 「しかも、そこで川田先生ったら地元の女の人と結婚したんだって。あんな男と  結婚するなんてよほど男を見る目が無い女よね」

 紗月はもう何も言うまいと思い口を閉じたまま藤田登喜子を見つめた。

 「川田先生って、ご自分の幸せには貪欲な方ですね」

 紗月は当人はいないが精一杯の皮肉を口にした。

 「紗月先生は川田先生に裏切られたものね」

 「裏切られたのではないと思います。あの方と私とは初めから縁が無かったと思  っています。あの時、私は子供だったって刑務所の中で反省して、はっきりと  分かったんです。私があの時、もっと大人だったらあんなことにはならなかっ  たと思うんです。子供のおままごとのようなものだったんです、私たちの間っ  て」

 登喜子は、そうよねぇ、と言って苦そうにレモンティーを口にした。

 2人とも何か言いたいのだが、何も言えないで無言でしばらくの間、向かい合った。そして、無言で居ることに耐えられなくなったかして、藤田登喜子が

「先生、医者辞めてよかったね」

と言った。

 「だって、あの頃の紗月先生は毎日、作り笑顔だったでしょう。無理して元気そ  うにしていたって言うか」

 「どうして、それを」

 「私にだって分かるよ、それくらい」

 紗月は大学医学部を卒業して医師免許を受領した年の4月、母校でもある河北大学医学部の付属病院の第一内科に就職した。

 大学の講堂で行われた採用辞令交付式には学長や医学部長など錚錚たるお歴々が居並ぶ中で紗月たち新人医師は皆、名前を呼ばれて1人1人が演壇に登って病院長から、よろしくお願いします、の一言を添えられた上で採用辞令を手交されてから、各々の配属先に向かい、居並ぶ先輩医師や看護師たちに向かって挨拶した。

 「でも、さっき、紗月先生に会ったとき、この人、元気になったって思った。紗  月先生が初めて第一内科に他の先生達と一緒にナースステーションに来たとき  と同じように明るくなったって思ったもの」

 紗月は登喜子に言われて、あの日が私の人生の頂点だったと思った。

 「ところで、紗月先生、釧路に馴染めそう?」

 「まだ来たばかりだから、よく分からなくて。でも、東京で施設を出た後の暮ら  しを思うと天国みたいです」

 「大げさだなー、紗月先生」

 「だって、本当にそう思ってますもの。施設を出た直ぐ後に住んだアパートは天  井からウジ虫が降ってきましたから。それに食べ物だって毎食、コンビニのお  むすびで、たまに食べるカルビ弁当がごちそうに思えていましたから。刑務所  に入れられる前は世間で生きることがこんなに大変なことだったなんて考えも  しませんでした。あの頃に比べたら今の暮らしは恐ろしくなるほど幸せだなっ  て」 

 「先生も苦労したよね」

 「全部、自業自得だって諦めていました。それに」

 「それに、何?」

 「私、あの時は、これからの人生がずっとこんな風だろうって思ってました。家  族や友達全員に見捨てられて独りぼっちになって、でも、新しい友達を見つけ  ることも出来なくて、前科者だからってアルバイトでも雇ってもらえなくて貧  乏なままで生きるんだって思ってました。刑務所にいたときに他の受刑者(ひ  と)たちに聞いたんですが、2度目、3度目って言う人って、やっぱり私と同  じように釈放されても独りぼっちで貧乏してたっていう人が多いんです。私も、  あの頃はプライドを持って、2度と警察に捕まるようなことはしないって思っ  ていたけど、でも、こんな毎日がずっと続いていたら、私ってもつのかなって  思っていました、私ってそんなに強い人間では無いことは自覚していましたか  ら。」

 「紗月先生、もし酷い毎日から抜け出すことが出来なかったら、どうするつもり  だったの?」

 「もう駄目だ、限界だってなったら、その時は」

 「その時は?」

 「潔く死を選ぶつもりでした。」

 そういいながら紗月は登喜子に左腕の手首と首筋を見せた。そこには薄くなったとは言え自殺しようとしたときに出来たためらい傷の痕があった。

 「そんな極端なこと考えたら駄目だよ。お金だったら生活保護を受ければ良いし、  友達だって直ぐには無理でもきっと出来るのに」

紗月は登喜子に言われて微笑みながら頷いた。

「刑務所を出ても私って子供のままだったなって、釧路に来てから思うようにな りました。人生で自分の願いが実現することなんて殆どないってことは医者や ってたときに思い知ったはずなのに、それでも、貧乏で寂しいだけで死ぬこと を考えるなんて駄目ですよね」

紗月と登喜子は顔を見合わせながら微笑んだ。

「独りぼっちの貧乏倉しか、確かに辛いよね。私は経験無いから分からないな」

登喜子は呟くように言った。

「ところで、どうして登喜子さんは釧路へ?」

「うちの人が、大学病院で担当して寛解した患者さんたちが、退院して直ぐの頃  に立て続けに自殺してね。あの時は、この人も自殺するんじないかっていうぐ  らいに落ち込んでいた。それで、彼が医者を辞めたいって言い出して、思いと  どまって欲しいって説得していたら、次に持ってきた話しが釧路**病院に転 職するってことだったの。私はその時、彼が働いてくれるなら病院はどこでも  良いと思っていたから、賛成したけどね」

「登喜子さんは釧路のご出身なんですよね」

「生まれてから高校卒業まで釧路にいて、仙台の看護学校に行ったの。私ね、仙  台の看護学校に進学が決まったとき、これで釧路とおさらばできるって、清々  したっておもったの」

 「清々した、ですか、」

 「こんな町に絶対、帰ってこないって思った」

 「酷いこと言いますね」

「だって、本音だもの」

 紗月と藤田はお互いにレモンティーをに口を付けながら顔を見合わせて微笑み合った。

「釧路が大嫌いだった、ふるさとなんて言われてもぴんとこなかったもの。でも、  うちの人に医者を辞められたら大変だから、まあいいかってね」

  紗月は登喜子の話しを聞きながら藤田医師のことを思い浮かべて、あの温厚篤 実の人の抱えた葛藤を推し量った。

 「うちの人、元々、絵が好きなのね、学生時代は美術部で、県民展覧会で優秀賞  を貰ったこともあったのよ。釧路って良い景色が一杯あるでしょう、だから、  すっかり気に入ったみたいよ」

 紗月に軽快な口調で言った登喜子は一息ついてレモンティーを口にした。

 「私が看護学校に進んだのも女1人で食べていくためには何が一番良いかって考  えたからなの」

「それだけ?」

 「それだけよ、他に何があるの? 」

「よく分かりませんけど、例えば人の役に立ちたいか、社会に貢献できるとか」

「そんなきれい事、誰が本気にするのよ、人間、(かね)が無くちゃ生きて行け  ないじゃない、結局は、これなのよ」

 そう言いながら、藤田は片手の指で丸を作って紗月の前に出し、紗月はそれを見て苦笑した。

 この人の率直な物言いに医師時代どれだけ救われたことだろう、そして、あの頃の自分にもこの明るさがあったら、あんな事件を起こすことは無かったかも知れないと紗月は思う。

 「紗月先生、変わらないね」

 「私がですか」

「理想家肌で、優しくて」

 なんと言葉を返して良いか紗月は戸惑った。

 「どう?、今は紗月先生は周りに優しくしてもらっている?」

 「釧路に来てから沢山の人と知り合ったわけじゃないけど皆さんは良い人ばかり  で」

 登喜子は、それを聞いて安心した、と言ってにっこりとした。

 「最近は釧路に帰ってきたのだなって思うようになったよ。綺麗な夕焼けとか冬  のけあらしとか見ると懐かしいって思ってさ、私は釧路に帰ってきたって、こ  こで生まれて良かったって思うよ」

 登喜子が独り言のようにしていい、紗月は微笑んだ。

 2人してあれこれ話し込んでいるうちに時計は4時近くになっていた。

「さて、家に帰って御飯支度しなくては。ところで、先生のご家族とは?」

 紗月は問われて正直に首を横に振った。

「もう駄目だと思います。拘置所にいるとき叔父から勘当されたって聞かされた  し、刑務所から手紙を書いても返事が来ませんから、私も諦めました、あとは  元気で長生きして欲しいっておもうだけなんです」

 紗月の言うのを聞いて登喜子は眉間にしわを寄せて頷いた。

そして登喜子は手にバッグを持つと思い出したように紗月に携帯電話の番号の交換を申し出て、紗月も登喜子から言われたことが嬉しくて素直に応じた。

 登喜子が紗月の部屋から出ようとして、様子を察したかして、茶の間にいた順照と実加子も見送りに出てきた。

 「今日は突然、うかがって失礼しました。」

 藤田登喜子は庫裡の玄関先で見送りに出た3人に向かって腰を折った。

 「紗月先生、また会おうね」

 そういうと藤田は玄関を出て車に乗り込み、虔陵院をあとにした。

藤田登喜子が帰ったあと、紗月は茶の間に直ぐに行くことはせずにしばらく自分の部屋で1人になった。

 部屋に1人でいるときはいつもそうしているように、この時も彼女は椅子に腰掛けて机に向かいその上に両肘をついて手を組んで顎を乗せて目の前にある窓ガラスを見つめ続けた。

 事件以後、紗月は勤めていた病院や被害者となった楠田聡子のことを何も知ることが出来なかった。

 紗月を弄んだ川田医師の面影が彼女の脳裏に浮かんだ。

 ハンサムで背か高くて快活で挙措にはみなぎる自信が余すところなくあらわれていた。医局では自他共に許す若手医師のリーダーで紗月からするとまぶしい位の男性だった。だが、今の紗月からすると彼の腐った内面を見抜けなかったとは私もよほどの子供だったのだと思う。女は男と肌を合わせたときに、その男の腹の内が分かると聞いたことがあるが、彼と初めて寝たとき、紗月は自分の辛さを彼の胸板にぶつけることしか出来ず、彼の深奥を感じることなどできる相談では無かった。彼が河北大病院から半ば追い出された経緯を考えると大笑いしそうになり、まして、九州で紗月にとっては仇敵とさえ言える楠田聡子と結婚したと聞いては言葉を失う、そして、彼女亡き後に地元の女性と再婚したというのだから、女性同士ながら、その川田の再婚相手となつた女性には好奇と同情が相半ばといった気持ちになる。

 それにしても紗月は登喜子から楠田聡子が紗月が在監中に死去していたと聞いて、心底、驚いた。そして、それを聞いても紗月は楠田聡子に同情しない。

 ふと机の端に目を遣ると東京から連れてきたミーシャがこちらを見つめていた。

 「ミーシャ、今日ね、私のお友達が来てくれたんだよ。そして、いろんなことを  教えて貰ったの。人間って怖いね、ミーシャ。君は熊でよかったねぇ」

 紗月はミーシャを抱きかかえて言い、そして、その頭をなで続けた。

 この日、釧路の夕焼けはことのほか美しかった。


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