第22章 ここに居る
その日の紗月は決められた時間に出勤してパソコンに向かい田中から指示された仕事をしていた。今日の仕事は田中が指定した企業がインターネットで公開している財務諸表にアクセスして指示された項目を抜き出してパソコンに入力することだった。ここしばらく似たような仕事をしていて、紗月も単調な仕事に飽きたので数日前、少しばかりグラフをつけたりして見やすくした資料を田中に渡すと大層喜んでくれた。
その日の夜のこと。
いつもより少し早く風呂から上がった紗月と実加子は、今日は実加子の部屋でレンタルしてきたCDをききながら、2人で駄弁っていた。
釧路の5月の夜は、特に風呂から出たばかりで体が冷えやすくなった2人には少し寒いから、ポータブルの石油ストーブを使って部屋を暖めながら、とりとめも無い世間話に興じていると部屋の戸をノックする音がしたのであけると順照が立っていた。
「紗月、また手伝っておくれよ」
今日、本堂の中にある小部屋で、この虔陵院のある町の町内会役員会が開かれることは紗月も順照から聞かされていた。今日の議題は毎年恒例となっている懇親会の段取りで役員達が集まって協議していた。順照がいうには、例年はこの懇親会のお知らせのチラシを絵心のある役員が手書きでつくり、それをコンビニでコピーして町内会員に配布していたが、その役員がつい先だって体調を崩して入院してしまい今年はチラシを書ける人が居なくなってしまったので、順照が庫裏で使っているパソコンで作りたいのだが、それを操作できる人がいないので紗月にやって欲しい云々。
紗月は暇をもてあましていたから快く引き受けた。
順照の部屋に行くと既に2人の中年の女性がしてパソコンとプリンターに電源が入っていた。
「こんばんわ、冬木です」
「こんばんわ、杉本です」
2人とも暖かい季節になったからなのか長袖Tシャツにジーンズだけの軽装だった。
紗月と実加子は虔陵院で時々開かれる檀家の集会の手伝いをしている。杉本も冬木もその集会に出席したことがあるから紗月達と何かと話すことがあった。
2人と紗月は挨拶を交わして早速、パソコンに向かって「一太郎」を起動した。
「あの、松田さん」
「はい、何でしょう」
「これにね、米町公園や厳島神社の写真が入っているの、チラシの中に入れられ る?」
冬木さんの奥さんが言いながら差し出したコンパクトデジタルカメラを受け取った紗月は中のSDカードを取り出してセットした。
紗月にとっては昔取った杵柄ではあったが、それでも結構な手際で文字のフォントや色などを冬木達の希望する通りに選択し、写真を取り込むなどして30分程でチラシを完成させてプリントした。
「さすが紗月だね」
紗月の後ろに立って作業を見守っていた順照が嬉しそうにいい、紗月も振り返って笑顔で応えた。
出来上がったチラシを冬木さんの奥さん達が本堂で待っている他の役員達に見せて了承を取り付けて、係の人が近くにあるコンビニで増刷することになった。
「さすがだね、紗月さん」
2人として実加子の部屋に戻り、また駄弁り始めると実加子が感心した様に言った。
「あの程度ならなんとかなるね」
本当に、あの程度ならなんとかなるけれどね、紗月はそう思いながら冷えた紅茶を口にした。
「ところで実加子ちゃん、懇親会って出たことあるの?」
「去年出たよ、毎年、5月の最終週の土曜日に開かれるんだって、お花見のよう なものだよ」
五月も中旬にさしかかった今日でも、虔陵院の庭に植えられた結構な大きさの桜の木のつぼみもまだ堅いままのようだ。改めて紗月は日本列島が南北に長いことを思った。
「どんなことするの?」
「去年は、会員の人の家の倉庫を借りて、中で炭火をおこして、その上に鉄板を 置いて色々な物を焼いてたね。飲み放題食べ放題なんだけど、量が凄いの。と くに海の物が沢山出てたな、ちゃんちゃん焼きとかね」
「ちゃんちゃん焼き、なにそれ?」
「アルミホイルの上で鮭の半身にみじん切りにしたネギなんかが入った味噌を掛 けて食べるんだけど、これが熱いうちだと最高に旨いんだよ。酒の肴にもいい しね、後は焼き肉だね、ジンギスカンもあったな」
分かったような分からないような実加子の説明に分かったような顔をして聞いた紗月だが、取り敢えず楽しそうなパーティーだとは思った。
そして、町内会の懇親会当日。
その日、この時期の釧路には珍しく朝から空は見事に晴れ渡っていた。
いつも朝は6時45分に目覚ましをかけている。時にはゆっくりと朝寝を楽しみたいと思うのだが順照がそれを許してくれない。
朝の日の光は紗月の寝ている部屋にも差し込んで、そろそろ起きようかと思って枕元の時計を見ると午前8時30分を過ぎていた。
「お前、だらしないね、今度、寝坊した時はお尻思いっきりつねるからね」
紗月は寝間着姿で茶の間に現れて、目を閉じたまま気配で察した順照はテーブルに向かい腕を組んだまま厳かな口調でいい、紗月は、はい、としか言えなかった。 確かに寝坊した私が悪いわな、目覚まし時計を掛け忘れたか、昨夜、久しぶりに悪い夢を見て夜中の2時ころに目が覚めて、それからしばらく眠られなかったものな、なとど思いながら洗面所で洗顔と歯磨きを済ませてすっかり目が覚めた。そして、順照と実加子の視線を感じながらとった朝食を終えた頃、順照がおもむろに口を開いた。
「紗月」
テーブルを挟んで紗月と向かい合った順照は庫裡のベランダに目を遣りながら言った。
「何でしょう」
「今日は町内会の懇親会だからね、お前も一緒に行くからね、11時開始だから 10時半にはここを出るから。遅れることのないように、以上」
順照は冷静な声音でいい、紗月は今、彼女に逆らったら往復びんたでもされかねないと思い椅子に腰掛けたまま深々と頭を下げて、その様子をソファに腰掛けながら見ていたいた実加子は笑い声を堪えるのに苦労している様子だった。
10時半になり、それぞれにジャージ姿になった3人は懇親会が開かれる漁師をしている町内会員の家に向かった。何時もは漁船や漁具がしまわれている倉庫も、今日はそれらを外に出して懇親会場として貸して貰う手はずになっている。
「今日は、会長さん」
「おう、住職さん、どうも」
会場となった倉庫に近づくと海側に開けられた出入り口からは既に青黒い炭火の煙が立ち上り、辺りには焼き肉の臭いが漂っていて、倉庫の中では既に作業服姿の数人の男達が段取りのために忙しそうに立ち働いていた。
ドラム缶を縦半分に割って横に風通し用の穴を開けてそれぞれに足をつけてその中に木炭を入れたコンロにプロパンガスのボンベにつないだバーナーでそれをあぶり火をつける、種火がついたと思ったら、今度はブロアと呼ばれる手持ちの送風機で風を送って火に勢いをつける。火が十分強くなった頃を見計らって、ドラム缶の七分くらいの長さの丁度かまぼこのような形をした鉄板を乗せ、あいたところには金網を乗せた。こうして鉄板部分ではジンギスカンなどを、また、金網では焼き鳥などの串物を調理できるようにする。昔は食べ物の殆どは会員宅の女性陣が自宅で下準備をしたそうだが、現在は地元の大型スーパーなどで季節になるとそれ用の商品が売られるので楽になったとどこかの小母さんが言った。
紗月とドラム缶を挟んで向かい合わせになった作業服姿の男性が手に持ったガスバーナーで、その中に並べられた炭をあぶり、物珍しげにその様子を眺めている紗月にに気がついて、やってみるかいと声をかけた。彼女はガスバーナーを操作するなど生まれて初めての経験だから喜んで引き受けて、目の前のコンロの中の木炭をあぶり続けた。
ばちばちと時折、コンロの中で木炭がはぜる。頃合いを見計らって年配の男性が合図するのでバーナーを脇によけると彼が火ばさみでそれをかき回して火の具合を調整する。
「ところで、この女の人、どこの若奥さんさ?」
隣に立って紗月の仕事ぶりを見ていた、胸に会社名と氏名の入った作業服を着て腕をまくり上げ、作業服のズボンにゴム長靴という格好の服の上からでも分かるくらいに筋肉に覆われた体をした男性が言った。
「初めまして、虔陵院でお世話になっている松田紗月と申します。」
問われた人よりも早く紗月は応えて笑顔で挨拶した。
「初めまして、町内会長の岡田です。」
屈強という言葉がそのまま当てはまりそうな体躯と野太い声に似つかわしくない優しい笑顔で彼は挨拶した。
「どこから来たんですか?」
「東京から今年の1月に」
「東京のどこさ」
「新宿から」
「新宿かい、随分、大きな都会から来たね。釧路はなんも無いから吃驚したでし ょ」
「ほんと、釧路、なんもないもんね。わっちらのちっちゃい頃からずっとだ」
長袖のTシャツにジャージのズボンを穿いた小母さんが紗月がバーナーで炭をあぶっているコンロの脇にいつの間にかやってきて言った。
長いこと釧路で住み暮らす人たちの言葉に反論など出来るわけも無いのだが、それでも、何も無いとは言えないのにな、などと思いながら紗月はバーナーで炭をあぶり続けた。
周りを見回すと少しずつ参会者が集まり始めたようだ。
「今日、どのくらいの人たちが参加されるんですか?」
「40人と少しって事務局が言ってたな」
「去年よりは多いったか」
「みんな松田さんを見に来るんでないの」
コンロの周りに居た誰かの言葉に紗月の頬が染まった。
「うちらの町内会も高齢化社会だからさ、来るのも年寄りばっかりだ、松田さん みたいに若い人なんて、なんぼも来ない、そもそも若いのがみんな、余所に働 きに行って釧路に居ないんだ」
隣に立って炭火の具合を見ていた岡田の言葉に紗月以外の全員が頷いた。
東京で職探しに苦労していたとき、三大都市圏就中東京へ向けての労働力の集中圧力が高く、紗月のような「最終学歴が地方の高校卒でこれといって資格も経験も無い30代半ばの女性」は不利だと言われ続けたが、労働力を送り出す側の釧路にあって、人々は諦念の中にあることを表情が語っていた。
「若いもんには若いもんの暮らしがあるからな、住みたくない町に住んで、うち ら年寄りの肥やしになってれなんて若いもんが気の毒たべさ、うちらもそうや って生きてきたんだもん、おらだって根室の歯舞で漁師やってれば いいのに中学校卒業して直ぐに家から出て若い頃、あちこち行って、釧路に落 ち着いたのが30歳のときだもん」
紗月とコンロを挟んで向かい合わせになって火ばさみを手にした痩せて小柄な男が炭火を見つめながら言った。
「北澤さん、息子さんはどこにいるのさ?」
「上の子は東京で、下の子は神奈川だ」
「帰ってこないのかい?」
岡田の言葉に炭火から顔を起こした北澤が火ばさみを顔の前で左右に振った。
「俺、息子らに帰ってくるなって言ってるの。将来あるお前達が年寄りのために 嫌な思いすること無いって。お前達の親はこのしばれる町でしばれて死んでい くから心配するんで無いって言ってるの。ただ、子供のことだけはちゃんとし てやれよって、俺もおっかもそれで良いって言ってるの」
多分、漁師なのだろう、赤く日焼けした顔で優しそうな目をした小柄な北澤の辛辣な冗談交じりの言葉に、紗月は無言になるしか無かった。
「せっかく2人とも大学卒業したんだもんな、釧路に帰ってこいなんて、子供達 が気の毒だもんな」
「北澤さんもよく頑張ったよな、2人とも大学卒業させるなんて」
「もう、大変。こたこたになった、でもな、やっぱりこれからは学問ないと駄 目だべさ、おらも息子達にはあずましい生活させてやりたいもん」
「岡田さんだって息子と娘大学だしたべさ」
「うん、今、岩手と秋田で高校の先生やってるわ。2人ともこっちに帰ってこな いって。うちのおっかは寂しいみたいだけど、おらも北澤さんと一緒で若いもん には若いもんなりの暮らしさせた方が良いと思うんだよな」
出会ってから1時間も経っていない岡田達に、紗月はぬくもりを感じた。
「ところで、松田さん、結婚は?」
「いえ、その未だ」
未だというよりは今生では諦めておりまして、等とは言えない。
「世の中の男達、なにやってんだべな、こんな美人をよ」
「岡田さん、チャレンジしてみればいいっしょ」
「ばっか、お前、うちのおっかにかって殺されるじゃ、おらの面倒を見てくれる のはあの人しかいないんだもん」
ご近所さん同士の冗談を耳にして紗月の周囲にいた人たちがどっと笑った。
やがて時間が来て、裏返しにしたビールのカートンの上に板を渡した席に参会者が座ると会長の挨拶、この席に寄せられた厚志の紹介などがあり、全員で勧杯となった。
「では、勧杯の音頭は、今年、虔陵院にいらしたばかりの松田沙月さんにお願い します。」
紗月は目を丸くして驚き、隣に座った順照をみると、やりな、といった。やりなと言われても何をするとよいのか分からずに戸惑っていると、紗月の隣に座った50年配の小母さんがビールを紙コップに注いで紗月に渡し、立って、立って、と促した。
言われた紗月は覚悟を決めると紙コップを片手に持って立ち上がった。
「皆さん、こんにちは、私は今年の1月から虔陵院でお世話になっている松田紗 月と申します。本日は、このような楽しい席にお招きいただき感謝しておりま す。皆さんとお目にかかるのは本日が初めてですので、何を申し上げて良いや ら分からずにおります、あしからずご容赦下さい。では、僭越ながら勧杯の音 頭を取らせていただきます。飲み物を手にお持ち下さい、では、当町内会の益 々の発展と会員の皆様のご多幸を祈って勧杯!」
「勧杯」
紗月の音頭で皆がそれぞれ手にした飲み物に一口つけて拍手をしたので、紗月もそれに倣った。
では、のちほどビンゴ大会もございますのでしばらくの間ご歓談下さい、と司会者が言い、各席で丁度良い具合になった炭火の上に掛けられた鉄板や金網の上に山海の産物が載せられた。
「松田さん、これ、食べてや」
乾杯の音頭の挨拶でも松田紗月と名乗ったが、何故か「東京の美人さん」と呼ばれる。
言いながら紗月とコンロを挟んで向かい合わせに座ったどこかの小母さんが、一尾の大きなカレイを金網の上に乗せた。
「あら、りっぱなマツカワでしょ、奥さん」
「うちのお父さんが白糠で釣ってきたのさ」
そういうと小母さんは、お父さん、と声を掛け、こちらに背中を向けて他の人たちと箸を片手に談笑していた小母さんと同年配の男性が半身で振り向いて手を振った。
「それ、食べて、旨いよ」
紗月たちが、ごちそうさまぁ、といいながら笑った。
「松田さん、マツカワって知ってる?」
「正直、魚には余り詳しくなくて」
「カレイの仲間でも最高級魚って言われてるんだって。身も厚いし美味しいよ、 煮付けが良いけど今日は焼いて食べようね」
「松田さん、アレルギーとは大丈夫かい?」
「大丈夫です」
「じゃ、これ食べようね」
「これ、知ってる?」
「エビですよね」
「ホッカイシマエビって言ってね、別海で取れるんだよ」
「東京でジンギスカン流行っているんでしょ、テレビでやってたもん」
そうなのか、東京でジンギスカンが流行っているなんて初めて聞いた。
「これ、沢山食べてね、ラム肉って美容にも良いんだって。うちらは手遅れだけ と松田さんには間に合うよ」
そう言いながら向かい合わせに座った小母さんが鉄板の上で焼かれていた肉と野菜を紙皿に盛り紗月に渡し、紗月は礼を言って受け取った。
金網の上ではサケや、去年取れて冷凍してあった秋刀魚、そしてホタテやアサリが焼かれて良い香りを立てている。
紗月を真ん中に挟んで座った順照と実加子もそれぞれに食べ物を紙皿に入れて頬張った。
それぞれの席で座った者同士が酒を酌み交わし料理を食べる。最低限の礼儀作法は守られるが、それでも決して堅苦しくはならない初夏の釧路での宴会。海の物が平均に好きな紗月は、だから今日の食べ物の中に魚介類が豊富にあることが尚更、嬉しかった。
どういう人たちなんだろう、紗月は、同じコンロを囲む数人の地元の人たちを見ていて思う。
漁師の暮らしに詳しい訳では無いが、それでも何となく鉄火な気性の荒くれ者という印象を持つ。その妻達だって決してたおやかな性格でいられるわけが無いと思う。暮らしが人柄を作ることは、それこそ戦場のような忙しさに見舞われた河北大学付属病院の第1内科医局で、しょっちゅう医師同士や医師と看護師、看護師同士がぶつかり合っていたことからも分かる。彼らだって全員が生まれつき気性が荒かったわけではないだろう。
釧路に来て半年も経たないから立ち入ったことを聞くわけにもいかないが、彼らの話を聞いている限り皆、善良な人たちのようだ。
竜飛以南においては「厳寒」とか「過酷」とも形容される冬のある北海道の、その東側の沿岸にあって、冬になると正に刺すような冷たく強い海風に晒されながら共に生きていた人たちは優しそうに紗月には見えた。
今年の冬に東京から流れ着いて、今日の懇親会の出席者の殆どとは生まれて初めて会うというのに、好きな酒の種類を聞くことから始まって、紗月が遠慮したくなるほどの食べ物を紙皿に盛りつけて寄越す。
「年に1回しか無いから沢山食べなよ」
「遠慮したって駄目だよ、うちらはみんないつでも食べられるけど松田さんは東 京に帰ったら食べられないんだから」
彼らは紗月を何時かはこの釧路を去って東京に戻る人と決めている。そして、だからこそ世話を焼く。
「順照さん、私、具合悪い」
不意に実加子が青白い顔をして順照を呼んだ。
「どうした、飲み過ぎたのか」
「辛そうだな、顔が真っ白だ」
確かに紗月からしても実加子は顔色が悪く、呼吸が速くなっているように思えた。
あれこれ皆で話をして、今日、酒を飲んでいない人の車で救急当番になっている病院まで送ることにし、紗月と順照が付き添うことになった。
「大丈夫だからね、病院で診てもらおうね」
車の後部座席に乗って実加子を膝の上に寝かせた紗月は、まるでぐずる子供をあやすように言いながらその背中をさすり続けた。
懇親会の会場から15分ほどで釧路**病院の救急外来について車は返して紗月と順照は実加子と一緒に診察室に入った。
「患者さんのお名前は?」
若い女性の看護師が実加子に顔を近づけて訊いた。
「四藤実加子です」
実加子が診察室のベッドに寝て目を閉じたままそういうのを紗月は確かに聞いた。
「ここにかかったことはありますか」
「内科の藤田先生にお願いしています」
「丁度良かったですね、今日は藤田先生が内科の当番で出勤していますから」
紗月は、実加子の言うことが理解できなかった。
1月に釧路に流れ着いて虔陵院の庫裡で互いに自己紹介したときに彼女は確かに「渡辺実加子です」と言った。また、釧路**病院の内科を継続して受診しているなど今日、初めて聞く話だった。
「こんにちは、四藤さん、どうされました。」
そう言いながら、白衣を着た如何にも医師といった感じの紗月より幾分年上の男性がカーテンの向こうから現れた。
「藤田先生」
「君は、松田君」
実加子の足下辺りに立っていた紗月と顔の辺りにやってきた男性は、ものの1メーとるくらいの距離を置いてお互いを見つめ合ったまま動かなくなった。2人に挟まれた格好の看護師はただその顔を交互に見つめるだけだった。
「付き添いの方は廊下でお願いします」
看護師に促されて順照と紗月は廊下に出てそこにおいてある椅子に腰掛けた。
紗月はこの病院で実加子の主治医となっている藤田医師を知っている。彼は紗月と同じ河北大学医学部の卒業生で、紗月が事件を起こした時、同じ河北大付属病院の第2内科で筆頭講師だった。
河北大医学部の卒業生が全国に散らばっていても驚きはしないが、さすがに釧路で彼に出会うとは思いもしなかった。
少したつとストレッチャーに乗せられた実加子が体に毛布を掛けられてどこかに連れて行かれた。一緒に行く看護師が、これからレントゲンですから、と言った。
紗月と実加子がこの病院について30分ほども経ったころだろうか、紗月たちは診察室に呼ばれた。
読影台には実加子のレントゲン写真が数葉つけられて、腕組みをした藤田医師が熱心な様子でそれを見つめていた。
読影台の前、藤田医師の椅子と向かい合わせになるように置かれた丸椅子に腰掛けた紗月の目はそのレントゲン写真に目が釘付けになった。
「患者さん、四藤さんの病状ですが、急激に悪化したということはありません。 血液検査の結果次第ですが、小康状態といっていいでしょう。今、点滴をして います。おそらく2時間半程度かかると思われます。」
紗月はなんと言って良いのか分からず、ただ、無言で藤田医師を見つめ続けた。
「時間に余裕があるのであればここの最上階の喫茶室でお休み下さい、今の時間 ですと食べ物は出ないけどコーヒー位は出るはずです」
藤田医師も突然の紗月の出現に戸惑っている様子で、紗月も、ありがとうございます、といい、時間をつぶすためにその喫茶店に向かった。
紗月と順照は店内に入るとそれぞれに好みの飲み物を注文した。
今、紗月達が居る喫茶店は病院の最上階にあり、その窓からは釧路の町並みを眺めることが出来る。地元の人はこの時期の釧路は毎日のように霧に悩まされると言うから、今日の澄み渡った青空は異例なのだろう。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
紗月がしばらくの間、窓の外の景色を眺めているとウェートレスが紗月が注文した紅茶をテーブルに置いた。喫茶店には他に数人の見舞客と思しき人たちが居る程度で静かに流れるBGMが心地よく耳に響き、全体にゆったりとした雰囲気だった。
「紗月、お前、藤田先生のことを?」
紗月は向かい合わせになった順照に訊かれてこっくりと頷いた。
「どこで知り合ったんだい?、お前は釧路に来てから、この病院にかかったこと は無いと思うけど」
紗月は片手をテーブルの上に置かれたコーヒーカップにかけたまま黙ってしまった。
「あの、いいかな」
紗月と順照がテーブルに向かって沈黙してから少し経った頃、藤田医師が2人のいる喫茶店に来た。
「藤田先生、いつもうちの実加子がお世話になっております」
順照は立ち上がってから礼を言い深く腰を折り、紗月もそれに倣った。そして、順照に勧められるままに彼は順照の隣の椅子に座って、注文を取りに来たウェイトレスに紅茶を頼んだ。
「渡辺さんも今日は大変でしたね。」
「ええ、あの子、時々、こうしたことがあって」
「まあ、今日は軽い貧血程度でしょう。疲れているのかな、お宅では変わった様 子は?」
「家では元気なようなのですが」
「それはよかったですね」
藤田と順照は親しげに話し、紗月はその様子を不思議そうに見つめていた。
「この人は今年の1月から私たちと一緒に暮らしている松田紗月さんです」
言われて紗月は藤田に向かって無言のままちょこんと頭を下げ、藤田は困惑した様子だった。
「この病院で四藤さんを担当している藤田です」
藤田はいかにも紗月と初対面であるかのように言い、紗月もその藤田の様子に少し驚いたが、改めて彼に
「よろしくお願いします」
と言いながら頭を下げた。
紗月は目の前に座って笑顔でこちらを見つめている藤田医師を見て、この人はあの頃と変わらない、と思った。
河北大付属病院で、紗月は第1内科医局員として、藤田は第2内科筆頭講師として働いていたが、第2内科の教授が鷹揚というか細かいことは気にしない人で「医局制度を医学に持ち込むなどばかげている」といい、部下たちに他の医局との積極的な交流を促し、自らも畑違いの外科系の医局カンファレンスに外野として出席し、先方の教授からからかわれたりしていた。だから、紗月も藤田達の勉強会に出席して研鑽していた。藤田の好人物ぶりは第1内科でも有名で、生き仏などという人もいた。また、その研究や治療の業績には示唆を受けることが多かった。
紗月は目の前に座った藤田医師が何を言い出すかと思うと気が気ではなかった。 「松田さん」
沈黙に耐えかねた藤田が思い切った様子で何かを言おうとした時、彼が白衣の胸ポケットに入れていた病院内専用のポケベルがなった。
「また患者だ。とにかく君が元気そうで安心したよ、今度、僕から連絡するよ」
藤田はそう言い置いて、急いだ様子で席を立った。
結局、この日の午後、点滴を受けてすっかり元気を取り戻した様子となった実加子は紗月や順照たちと一緒に虔陵院に戻った。そして、順照が布団をしいて彼女を寝かしつけた。
「お疲れ様、今日は大変だったね」
実加子をつれて病院から虔陵院の庫裡に戻ってしばらく経って、日も暮れて辺りがすっかり暗くなった頃、茶の間では紗月がテーブルに向かっていて、夕勤めを終え灰色の作務衣姿になった順照が一言添えて紗月の前にお茶の入った湯飲みを置くと自分は彼女の向かいの椅子に座った。
「実加子の様子はどうだった?」
「寝てました、大分、顔色も良くなった様です」
それきり2人は黙ってしまった。
「私、てっきり体が悪いのは順照さんだと思っていました。でも、それは実加子 ちゃんだったのですね」
紗月はテーブルを挟んで順照の向かい側に座ると目の前に置かれた湯飲みに両手を添えて言った。
「どうして、そう思ったんだい?」
順照も紗月と同様に目の前の湯飲みに両手を添えて言った。
「ここの掃除をしている時にリゾクレブン11アルファの殻を見つけました。そ れって飲み薬の抗がん剤なんです」
「紗月、なんで薬の名前を見ただけで抗がん剤って分かるんだい?」
順照は不思議そうに紗月を見つめながら言い、言われた体がびくんとなって、そして、俯いて黙ってしまった。
「今日、実加子と一緒に病院に行ったとき、実加子を診てもらっている藤田先生 とはお前と以前からの知り合いのように見えたけど」
紗月は最早、隠しておくことはできないと思った。
「私は医者だったんです。大学は河北大学医学部でした。今でも医師免許は持っ ています。私はそこを卒業して、そこの付属病院の第一内科で医者をしていま した。藤田先生は同じ病院の第二内科の筆頭講師でした。」
「そうなのかい」
紗月はそういうと目の前に置かれた湯飲みにほんの少しだけ口を付けた。そして、事件を起こすまでの出来事や事件のこと、家族のことや、その家族と刑務所に入れられてから縁を切られたことなどを涙で言葉に詰まりながら話した。
順照は紗月の話しを聞いても驚いた様子でもなく、無言で頷くと湯飲みに入った冷えたお茶に口をつけた。
「今の私の話しを聞いても順照さんは私に何も思わないのですか?」
「何もって、何を?」
紗月はいつの間にか涙を流していて、順照は俯いたままだった。
「医者なのに人を殺そうとするなんてとんでもないとか、そんな奴と一緒に暮ら したくないとか」
紗月は気持ちが昂ぶってたどたどしい口調で言い、順照は片方の手を頬に当てながら紗月を見つめた。
「私がお前を軽蔑しないのかってことかい?」
「たしかに取り返しのつかない馬鹿なことをして、家族や職場に迷惑かけたけど、 でも、私だって事件の罰はきちんと刑務所で罰は受けてきたのに、2度と警察 に捕まるようなことはしないと誓えるし、東京でどんなに辛くても人の手を借 りずに生きていこうとして頑張ってきたのに、釧路に来てまで他人から軽蔑さ れながら生きるなんて辛すぎます」
紗月は涙を流して、時々、詰まりながらいい、順照は無言のままだった。
「それに」
「それに、なんだい、紗月?」
「東京の諒順さんにも私の気持ちを分かってもらえないなんて、悔しいです」
「お前の気持ち?」
「私が受刑者して刑務所にいたときに教誨師として来てくれたのが諒順さんでし た。釈放が近づいて社会で生きていく方法を考えなければならなくなったとき、 諒順さんは私に医者になることを勧めてくれました。刑務官の先生達からも同 じようにそれを勧められました。更心寮でもそうでした。でも、私は医者とい う仕事が嫌なんです、心底、嫌いになったんです、怖くて仕方が無いんです、 医者という仕事が。この気持ちは諒順さんに刑務所の中でも更心寮でもきちん と伝えたはずなのに、結局、実加子ちゃんのために釧路に行かせるなんてあん まりです、それって、結局は私の気持ちよりも実加子ちゃんのことを優先した と言うことじゃないですか、私は医師免許はもっているけど医者を辞めて長い んです、いまさら癌治療の現場に戻れるわけがないんです、そんな甘い世界で はありません。それに私、自分でも不思議だけど医者だった頃に覚えたことを 殆ど思い出せないんです、このことは諒順さんにも何度も言ったのに」
紗月は涙ながらにいい、順照は眉間にしわを寄せて彼女を見つめた。
「紗月、お前の言うとおり、実加子は病気は癌なんだよ」
「今日、実加子ちゃんが藤田先生の診察を受けているときにレントゲン写真を見 ました。それには影が映っていました。」
今日、釧路**病院の救急外来の診察室でそれを詳細に見たわけでは無い。それでも実加子の内臓の数カ所に影があることははっきりと見て取れた。
「病院の藤田先生からは、もう長くは生きられないって言われてるよ」
少しの沈黙の後に順照は涙ぐみながら言った。その時、実加子が茶の間に入ってきて順照の隣に座った。
「実加子、大丈夫かい?」
「実加子ちゃん、もういいの?」
「2人とも今日はごめんね、心配かけて。もう大丈夫だよ、気分も良くなった」
実加子はいつも通りの明るい笑顔を2人に見せながらテーブルに向かった。
「紗月さん、今日、私が看護師さんから四藤さんて呼ばれているのを見てびっく りしたでしょう」
紗月は実加子の方をみないまま頷いた。
「順照さん、私も紗月さんに嘘つき続けるのに疲れたよ。本当のこと、話しても 良いでしょう」
実加子は順照を見ながら言った。
「実加子、お前」
「紗月さんなら大丈夫だよ、きっと分かってくれるよ」
実加子は紗月の方は見ようともせずに順照を真っ直ぐに前を見つめながら口を開いた。
「紗月さん、今まで嘘ついていてごめんね、結果的に紗月さんを騙すことになっ たけど悪気があったわけではないの、私の本名を隠したいって思って順照さん に相談して私が決めたことなの。私ね、本当は順照さんの姪ではなくて東京の 増井諒順さんの従姉妹なの。私、癌でね、手遅れで長くは生きられない体なの」
実加子が涙声で口を開き、順照が何か言いかけたが、実加子は、もういいの、と言って続けた。
実加子は言う。
実加子の母親の旧姓は増井といい、実加子の母が真ん中で上に増井諒順の母、下に他家に嫁いだ妹が居た。
実加子は幼い頃から母に厳しく育てられた。そして、思春期になって反抗し、暴走族に入ったりした。お陰で彼女は16歳の時に警察に検挙され少年審判に付され、約1年間を少年院で暮らしていた。そして、退院後、18歳の時に些細ないざこざが原因で同じ暴走族の構成員だった女の子を殺害してしまい、未成年のことだから懲役5年から8年の不定期刑の判決を受けて紀州刑務所で服役した。そして、釈放後、地元の更生保護女性会の世話もあって大阪の弁当工場で働き始めた。そして、1年半ほど前の冬のこと、その工場で働いているときに倒れて、すぐ救急車で病院に運ばれた。その病院の医師から癌を告知された。しかも彼女の病状は既に完治を期待できないところまで進んでいて、延命を図るしか無いと言われた。医師からの告知をうけた彼女は諒順と連絡を取り合い、釧路にいる順照の許に身を寄せた。釧路に来てから、直ぐに釧路**病院にかかり、藤田医師の診察を受けるようになった。
「藤田先生はね、無理をしないで頑張ろうって言ってくれたの。普通に暮らしな がらがんが広がらないようにしようねって、それで飲み薬や点滴で抗がん剤の 治療を続けようって言ってくれたの。」
「実加子がここに来たとき、私と一緒に病院に行って藤田先生に診てもらって、 手遅れだって、もう出来ることは限られているって言われたんだ。あの日は私 と実加子は一緒に泣いたよ。その時、実加子は自分の起こした事件でこれ以上、 家族に迷惑をかけたくないって、だから、名前を隠したいって言ってね。四藤 という名前は珍しいからね。だから、私はこの子を姪っ子ってことにして私の 名字を名乗らせたんだ。世間には嘘をついていることになるが、どうせ長くは 生きられないこの子だもの、その位は許されると思ってね」
紗月は順照の言うのを聞いて納得した。紗月が田中事務所で働くことになった時、紗月はそこでは偽名を使いたいと言い、順照は反対して結局、本名で働いている。順照に偽名のことを反対されたとき、紗月は酷く寂しかったが、釧路に来てから田中事務所で働くまでの間は松田紗月で暮らしてきたことを考えると、いまさら偽名で働いては敢えて周囲の不信を求めるようなものだと気がついた。
「紗月、よくお聞き、私が東京の諒順さんからの電話でお前を釧路に送りたい って言われたときに聞いたことは、諒順さんとお前は武州刑務所で知り合っ て、お前が釈放後に更心寮に入ったということ、そして、そこを出てから随 分と苦労して諒順さんに相談したということだけだよ」
「それだけですか?」
「ああ、それだけだよ、諒順さんは他にも言いたいことがあったようだけど私は 聞かなかったよ、聞いたって釧路でお前という人間と暮らす手助けになるとは 思えなかったからね。それにお前も知っていると思うけど私と諒順さんは一緒 に修行した間柄でね、その時から、あの人に人を見る目があることは知ってい たからね、その諒順さんが私の所に送ろうとしている人間だもの、大きな間違 いはないだろうと思ったんだよ。」
それきり順照は黙り込み、紗月と実加子は小さく嗚咽した。
「こんな私でも、ここにいて良いのですか?」
紗月は向かいに座った順照を正視出来ずに半ば俯いたまま小さく肩をふるわせながら言い、順照はそんな紗月の様子を優しく見つめた。
「肝心のお前はどうなんだい?、私達と一緒に居たくないのかい?」
「居たくないないだなんて、そんな。ただ、私、役に立てそうもないし」
「なんで、そう思うのだい」
「だから、さっきも言った通り、私は医者は続けるつもりがないし、それに、私、 人を殺そうとして捕まった過去があるから」
紗月は涙で言葉に詰まりながらいい、順照と実加子は何も言わずに紗月を見つめた。
「紗月、ここに来る前にお前に何があったかなんて、私は知りたいとも思わない、 それは実加子も同じだよ。たた、お前が釧路に来てから今日までの間、一緒に 暮らしてきて、お前のせいで嫌な思いをしたことは一度も無いよ。お前も知っ ての通り、私は実加子と一緒にいる時間が長いが、実加子はお前を釧路に引き 留めたいって、何処か余所の所に行って欲しくないって何時も言っているよ」
言われて紗月が実加子を見つめると彼女も涙を流しながら紗月を見つめて笑顔で頷いた。
「紗月さん、私、小さい頃から人の上に立たなくちゃって、そうで無ければ軽蔑 されるって思って生きてきた。自分以外は全部、敵みたいに思っていた。でも、 順照さんや諒順さん以外で張り合わなくても良い女の人なんて紗月さんが初め てだよ。だから、私、紗月さんと一緒に居たいよ」
順照は紗月を優しく見つめながら言い、紗月は再び涙を流しながら、何度も頷いて最後に、
「ありがとうございます、これからもよろしくお願いします」
と言って頭を下げ、2人のやりとりを順照の横に座った実加子がやはり涙を流しなが見つめていた。
アナログの壁掛け時計の発する音以外に何も聞こえない茶の間で3人はしばらくの間、沈黙した。
紗月は今日まで自分の過去の一部を順昭達にも隠そうとしていたことを後悔した。釧路に着いた日に、2人に全てを正直に打ち明けていたら、今日まで悶々とせずにすんだはずなのだ。ただ、あの時、2人の反応を予測することなど出来なかった。もし、2人が紗月と共に暮らすことを拒んだら、彼女は東京辺りで寄る辺ない身で巷を彷徨うことになるかも知れなかった。
しばらくして、順照は2人にお休みの一言を残して自室に入った。それから間もなくして、紗月と実加子はどちらが誘うでもなく茶の間のソファに並んで腰掛けた。
潮騒は近く遠く、夜だからなのか海鳥たちの声は聞こえず、辺りも人通りが絶えたようだ。その静かな夜の底に建つ庫裡の茶の間のソファに腰掛けて肩寄せ合って2人は沈黙した。
肩に実加子の体温を感じながら紗月は前を見つめ続けた。
「紗月さん、私はもう少しでこの世から居なくなるけど、あの世に言っても紗月 さんのことを忘れないよ、でも、それまでは沙月さんと一緒に居たいよ」
涙声で、ときおり途切れ途切れになりながら言う実加子の髪を紗月は優しく撫で続けた。
「ごめんね、実加子ちゃん、私、医者なのに、何も出来ない、実加子ちゃんの病 気を治すことなんて出来ないよ」
「いいの、紗月さん、私、紗月さんがお医者さんだって今、初めて聞いたもん。 紗月さんに私の病気を診て欲しくて一緒に居てって言ってる訳じゃないの。そ れにね、私みたいな女には相応しい死に方だって思ってるの、でもね、紗月さ んにはずっと一緒に居て欲しいよ」
「ありがとう、実加子ちゃん」
薄い生地で出来た寝間着を通して伝わる実加子の体温を片方の手で感じながら、紗月は礼を言った。
地元の人が「しばれた」という酷く寒い冬の日に東京から流れ着いて「喫茶室 柏木」でほんの一時の憩いと暖を求めていると虔陵院からの使いの者だと言って現れた実加子と初めて会ったとき、紗月は綺麗な人だと思い、そして、何となく気があわないのではないかとおもった。あれから半年近く経とうとしている。その間にお互いに心地よい間柄でいられる距離の保ち方もわかったから、二人して笑顔で過ごしている。
今日、実加子が近いうちに死ぬと実加子から直にきいた。
実加子は紗月が医師であることを知らなかった。そして、それを知っても、紗月に医師としての技術を期待していないと言う。
実加子も、そして、順照も紗月に医師であることを期待せず、ただ、今まで通り庫裡や時には本堂の掃除と3人分の洗濯をこまめに丁寧にこなす同居人であればよいといった。そのことが紗月には嬉しかった。
「紗月さん、私、死ぬのが怖いよ」
実加子が不意に涙声で言い、紗月はその背中をさすっていた手を止めた。
「怖いよ、紗月さん、怖いよ」
励ましも慰めも実加子の前には無意味だと紗月は知った。だから、無言で実加子と共に涙を流すことしか出来なかった。それは、医師時代に自分の敗北を嫌と言うほど思い知らされた日々に似ていた。だが、あの時の孤独感は今は無い。
ソファに腰掛けてからしばらく経った頃、首がかくんとなった気がして目が覚めて、紗月はいつの間にかソファーにかけたまま眠っていたことに気がついた。そして、互いに体温を感じながら寄り添っていたはずの実加子が居なくなっていた。
紗月の上にはタオルケットが1枚掛けられていて茶の間の灯りは小玉になっている。その小玉電球の下で、テレビ台の中のビデオの時計を見ると夜中の12時を過ぎていた。
多分、実加子が先に目が覚めてよく寝ている紗月を起こすことも忍びないと思ったかしてタオルケットを掛けてくれたのだろう。
紗月は誰でも良いから側に居て欲しいと思った。そして、自分でも不思議に思いながら順照の部屋の戸を開けた。
その部屋の薄いカーテンを通して月明かりが差し込み、うっすらと何かが見えた。紗月が諒順の枕元に近づくと、隣に寝ている人がいた。
それは実加子だった。彼女も1人で寝ることが怖くて順照の隣に潜り込んだのだろう。
そうだよね、紗月はそう小さく呟いて忍び足で部屋を出て後ろ手で戸を閉めた。
自分の部屋の灯りをつけて、蒲団を敷いて机の上からミーシャを取って片手に抱くと潜り込んだ。
灯りを消して独りぼっちになった部屋の闇の底で、紗月は目を閉じて、眠ることが出来なかった。
4月の末頃に、庫裡の掃除をしていて飲み薬の抗がん剤のリゾクレブン11アルファの包みを見つけて動転した。
てっきり順照だと思い込んでいたがん患者は実加子で、しかも余命幾ばくも無いところまでその病状が進んでいた。
その実加子とは体を寄せ合いながら共に泣いた。
紗月は元医師だから人の死には何度も立ち会った。そして、そこに至るまで苦しみ抜く患者と、その患者が苦悶する様子を見て狼狽えて紗月に、なんとかしろ、という家族に詰め寄られたこともあった。
今日、実加子自身も、そして、釧路で彼女と家族同然で暮らしてきたはずの順照も紗月に医師であることは期待せずに、ただ暮らしを共にする仲間として紗月を必要としていた。
医師だった頃、同僚や患者達から貶められていじめられ続けた。それに負けまいとして頑張って疲れ切った。
紗月は実加子が好きだった。その実加子が従容として死につこうとしている。
紗月は自分がこの現実に耐えられるのだろうかと思い、そして、いくら考えたって何も変わらないと言うことに気がついて、自分の部屋に戻ると布団を被って、その夜は泣き明かした。




