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さなぎたに1人  作者: きたお
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第21章 見つけたもの

 4月半ばから松田紗月は田中恒太郎が経営する事務所で働き始めた。仕事は簡単なものだしパートだから給料にも多くは期待できないが、彼女は気にしないことにした。

 そして、今日、事務所の田中から仕事は休みだと言われて彼女は一日を庫裡で過ごすことにした。

 昨夜、紗月は悪い夢を見て、叫び声を上げて目が覚めて、それ以降、何故か興奮していて朝まで殆ど眠られなかったものだから、酷い寝不足だった。それでも、順昭達にそのことを気づかれないように、今朝は普通に起きて朝食を取った。

 この日、諒順達が檀家周りで庫裏を出た後、紗月は部屋で机に向かった。

 青いセーターに濃紺のジーンズをはいた彼女は、その時、彼女は両肘を机について、まるで洋画に登場した神に祈りを捧げる人物でもあるかのように両手を口の前に組むと目をつぶって、荒く呼吸した。その時の彼女の肩は小刻みに震え、そして、眉間に深くしわを寄せながら涙を流し続けた。

 紗月は声を立てて泣いた。泣くような心境では無いはずなのに涙を止めることが出来ずに、そのことが悔しくて泣いた。体の震えが大きくなって肘を通して伝わった振動で机がかたかたと小刻みに震えた。体中に冷や汗が出て嘔吐しそうなほどに緊張していた。

 彼女はこのままでは暴れてしまいそうだと思い、手が震えるものだから手こずりながらもジャンパーを着て外に出ようとして庫裏の玄関で靴をはいて足がもつれながら外に出ると濃い潮の香りと共に春先のひんやりとした空気に包まれた。

 町は静まりかえっていて、潮騒以外には何も聞こえない。行き交う人は誰も居なくて、一匹の犬が紗月などには目もくれずに庫裡の前を通り過ぎただけだった。

 玄関前に立ち止まって見上げた空は灰色の重苦しい雲があり、その雲と彼女の間を数羽の海鳥たちが白い腹を見せながら風に身を任せて飛んでいた。

 彼女は誰かに見られる心配も無いと思い涙が流れるままにして墓地に向かった。

 1ヶ月ほども前まで氷雪に覆われていた虔陵院の墓地も、4月下旬となるとそれらは大方が溶けて、草花が芽吹き始めていた。

 墓所の草取りは各々の家族などでやってもらうが砂利を敷き詰めた通路は虔陵院の誰かがやるしかなかった。

 紗月は墓地に入ると早速、立ったり屈んだりを繰り返しながら通路の砂利の間からから芽を出しつつある草花を取り除いた。真夏ともなるとそれらは地中深くに根を張って取り除くために力がいるが、春まだ浅い今時期には芽吹いたばかりのそれらを取り除くことは容易かった。

 先ほどまで庫裏の自分の部屋にいた時と同じように肩は小刻みに震え涙が流れ続けていて、手先が震えるものだから草花をつかんでも引き抜くとこが出来ず、時々は堪えきれずに小さく声を漏らしたりしたが、今、ここで手を休めたらこの場で泣き崩れてしまうと思い、だから、彼女は草むしりを続けた。

 墓地の口抜きを始めてから大分立った頃、猫背や中腰になってばかりでは疲れるので、時々は立ち上がって背伸びをしたりすることを繰り替えているうちに、いつの間にか体がぽかぽかして気持ちも大分落ち着いて涙も止まった。そして、鼻の頭に何かが当たった気がしてふと顔を上げると粗雑にちぎった脱脂綿のような雪が降ってきているのが見えた。

 いくら曇天で肌寒いとはいえ暦の上では4月下旬になると雪がふる、北国に住むとはこういう風景を目にすることなのだ、空で風に舞っていた海鳥たちは、今も尚、この雪を浴びながら舞っているのだろうか、寒さに打ち震えながらそれでも飛ぶことを止めようとはしないのだろうかと思いながら空を見上げて、飛び続ける数羽の姿を見て、北国で飛ぶとはそういうことなのだと思った。

 彼女は立ち上がって墓地一面を見渡して、今日で墓地の全ての草むしりを終える必要はないと思い、少しの充実感を覚えながら庫裡に引き上げた。

 庫裡の自分の部屋で紗月は普段、来ているトレーナーにジャージという格好になると向かった。

 「私、幸せだよね、ミーシャ」

 紗月はそういいながらミーシャの頭を撫でた。

 紗月の部屋に置かれたポータブルストーブの作動音以外何も聞こえない。そんな部屋に1人でいると不意に眠気を感じて、押し入れから枕を取り出してごろ寝した。

 「ただいま。紗月さん、風邪ひくよ」

 紗月が墓地の草むしりを終えて部屋に戻ってから数時間が過ぎた頃、外出先から順照と共に帰宅した実加子が紗月の部屋をのぞくと彼女は安らかな寝息を立てていた。

 「ごめん、私もだらしないね、つい眠たくなって」

 「今、夕飯作るからね」

 そういうと実加子は茶の間に行き夕食の支度に取りかかった。順照は茶の間に入るなり、寒い寒いといいながらストーブの設定温度を23度にした。よく考えると今日の紗月は昼食も取らずに昼寝していた。昨夜の寝不足がよほどこたえたのだろう。

 紗月はふと自分の顔を気になって手鏡で見たが、実加子に泣いていたことに気付かれることはなさそうだった。

 紗月が風呂を沸かすというと実加子が近所の銭湯に2人で行くことを提案した。ここにきてから既に何度か入っている銭湯で、紗月もたまには大きな風呂に入るのもいいかと思い、話に乗った。

 順照が夕づとめを終えて本堂から戻り3人で他愛も無い話を交えながらの夕食を済ませると、紗月と実加子は風呂道具をもって車でで銭湯に向かった。

夕食時を過ぎているはずだが、その日は空いていた。その女風呂で2人はお互いに背中を洗ったり、浴槽に身を沈めたままぺちゃくちゃ話したりして十分に暖まり、虔陵院に返ったころには8時を少し過ぎていた。

 「きれい」

 車から降りて庫裡に入ろうとした紗月が西の方を向いて立ち止まったので実加子もそちらを見ると間もなく季節を終えるオリオン座が見えた。

 心が洗われる、とはこのことなのだろうと思いながら、紗月と実加子はしばらくの間、春未だ浅い釧路の夜空を見上げて立ちつくした。

 「風邪引くよ、紗月さん」

 実加子の声に促されて庫裡に入り茶の間に行くと順照が1人、テレビを見ていた。

「紗月、相談があるんだけど」

 タオル等を干して2人がソファに腰掛けるとテレビを見ていた順照が紗月に声をかけた。

 「何でしょう」

 「お前、経理に詳しいんだっけ」

 「詳しいかどうかは分かりませんが、一応、簿記の2級は持ってます」

 順照が言うには、この寺の経理をまとめて本山に報告しなければならないのだが、その仕事を手伝って欲しいというのだ。

紗月からするとお安いご用だから、早速、順照の部屋に行き、机の前に座った。

 そこには一応、パソコンとプリンタが用意されてはいるが、どうもここしばらく使用した形跡が無い。順照に尋ねると去年の春に町内会の仕事で使ったきりで電源を入れていないという。

 順照は恥ずかしそうにしているが呆れていても経理はまとまらないので、請求書や領収証の綴を出して貰ってパソコンの電源を入れると早速、作業に取りかかった。

 「助かるよ、紗月、私は経理仕事がどうにも苦手でね」

 「さすが紗月さん、頭いいよね」

 紗月の肩越しに作業を見守っていた2人が口々にいい、紗月が照れた。

 紗月が医師をしていた頃、既にパソコンは陳腐な家電製品並みに普及していて、紗月も職場用と自宅用の二台持っていた。尤も、紗月はパソコンという機械が何故か好きになることが出来ず、だから、詳しいとは思っていないが、それでも、各ソフトの基本的な操作はできる。

 取り敢えず、「エクセル」で出納簿を作るところから始めた。

 「期限はいつ頃なんですか?」

 「5月の半ばまでに本山に送ることになっているんだ、間に合うかい?」

「この量だと10日もあれば何とかなります。明日から頑張りますね」

 「ありがとう、助かるよ」

本当のところ10日ですむかどうか自信はないが格好つけたかった。

それからの数日をかけて紗月は虔陵院の前年度分の出納簿などを作成した。それを作っている過程で分かったことだが、虔陵院は結構な不動産を所有していた。そのうち、この寺の底地と釧路市内にある月極駐車場の用地は虔陵院の単独名義で、札幌に持っている土地は虔陵院と本山が持ち分半分ずつの共有物件とされ、その上に本山単独名義のマンションが建っていて、虔陵院は本山から持ち分に応じた借地料を受け取る仕組みになっていた。これでは虔陵院は本山の釧路支部の様になってしまうが、それで誰も不便を感じていないのだろう。

 それから数日経ったある日のこと。

 2、3日前から風邪気味だった紗月は、この日は何時も通り田中事務所で働いて庫裡に戻った。そして、庫裡の玄関に入るなり、目眩に襲われ壁に手をついて体を支えた。

 「順照さぁん、実加子ちゃぁん」

 頼りない声で中に呼びかけるが応答が無い。考えてみると庫裡の前に車が無いから二人してどこかに出かけているのだろう。

 立っているのがやっと、という感じの紗月は這うようにして玄関から庫裡の茶の間に入るとストーブの近くで俯せになって、そのまま、寝入ってしまった。そして、それから1時間位も過ぎた頃、

 「こら、紗月、だらしないねぇ、この子は」と 順照に叱られて目を覚ました紗月は、体をねじると外出先から戻った順照と実加子が紗月の後ろの方に立っていた。

 余りの辛さに紗月は気がつかなかったが、この時の紗月は穿いているスカートがめくれ上がりパンティーが丸見えになっていた。

 慌ててそれを直すと体を起こして、具合が悪くて、と言う紗月の目が潤み頬が赤くて鼻声で、一目見て風邪と分かった。

 「お前、風邪引いたのかい」

 紗月は順照の言葉に頷き、順照は紗月に体温計を渡した。

 37度9分、大人にとっては辛い体温だ。

 紗月が体温を測っている間に実加子は着替えを済ませるとすぐさま紗月の部屋に入り蒲団を敷き、紗月を着替えさせると寝かしつけた。

 「心配しなくていいよ、紗月さん、夕飯はお粥にするね」

 そういうと実加子は部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら紗月はこみ上げる涙を堪えた。

 「紗月さん、起きて、実加子特製のスペシャルお粥だよ」

 頬に何かが触れた気がして目を開けると、こちらを見つめている実加子と目が合った。

 「起きられる?」

 「うん、起きられる」

 紗月が蒲団に上半身を起こすと実加子がすぐさまジャージの上着を紗月の肩にかけた。

 実加子が体温計を差し出したのでそれを受け取り、脇に挟んだ。

 「ごめんね、実加子ちゃん、心配かけて」

 「何言ってるのよ、紗月さん、うちら仲間じゃん」

 実加子の言葉が嬉しくて紗月は笑顔で頷いた。

 「具合、悪いの?」

 「寒気と吐き気が少しね、あと鼻づまりと、でも、たいしたことないよ」

 実加子から渡されて体温計で測ると38度3分まで上がっていたが、不思議と辛いとは感じなかった。

 実加子は紗月が残さず平らげたお粥をいれてあった器を手に部屋を出て行った。そして、それからしばらくして実加子が紗月の枕元に来た。

 「紗月さん、今晩、一緒に寝て良いでしょう?」

 「いいけど、実加子ちゃんに風邪がうつるかもしれないよ」

 「平気だよ、私、元気だもん」

 実加子はそういうと肘を曲げて両方の拳を上下させた。そして、早速、自分の部屋から持ってきた蒲団を敷いた。

 「紗月さん、手をつないで寝ようよ」

 実加子は蒲団の中からそう言って紗月の蒲団の中に手を入れて紗月の手を握った。紗月は無言で頷いた。

 灯りも消えた部屋の中、手をつないだ2人は無言で天井を見上げ続けた。

 しばらくして不意に紗月が実加子に呼びかけた。

 「実加子ちゃん、起きてる?」

 「起きてるよ」

 「今日、ありがとう、私、やっぱり1人じゃ心細くて」

 「何よ、改まって、紗月さんに何かあったら同じ部屋で寝て無くちゃ不安だもん」

 部屋の中に再び、静寂が訪れ、間もなく2人とも安らかな寝息を立て始めた。


 昨日の朝、紗月は前夜からの発熱で汗をかき、体を拭きたいと思っているときに丁度良い頃合いで実加子が洗面器にタオルを持って紗月の部屋にやってきた。

 体温はやや下がっていたが、それでも38度前後あったから体を起こすのが億劫だった。その紗月の胸の内を察した実加子は

 「女同士だもん、いいでしょ」

 と言い、紗月に掛けられた布団を捲ると寝間着を胸が丸出しになるところまで上げてその体を拭き、上半身が終わると紗月に俯せになるようにいい、ズボンを全部下げて下半身を丸出しにして拭くなどして全身を綺麗にしてくれた。終いには、股間にも手を入れようとしたのでさすがにそれは遠慮して紗月が自分で拭いた。そして、それが終わると紗月をどかせてシーツを新しい物に交換してくれた。

 その時、紗月は大学時代の友人が女は一生を独りで生きていけるようには出来てはいないと聞きかじりの哲学を披瀝していたことを思い出した。 

 紗月はその翌日の昼間も微熱が続いたが、その日は、もとから仕事も休みの日だったので実加子に食事などの世話を受けながら寝て過ごし、夜の8時頃には目が覚めると熱も平熱に戻ったので庫裡の茶の間にいった。

 茶の間では部屋着の実加子が床に座って1人でテレビを見ている。その実加子の背中から肩に両手を乗せると

 「松田紗月、ただ今元気になりました、ありがとうございました」

と冗談をいい、実加子も笑った。

 「もう大丈夫なの、紗月さん」

 「うん、すっかり良くなったよ、ありがとう、実加子ちゃん」

 本当のところ、「すっかりよくなった」とは思わないが、このまま寝ていても実加子や順照に甘えるばかりだと思い起きたのだ。

 紗月は実加子の隣で体育座りになった。

 「順照さんは?」

 「今日は、冬木さんの三男さんの結婚式」

 冬木さんとは虔陵院の檀家の一つで冬木燃料販売株式会社という釧路では大きな会社を経営している家だった。今日はその冬木家の三男の結婚式で順照も招かれていると以前から聞かされていた。

 「会費15,000円で、多分、他の人たちと一緒に末広に行くはずだから順照  さん、帰りは遅くなると思うよ」

「なに、その会費って?」

「北海道の結婚披露宴は会費制なんだって。お客さんがご祝儀を包むんじゃない  んだって、私もこっちに来て初めて知った。」

 「末広って、この釧路(まち)の繁華街なの?」

 「うん、私も行ったことは無いんだけど、順照さんは末広にある「W」というカ  クテルスナックが好きなの、とってもいい雰囲気なんだって。」

 「いいよねぇ、順照さんだけ」

 「紗月さん、お酒好きだもんね」

 「もう、人を大酒飲みみたいに言わないでよ」

 紗月が軽く実加子をにらんだ。とはいうものの、酒は嫌いでは無い。

 刑務所から釈放された後は懐具合が気になってカクテルスナックどころでは無く、専らコンビニの缶入りカクテルで済ませていたが、事件以前、医師をしていた頃は仙台の繁華街で何度かカクテルスナックを職場の同僚達と共に訪ねたことがあったことを思い出した。 

  紗月と実加子は二人してテレビを無言でしばらくの間、見続けた。

 「どうしたの、紗月さん」

 紗月は実加子に言われて我に返った。

 「実加子ちゃん、今回のこと、ありがとう」

「何よ、急に改まって」

 「だって、嬉しかったんだもん、実加子ちゃんや諒順さんが看病してくれて」

紗月は、去年の秋口に、東京で一人暮らしをしていたアパートで風邪を引いて寝込み、挙げ句の果てにこじれて死にかけてことを話した。

 「今回の風邪でお粥を作ってくれたりお着替えさせてくれたりしたのが嬉しかっ  たの」

 そういうと紗月はぺこりと頭を下げた。

 「私、紗月さんの世話が出来て嬉しかったよ」

 「ありがとう、実加子ちゃん」

 紗月はそういうと実加子のてを握った。

 それから2人はしばらく黙り込んだ。そして、実加子が、もう寝ようか、と言って立ち上がった時、紗月が真っ直ぐ前を向いたまま

 「実加子ちゃん、一つ教えて欲しいことがあるの」

と言った。

 「実加子ちゃんは、私のことをどれだけ知っているの?」

 紗月は自らの愚行に胸中で舌打ちした。

 釧路に流れ着いてから今日まで2人とは波風を立てることなく平穏に暮らしてきた。今、実加子にこんなことを聞いて、それで彼女が紗月の期待を裏切るようなことを言ったら、これから先の毎日が気まずくなることは目に見えている。だが、紗月は何故か、実加子の本心を確かめたくなった。

 「紗月さんのこと?、優しくて大人しくて、時々、寝坊する人だってことは知っ  ているよ」

 実加子は目を細めて紗月を見て、紗月はその答えに拍子抜けした。

 「私が、どうして釧路に来ることになったかとか、どうして、東京の増井諒順さ  んと知り合ったかとか、そういうことは知らないの?」

実加子は紗月の言うのを聞いて、悲しそうな顔になった。

 「私がそういう人だってことは聞いているんでしょ?」

 「そういう人?」

 「私が前科者だっていうことよ」

 紗月は実加子に言いながら危うく涙を流しそうになり、実加子は俯いた。そして 「紗月さん、東京の増井諒順さんから、釧路に松田紗月という人を送りたいって  電話を受けたのは順照さんなの、私が直接、諒順さんから何かを聞いたわけで  は無いんだよ。順照さんから聞かされたのは紗月さんと諒順さんは武州刑務所  で知り合ったということだけなんだよ」

 と言った。

 「実加子ちゃん、びっくりしないで聞いて欲しいんだけど、私、人を殺そうとし  た女なんだよ、それで殺人未遂罪で懲役6年になって、武州刑務所に入れにら  れていたの」

 紗月は両膝を抱きかかて座りながらいい、実加子は無言のまま真っ直ぐ前を見つめていた。

 紗月も、何故、今、誰にも知られたくない自分の過去をよりにもよって実加子に打ち明けたのかが分からなかった。実加子がそれを知って、それで彼女との間に溝が出来たら、今の虔陵院での暮らしは酷く気まずいものになることは目に見えていた。だが、紗月は、誠心誠意看病してくれた実加子なら、自分の過去を知っても受け入れてくれると思いたかった、それに、東京の増井諒順が順昭達にそれを一切話していないとは考えづらかった。

 「私は釧路に来てからの松田紗月さんしか知らない、そして、私の知っているそ  の人は一緒に暮らしていても何の問題も無い、好きになれる人だよ、私には難  しいことは分からないけど紗月さんとは一緒にいたいよ」

 「ありがとう、実加子ちゃん」

 紗月は涙を流しながら言い、実加子も同じように涙を流した。

 「紗月さん、今のことは諒順さんには黙っておこうよ、気にすると思うから」

 実加子は紗月の手を握りながら言い、紗月は何も言うことが出来ずに何度も頷いた。


 ゴールデンウイークも終わり、そろそろ昼間はストーブを止めても寒くはない季節になったが、一方で、5月初めに幸町(さいわいちょう)公園で開かれたメーデーの集会が雪に見舞われる様子をテレビで見て、改めて釧路の春の遅さに驚いた紗月が順照に言うと、去年もこうだった、とあっさりと答えられた。

 紗月は田中から今日は事務所は休みと言われていたのでいつも通り起きると順照達が檀家との約束に間に合うように10時前に出発したので、日頃忙しくしているご褒美とばかりに目覚まし時計を11時にセットして茶の間でごろ寝した。そして目を覚ますとエプロンを着けたて墓地の向こうに海が見えるベランダを全開にした。

 そこに立つと海から吹き寄せるやや冷たい風が眠気を覚ますのに丁度良い。その心地よい風を体に感じながら、紗月はラジオ体操のように体を動かした。

 釧路は海霧(きり)が多いと、その海霧を地元の人たちは「ガス」と呼ぶと順照から聞いた。今日の曇り空はお世辞にもさわやかとは言えないが、それでも潮騒とを聞いていると何となく紗月の心は和む。それとは違う何かが聞こえたように思い、その音の方に目をこらすと数羽のカモメの群れが見えた。

 しばらく外をむいたままベランダにたってそこから見える海を眺めた。

 海水も透明で、だから海が青く見えるのは空の青さを映しているからだと高校の授業でならったことを思い出す。今日の釧路の海は曇り空を映して薄い灰色に見えるが、だからといって、この海を初めて見た1月のあの日のような寂寥を感じない。

 高校生まで暮らした秋田では夏になると友達と海水浴に出かけた。医学生だった頃、そして、医師になってから後も暇を見つけては仙台市近くの海水浴場に友人達と行っていた。

 あの頃、海は紗月にとって間違いなく遊び場だった。だから、今年の冬、生まれて初めて見た釧路の海の人を拒む荒々しさと、人を吸い込むような静けさが恐ろしかった。

 今日、紗月が見ているあの時の海とは違う。

 季節柄なのか、海も優しくなったように紗月には思えた。

 やっぱり海っていいよね、紗月はそう思いながらベランダを締めて庫裡の掃除にかかった。  

 順照、実加子、紗月の3人で何となく役割分担があって順照は専ら虔陵院の住職としての仕事を司り、実加子は料理番と順照の運転手役、そして紗月は庫裡の中や時には本堂、墓地の掃除を引き受けた。

釧路に来てから約4ヶ月がたったからゴミの分類なども覚えた。庫裡の茶の間で掃除機をかけ終わり、中のゴミを取り出してゴミ袋に入れ、ついでに茶の間のゴミ箱の中のゴミ袋を取り出そうとして、手が滑って床に落ちた。ゴミ袋の中にあったゴミが床に散らばり、紗月はそれを拾い集めた。

 その床に散らばってゴミの中に小さなカプセル剤の殻を見つけた。

 考えると順照はもう70歳近いと言うから紗月の知らない間にどこかの病院で何かの病気の治療を受けていても不思議は無いわけで、その時は紗月は全く気にとめなかった。ただ、好奇心からその殻に書かれた文字を読んで、紗月は目を疑い思わず声を上げそうになった。

 同じような殻が更に2,3個、ゴミの中にあったので手に取るとやはり同じことがもっと鮮明に書かれていた。

 紗月は、何が何だか分からなくなり、しばらくほうきを片手にその場に立ち尽くした。

外の風の音を聞いて我に返った紗月は再び、掃除を始めた。そしてゴミ出し、整理整頓を終え庫裡全体が綺麗になった頃、2人が帰ってきた。

 紗月は内心の動揺を2人に悟られることのないように努めて平静を装ってそれを迎えた。

 この日の夜、紗月はいつもの時間に自分の部屋で布団に入った。そして、今日、掃除の時に見つめた飲み薬の殻のことを思い浮かべた。紗月はこの庫裏での平凡な毎日が危機にさらされているような気がして冷や汗をかいた。

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