表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さなぎたに1人  作者: きたお
20/30

第20章 働きはじめて

暦は4月になり世間では新年度を言い正月とは違った意味で時の流れに一つの区切りが付けられる頃のこと。

 関東地方でも桜の便りが聞かれる頃になっても北海道東部の釧路地方は最低気温が氷点下になる日も珍しくはなくて、一方で溶けた雪の下からは少しずつ草花が芽を吹き始めていた。

 釧路に流れ着いた松田紗月が身を寄せた虔陵院では、この日、彼女と同居している渡辺順照と実加子が檀家周り等で外出して、夕方近くになって戻ってきた。そして、何時も通り3人で和やかに夕食を取って入浴を済ませてから紗月は自分の部屋に戻って読書した。

 紗月は時として1年前の東京での毎日を思い出すことがある。

 あの頃は辛かった。

 小さな会社のアルバイト従業員だったから給料も安くて、毎日、切ない思いをしながら暮らし世間の目に怯えながら湿っぽくてかび臭くて天井からウジ虫が降ってくるアパートで暮らしていた。

 それが今はどうだ。

 6畳間だがかび臭さなど微塵もなく天井からウジ虫が降ってくることなど考えられない。食事も実加子が料理番を買って出てくれているから心配しなくて良い。虔陵院についた時、住職の渡辺順照から毎月3万円をいわば部屋代として納めて欲しいといわれたが、紗月からすると十分、おつりが来る。今のところ仕事はしていないから貯金を切り崩すしかないが、そんなことは全く気にならなかった。

 彼女が釧路に着いてから同居している渡辺実加子は随分と彼女のことを気にかけていた。その厚意を時にうるさく思うが実加子の屈託のない笑顔を見ているとつい言い出せないで居る。

「紗月、起きてるかい?」

 彼女が実加子と一緒に出かけた春採湖畔の本屋で買った小説を読んで暇をつぶしていると背中にした戸の向こう側から順照の声がした。

 微睡みかけていて、手元の本を閉じると

 「はぁーい」

 と言って戸を開けると順照がいて、少し話しがある、と言うので、彼女について茶の間に居た。

 そこに置かれたテーブルには実加子がいて、彼女は熱心にファッション雑誌を読んでいた。

 「眠そうだね、紗月」

 「いえ、大丈夫です」

 紗月と向かい合わせになった順照は微笑んで彼女に言い、彼女も微笑んだ。

 「悪い話しではないんだ、実はお前の仕事のことでね」

今日、順照は虔陵院の檀家の田中恒太郎という人の家を訪れた。この田中家には恒太郎の父で昨年の夏に病没した常吉という人が居た。この田中常吉は釧路出身だが高校卒業と同時に関東地方にある某県警の警察官になった。そして、向こうで偶然知り合った釧路出身の女性と結婚して恒太郎を設けたのだった。そして、彼は警察を定年退職後、妻と連れだって帰郷した。

 恒太郎は多くは語ろうとしないが、彼も地元ですくすくと育ち、大手銀行に就職していた。

 数年前、田中恒太郎は両親の郷里の釧路市で小さな事務所を開いた。そこで働いているのは彼1人で、だから何かと不便なこともあり、誰か手伝ってくれる人を探していた。先方の希望としては、パソコンがそこそこ操作できて、普通に事務仕事がこなせる程度の基礎学力のある人が希望という。条件は時給800円で毎日、朝9時から昼の3時までの勤務、土日祝日は完全に休みで、その他にも恒太郎が札幌などに出張する場合は休みになるが、この場合、給料は支払う、ただし、いつ仕事が無くなっても文句は言えない。

 「どうだろう、田中さんも困っていると言うし、お世話になってみたら」

 順照は言い終えて紗月の顔をのぞき込むようして、紗月は俯いた。

 「私もこのままで良いとは思ってはいないんです、ただ、」

 「ただ、なんだい?」

 「その田中さんは私の過去を知って、それでも良いと?」

 紗月に言われて諒順は言い淀んだ。

 「お前の過去って、諒順さんとお前が最初に出会った頃のことかい?」

 順昭に言われて紗月はこくりと頷いた。

 「私、東京で職探ししているときに履歴書を送った会社から、お前のような女  は雇えないってはっきりと言われて。釧路ここに来る前までつとめてい  た会社では偽名で働いていました。」

 紗月が言うのを聞いて実加子も手に持っていた雑誌をテーブルの上に置いて彼女を見つめた。

 「私の事件がインターネットに出ているんです。私の名前で検索するとヒット  してしまうんです」

 順照は再び無言で彼女を見続けた。

 「私は自分でしでかしたことだから諦めてますけど、その田中さんの所で働い  ていて、それで私のことが世間に知られたら、田中さんや順照さんたちにも  迷惑がかかりそうで」

このとき、実加子が何かを言いかけて、順照が目配せでそれを制した。

 「紗月、お前が東京でどんな目にあわされたかなんて、私の知ったことではな  いよ、そんなことはお前が自分の料簡で何とかすることだ、そうだろう?、  ただ、釧路に来てからのお前は誰が見ても真っ当な堅気の娘だよ、それは虔  陵院ここで一緒に暮らしている私が請け合うよ、それでも世間がとやか  く言うなら、その時に考えれば良いことだ、私はそう思うがね、それに、田  中さんはというお人は真っ直ぐな気性のお人だ、私もこの年だ、憂き世の酸  いも甘いもかみしめてきたから、お前よりは人を見る目はあるつもりだよ、  まずは先方と会ってみて、正直に打ち明けて、それで相手の考えをまっては  どうかと思うがね」

 紗月は順照の穏やかながらも息をつかせぬ話しぶりに呑まれて、黙るしか無かった。

 「田中さんには私からお前のことを言っておくから、それで良いね。」

 2人の間に少しだけ沈黙が続き、業を煮やした順照が言うと紗月は、よろしくお願いします、と小声で言った。

 このあと順照は、おやすみ、と言い置いて自分の部屋に引き上げ、間もなく、紗月もそれに倣った。

 紗月は、自分の部屋に入ると灯りを消して、そして、椅子に腰掛けて机に向かった。

 紗月からすると正に、あーあー、だった。

 紗月にしても今のまま無為徒食の毎日に浸り続けることを潔しとはしなかった。いつかは働く日が来るとは思ってはいた。ただ、自分の事件がインターネットに出ていることが彼女の中で引っかかっていた。

 「紗月さん、起きてる?」

 戸の向こうから実加子の声が聞こえた。

 物思いにふけっていた紗月が急いで明けて戸を開けると両手でお盆を持った実加子がいた。

 彼女が手にした盆の上には二つのレモンティーが乗っていた。

 「一緒に飲もうと思って」

 「ありがとう、実加子ちゃん、入ってよ」

 紗月は実加子を招き入れて、2人は並んで壁に寄りかかって座った。

 「さっきは大変だったね、順照さんもあんな言い方しなくても良いのにね」

 実加子は紗月を見ながら言い、紗月は実加子と顔を見合わせて苦笑した。

 「しかたないよ、順照さんのいうことが正論だもん」

 「でもさ、紗月さんの言うことももっともだと思うよ。」

 「ありがとう、そう言ってくれると嬉しいよ。」

  それから2人は黙ってしまった。

 「私って東京でも偽名を使っていたんだよ」

 「東京では何という名前だったの?」

 「最初に働いたコンビニでは本名だったけど次の会社では田本なつきだった。  それで問題なかったんだよ」

 再び2人は沈黙した。

 「東京では色々とあってね、誰も私のことを許してくれなかった、許してくれ  ていたのは諒順さんたちとアルバイトで働いた会社の社長と奥さんくらいだ  った」

 紗月は実加子に言いながら、東京で職探しに手こずった日々のことを思い浮かべた。 

 「紗月さん、私は紗月さんが好きだよ。みんなも紗月さんの良さはきっと分か  るよ。だから、安心してよ」

 実加子は何故か紗月の方を見ずにいい、紗月は小さく頷いた。この後、しばらく2人は無言のままで、実加子が、ではお休みなさい、と言って紗月の部屋を出たときには2人の体はすっかり冷えていた。

 紗月は実加子がいなくなって直ぐに布団を引くと寝ようとしたが、中々、寝付けなかった。

 数日後、紗月は順照に伴われて田中恒太郎事務所を訪れた。

 事務所に通された2人は中に居た田中に言われたとおり応接セットの椅子に腰掛けた。

 順照が言うとおり田中事務所は田中1人だけの事務所で、だから来客へのお茶出しも彼がやった。

 「田中さん、どうぞお構いなく」

 諒順が笑顔で遠慮したが、田中は2人の前にお茶を置いた。

 「こちらが先日、お話しした松田紗月です、今年の1月から虔陵院で私と実加  子と一緒に暮らしています」

 紗月は順照に促されるまでもなく起立すると向かい合わせになっている田中に向かって腰を90度に曲げた。

 「田中恒太郎です。うちはご覧の通り僕が1人でやっている小さな事務所で、  松田さんに来ていただいてもパートだけど、それでも良いのですか」

 「はい、是非、お願いしたいと思いました」

 「履歴書をお願いしていたはずですが」

 「はい、お持ちしました」

 紗月はそういうと順照から借りたバッグから履歴書を取り出してうやうやしく田中に差し出した。

 「ワープロや表計算も出来るのですか」

 田中は紗月から受け取ったそれを見ながら紗月に言った。

 「資格を持っているわけではないのですが、経験はあります」

 「何か資格はお持ちですか?。順照さんからは簿記2級をお持ちだとか」

 「はい。持っております」

 紗月は得たりとばかりに先ほどのバッグから簿記検定2級の合格通知書を取りしだして田中に渡した。

「結構ですね」

 田中はそれを紗月から受け取るとしげしげと見入り、紗月に笑顔を向けた。彼はこれ以上紗月に聞くべきことはないと思って紗月を見つめたが、紗月は急に俯くと無言になった。

 「松田さん、どうされました?」

 「紗月、しっかりおし」

 昨晩、紗月と順照は今日のことについて話した。

 そして、紗月が刑務所帰りということを自分の口から田中に言うことにしたのだった。

 「実は、一つ問題がございまして」

 「何かありましたか」

 「実は、その」

 紗月はこの時、喉がカラカラに渇いて目眩がしそうだった。

 「実は、私、刑務所にいたことが」

 「なに、もう一度言って下さい」

 恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で言う紗月に田中は顔を近づけた。

 「私、刑務所帰り、なんです」

 「はあ」

 「私の名前をインターネットで検索すると私の事件のことなどが洗いざらい出  て来てしまうもので」

 田中は俯いた紗月を見つめたまま椅子に深く腰掛け直した。

 「今、お幾つですか」

 「36歳です」

 「いつ頃、刑務所から出られたのですか」

 「一昨年の11月に」

「そうですか」

 田中はそれきり黙ってしまい、紗月は緊張と恥ずかしさで耳まで赤くした。

 「松田さん、お生まれは何処ですか?」

 「秋田です」

 「ご家族とは?」

 「縁を切られてまして」

 紗月の隣に座った順照は緊張していることを悟られまいと田中の背後の窓を無言で見つめた。

 「松田さん、今の貴方のお話しを聞いて分かりました」

 田中は紗月に笑顔で言い、紗月は彼が何を分かったのだろうと思った。

 「松田さんさえ良ければ来週の月曜日から来てくれませんか」

  紗月は田中の言うのを聞いて弾かれたように顔を上げた。

 不意に田中が口を開いて紗月の予想に反することを言った。

 「あの、私で良いのですか」

 「ええ、来て欲しいと思います」

 田中は笑顔で紗月を見つめながら言い、紗月は嬉しくて涙を流しそうになり、その様子を順照が笑顔で見つめていた。

 この後、紗月は田中から初出勤の朝に持ってくるようにと言われて数枚の書類を渡されて、そして、翌週の月曜日の朝8時30分までに出勤するように言われて順照と共にそこを辞去した。

 「さて、バスターミナルまで歩こうか」

 「はい」

 田中事務所の入っているオフィスビルから出ると2人は虔陵院に帰るバスに乗るために釧路駅横のバスターミナルを目指して歩き始めた。

 「紗月、すっきりしたかい?」

 道すがら順照と並んで歩いていた紗月は言われてこっくりと頷いた。

 「もし、あそこで偽名を使いたいなんていったら、どうなっていただろうね」

 「多分、採用されなかったと思います」

 「私もそう思うよ。田中さんは気性の真っ直ぐな人だからね」

 檀家として田中恒太郎と接する機会の多い順照は自信を持って言い、それきり2人は無言にり、連れだってバスターミナルを目指した。そこに着くと順照は慣れた様子で虔陵院の最寄りバス停を通るバスを探して、2人はそれに乗り込んだ。そして、バスに揺られて20分ほどもすると2人は虔陵院最寄りのバス停で降りた。

 「紗月、世の中、捨てたもんじゃないってことがわかっただろう」

 順照はバス停から虔陵院までの道すがら隣を歩く紗月に言い、紗月は笑顔でちょこんと頭を下げた。

 虔陵院に入ると待ちかねた様子で実加子が出てきた。

 「ねぇ、どうだったの、2人とも」

 「紗月、お前から教えてあげなよ」

 「上手くいったよ、来週の月曜日からおいでって」

 「本当、よかったね、紗月さん」

 「喜んでくれてありがとう、実加子ちゃん」

 「だって、私、この話しが駄目になったら、紗月さん、釧路から居なくなるっ  て思ってたから」

 実加子は虔陵院の庫裡の玄関先で両手で紗月の両腕を強く揺すりながら喜んだ。

 この日の夜、紗月は入浴、食事を済ませてから自分の部屋で布団に入り、直ぐには寝付くことができなかった。

 田中恒太郎の人となりが紗月には分からない。だから、彼が短い幾つかの質問をするだけで紗月の何を分かったのだろうかとも思う。それでも、紗月は刑務所帰りということを正直に打ち明けても必要としてくれる人に巡り会えたことが心底、嬉しかった。

 彼女は、この夜も布団の中で泣いていた。その涙はうれし涙だった。

 そして、翌週の月曜日のこと

 「では、行ってきます」

 田中事務所で働くことが決まってから急遽、デパートで買った濃いグレーのスーツを着て虔陵院前の坂を下ったところにあるバス停を目指した。

 「おはようございます、所長」

 「おはようございます」

紗月が虔陵院を出てから20分程でこれから勤める事務所に入ると既に所長の田中恒太郎は出勤していた。

 紗月は順照に付き添われて面接を受けたときに渡された書類を田中に差し出した。

 事務所では既に紗月の机が用意されていた。

 所長の田中恒太郎は窓を背中にして机に向かって座り、彼の机と90度になるようにして紗月の机があり、そして、2人の机の上にはそれぞれキーボードとディスプレーが置かれていてた。壁側に並べられた大きな書棚にはぎっしりとファイルが入れられているが、よく見ると半分以上は空の様だった。

 田中が言うには事務所に制服はないから社会人に相応しい格好であれば良いといい、この日の田中も年齢の割には地味な色と柄のスーツ姿だった。

 「松田さん、字、上手だねぇ」

 田中は手にした紗月から手渡された書類に見入りながら感嘆の声を上げた。

 「書道の段とか持ってるの?」

 「一応、初段持ってまして」

 「この間、言えば良かったのに」

 「忘れてました」

 紗月の言うのを聞いた田中は、彼女を見つめながら微笑んだ。

 このあと、田中は紗月の勤務時間や給料について話した。尤も、それらは事前に知らされていた内容をなぞっただけだった。

 紗月は田中を見て、どういう人なのだろう、と思った。

 背がひょろりと高く痩せていて眼鏡をかけている。スーツを着慣れていることは分かり全体としてだらしない印象はないのだが、どこか浮き世離れしてるようにも見える。とにかく身にまとった空気が独特なのだ。ただ、非常に話しかけやすい人で、紗月の疑問にも丁寧に答えてくれる。自分で調べろ等と言って突き放すことはしない人なのだ。

 紗月は、そんな田中の人柄と仕事ぶりに触れて、取り敢えず安心した。

 そして、午後3時近くになると田中から終業を告げられ、紗月は虔陵院に戻った。

 今日、事務所からの帰り道、紗月はバスから降りたところで、何か聞き慣れない音を聞いた気がして空を見上げるとカモメの群れが飛んでいた。

 春の釧路は海霧に覆われて寒くなる日が多いと地元民の誰かに教わった。今日は曇天で霧は出ていないが、風が冷たい。その寒風の中、カモメたちは風に流されたりしながら空中散歩をしている。その様子を見たとき、紗月は何故か心が和んだ。

 釧路って寒いだけの町じゃない、紗月はそんなことを思いながら、虔陵院を目指して歩き始めた。そんな彼女を海から吹き寄せる風は優しく包んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ