第2章 霜月に風に吹かれて一人行く
殺人未遂罪で懲役6年を宣告された元医師の松田紗月は仮釈放を認められず満期まで服役します。そして、釈放の朝を迎えるのですが・・・・
第2章
いよいよ釈放の日の朝となった。その日は日曜日でもいつもどおり小鳥のさえずりで目が覚めた。そして、独居房の鉄製の扉に開けられた食器出し入れ用の穴から食事を受け取り、それを終えると外にそれを出して、畳の上に正座して扉の方を向くと身動ぎ一つせずに呼び出しに来る刑務官を待った。
「524番、出なさい」
今、紗月がいる独居房に時計はないから彼女に正確な時間が分かるはずも無いのだが、それでも8時30分を少し過ぎた頃であろうことは長年の習慣で何となく分かる。そして、その時、2人の、これまで見覚えの無い刑務官が紗月のいる独居房の前に来て扉を開けて彼女を連れ出した。
いよいよだ、いよいよ世間に帰るときが来たのだ。
紗月は2人の刑務官に先導されて、幾つもの施錠された扉を通って刑務所の医務室に向かった。
医務室ではやはり女性の刑務官が1人居た。
「礼」
部屋の中にいた刑務官が軍隊式の口調でいい、紗月と一緒に来た刑務官は挙手の礼を、紗月は深く腰を折った。
「これから領置物確認を行います。ここに置いてある物で間違いないか、確認して下さい。」
刑務所の中に外から持ち込むことが出来る物には細かな制限がある。その制限に引っかかる物は刑務所が保管することになっている。その物品を「領置物」というが、今、紗月の目の前のベッドの上には、紗月が仙台の拘置所に入るときに持って行き、そのまま刑務所まで持ってきた私物が並べられていた。
何せ急の出来事だから、領置物といっても僅かな現金と数枚のカード類が入った財布、そして、数枚の衣類、在監中に私費で購入したレターセット、携帯電話、そして、拘置所に入れられたときに来ていた濃紺のスーツくらいだった。
医務室で待機していた刑務官が手にしたリストに沿って紗月は領置物を一つ一つ確認した。
「領置物、間違い在りませんか」
「間違いありません」
紗月は刑務官に答えたが、正直なところ、6年前の事件の時に何を持って拘置所に行ったかなど覚えていない。
もうどうでも良いと彼女は思った。とにかく、ここから早く出たいのだ。どうせ安物しか持っていないのだから、手間を増やしてここに留め置かれる時間が長くなってはかなわない。
「では、着替えて下さい」
紗月と一緒に寮舎を出た刑務官が領置物確認を終えた紗月の背中から声をかけた。そう言われて紗月は思わず、彼女と向かい合わせになって立っている刑務官の肩越しに見える窓に目を遣った。この医務室は建物の2階にあるから外から覗き見られる心配はないのだが、それでもやはり視界を遮る何かが欲しかった。
刑務官は紗月の心中を察したかして窓にレースカーテンを引いてくれた。
刑務所の中で着る作業着はもちろん貸し出された物だが、ショーツやブラジャーも希望者には貸して貰える。それらは新品ではなく、見知らぬ女たちがやはり貸し出されて肌に付けていた物を彼女らが出所の時に回収し、受け取った刑務所がきちんと洗濯と消毒を施した上で保管していたものだ。
借りた側は必ず、自分が身につけている肌着などにマジックで名前を書いて、洗濯しても自分のところに戻ってくるようにしなければならなかった。
自分の下着に名前を書くなど幼稚園児と同様に扱われていると思ったが、これが刑務所に入ると言うことなのだろうと思い紗月は諦めた。
拘置所や刑務所には金銭を持って入ることが出来る。この金銭を「領置金」といい、刑務所に入るときに係の刑務官に預けて、中に入った後、買い物をするときの代金となる。
刑務所の中では、結構な種類の物を買うことが出来る。肌着類ももちろん購入可能なのだが、紗月は、敢えて貸し出しを受けることを選んだ。
紗月は上から順に服を脱いでいって、白のショーツに付いた黄色いシミを目にしたとき、思わず手を止めた。
「どうしました」
刑務官の1人が声をかけた。
「いえ」
34歳にもなってショーツを汚すと言うことは余りにも恥ずかしかったが、しかし、ここで脱ぐことをためらうことも出来なかった。
覚悟を決めて全部を脱ぎ、後ろにいた刑務官に渡した。受け取った刑務官はそれを床に置いたかごに入れた。
彼女は多分、紗月のショーツについた黄色いシミを見たに違いない。それを思うと紗月は顔から火が出る思いだった。
服を脱ぎ終わると先刻、確認作業を終えた領置物の中からブラジャーとショーツを取りだして肌に付け、続いて、ワイシャツ、さらに、拘置所に着ていった濃紺のスーツをきた。
「こちらへ」
医務室で待っていた刑務官が先頭に立ち、彼女を寮舎に迎えに行った刑務官が後ろについて、幾つかの扉の鍵を開け閉めしながら、彼女たちは外の世界と繋がる建物についた。
そこは管理棟と呼ばれ、所長室をはじめとして刑務所の管理業務を行うための部署が入った部屋がある建物だった。
管理棟の正面玄関が見えた。
この刑務所に幾つかある外の世界との出入り口のうちでは最も大きい出入り口だ。
玄関口に並んだ数名の刑務官たちは濃紺の地味なパンツスーツ姿の紗月を口々に励ました。
「頑張ってね」
「体に気をつけて下さいね」
「お前は未だ若いから、きっと何とかなるよ」
「ありがとうございます、これで失礼します。大変、お世話になりました」
刑務官たちの方を向いて言う紗月の礼の言葉に、並んだ刑務官たちは皆、笑顔で頷いた。
礼を言い終えた紗月は1人の女性刑務官に先導されて門のところまで歩いた。
「俺も長いこと刑務官やってるけど殺人未遂罪で服役する女医さんの受刑者なんて初めてだよ」
玄関に並んで紗月を見送った刑務官たちの中では一番年上の、背の高いやせた男性刑務官が呟くように言った。
「しかも、河北大学医学部卒業ですからね」
若い女子刑務官が付け加えた。
「男好きで有名だっんでしょ、あの人、週刊誌に書いてあったけど」
「彼女、良い奴だよな、悪い人間じゃ無い,ただ、運がなくてここに来ただけさ」
その場にいた一同は彼の独り言に同意し深く頷いた。
「また医者になるのかな、彼女」
年かさの男性刑務官が隣に立った年かさの女性刑務官に聞いた。
「それはないと思います。それだけは嫌だって言っていました から。」
「でも、そうなると、どうやって食べていくつもりかね、あの子。霞食って生きるわけにはいかんだ ろう」
男性刑務官は、紗月の姿が消えた正門に視線を据えながら、そう言った。
玄関と門までの間は大型の護送バスが駐まり楽に方向転換が出来るように広場になっている。その広場では植え込みの木々から落ちた枯れ葉が折からの風で勢いよく舞っていた。
紗月は1人の女性刑務官に先導されると、その枯れ葉が風に舞う広場を歩き、門のところについた。
門衛の刑務官と先導役の刑務官が互いに挙手の礼を交わし、先導役が何かを言った。紗月にはそれを聞き取ることは出来なかったが、門衛が笑顔で頷くと鍵を開けた。
いよいよ、だ、6年前に、涙でにじんで何も見えなくなりながら護送バスに乗せられてここを通って中に入って以来、6年ぶりに世間に復帰するのだ。
紗月が全身を強ばられていると、2人の刑務官は笑顔で彼女を見て、外に出るように促すような仕草をした。
門のところにたち、腰をかがめて外の世界を確かめてから、深呼吸を一つして外に出た。
彼女の後ろ居た刑務官たちが
「頑張れよ」
「頑張ってね」
と言って門を閉めた。
門が閉まる、ガチャリ、という音がした。その音を背中で聞いた紗月は胸中で呟いた、この6年間の刑務所暮らしで私の何が変わったのだろうか、と。
紗月が釈放された時、門の外には紗月しか居なかった。
仮釈放の場合は釈放される者の身柄引き受け人と刑務所との間で綿密な日程調整が行われるが、満期釈放の場合、それは行われず刑務所側は法律に従って受刑者を塀の外に出すだけだ。
仮釈放は裁判所が判決で宣告した満期日から1ヶ月以上さかのぼらなければ認められない。紗月の場合は、10月下旬のある日以降は満期釈放しかなくなった。だから、それ以降、沙月は刑務官達から家族に釈放の日に迎えに来てくれるように頼むことをを勧められた。
紗月はその申し出を断った。何せ下獄してから最初の2年間に何度か実家に消息を知らせる手紙を書き送ったが、梨の礫だったのだ。
諦めるしか無いよねと紗月は刑務所の中で思った。
釈放され、塀の外を紗月は1人、とぼとぼと歩いた。
門の目の前の道路は自動車が1台すれ違い出来る程度の幅しかなく、そこから100メートルも行くと片側一車線の割と広い道に繋がっている。その門前の細い道路と太い道路がT字交差点になっている辺りで、黒塗りのタクシーが見えた。
「お父さんだ」
紗月は、肩に私物の一杯入った厚紙で出来たバックを掛けたまま、しばし立ち止まった。
紗月には、父が迎えに来てくれたことが意外だった。
沙月はが自分を恨んでいても、それを恨み返すことは出来ないと思っていた。それでも、家族には優しくして欲しい。6年間、おそらく家族の誰も思い浮かべたことも無いであろう刑務所暮らしを実際に経験し、辛酸をなめた自分に心からで無くても良いから労りの言葉を掛けて欲しい。刑務所の門前で待つことは無くても、何処かで家族の者が待ち構えていて実家に連れ帰ってくれるのではないかと期待していた。
そして、道路の反対側に父の乗ったタクシーが、今、居る。
気持ちが昂ぶり思わず小走りになりかけたが何とか堪えて、平静を装い歩く紗月の目の前で、しかし、その黒塗りのタクシーは排気ガスだけを残して走り去った。
多分、運転手が休憩していただけなのだろう。
呆然とタクシーを見送った紗月は、思わず目頭が熱くなりかけた。そして、親に叱られてすねている幼い女の子のように、足下の歩道を片方のつま先で数回、蹴った。
落胆し、佇むばかりの彼女に冷たい赤城おろしが吹き付けた。
「お父さん」
5分ばかりもその場所に立っていただろうか、彼女は小声でそう呟くと自動車の音のする方に向けて歩き始めた。
今日は日曜日と言うこともあって普段は結構な交通量のバイパス道も閑散としていた。
今日が平日なら、多くの人たちに見られてしまう。だが、この場所で人目にふれたくはない。
紗月は、釈放が日曜日で良かったと思った。
これ以上、世間に恥をさらしたくはなかった。
一切の表情が消えた面持ちの紗月は、歩道に立つとタクシーを待った。
拾ったタクシーに乗り込むと、三十歳代と思しきドライバーに刑務所の看守から聞いた駅名を告げた。
きっとこの人も、私が刑務所で服役していたことに気付いているに違いない、地元ナンバーのタクシーのドライバーが、あの場所の直ぐ近くに何があるか知らないとは思えない。だから、彼女は、その中に乗り込むとずっと俯いたまま顔を見られない様にしていた。
タクシーで20分ほども走っただろうか、指定した駅で降りた紗月はドライバーに料金を支払うと振り返ることもせずに足早に駅に向かい、釈放前に刑務所を訪れた増井諒順との打ち合わせ通りの切符を買った。
発車まで少しの時間があるので、彼女は駅の待合室にある椅子に腰掛けた。
「満期、かぁー」
小声の言葉と一緒にため息が出る。
駅の待合の椅子に腰掛けた紗月は、何故か天井の蛍光灯を見上げてぼーとした。
6年ぶりの世間。
駅
行き交う人々
制服姿の中学生や高校生の男女
駅の売店でかけられているラジオの音
駅前の道路を行き交う車の音
まちのにおい
それらを目にし耳にしても不思議と懐かしいとは思わず、どこか遠い国の出来事のような気がしてしまう自分が不思議だった。
体が怠かった。椅子に腰掛けていることさえ辛く、今すぐにでも横になりたかった。
もうすぐ、ベッドのある部屋に行けるよ、紗月ちゃん、彼女は胸の中でそう言った。
駅の中を見回すと小さな売店があったので、そこで缶コーヒーを買った。
医師をしていたころ、眠気覚ましに缶コーヒーはずいぶん飲んだことを覚えている。あの頃、将来、糖尿病を患うことを警戒して無糖の銘柄を飲んでいた。今、何故か甘い物が欲しくて甘味の強い銘柄を選んだ。
細くて白い喉を鳴らして缶の中身を一気に体の中に流し込んだ。 ほんのりとした甘みとコーヒーの濃い香りが彼女を慰めた。
待合の椅子に腰掛けそれを飲んでしばらくするとコーヒーのカフェインのせいなのか、ぼんやりしていた頭がさえてくるような気がした。
ふと改札口の方をみるとスーツ姿で片手にビジネスバッグを持った初老の男性が時刻表を見上げていた。その男性が紗月には、母の実弟、田本剛造に似ている様に見えた。
剛造叔父さん、元気なのかな、紗月は心の中でそう呟き、そして、事件直後のことを思い出した。
紗月が事件を起こした後、新倉という仙台の弁護士が、紗月の職場の上司であり大学時代の恩師でもあった河北大学医学部第1内科の一ノ瀬教授の紹介で、秋田の紗月の両親により私選弁護人に選任されたとして挨拶に訪れ、そそくさと帰って行った。弁護士という人種に接する機会がこれまでの人生の中で一度も無かった紗月だが、それにしても新倉弁護士の淡々として、励ますでも無く労るでもない話しぶりは、彼女を不安にさせた。
紗月は拘置期限満了直前に殺人未遂罪で起訴された。
起訴され裁きを待つ身となり拘置所に留め置かれた紗月の許に面会に訪れたのは新倉弁護士以外では田本剛造夫妻だけだった。
叔父夫婦の面会を告げられた時、紗月は秋田から両親が来たと勘違いした。だから、最初は申し訳なさと恥ずかしさで面会を断ろうかとも思ったが、しかし、意を決して会った。
仙台拘置所の面会室のアクリルガラスの向こう側にはきちんとスリーピースのスーツを着込んだ叔父、田本剛造とその妻の優子がいた。
叔父夫婦は交互に紗月を励ました。彼らの娘、亜美と同い年で幼い頃から互いの家にお泊まりする間柄だったから、剛造夫妻にとって紗月は娘同然だった。紗月は剛造からに何か必要なものはと尋ねられたので、肌着類や洗面道具、そして、新しいスーツなどを要望したように思う。それらは、翌日、優子が買って届けてくれた。
そして、紗月の裁判が開始され、弁護側証人として田本剛造が呼ばれた。
剛造は自分が法廷に立つ前日、紗月を拘置所に訪ねた。
紗月は面会室で待っていた剛造を見ると腰を直角に折った。
「いよいよ、明日だ、叔父さんも自分の会社の株主総会並みに緊張するよ」
叔父はアクリルガラスの向こうから自分の仕事に絡めて冗談を言いつつ姪を励ました。
しばらく面会室に沈黙が流れた。
「あの、叔父さん」
「なんだい?」
「私、勘当ですよね」
涙に頬をぬらしながら紗月は言い、言われた剛造の顔が曇った。
面会にも来てくれないどころではない、紗月が心を込めて謝罪の言葉を書き連ねた手紙を何通も出しているのに、両親からは一向に返信が無かった。尤も、紗月も事件が両親にとってどのようなことなのか察することぐらいは出来るから、勘当されても、それに抗議するつもりは無かった。
姪の問いに大きくため息をついた叔父は、俯くと彼には珍しい小声で話し始めた。
紗月の事件直後から、両親はともに体調不良で入院してしまっていた。特に母の眞知子の症状が重いようだった。
紗月の目から涙が文字通り噴き出した。
何となく思ってはいたが、現実となるとやはり恐ろしかった。
そして、裁判が終了して判決を迎えた。
懲役6年の判決をうけ、深々と裁判官に腰を折った。そして判決の後、紗月は数日経って護送バスで仙台駅に運ばれた。
叔父夫妻に買って貰った濃紺のスーツを着て手錠を掛けられた彼女は男女の制服姿の刑務官に挟まれて仙台駅構内を歩いた。
あの時の身もすくむような恥ずかしさは思い出すと今でも寒気がする。まるで、周囲の人たち全員が紗月を指さして
「犯罪者だ」
「間抜けな奴だ」
「社会でやっていけないから刑務所に行くんだ」
等と嘲っているように思われた。事実、幼稚園児くらいの女の子が紗月を指さして
「ママ、あのおばちゃん、手にハンカチ乗せてるよ、ハンカチってお手々綺麗にするものだよね」
と言い、多分、その子の母親らしい、紗月と同年齢くらいの女性が
「そう言うこと言っちゃ駄目です。あの小母さんはね、これから悪い人たちが沢山いるところに行く可 愛そうな小母さんなの」
と言いながらたしなめている様子を見ていると、涙が止まらなくなった。
仙台駅から乗った新幹線を降りると刑務所までは護送バスに乗せられた。
この日、入所は紗月1人だった。
「いや、いや、やっぱり嫌、誰か、私を助けて」
出来ていたはずの覚悟はもろくも崩れ去り、紗月は無言のまま、べそを掻いた。
刑務所についてバスを下ろされるときも涙でにじんで周りがよく見えなかった。
こうして、松田紗月は武州刑務所に収監された。
あれから6年経った。
受刑者たちの中には外の世界から頻繁に手紙が来る者もいるし、制限一杯まで親族が面会に訪れる人もいる。だが、紗月にはどれも無かった。剛造が言った勘当が解ける日が、もしかしたら訪れるのではないかと期待していたが、それは叶わなかった。
間もなく紗月の乗る電車の改札が始り、改札を出ると跨線橋を渡り、急いで乗車した。
日曜日の午前中だからなのだろうが、電車は空いていた。
紗月は窓を背にしてロングシートに座るときちんとそろえた膝の上に私物の入ったバッグを乗せて、ぼんやりと向かい側の窓の外を眺めた。
沿線の風景は、関東平野ではごくありふれたそれで、町を過ぎるとのどかな田園風景が目に入ると言ったことの繰り返しだった。ただ、今日の車窓から見える曇り空の下に広がる刈り入れを終えた田畑は人影もなく、ただ土の黒が鉛色の空と陰鬱なコントラストを成していた。
発車後、暫くするとガラス窓に水滴がつき始めた。
こうして1時間半ほど電車に揺られた後、彼女は東京都内の某駅に着いた。
改札を通って駅舎の外に出ると立ち止まって空を見上げた。
空は一面鉛色をした雲に覆われて薄暗く、小雨も降ってきた。
傘を持たない紗月は肩に掛かる雨粒を振り払ったりしながら通りを歩いた。
しばらく歩いていると紗月は自分の額に汗が滲んでいることに気がついた。そぼ降る小雨に濡れているというのに、何故か全身で汗が出るのだ。自分で自分の体を不思議に思いながら、彼女は増井諒順から教えられた更生保護法人の事務所がある寺院を目指した。
諒順から教えられた寺を目指して辺りを見回しながら歩いていると1台のミニパトカーがこちらに向かって走ってきた。
紗月はそれを見て、全身が強ばって立ち止まって、車道から顔を背けた。
パトカーは2人の制服姿の警官を乗せて何事もなく走り去った。それを見た彼女は、少しだけ立ち止まった後、酷く俯いたまま歩き始めた。そして、駅を出てから20分ほども歩いてから、目指す寺院についた。
四方を生け垣で囲まれた境内に入ると本堂の脇に小さな事務所のような建物があって、出入り口のところに「日本仏教団体連絡会更生保護会関東支部」と書かれたプラスチック板がかけられていた。
「あの、松田紗月と申しますが、増井諒順さんの紹介で」
建物の玄関に入ると小窓から中にいるTシャツ姿の如何にも田舎娘然とした容貌の女に声をかけた。言われた彼女は直ぐに席を立つと紗月を事務所の中に招き入れた。
「すみません、松田さん。今日は、日曜日で皆さん休んでいて。 係の人は今、来ますから」
両足をきちんと揃えてバッグをしっかりと両手で持った紗月を前にして、事務所の中にいた紗月よりも大分、年下の留守番の女は申し訳なさそうに言い、紗月に席を勧めた後、自分の席のパソコンを操作した。
紗月は彼女に言われて目の前の応接セットの椅子に腰掛けた。
よく考えると今日は日曜日で週休二日制をとっている職場も多い。もしかしたら留守番の彼女も紗月を迎えるためにわざわざ出勤したのだろうか、もしそうなら申し訳ないと思う。
留守番の女は紗月の前に、どうぞ、と言いながらお茶を置くと自席に戻って仕事を再開したようだった。彼女の様子を見て、紗月は少しばかり安堵した。
寒い屋外からほどよく暖房の効いた事務所にはいったからなのか、応接セットの柔らかい椅子に腰掛けて少し経った頃、急に眠気に襲われた。よく考えると昨晩は緊張して殆ど眠られなかった。
紗月がここについてから10分位してから、事務所の外に車の音がして、中から1人の男が降りた。
「やあ、お待たせしました。」
事務所には行ってきた男は目が渋くなるほどの眠気をどうにかこらえていた紗月に言い、紗月は弾かれたように椅子から立ち上がると
「松田紗月です。よろしくお願いします」
と言いながら腰を折った。
石井はそんな紗月を見ると椅子を勧め、自分も紗月と向かい合って座った。
「急用がありましてね、遅れてしまいました。松田さんは何時頃に」
「私も、さっき着いたばかりです」
紗月は石井をまっすぐに見つめながら答えた。
それきり2人とも黙り込んでしまい、それぞれに湯飲みに口を付けた。
「あの、石井さん、更心寮ってどんなところですか?」
依然として目を伏せたまま紗月は石井に訊いた。
「どんな、ですか。諒順さんは貴方に説明したはずですが」
石井は紗月の意外な質問に少し戸惑った。
「刑務所を釈放されても社会で行き場所のない人たちに原則として半年間、住む場所と食事を無料で提 供するための施設です。寮生と呼ばれる人たちはその間に仕事を探して自活することが出来るように 指導されます」
石井は教科書的なことを言ったが、紗月が聞きたいことには答えられなかった。
「それは諒順さんにも聞きました。」
「では、他に何か?」
紗月の視線が揺れた。そして、
「私、刑務所の中で色々あって。結構、辛かったんです。だから、寮でもうまくやっていけるかどうか が不安で」
と言った。
石井は紗月を無言で見つめた。
現行法では、紗月の場合、下獄して2年経つと仮釈放が認められるから、刑務所側でも法令の規定に則り粛々と手続きを進めようとした。
紗月も仮釈放の権利が認められる頃には気持ちが明るくなっていた。それが、ある日曜日のこと、その日は工場での刑務内作業も無いから、紗月が他の女たちと雑居房で寛いでいて、トイレに行こうとして部屋を横切ったとき、誰かが足を絡めてきて紗月は転んだ。あまりのことに驚いて振り向くと普段から紗月のことを目の敵にしていた紗月と同じくらいの年齢の女が紗月に飛びかかって殴りつけた。紗月も負けずに応戦し、大慌てで刑務官が飛び込んできて2人を引き離した。
もめ事の一部始終を目撃した女たちは口々に紗月が始めに手を出したと刑務官に証言した。
取調室で刑務官に調書を取られている時にその話を聞いた紗月は、それまでは相手が先に足を取ってきたと言ったが、自分の負けを悟り、一転して自分の非を認める供述をした。
結局、彼女は独居房で10日間の正座の懲罰にかけられた。
2度目の懲罰は下獄してから5年近く経ったときだった。
このころ、紗月は夢でうなされる夜が多くなった。それが気になり眠られないと同房で隣に寝ている50年配の女に度々、苦情を言われていた。そして、ある日、寝起きにいきなりその女に殴られた。紗月も度重なる苦情で苛立っていたから、相手を殴り、二人して取っ組み合いになった。そして、又、周囲の者は「紗月が悪い」といい、紗月も諦めから自分が先に手を出したと認めた。こうして、紗月は再び、独居房で10日間の正座という懲罰にかけられた。
2度目の懲罰で独居房で正座している間中、彼女は泣き続けた。
紗月から手を出していないのに、回りの女達は「紗月が悪い」という。
つまりは、私は敵に取り囲まれている。
2度目の懲罰を終えて、それまで入れられていた雑居房とは別の雑居房に移されてから、彼女は極端に無口になり、動作は誰にも負けないくらい俊敏になった。
もう懲罰で長い時間正座し続けるのは御免だ、だから、こんど仮釈放の話があっても断ろう、そして、そのことを何らかの方法で同房の女達に伝えようと紗月は思うようになった。
その肌の合わない女たちの多かった刑務所から釈放されて、外の世界でも刑務所帰りの女たちの集団の中で暮らすことに紗月は不安を覚えた。
「大丈夫ですよ、松田さん、寮生となった皆さんは事前の審査を通った良い人たちばかりですから。」
更生保護法人の職員の石井でも、目の前にいる松田紗月が何をしてどの程度の年月を刑務所で過ごしたかなどは知らされていない。
「松田さんも審査をパスされたんですよ」
石井はそう言いながら紗月に笑顔を向けて、紗月は言われて少しばかり顔を上げると弱々しく微笑んだ。
2人が再び少しだけ沈黙した後、石井に、さあ行きましょう、と促されて紗月は頷くと立ち上がり、事務所にいた若い女に丁寧に挨拶すると外に止めてあった車に乗り込んだ。
日曜日の午後ということもあって首都高速も幾分混んでいた。
「雨が強くなってきましたね」
車が首都高速道路に入って少したった頃、石井が後部座席に座る彼女を振り返りながら言い、彼女は無言で微笑んだ。
紗月は、やはり更心寮に入ることが不安だった。
刑務所の中で女同士の高温多湿は嫌と言うほど味わった。これから先の半年間も更にそれが続くのかと思うと気持ちははれない。だが、そもそも住処の確保さえおぼつかないのだ。そんな胸中にわだかまる不安を誰かにぶつけたいと思っても、その相手として石井が相応しいとは思えなかった。
そして、先ほどの事務所を出てから小一時間もすると彼女を乗せた車は更心寮についた。
彼女は石井と車から降りると立ち止まり空を見上げた。
その時、彼女の目の前にある更心寮の屋根では羽根を休めている数羽のカラスが見えた。
「私はこれからここに住むんだね」
在監中は夢にまで見た釈放の朝を今、現実に迎えてみて、沙月の心は沈んだままだった。そして、その彼女の心中を察するかのように、寮の屋根にとまった数羽のカラスがこちらを見つめていた。
この章を書くために参考にした文献はありません。ただ、更生保護法等を参照すると主人公の松田紗月が更生保護施設に収容して貰えるかどうかが微妙ですが、そこは小説ということでご了承下さい。