第19章 彼岸あれ
「あちゃー、明日も吹雪くね」
虔陵院の庫裏の茶の間でピンクの上下のジャージを着てテレビの前で正座していた実加子が声を上げた。
3月半ば、春のお彼岸が近づくある日の夕方のこと、虔陵院の庫裏の茶の間では紗月たち3人がテレビの前に集まって天気予報を見ていた。
画面では気象予報士が天気図を指しながら解説している様子が映し出されていた。
今日の昼頃には三陸沖にある低気圧が明日の昼過ぎから夕方にかけて釧路沖に到達する見込であること、この低気圧は季節外れの勢力を持っていて、このまま北上した場合、稚内の北に停滞している寒気を吸い寄せると思われるので北海道全域が大雪に見舞われる可能性があること、また、北海道を南北に縦断する形で非常に間隔の狭い等圧線が観測されていることから気圧の傾きが急で風が強くなることが見込まれるので、明日の午後から特に北海道東部は暴風雪に厳重に警戒して欲しい云々。
「ねえ、美加子ちゃん、北海道東部って、どこ?」
地理に疎い紗月は「北海道東部」と言われても地名を思い浮かべることが出来ない。
「うんとね、北海道の東側だよ」
訊かれた実加子も紗月と五十歩百歩だった。
「うちらのいる釧路近辺だよ」
順照が至って平板な声で画面に顔をむけたまま言った。
「彼岸あれだね」
「彼岸あれ?」
紗月が思わず順照に聞き返した。
「檀家さんに聞いたのだけどね、釧路では春のお彼岸の頃に吹雪になることが多 くてね、お彼岸の頃に荒れる天気だから、彼岸あれと言うそうなんだよ」
言われた紗月と実加子は顔を見合わせて、彼岸あれ、と繰り返した。
その翌日。
庫裡で紗月が寝起きしている部屋にはポータブルの石油ストーブがあり、日が沈んでから寝るまでの間はそれをつけておいて寝るときに止めるから部屋は常に暖かい。昨日からテレビの天気予報が盛んに、今日は荒れる、と繰り返していて、釧路に着いた日にいきなり真冬日を経験した紗月だから、朝から凍死寸前にまで追い詰められるのかしらんと思い少しは身構えたが部屋の中は快適だった。
「おはよう、美加子ちゃん」
紗月がパジャマから部屋着に着替えて庫裡の茶の間に行くと少し早く起きた実加子が台所で朝食の準備をしていた。
「おはよう、紗月さん」
洗顔等を終え、テーブルの上に食器並べるなどした紗月は、実加子の横に立った。
「今日は、スクランブルエッグにブロッコリーとトーストだよ、それにコーヒ ー牛乳もね、順照さん、コーヒー牛乳が好きなんだ」
鍋の中で器用に箸を動かして野菜を煮る実加子の横顔が紗月にはとても穏やかに見えた。
まもなく本堂での朝勤めを終えた順照が庫裡にきて、いつも通りの3人での朝食となった。
「いただきます」
3人が声を揃えて言い、手を合わせて食べ物を口に運んだ。
多分、この日の朝も屋外の気温はマイナスの筈だが、ストーブのついた家の中は20度前後に保たれていて暖かい。その暖かい茶の間で談笑しながら食事をとる時間が紗月は好きだった。
朝食が終わり一段落ついて時計が8時30分を少し過ぎた頃、先程まで朝日があった空が曇りだし、風が強くなり始めた。
順照がテレビを点けると気象情報が放送されていた。
既に札幌や千歳空港のある石狩地方は吹雪で、午後にかけて全道的に吹雪くから注意して欲しいとテレビは言いい、画面が千歳空港に切り替わると既に結構な吹雪になっていた。
順昭は檀家周りの予定表を見た。今日のそれらは午後に行くことになっていた。
「檀家さんのところに行くの、無理かな」
順昭の言葉に並んでテレビを見つめていた2人も頷いた。
この日の午前11時ころには釧路地方も小雪が舞い始め、午後1時前後には完全に吹雪になった。
空には黒ずんだ雪雲が横たわり、そこから地上に降り来る雪は白い幕となり地上にを覆い、人々はこの風と雪が収まるまでは家から出なかった。正午のニュースを伝えるテレビでは吹雪の釧路駅前の様子が映し出された。道内各地の航空路線、鉄道、海上航路は吹雪が収まるまで運休が相次ぎ、釧路市内の路線バスも午後6時以降は全便運休という。なるほど釧路駅から幣舞橋までの間にある北大通は閑散としていて、見回りに出たパトカーの回転灯の赤が雪に滲んでいた。
昼食は3人ともトーストにコーヒーで軽めに済ませ、なにもするこがないので紗月はソファに腰掛けて目の前のテーブルの上に置かれた木製の皿に山盛りになった蜜柑を食べ、諒順と実加子はテレビの前に座って、それぞれに無言でテレビを見つめていた。
この虔陵院は海に突き出した小さな岬の上にあり周囲に風を遮るものはないから四方八方から押し寄せるそれが庫裡の壁に当たり、どん、どん、と音を立てる。最初のうちは不安を覚えた紗月も、その音に次第に慣れて何も思わなくなった。
ふと視線を移すと、作務衣姿の諒順の膝の上に実加子が頭をのせて穏やかに寝息を立てている。
ラジオはとうに消されてテレビも消してストーブ以外に何の音も聞こえない茶の間で3人は穏やかに時を送っていた。
「お前、色気無いねぇ」
幾つ目かの冬蜜柑を手に取り皮をむき口に運ぼうとした紗月を諒順がからかった。
たしかに今の紗月は、一応は部屋着だが黒い上下のスエットに素足という寝間着そのままのような格好をして、すっぴんでたれ下がる前髪を頭の天辺で輪ゴムでまとめているだけだから、色気などという日本語とは無縁ではあった。
「美味しいですよね、冬蜜柑」
精一杯の笑顔でごまかしながら、紗月はなおも冬蜜柑を食べ続けた。
テレビなどでは北海道を紹介するときに「酷寒の」とか「凍てつく」などという寒さを強調する枕詞が添えられるから、紗月はそれを信じていた。しかし、その酷薄な寒さの中にあるはずの紗月の心は、何故か今、穏やかだった。
下獄し刑務所の中で、周りが全て敵に思えて身構えていた、釈放されてからは更心寮の増井諒順たちに助けられながらもなんとか社会に復帰しようともがき苦しみ、協力雇用主に登録してあった会社にアルバイト事務員で雇われたが、その会社は倒産し、上野公園で野宿する羽目になり、挙げ句の果てに自分の過去を言いふらされて、釧路まで流れ着いた。考えてみると事件以後から今日まで生きてて良かったと思った日が無かった、常に重苦しい現実と向き合い続けた。生は正に軛に思えた日もあった。
独りぼっちには慣れているはずと自分で自分を励まし続けた。医師時代だって、チーム医療とはいうけれど結局は独りだった。そして、事件を起こして下獄した後も、釈放後も、考えてみると常に独りだった。
私は疲れていたんだね、刻苦勉励奮励努力孤軍奮闘疲労困憊の日々は懐かしい、努力することも嫌いでは無い、怠惰はよくないと心の底から思う、だが、今、こうして暖かい部屋の中でだらしない格好でテレビを見ながら蜜柑を食べている自分が拒まれてはいない、それが嬉しい。
「紗月、眠たいんだろう」
いつの間にかソファに腰掛けたまま寝入ってしまった紗月の肩に諒順の手が触れた。みると彼女は片手に四角く畳んだ毛布を持っている。
「すいません、つい、気持ちよくて」
諒順は、優しく微笑みながら
「お昼寝の時間だよ」
と言い、茶の間の床を指さした。その先には未だ寝ている実加子が居て、その隣に枕が置いてあった。
「そんな、甘えるわけには」
「良いんだよ、どうせこれだけ吹雪いていたら何も出来ないんだから」
ほんの少々の間、紗月は迷ったが、諒順の好意を受けることにし、実加子と並んで枕に頭を乗せた。その2人の上から順照は毛布をかけ
「お休み、2人のおちびちゃん」
と言って背中を向けると自分の部屋に入った。
おちびちゃんか、確かにその通りだね、でも、たまには良いよね、そう思いながら紗月は目を閉じた。
風、どうと吹き
雪、びゅうと舞う
人、家の中に暖をとり
木々、風雪にその身をさらす
この日も実加子は何時もの時間になると目を覚まして夕食の支度をして、そして、3人揃って食べ終えると入浴して、何時もより早めに寝ることにした。
「紗月さん、寝た?」
紗月が自分の部屋で布団に入ってからしばらくすると外から実加子の声がして、布団から出て戸を開けると寝間着姿の実加子がいた。
「私、吹雪の音、怖くて。一緒に寝ない?」
紗月は実加子の申し出をうけて一瞬だけ戸惑ったが、自分も心細かったから
「私もそうしたいと思っていたんだ。どっちの部屋で寝ようか?」
と言った。紗月から言われた実加子は嬉しそうに笑顔で頷くと紗月の部屋で寝たいと言い、早速、自分の布団を紗月の部屋に持ち込むとそれを紗月の布団の隣に並べて敷いた。
外を吹く風は強くなる一方で庫裏の壁を幾度となく殴りつけた。そして、その風に運ばれた雪は紗月達が寝ている部屋の外窓に打ち付けられてはしゃーしゃーという音を立てた。
「紗月さん、起きてる?こんな猛吹雪って怖いよね」
「この庫裏、大丈夫なのかな、もし壊れたら私たちが修理することになるのか な」
「この吹雪の中ではやりたくないよね」
灯りを消した部屋で、紗月の隣に寝た実加子と紗月は互いに不安を口にした。 どちらがいうでもなくラジオニュースを聞くことにして、それを点けると丁度、今年の彼岸あれについて放送されていた。
それによると今回の暴風雪をもたらしている低気圧はオホーツク海上空に停滞している高気圧に行く手を阻まれて速度が遅くなり、明日の夜半近くまで勢力を保ったまま北海道付近に居座る見込みであること、北海道東部一帯では既に被害が出始めていて、網走地方のある町では町役場が一部の住民に避難勧告を発令し、原野に点在する農家で暮らす高齢者を避難所に送り届けるために北海道知事から災害派遣要請を受けた陸上自衛隊美幌駐屯地の雪上車部隊が出動したこと、道路があちこちで通行止めになったためそれぞれの管轄機関が除雪車等を動員して啓開につとめているが強風や春先の水分を多量に含んだ重たい雪に阻まれたりして通行可能になるまでには時間がかかることが見込まれること、強風により家の屋根等が飛ばされたり停電したりしている地区があること、海は強風に伴う大時化で海岸には高波が押し寄せていて付近を通る道路などには通行止めの箇所があること、鉄道は沿線に設置された風速計が継続して規制値を超える値の風を観測しているので全面運休していることなどが伝えられていた。
「あーあー、だね」
ラジオを聞いた紗月が紗月が呟くように言い、隣に寝ている実加子が無言で頷いた。そして、ラジオを消してからしばらくして、紗月は眠りに落ちた。
目が覚めたとき、紗月は虔陵院の庫裏の前で寝間着の上にアノラックを着てスコップを片手に除雪していた。依然として猛吹雪だが、不思議と何も感じなかった。ふと隣を見ると暗い顔をした実加子がスコップを動かしていた。そして、次の瞬間、実加子が何も告げずに庫裏の玄関を開けた。
「待ってよ、実加子ちゃん」
紗月が実加子に呼びかけても、彼女は背中を向けたまま庫裏の中に消えた。紗月は少しばかりむっとして彼女を追いかけて庫裏の玄関のドアを開けようとしたが、何故かドアはびくともしなかった。
「実加子ちゃん、開けてよ」
紗月は大声を出したが、中からは一切の反応が無かった。
「実加子ちゃん、どうしたのよ、ここ、開けてよ。私を中に入れてよ」
紗月はさらに大声を出したが、やはりドアが開けられることは無かった。
「お願いします、ここを開けて私を中に入れて下さい」
紗月はいつの間にか涙声になって懇願した。
「いやー」
紗月は不意に大きな声を出して、自分の声で目が覚め、咄嗟に横に寝ている実加子を見たが、彼女は安らかに寝息を立てるだけだった。
悪い夢を見ていた。ふと自分の額に手を当てると薄く汗をかいていたことが分かる。
紗月は悪夢には慣れているつもりだった。医師をしていたころからそれには付き合わされてきた。刑務所でそれはさらに悪化して、釧路に来てからもそれは続いている。ただ、実加子や順昭にはそれは知られたくなかった。
急にトイレに行きたくなった彼女は音を立てないように部屋から出た。そして、その彼女の後ろ姿を暗い部屋の中で実加子が薄目を開けて追った。
彼岸あれが二日目になり、風と雪は強くなったり弱くなったりを繰り返していたが次第に収まり、釧路と札幌を結ぶ特急列車は午後から、また釧路市内や近郊を走る路線バスは午後3時から運行を再開した。各市町村役場の出していた避難勧告なども概ね午後5時までには解除されて人々の生活は夕方頃には少しずつ日常を取り戻し始めた。
釧路でほぼ1日半続いた吹雪の翌日、紗月はいつもと同じように朝6時45分に目が覚めた。ふと隣を見ると寝ているはずの実加子は布団を出た後だった。耳を澄ませると台所から何かをしている音が聞こえてくるから、紗月より先に起きて朝食を作り出したのだろう。
紗月は枕元に置いたラジオをつけた。今朝、6時の気温はマイナス15.4度、天候は晴、天気予報では今日の最高気温はマイナス3度で一日中晴天の見込だった。
この晩冬の嵐をもたらした低気圧が北海道上空5,500メートル付近にこの時期としては少し異例のマイナス46度の寒気団を吸い寄せたそうで、北海道各地がこの時期にしてはやや珍しい低温の朝を迎えた。
7時を少し過ぎて庫裏に行くと実加子ができあがった朝食を皿に盛り付けている最中だった。
本堂での朝づとめを終えた順照が庫裏にやってきて3人で朝食となった。
朝食を終えて一段落した8時半を少し過ぎた頃、紗月と実加子の2人は顔の半分をマスクで隠し分厚いアノラックに股引をはいてズボンをはき、その上にスキーズボン、スノーブーツに剣道の防具のような手袋という服装で屋外に出てようとして紗月が玄関のドアを押したが、外に積もった雪に邪魔されて思うようにそれを動かなかった。
「せーの、よいしょっと」
紗月が体当たりのようにドアに体重をかけて押して、どうにか外に出ると庫裏の前に置かれた実加子が運転している自動車は雪に埋もれて見えなくなっていて、それを目にした紗月はしばらく呆気にとられて動かなくなった。
「まぶしい」
紗月の隣に似たような格好でスコップを片手に立った実加子が雪の照り返しをまともに浴びて思わず声を上げた。
「上空5,500メートルにマイナス46度の寒気団」とか「朝6時の気温がマイナス15.4度」と聞いて紗月はすっかり身構えたが、季節に相応しい防寒装備を身につけていたから、外の寒さも辛くはなかった。
一昨夜の吹雪では壁がどしんどしんと音を立て紗月はその音で夜中に数度目を覚ましたくらいだったが今は風は殆ど無かった。
彼岸あれの雪と強風が空気を洗い、空の淡い青はなお一層、鮮烈になった。
雪が音を吸収するせいもあってか、海の音さえも静かになったように思える。その静かな境内で、2人は取りあえず庫裏から表の道路までの除雪をすることにした。
まず自動車の上に積もった雪を手で落として脇に寄せて、続いて紗月はママさんダンプ、実加子はスコップでそれぞれ除雪していると、やがて、紗月や実加子の体からそれぞれ汗が湯気のようになって立ち上がるようになった。2人ともこのような本格的な除雪は不慣れだから初めのうちは手つきはぎこちなく足下はおぼつかなかったが、それでも、次第にさまになりはじめた。
「おはようございます」
二人が除雪を始めてから2時間ほども経って、庫裏の周囲や墓地の主立った通路などに積もった雪をあらかた取り除いて庫裏に戻ろうとして紗月が前を歩いていると不意に実加子が誰かに声をかけた。紗月が声につられて振り向くと道路を挟んで向かい側の一戸建ての家の前で、順照と同年配の女性が暖かそうな格好をして除雪を始めていた。
実加子がスコップ片手にそちらの方に歩き始めたので紗月もママさんダンプを押しながらついて行った。
「おはようございます、高山さん」
「おはようございます、渡辺さん、今朝はしばれたね」
高山さんという眼鏡をかけいて痩せて背の低い老女はスコップ片手に紗月たちに会釈した。
「はじめまして、高山と言います、渡辺さんにはお世話になっているんですよ」
「はじめまして、虔陵院で、お世話になっている松田紗月といいます。」
頭に毛糸の帽子を乗せて紗月たちと同様に分厚いアノラックを着込んだいかにも品の良さそうな老婆はそう言いながらちょこんと頭を下げた。
実加子が何も言わずに高山の家の前の除雪を始めたので紗月もそれに続いた。
「あら、いいのよ、渡辺さん、私がやるから」
「ついでですから」
慌てて遠慮する高山に実加子が答えた。
慣れてるとは言えそうもない手つきで実加子は高山の家の前の雪を除け、紗月もそれに習った。
足下の老朽化してひび割れが目立つアスファルトは一昨日からの雪で覆われ、それが溶けて滑りやすくなっている。慣れていなければ雪で足を滑らせて転びかねない。へその辺りに力を入れて体全体でスコップをふり、ママさんダンプを押したり引いたりしていると2人は共に無口になった。
辺りを見ると雪の積もり方も決して一様ではなく、あちこちに吹きだまりが出来て中には大人の背丈ぐらいの高さに積もった雪もある。その雪山の裾から水が流れ出ている。
「もう春だな、溶け始めている」
いつの間にか紗月の隣に立ったスコップを手にした顔の下半分を「ぎょれん」と書かれた手ぬぐいで隠した60年配の男が言った。
虔陵院の前を通る車道を挟んで立ち並ぶ民家の住人たちは、一斉に外に出て除雪に忙しい。皆、スコップやママさんダンプの扱いは慣れているようだった。
紗月の腕時計は10時半を少し過ぎていた。
「では、これで」
「どうもありがとうね、やっぱり年取るとしばれたのに除雪はゆるくなくてさ、 助かりました、じいちゃんが生きていた頃はやってくれたけど死んじゃった からね」
幾本ものしわを刻んだ笑顔で白い息を吐きながらいう笑顔が紗月たちには嬉しかった。そして、他にも何軒かの家の除雪を手伝った。
殆どが老夫婦だけか年寄りの一人暮らしのようだったから、遠慮しながらも喜んでくれた。皆、まじめに除雪はしているのだが、高齢者だからスコップで1度に掬える雪の量も少なく、飛ばせる距離も短いから効率的とは言えない。それでも、のろのろと同じ作業を繰り返すうちに雪は少なくなっていく。
紗月のすぐ近くでスコップをもって除雪をしていた老年の男性2人が立ち話を始めた。
「俺、これが終わったら兄貴の家の除雪やってやらなくちゃ駄目なのさ」
「お前の兄貴って、浪花町のか」
「うん、兄貴、倒れて入院しているのさ」
「また倒れたの、あの人。酒の飲み過ぎだべさ。奥さんはいないのかい?」
「兄貴の奥さん、ずっと水産加工場行ってた人だから両方の肘が痛くて除雪で きないんだ。」
「バカみたいに酒を飲むもな、お前の兄貴だら」
「俺も、まいる。兄弟やめたいよ」
多分、長年、このまちのこの場所で暮らし、共に時を送り今、人生の終着点にさしかかった人達なのだろう、傍目には辛辣で無礼なやりとりもとげとげしくならない。
晩冬の北辺にあって吹雪の後始末に追われる年寄り達は、しかし、嘆くでもなく抗うでもなく淡々と日を経ずしてこの地を去る冬と向き合っていた。そんな彼らの話を聞くともなしに聞きながら紗月は、何故か懐かしいと思った。
紗月たちが除雪していると、突然、大きな音が聞こえた。
何だろうと思って音のする方を見ると、紗月にはが名前も分からない黄色い大きな土木工事用の車両が文字通り地響きをたててこちらに向かって雪を押しながら走ってきた。
「和夫ちゃんだ」
紗月の隣で手を休めてスコップを半ば杖代わりにして立った白髪頭の男が、その運転手に向かって手を振っり、振られた方も分かって手を振った。
「俺の姉の息子なんだ」
人の力で1時間以上もかけて作った雪山を大馬力のエンジンを積んだ車両はいともあっさりと押しのけて散らした。その光景を見たとき、紗月はおもわず拍手しそうになった。
隣近所の除雪を手伝い終えた後に2人は11時半を少し過ぎた頃、庫裏に戻った。
「ご苦労様、2人とも疲れただろう」
庫裏の茶の間ではストーブが焚かれ暖かい。
着替えのために自分の部屋に戻った紗月は、アノラックやスキーズボンを脱ぐと途端に体が軽くなった。
慣れない除雪で体のあちこちに余計な力が入っていたお陰で結構、汗をかいていたので肌着も着替えた。
部屋着のジャージ姿で自分以外に誰も居ない部屋の真ん中辺りに突っ立っていると時間さえも止まった静寂の中に放り込まれたようだった。
除雪が面白かった。
古くから居る住民達の他愛もない世間話を聞きながらママさんダンプを動かしていると我知らず心が浮き立った。
今、世間の人達と何の衒いも陰りもなく向き合い、共に除雪をして微笑み合える。
幸せとはこういうことを言うのだと紗月は、今、思う。
茶の間に行くとジャージに着替えた実加子がテーブルに向かいマグカップに入ったココアを飲んで寛いでいた。
「寒かったろう、紗月は紅茶だったね」
諒順はそう言いながらテーブルに付いた紗月の前に薫り高いアールグレイを置いた。
体は疲れていたが不思議と心は浮き立っていた。頼まれたら午後からでも一仕事できる。
「お向かいの高山さんの奥さんが順照さんによろしくって」
実加子はマグカップから顔を上げて言った。
「実加子ちゃん、あのお宅、おばあさんが一人暮らしなの?」
「確か息子さんが2人居るけど2人とも東京に住んでるって言てたよ、釧路に 息子さんたちの仕事がないって。旦那さんも死んじゃったし、今じゃ、あの おばさん1人なんだって」
「この辺りは高齢化社会だからね、一人暮らしの老人も多いよ」
順照と実加子の言葉に紗月は頷いた。
昼食の時間なので実加子が何かを作ると思っていると急に具合が悪いと言って自分の部屋に入ってしまった。
紗月は昼食を終えると再びアノラックなどを着て除雪を始めた。そして、1時間半ほども続けてから庫裡の自分の部屋に戻った。
紗月は部屋に入ると机に向かいミーシャを抱いた。そして、壁に掛けたカレンダーを見つめた。
1年前の今頃、彼女は更心寮を退寮した。
あの頃、紗月の中では希望は無く不安が渦を巻いていて、気持ちにより添ってくれる誰かにそれを伝えてたかったが、これから先の一生を刑務所帰りという「肩書き」を背負って生きていかなければならない現実を思うと伝える相手を探そうとする勇気さえも萎えて、精々、なにかあったら更心寮の諒順を頼ろうと思うだけだった。今だって、あの頃と大きくは変わらない、それでも、実加子や虔陵院の隣近所の住民達と共に猛烈な晩冬の吹雪の後の除雪をすると不思議と孤独感が薄らいだ。
「紗月、居るのかい?」
除雪で思い切り体を動かしたものだから疲れてしまい、部屋の床でごろ寝していると戸の向こう側から順照の声がした。
「実加子が具合悪いって言うんだよ、実加子の分は私が作るから、紗月と私の夕 食は作っておくれよ」
日が暮れて暗くなった順照に頼まれて紗月は笑顔で頷いて早速、茶の間に行った。
食卓テーブルの上にはざるそばに使うざるとつゆの器が置いてあった。
「実加子は具合が悪くなるとこれなんだ」
台所には緑色の蕎麦と、2合ほども入りそうなペットボトルが置いてあった。
「この釧路の西屋という蕎麦屋が出している蕎麦でね、あの子が風邪を引 いたときに食べさせるたら気に入ってね、具合が悪くなると食べたがるんだよ」
夕づとめが終わったら私が作るからと言い残して、順照は本堂に向かった。
紗月は頃合いを見計らって夕食の支度をし、夕勤めを終えた順照が蕎麦をゆでて氷を入れたボウルにつけて熱を取って冷やすと薬味のネギを添えてざるそばにして盆に乗せて実加子の枕元に運んだ。
紗月も一緒に実加子の部屋に入ると、彼女は布団に寝ていた。
「実加子、起きられるかい?」
順照の声に起こされた実加子は目を覚まし、
「2人ともご免ね、私、除雪、張り切り過ぎちゃった」
と言った。
「何言っているんだよ、さ、起きな、実加子の好きなざるそばだよ、食べられる だろう?」
実加子は上半身をベッドの上に起こすと順照はその肩にカーディガンをかけてやり、箸も割って手渡した。それを嬉しそうに受け取った実加子は、いかにも好きそうにして蕎麦を食べた。
紗月は2人の様子を後ろから見ていて、まるで2人が本当の母と娘のように思えた。
実加子はざるそばをすっかり平らげたので2人は部屋を出た。その出て行こうとする2人の背中に実加子は申し訳なさそうに声をかけた。
「私、明日には元気になるから心配しないでね」
「無理しないでよ、うちら、仲間だもん」
紗月自身が意外に思う程に素直に「仲間」という言葉が口をついて出て、実加子も、うん、と頷いた。
茶の間では、今日は2人だけの夕食になった。
順照は今日の実加子と2人での除雪仕事の労をねぎらい、紗月は照れた。
北国の年中行事と知っているから除雪そのものは苦にならない。それに、今日のように冷え込む日に外で思い切り体を動かした後に暖かい家に入った時の、あの幸福感が紗月には懐かしかった。
「ご近所さんの誰かが、しばれるって言ってたかい?」
箸を動かしながら世間話に花を咲かせていた順照が紗月に訊いた。
「ええ、私、釧路にきて初めて聞きました。どういう意味なんですか?」
「私も、ここにくるまでは聞いたこともない言葉だね。多分、北海道の方言だ ね。とても寒いといったことらしいけど、よく分からないよ。今朝のように 寒い朝を「しばれた朝」と言うみたいだね」
確かに今朝の釧路は寒く、そして、絵心の無い紗月でも、綺麗な絵になりそうな朝だと思った。
「空気、澄んでましたよね、今朝の釧路」
「あれだけ強い風が吹いた後だからね、空気も綺麗になるよ」
途切れ途切れになりがちな2人の話も終わり2人が食事を終えた頃、不意に紗月は順照に言った。
「順照さん、もし、私が今日の実加子ちゃんみたいになったら、優しくしてく れますよね」
俯いてテーブルを見つめながら言う紗月に順照は少し驚いた様だった。
「何言ってるんだい、この子は、そんなの当たり前だろう」
順照はそういいながら、私は風呂に入るから後片付けは頼むよ、と言い席を立った。そして、順照が風呂から上がると紗月が入り、2人が茶の間のソファに座った頃、ローカルニュースの時間になった。明日の天気予報では朝の最低気温は10度を予想している。水道は凍結するかもしれないから、ストーブの出力を「微小」に絞って一晩中運転したまま寝ることにした。
「お休み」
「お休みなさい」
順照が自分の部屋に入る後ろ姿を見送って、紗月は実加子の様子が気になったから水の入ったコップをもって彼女の寝ている部屋に入った。
「実加子ちゃん、気分はどう?」
部屋は灯りを点けると実加子が目を覚ましていた。耳を澄ませると小さくラジオの音が聞こえる。
「ありがとう、紗月さん、心配かけてごめんね、大分、楽になったよ」
昼間の辛そうな様子は消え、いつもの元気者の実加子に戻った様だ。
「明日は大丈夫だよ」
「そうだね、私も安心したよ、やっぱり実加子ちゃんがいないと寂しいもん」
「ありがとう、そういってくれると嬉しいよ」
それじゃ、ここに水をおくね、と言って部屋を出ようとする紗月に実加子が
「今晩は一緒に寝ようよ、紗月さん、私、やっぱり心細いし」
と言った。
紗月はしばらく戸惑って入り口のところに立っていたが、笑顔で頷いて茶の間の灯りを消した後、自分の部屋に敷いてあった布団を持ってきた。
「ありがとう、紗月さん、私、今、無性に寂しくて」
「何言ってるのよ、実加子ちゃん」
布団の中で腹ばいになると枕を並べて寝ている実加子の方を向いて紗月がいい、実加子は笑顔で頷いた。
紗月は、この日、本当に疲れたと思った。だが、その疲れは決して彼女を不愉快にはしなかった。




