第18章 樹氷に誘われて
2月も半ばとなり、真冬日が連続することが徐々に珍しくなり始めた頃のある日のこと、松田紗月は自分の部屋で、釧路に来てから買った文庫本の読書に勤しんでいた。尤もページを捲っては目が勢いよく文字の上を滑っているに過ぎず、肝心の小説の内容は殆ど何も紗月の中に残らなかった。
彼女が東京で保護司として活動している増井諒順という尼僧の紹介で釧路の虔陵院に身を寄せてから1ヶ月近くが過ぎた。この日は順昭達は檀家周りなどで午前10時過ぎには出かけてしまい、虔陵院の庫裏には紗月が1人きりになった。
紗月は読んでいた本を裏返しにしてから椅子に腰掛けたまま大きく伸びをして、部屋の壁に掛けたカレンダーに目を遣った。
1月の下旬に東京から逃げ出して釧路に流れ着いて虔陵院に住むようになった。東京の増井諒順からはここの住職が渡辺順昭という尼僧だとは聞かされていたが、その姪の渡辺実加子がいるとは知らなかった。その2人は紗月が庫裏に住むことを許して、そして、彼女が到着した翌日にはささやかな歓迎会まで開いてくれた。
それでも、紗月は時として2人の気持ちを時として疑ってしまうことがある。
紗月には自分が28歳の時の梅雨時に同じ病院で働いていた看護師を殺そうとして逮捕されて、6年間を武州刑務所で過ごしたことを2人に知られているのかが分からなかった。そして、もし2人がそれを知った時に、紗月にどのように接するのだろうと思うと不安が募った。
紗月は、しかし、2人の気持ちなど、どうでもよいとも思った。
刑務所で受けた釈前教育などで自分のような刑務所帰りの人間が世間から冷たくされるという現実は耳にたこができるほど聞かされて頭ではそれも分かっていたはずだが、更心寮の寮生だった頃や退寮後の職探しの日々で、改めて、厳しい現実を思い知った。大学生だった頃に暮らした女子寮で一緒だった吉川加奈でさえ世間体を盾にとって紗月の過去をあげつらって自分が役員をつとめる会社にアルバイトで働くことさえ認めなかった。紗月は世間とはそうしたものなのだと思い知った。
今、虔陵院で一緒に暮らしている渡辺順昭やその姪の実加子が紗月のことを陰で後ろ指していても、紗月は仕方が無いと思う。なにせ馬鹿な動機で殺人未遂罪という犯罪を犯してしまったのは隠しようのない事実なのだ。それが原因になって2人から軽蔑されても甘んじるしかないだろうと思うのだ。それに、気持ちの問題を別にすると今の暮らしに何の不満も無かった。
家主的立場の順昭は紗月と実加子に早寝早起きをするように求めるだけで、それは刑務所にいた頃からの習慣で朝7時前には目が覚めるから問題はない。実加子は順昭の運転手役で檀家周り等に付き合っているが、紗月にはそれもない。これでは申し訳ないと思い、彼女は庫裏や本堂の掃除を引き受けている。毎日の食事の支度は実加子が引き受けていて、何もしないでも温かい料理が出される。今いる部屋だって快適そのもので、釧路に来る直前まで東京の新宿で住んでいたアパートと比べると正に別天地だった。
あれこれ考えてみても自分では何も変えることが出来ないと知った彼女は、不意に外の景色が見たくなり内窓を開けた。
弱い風が吹いていることが地面に薄く積もった雪の動きを見ると分かるが、それでも地吹雪にはほど遠い。冬のよく晴れた日に地表の熱が大気に奪われて気温が下がる放射冷却現象が今朝も観測されたそうで、テレビニュースで朝6時の気温がマイナス16度だったと言っていた。
片肘で頬杖ついてミーシャを見つめていると不意に眠気に襲われて、そして、庫裡の外の除雪を思い立った。
自分に考えることは愚かなことだと言い聞かせて、紗月は玄関の内側に立てかけてあったスコップを手に外に出た。
紗月はスコップを杖代わりにして庫裡の玄関の外に立ち止まって空を見上げた。
その時の彼女の頭上には雲一つ無い青空があって、彼女はそれに見とれて、一切の動きを止めた。
赤い毛糸で編まれた帽子を頭に乗せて、口で息を吸うと冷たい空気に喉が刺激されて途端にむせるから鼻で息を吸うと奥の方がつんつんしてくる。上は分厚いアノラックだから良いが、下は部屋着のジーンズのままで、だから膝が直ぐに冷え始めた。剣道の防具のような手袋をしているがそれでも手の指先が冷たく感じる。ともかくも、こうして突っ立て居ても寒いだけだと思い、スコップを片手に風に吹かれて出来た吹きだまりを崩しにかかる。
修行という程では無いにしても、風で吹き寄せられて出来た雪の山を崩していると、確かに余計なことを考えなくなる。代わりに体がぽかぽかと温まりだして心地よかった。
「うん?」
紗月が除雪を始めてから30分程も経った頃、順照を助手席に乗せて檀家周りから帰ってきた実加子は運転する車のフロントガラス越しに庫裡の前で、地面に座り込んで右腕をだらりと垂らして左の足を左手で痛そうにさすっている、赤い毛糸で編まれた帽子を頭に乗せた女を見て、思わず小さく声を上げた。
「何やってるの、紗月さん?」
「お帰り、2人とも。今、除雪してたら転んじゃって、いててて」
紗月は車から降りて近寄った実加子を見上げることもせずに足をさすり続けた。
「酷いのかい?」
「たいしたことは無いと思うんですけど、痛くて」
「立てる、紗月さん?」
「うん、何とかね」
とは言いつつも、立ち上がるときには実加子に体を支えてもらう羽目となり、紗月は実加子の助けを借りながら庫裡の玄関に入った。
三者三様に防寒着を着込んでいるとは言え、やはり外の寒さはこたえ、その寒い中から茶の間に入ると自動運転のストーブの作り出す20度という室温に、3人は開放感を覚えた。
紗月も片方の足を引き摺る様にして自分の部屋に入ると防寒着を脱いで衣紋掛けに架けた。そして、椅子に腰掛け机に向かい、内窓を見て、改めて外の様子を見た。
薄く積もった雪の下にある氷に紗月は気付くことが出来ずに足が取られた。転んだときの自分を想像して、紗月は思わず苦笑して、そして、何のけなしに窓越しに空を見上げた。
そこには今まで見たことも無い淡い青の空があった。そうか、この空か、と紗月は気がついた。
これまで紗月が見た何処の空よりも淡い、ほんの僅かに白みを帯びた淡い青に染まった釧路の冬空。それは武州刑務所で夏に見上げた空よりも寂しく優しい青で、また、医学生だった頃に旅行したサイパンの、その下に居る人間どもを圧迫するかのような力強い青に染まった空とは明らかに異なり、微かな人の営みを労りねぎらう青のように思えた。
思い出すことは止そうと決めていて、それでも脳裏に浮かぶ刑務所でのことども。運動の時間に塀で四方を囲われたグラウンドに他の受刑者達と一緒に出されたとき、紗月は必ずそれを見上げていた。ロマンティックな心境になっていたわけでは無くて、ただ逃げ出したかったのだ。
しばらくの間外の景色に見とれていると部屋の戸をノックする音が聞こえたので振り返り、はーい、と返事をすると、淡い茶色の作務衣に身を包んだ順照と救急箱を手に持った実加子が部屋に入ってきた。
「紗月、どこを痛くしたんだい?」
椅子に腰掛けたままの彼女と向かい合わせになった順照は眉を八の字にして言った。
「右手と左足ですけど、その、もう大丈夫だと思うんですけど」
紗月は元医師だから人間の手や足の骨や筋肉といった基本的な構造は頭に入っている。確かに痛むが今晩、湿布を貼っておいたら明日の朝には痛みは引いているだろう。
「いいから、見せてごらん」
順照はそう言いながら紗月の右手を乱暴に持ち上げて、手のひらや甲のあちこちを押し、ここは痛むかい、ここは、などといった。デタラメというか全くの素人の生兵法だから紗月からすると遠慮したいのだが順照の真剣な面持ちを見ていると無碍にするのも失礼と思い黙っていた。
「ズボン、脱いでごらん」
「足はもう大丈夫なんですけど」
「女しかいないんだ、恥ずかしがることは無いだろう、早くお脱ぎって言うん だよ」
言われた紗月は、仕方なく立ち上がるとジーンズをくるぶしの辺りまで下ろしてショーツだけの姿になった。
順照は、手の時と同じように、ここは、ここはどうだい、と言って紗月の足を、紗月からすると極めて適当に押しては診断をつけようとして、2人の様子を順照の背中から見ていた実加子が笑いを堪えるのに苦労していた。
「うーん、私じゃ分からないね、実加子、午後、紗月を乗せて病院に行っとい で」
「あの、私、大丈夫だと」
「バカだね、お前は。そういう素人考えが一番危ないってんだよ、餅は餅屋、 こういうときはきちんと医者に診てもらった方が安心だろう。お前、保険証 は持っているんだろう」
「市役所から貰いました」
「だったらいいじゃないか、行っておいでよ、それとも何かい、医者で痛いこ とされるから嫌だと思っているのかい」
「いえ、そう言うわけじゃ」
「実加子、お昼ご飯が終わったら紗月を医者に連れて行くんだ、分かったね」
「はい、紗月さん、ご飯食べたら一緒に行こうね」
この後、3人で昼食を終えると、早速、紗月は実加子の運転する車で釧路市内の整形外科病院を受診し、骨には異常が無く、打ち身と右手首の捻挫という診断で、湿布等を処方して貰って帰宅した。
病院から帰宅途中、閑散とした通りを走っていると一軒の洋菓子店が目に入った。紗月は、ここのケーキを実加子が褒めていたことを思い出して、実加子にそこに立ち寄るように言った。
紗月が一緒に店内に入った実加子に好きなの選んでよと言い、言われて実加子も最初は遠慮する素振りを見せていたがその表情はまんざらでもなく、お言葉に甘えて、というとあれこれ注文して、会計を済ませると買ったそれらをケーキを箱に入れて貰って虔陵院に向かった。
庫裡では出かけるあてのない順照は部屋にこもって写経に勤しんでいたが、2人が帰ってくると茶の間に出て来て紗月の怪我が軽いことを知ると心底安心した様子で、良かったね、と言い残して部屋に戻り、実加子は、私はお昼寝タイム、と言い残してやはり部屋に入った。紗月だけ茶の間に居ても仕方が無いので、彼女も部屋に入った。
ひとりぼっちの部屋は寒くて、紗月は早速、ポータブルストーブを点けてから机に向かった。
目の前の窓を通して聞こえる微かな潮騒とストーブの作動音以外に何も聞こえない部屋に1人でいて、紗月は不意に寂寥を覚えた。
その時、彼女は誰かに側にいて自分の話しを聞いて欲しいと切実に思った。そして、アドバイスなど御免被るが、労って欲しかった。
心地よい暖かさに保たれた部屋で、紗月は午前中の疲れが出たかして、不意に眠気に襲われて、だから、彼女は床にごろ寝した。そして、日がすっかり暮れて辺りが暗くなった頃、例によって紗月は実加子に起こされて、いつも通り紗月、実加子、順照の順で風呂に入った。
風呂から上がると3人して夕食をとり、順昭はお休みと言い残して自分の部屋に入った。そして、夜9時を少し過ぎた頃、紗月と実加子は、お休み、と言ってれぞれの部屋に入った。
この日の昼間は辛うじて真冬日を免れたが夕方には気温が下がりはじめ、先ほどのNHKの気象情報では釧路地方の午後6時30分の気温がマイナス8.5度と言っていた。紗月の部屋も湯冷めしそうな温度になっていて、だから、彼女は部屋の隅に置かれたポータブルストーブを点けると机に向かった。
机に向かって1時間ほども昼間、読んでいたたつまらない推理小説を読むことにも退屈した彼女は、ふと実加子のことが気になった。
釧路に流れ着いて、この虔陵院で実加子達と一緒に暮らすようになってから約1ヶ月過ぎたが、紗月は実加子とじっくりと話し込んだことがなかったことが残念だった。だから、彼女は庫裏の台所で二人分の飲み物を作るとお盆に乗せて、実加子の部屋の前に立った。
「こんこん、実加子ちゃん、まだ起きている?」
「どうぞ」
部屋の外から戸を叩くと中から実加子の声がした。まだ起きていたようだ。 紗月は掃除の時には実加子の部屋に入っているから、その中の様子も少しは分かっていた。
部屋の中には小さな炬燵と壁際に本がぎっしりと入れられた本棚があり、もう片方の壁には実加子が寝ている布団がきちんと畳んでおかれていた。そして、実加子の部屋の窓に掛けられたカーテンも、壁側に置かれた本棚もピンクで統一されていることが紗月の目を引いた。
「実加子ちゃん、ピンク好きなんだね」
「多分、私って日本一、ピンクの似合う女だと思うんだよね、紗月さんは何色 が好きなの?」
「私は緑かな」
紗月は炬燵の上においた紙箱の中からケーキを取りだして実加子の前に置いた紙皿に乗せた。
「へぇ、美加子ちゃん、絵上手いね」
炬燵の上に置かれたスケッチブックには色鉛筆で描かれた二羽の丹頂鶴が舞う姿が描かれていた。その様子からしてひと組のつがいが求愛のダンスを繰り広げている様だった。
「この写真を写しているんだ」
実加子が一葉の写真を紗月に手渡した。
それには降りしきる雪の中で舞う二羽の丹頂鶴の鶴の姿が写されていた。実加子の描く絵は緑波打つ沃野で舞う鶴だから多少、彼女の創作もあるようだ。
「これ、プロが撮ったの?」
「ウチの檀家さんでアマチュア写真家の人が撮った写真を貰ったの、今度はも っと良いのを狙うって言ってたよ」
絵にも鶴にも疎い紗月だから目の前の炬燵の上に置かれた写真の芸術的価値など分からないが、それにしても見事な写真だと思った。
部屋の壁際に立てられた本棚には数冊のスケッチブックが入れられていて、実加子の許しを得てそのうちの一冊の中身を見ると、ウエディングドレスのデッサンが描かれていた。
「では、遠慮せずに、いただきます」
紗月がそれに見とれている間に、実加子がケーキにスプーンを入れた。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
2人はそう言いながら箱の中からケーキを取り出した。
「美味しい」
「ほんと、夜食にちょうど良いよ」
紅茶のほどよい渋みとケーキの上品な甘さが紗月の疲れを癒やす。
実加子がBGM代わりといって音量を絞ってラジオをつけた。
「紗月さん、怪我、大丈夫なの?」
「うん、たいしたことなかった、湿布貼って貰って、夜中、痛み始めたときに 備えて飲み薬の痛み止めを貰ったけど多分、使わないと思う、ありがとう、 心配してくれて」
「私も雪になれてないから、他人事じゃなくて」
紗月は実加子の言葉を聞いて微笑んだ。
紗月は実加子に刑務所を出て更心寮にいたということ以外は報せていないし、実加子の出身なども殆ど知らない。考えてみるとこれまでの約1ヶ月で、3人とも自分の過去に触れたことは少ない。紗月は自分のことだから分かるが、他の2人は何故なのだろうと思わないでもない。
「紗月さん、絵、好きなの?」
紗月が何か言いかける機先を制して実加子が尋ねた。
「見ることは嫌いじゃ無いけどね、実加子ちゃん、絵上手だね」
「好きなだけだよ、上手いかどうかなんて分からない」
「この鶴の絵なんて大したものじゃない」
「自分では失敗作なんだよ」
「こんなに上手なのに?」
「鶴に躍動感が無いんだよね、平板ていうか。もっと踊っている様子を描かな きゃって思ってるんだ」
絵を語っているときの実加子の表情は、それまで知っているどの実加子よりも真剣で生き生きしていた。
「紗月さん、温泉、嫌い?」
唐突に問われて紗月はしばらく考えた。考えてみると下獄以来刑務所の浴場、銭湯、それに虔陵院の家風呂ばかりで温泉には縁が無い。
「行きたいよねぇ、温泉」
「じゃ、明日行こうよ」
明日、温泉に行こうなどとまるで銭湯に行くように簡単に言う実加子に紗月は戸惑った。
「行くって、どこに」
「阿寒湖温泉、外来入浴を受け付けているホテルもあるんだよ」
阿寒湖とは確か全国的にも有名な観光地だったと紗月も思うが釧路からの距離は分からない。
「そんなにすぐに行けるの、阿寒湖温泉?」
「車で1時間半程かな、食事もホテルで取ることにしてさ、沙月さん、怪我を 温泉で暖めて治すと良いよ、そして、ついでに鶴居村で丹頂鶴を見ようよ」
地理に疎い紗月だから、実加子が口にした地名を聞いても位置を思い浮かべることが出来ない、しかし、実加子の提案が、この時の紗月には何故か魅力的に感じられた。
「その話、乗った!」
実加子と紗月は笑顔で頷き合った。この夜は思いがけず話が弾み、2人が眠りに就く頃には日付が変わっていた。そして、どちらからともなく、そろそろ寝ようと言ったとき、実加子が不思議そうな顔をして紗月を見つめて
「紗月さん、なんで泣いているの」
と言ったものだから、彼女は慌てて
「何でも無いよ、私、結構なドライアイなんだよ」
と言ってごまかした。
翌日、いつも通りの時間に目が覚めた2人は順照に檀家周りの予定がないことを確かめると8時頃には虔陵院を出発した。
今朝の最低気温はマイナス15度とこの時期としてはやや寒い朝を迎えた。
実加子に言われて紗月もアノラックにスキーズボンで分厚い手袋という格好で、車内はエアコンを最大にしているがしばらくの間は寒かった。
虔陵院を出てからしばらくすると2人が乗った車は釧路川にかけられた幣舞橋にさしかかった。
この日の朝の寒気は川面の水を凍らせていた。その氷の形はどことなく蓮の葉を思わせた。そして、その蓮の葉氷が浮かぶ川から湯気が立ち上る様子が見えた。
ほとんど無風の中、その淡く儚げな白い湯気のおりなす紋様は厳しい寒気の中、たおやかに空中を舞い続けた。
「けあらしって言うんだって、檀家さんが言ってたよ」
生まれて初めて見る冬の造形に見とれている様子の紗月に気がついた実加子は前を見ながら言った。
平日の朝の8時過ぎともなると市内のあちこちから通勤通学客を運んできたバスがバス停で何台も列をなし、客達が乗降するする姿が見られる。仙台や東京で見知った朝の通勤ラッシュと規模は比べものにならないが、それでもこの北辺の釧路にあっても朝は皆、忙しそうだった。その忙しい様子を見ていると、紗月は申し訳ないことをしているような気持になった。
2人を乗せた車は北大通りを過ぎてガス会社の前を通り、新釧路川にかかった橋を渡るなどして釧路市内を走るが、依然として紗月は自分がどの辺りを走っていてどこを目指しているのかが分からない。
「紗月さん、丹頂鶴って、嫌い?」
信号待ちで止まったとき、運転席から実加子が言った。
「嫌いってことないけど」
「私たち、これから鶴居村に行くから」
「鶴居村?」
「丹頂鶴が沢山、居るんだよ、先ずはそれを見るの、それからね、紗月さんに 見て欲しいものがあるんだ、今日は見られるはずだよ」
青信号になったので車を走らせながら実加子は真っ直ぐ前を見つめたままいい、紗月は、お任せします、と言って微笑んだ。
ラジオをつけるとローカル番組が流れてきて、今朝の道内各地の天気を報じていた。それによると北海道の西側、札幌や小樽の在る辺りは雪に見舞われているという。
「札幌の方は雪だって、釧路は晴れてて良かったね」
「車の運転には助かるよ」
釧路は初夏から初秋に書けて海霧に覆われる日が多いから日照時間が少ないように思われるが、一方で冬はよく晴れる、お陰で年間の総日照時間は例えば東京よりも長くなる傾向がある。
釧路の街中をぬけてバイパス道を走ると道の両側に、まだらに雪に覆われた枯野原が続いている。
冬枯れという一言で片付けてしまうには余りにも荒涼とし人を拒み続けてきたことを誇っているとすら思われる凍てつく大地は人の作り出す喧噪とは関わることなく、冬空の下に横たわっている。
窓の外を見続けていた紗月の目に何かが映った。
「実加子ちゃん、鹿がいるよ」
一群の鹿を見て紗月は声を上げて微笑んだ。保護色だから分かりづらいが、それは明らかに大小の数頭からなる鹿の群れで、そのうちの一頭が枯れた雑草の間からひょいと顔をのぞかせている。
「可愛い、家族かな」
実加子は車を左に寄せてハザードランプを点けた。
「エゾシカだね、この辺りには多いんだって。多分、親子連れだね。」
エゾシカは6月から7月にかけて集中的に出産の時期を迎える。暖かいうちに少しでも体を大きくして体力をつけなくては厳冬期を乗り切ることは出来ない。もし、越冬に失敗したら野辺に骸を晒すことになる。
頃合いを見計らって実加子が車を出して、鶴居村までの道を走り出した。
「わぁ、綺麗」
「じゃん、実加子ちゃんお手製の樹氷だよ、これを紗月さんに見て欲しかった の」
幾つかの坂道を過ぎてふと道路の脇に立ち並ぶ木々に目を遣ると見事な樹氷が続いていた。
「今朝、早起きした甲斐があったでしょう。気温が上がったら、これが見られ ないからね」
しばらく見ようね、と言って実加子が車を止めてハザードランプを点けた。
丁寧に磨き上げられた鏡の上に少しばかり白を加えた青いペンキを塗ったような空の下、雪原の向こうの木立は皆、枝に雪や氷をつけて白く染まり、その奥の山の木々も又、白く染まってそこにあった。
絵心も詩心も無いことを紗月は悔い、何故か涙が出た、そして、ふと横を見ると実加子も一筋の涙を流していた。
今、2人とも何も聞きたくなかった。紗月はラジオを消して実加子と共にその景色を見つめ続けた。そして、よく見ると、雪原の真ん中辺りに茶色い点がいくつか並んでいた。
それは鹿の群れだった。彼らは一様に立ち止まると紗月たちの方に頭を向けて硬直した様に立ち止まり、間もなく、駆けだして山に消えた。紗月と実加子はその様子を見て、何故か微笑み合った。
2人ともこの景色を見て、何かを考えられる人間では無かった。
東京でも仙台でも、寒さはさけるべきもりだった。釧路でだってそれは変わらない。それでも、ここまで屹立して拒まれると紗月は却って神妙になり、山野の意に沿いたくなる。それは多分、隣に居る実加子も一緒だろうと思う。
紗月は、この時、神々しい、という日本語を思い出した。
「なんで、私、泣いてるんだろう」
紗月がいい、涙を手で拭ってふと横を見ると、やはり実加子も一筋の涙を流していた。
「では、次は鶴公園にまいります」
「レッツゴー」
紗月が拳を突き上げる振りをして走り始め、どのくらい時間が経っただろうか、樹氷と雪原の美を堪能した2人は、鶴公園に向かって走り始め、15分ほども走って、無事に「サンクチュアリ」と呼ばれる給餌場についた。
「沢山居るね」
「ここは餌が貰えるからね」
鶴公園についた2人が駐車場に車を止めて、早速、公園の柵に近づくと確かに沢山の丹頂鶴が歩いたり舞ったりしているのが見える。
「丹頂鶴って元気なんだね、私、もっと大人しい鳥かと思ってた」
感心したように言う紗月の言葉に実加子は苦笑しつつ頷いた。
一時期、絶滅が心配された丹頂鶴だが、地元の人たちの保護活動が実を結び、現在、800羽以上の生息が確認されている。
「鶴って、一度結婚したら一生、浮気しないって本当なのかな」
実加子が鶴の方を見ながらぽつりと言った言葉に紗月は想わず実加子の方を向いた。
「あり得ないよ、そんなこと、丹頂鶴も人も、所詮、男は男よ、浮気するに決 まっている」
紗月の結論に実加子は笑顔で何度も頷いて同意した。
翼を広げて殊更に優美に舞うのは求愛なのか、時に体をぶつけ合うのは喧嘩なのか遊びなのか、首から上が茶色くて体が小さい鳥は子供なのだろうか等と2人でぺちゃくちゃ話しながら鶴たちを見て、2人は車に戻った。
「さて、これで道東3白のうちの一つは見たね」
「それ、タクシーの運転手さんに聞いた、丹頂鶴と白鳥と流氷でしょ」
「うん、今日はこれから風呂だから、他の二つは又の機会だね」
「そうだね」
鶴居村から阿寒湖温泉へ向かう道すがら、車中で2人は無言だった。決して不愉快だった訳では無い、助手席に座っている紗月はもちろん、ハンドルを握っている実加子も、今、見てきた風景の余韻を楽しみたかったのだ。
鶴居村を出てからはカーナビの言うとおりに最短距離を走り、阿寒湖畔の温泉に着いた時には11時近くになっていた。生まれて初めて阿寒湖を目の当たりにする紗月だから、道案内は全て実加子任せだった。で、風呂道具を片手に阿寒湖を見つめたまま紗月は微動だにしなくなった。
「どうしたの、紗月さん?」
右手に風呂道具の入ったかごをぶら下げたまま立ち尽くす紗月に、実加子はくすりとして声を掛けた。
「凍っているよね、この湖」
「うん、凍ってる」
それきり2人は黙ってしまった。
湖の上を氷が覆い、その上にまだらに雪が乗っている。そして、その凍った湖の向こう岸には、雪景色に染まった阿寒の山脈が横たわっていた。
「風邪引くよ、行こうよ、紗月さん」
実加子に促されて我に返った紗月は一緒にホテルを目指した。
ホテルの風呂場では入念に体を洗い、湯に浸かり、日頃の疲れをお湯に流した。
「あぁあ、やっぱ、風呂だわ」
「本当だよね、日本人は風呂だよね。特に温泉て良いよね」
「ほんと、ほんと、疲れが取れる、命の洗濯だよ」
二人して浴槽の縁に体をもたせかけると、その岩のごつごつした感触がかえって心地よい。そして、うっとりと目を閉じて温めのお湯を楽しんでいると眠気がしてきた。
ずっとこうしていたい、などと馬鹿なことを考えていると実加子に一緒に上がろうと言われて、二人してレストランに向かった。
レストランでも食事と景色を堪能して、阿寒湖を出たときは午後2時近かった。
虔陵院までの帰途、実加子と紗月は一言も発しなかった。疲れていたのではない、充実感が2人を無口にさせたのだ。
車窓に流れる道東地方ではごくありふれた冬景色。
荒涼
清冽
静寂
紗月は今日ほど冬を意識したことは無かった。
北海道ほどでは無くても厳しい冬を知る秋田で生まれて育ったから冬と少しは親しんできたつもりだった。だが、今日、釧路の寒気と冬の佇まいの中に身を晒したとき、秋田での冬との向き合い方は通じないとおもった。何よりも気温が、そして、風の冷たさが違う。だが、紗月はこの厳しさが不思議と嫌いでは無かった。
「美加子ちゃん、今日、ありがとう」
阿寒湖畔のホテルを出てから1時間ほども経って、車は「まりも国道」を南下し釧路の市街地にさしかかった時に紗月が実加子に言った。
「そう言ってくれると嬉しいよ。私、紗月さんが心配だったんだよ」
「私が心配?」
「だって、紗月さん、段々、元気で無くなっていくような気がして。もしから したら東京に帰るって言い出すかもって思ったの。だから、少しでも元気に なって欲しいなって思って誘ったの。大きなお世話だったかな?」
実加子はハンドルを握って真っ直ぐに前を見たまま言い、紗月は実加子を見た。そして、少しだけ間を置いて
「実加子ちゃん、ありがとう、気を遣わせたね」
と言った。
西の空が芙蓉色に染まる頃、2人を乗せた車は虔陵院を目指して走った。その時、車内の紗月と実加子は無言だった。




