第15章 迷う暇(いとま)も無いままに
空席が目立つ機内でCAたちが機内サービスを始めたので紗月はオレンジジュースを頼んだ。
座席横の窓から見下ろすと北に行くほど陸地は白く染まり、海上には強風を証明するかのように古くぼろぼろになったレースカーテンを敷き詰めたような模様が出来ていた。
羽田空港を離陸して1時間くらい立ったとき、海の近くに建物が密集している風景が見えた。それは仙台の町並みだった。
紗月は前の座席の背もたれに取り付けられたポケットから取り出したパンフレットの頁をめくった。
郷里の秋田に近く、生活を楽しむための手段が整ったこの地方都市を紗月は気に入っていた。あの事件を起こすことさえなければここで結婚し子どもを産み育てただろうとも思った。
平凡でも小さな幸せすら今の彼女には叶わぬ夢になった。刑務所出所直後の彼女なら泣いていたことだろう。だが、今の彼女は泣かなかった。
紗月の乗った飛行機は定刻より五分ほど遅れてたんちょう釧路空港に着陸した。
彼女は少しは安心したからなのか今朝から何も食べていないことを思い出して、空港ビル3階のレストランコーナーに入っている食堂の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
と言う元気のよい声と共に白衣に三角巾という格好の中年女性の店員が迎えてくれた。
テーブル席に着いた彼女は、そこに置かれたメニューを手に取り、特に考えもせずに蟹メシ定食を注文した。
「ここが釧路、か」
席に着くとテーブルの上に置かれた観光案内用にデザイン化された北海道が印刷された地図で左下の太平洋に面した所に書かれた赤い丸の下に「くしろ」と書かれていた。
「お待たせしました」
紗月が店に入って少し経ってから、さきほどの店員が注文した蟹メシ定食を持ってきた。
盆の上には白い酢飯の上に蟹の身が分厚く盛られた黒ぬりの飯椀と、その横に和布の具が入った味噌汁の小椀が乗せられていた。
割り箸を手にすると味噌汁を口にした。
口の中に広がる汁の暖かみと和布の出汁が心地よい。
飯椀に盛られた蟹メシに箸を付けた。
酢飯の味が蟹の身の甘さを引き出している。
生まれて初めて釧路で摂った、かなり時間の遅れた昼食は悪くはなかった。そして、彼女は会計を済ませて店員の、ありがとうございました、の声を受けて店の外に出るとターミナルビルの外のタクシー乗り場にでた。
ダウンジャケットのポケットから東京で諒順から渡された虔陵院の住所と電話番号が書かれたメモを取り出し手に持つとタクシーに手を上げた。
「いらっしゃいませ」
タクシー会社の制服を着た、40歳前後と思しき女性のドライバーが運転する車が彼女の前に停まった。
「えーと、釧路市××町※※丁目の虔陵院までお願いします」
「はい」
ドライバーは社内に乗り込んだ紗月がメモを見ながら言う虔陵院を目指して走り始めた。
釧路空港は、元々、馬の放牧場だった台地を国が買い取って開設した空港で海岸から直ぐの場所にあり,夏場はこの地方特有の濃い海霧に悩まされる日が多いから国内でも最高の性能を持つ「カテゴリー3A」という電波誘導設備を備えている。ただ、冬の道東地方は晴れる日が続くから、今日は飛行機が順調に飛んでいるようだった。
空港に続く坂道をおりて、地元の人が「まりも国道」と呼ぶ国道との交差点を右に折れて、タクシーは走った。
道路の両端に集められ低く積まれた雪が列になって道路に沿って並んでいる。
雪国秋田で生まれ育った紗月にはそれは見慣れた光景だった。
紗月は釧路と聞いて何となく豪雪地帯を思い浮かべていたが、実際に来て見ると、想像していたよりも遙かに雪が少ないことに少し驚いた。
しばらく行くとタクシーの窓からは冬枯れで茶色くなった草原が向こうに見える山の麓まで続いているのが見えた。
降った雪が少ないこともあり、所々が溶けて斑に原野を覆い、溶けた所から茶色の枯れ草が見え、その斑な白と茶色の原野の上に淡い水色の北緯43度の冬空があった。
「お客さん、ご旅行ですか?」
細身の人の良さそうな顔に薄化粧で何故か口紅だけが妙に際立つドライバーが不意に紗月に話しかけた。
「ええ、ちょっと」
まさか東京で刑務所帰りを言いふらされて、居られなくなり釧路に来ました等とは言えないから、笑顔でごまかした。
「釧路は何もないからね、道東三白でも見にいったらわ?、丹頂鶴と白鳥、流氷 の三つで道東三白、冬場の観光の目玉ってウチらはいってっけどあんまり流行 ってないんだ、お客さんも知らないでしょ」
紗月はその言葉に小さく頷いた。
紗月はドライバーの話を聞いても別段興味をそそられることはなかった。
釧路で何かをしたいわけではない、とにかく、誰にも脅かされることなく平穏無事に暮らすことが出来るなら、彼女は満足なのだ。
彼女の乗ったタクシーは「まりも国道」と国道38号線の交差点を左折して市街地の中へ進んだ。
思ったより大きな町だね、紗月は道路の両側に連なる家並みを見てそう思った。
片側二車線で結構な交通量の道路の両脇には割と大きな工場や商店が軒を連ねている。紗月が釧路と聞いて咄嗟に思い浮かべた寂れた寒村とはおよそかけ離れた光景がそこにはあった。
空港を出てからしばらくして釧路駅の辺りにきた。
駅の敷地の中に大きな教会があった。
赤信号で停まった車内からその教会を見つめている紗月にドライバーが気付いた。
「結婚式用の教会ですよ、今日は式があるんだね、リムジンが停まっている」
ドライバーの言葉につられた紗月はその方を見た。
結婚か、紗月は自分の年齢を思うとため息をつきそうになった。
下獄以前は憧れることなどなかった「結婚」の二文字に強く惹かれた。
自分のことを全て受け入れてくれる人、三角関係のもつれから相手の女を殺そうとして重傷を負わせ殺人未遂罪で6年間服役し、そのことが元で親兄弟と縁を切られて天涯孤独となった元女医というとんでもない欠点も含めて私を受け止めてくれる人が現れて欲しい、紗月はそう思った。そして、それが高望みであることも彼女は理解していた。
「お客さん、今日は暖かくてよかったね、今でマイナス3度だから真冬日ではな かったんだよ」
ドライバーの言葉に、何処に温度計があるのだろうと思っていると、目の前にあるビルの壁にそれがあった。
確かに「−3」とそれは表示している。
最高気温がマイナスの日を「真冬日」と呼ぶくらいのことは紗月も知っていたが、故郷の秋田でも10年住んだ仙台でも真冬日を経験した記憶がなかった。
「釧路は真冬日が多いんですか?」
「うーん、私達が小さかった頃に比べたら少なくなったけどね、12、1、2は結構、あるね」
予想通りではあったが、ドライバーが当たり前のことのように淡々と答えたことに、紗月は少し驚いた。そして、自分が本当に北国に来たのだと思った。
釧路駅から真っ直ぐに伸びる北大通は、一応、釧路のメインストリートの筈なのだが、平日の午後だというのに、人通りがまばらで営業している店よりもシャッターを下ろした店が多いように見受けられ、ただ、街頭放送だけが元気に鳴り響いていた。その閑散とした北大通を紗月が乗ったタクシーは虔陵院を目指して走った。
釧路川にかかる幣舞橋をわたり、目の前の坂を上り幾つかの角を曲がると目指す虔陵院についた。
「虔陵院到着です」
「ありがとうございました。」
「お客さん、良いご旅行を」
「ありがとうございます」
料金を支払っておりた紗月を1人残すとタクシーは夕闇迫る釧路の町を走り去った。
タクシーを降りた紗月の目の前にある建物は日本国中の何処ででも見かけるありふれた外観の仏教寺院。
神仏とは縁の無い紗月ではあるけれどその本堂の前に立つと何となく厳かな気持ちになった。
この寺の宗派や本山などといったことを諒順は紗月に教えてはいなかった。ただ、同門で相弟子だった尼僧が釧路のこの寺で住職をしていると言われただけだった。
空港にいたときよりも風が強くなったのか、地面に薄く積もった粉雪が舞い始めた。
門から本堂の入り口までの通路は綺麗に除雪されているが、それ以外は少し雪かきがしてある程度だ。
多分、防寒の必要からなのだろうが本堂の入り口にある木製の引き戸も閉じられていて、その中に人の気配はなった。
その本堂に向かって左側に雪をかいて付けられた道があり、紗月がその道に沿っていくと本堂と渡り廊下でつながった庫裏があった。
庫裏の玄関で呼び鈴をおしても誰も出てこない。ふと脇を見るとその玄関先からに積もった雪の上に2本のタイヤの跡が見えた。
多分、車でどこかに出かけたのだろう。
「渡辺順昭ってどんな人なんだろう 」
紗月はそう思って庫裏の屋根を見上げた。
医師だった頃、患者やその家族、そして、職場の同僚達も含めて随分とあくの強い人間達を見てきた。それは刑務所でさらに拍車がかかっていた。だから、ここの住職をしているという渡辺順昭という尼僧が多少、あくが強くても合わせていけるとは思うが、余り酷いと心身共に疲れ切っている身では耐える自信がなかった。
紗月が立っている寺の本堂から道路までの通路には大粒の砂利が敷き詰められていて、この時期、それは凍っていた。紗月は俯いて、その凍り付いた砂利を片方の足で小さく何度も蹴り続けた。
風に押されて彼女は少しよろめいた。
ふと見上げると空の 片方が暗く、もう片方があかね色になっていた。
夕暮れの時間だ。
寒かった。
3時近くに空港からここまで乗ったタクシーの中からみた温度計がマイナス3度をしめしていたが、今は更に寒くなったことだろう。
懐かしい音を聞いたような気がして、紗月は音のした方を見た。
彼女の視線の先にはたくさんの墓石があった。
音はその墓石の群れの向こう側から聞こえてきていた。
墓所に薄く積もった雪を踏みしめ歩いて行くと木製の古びた杭が埋められ、黄色と黒のトラロープで繋がれていた。その杭の全部に「行止り」と書かれた木製の看板が付いている。
紗月は周囲に誰もいないことを確認するとロープを跨いで数メートルも歩いた。
足下は崖になっていた。
沖から岸に向かって押し寄せた波は崖下の岩にぶつかって砕けては沖に引き戻される。
切り立った崖、眼下に横たわる夕凪の釧路の冬の海。ふと沖に目をやると一隻の小さな船が浮かんでいた。漁を終えて港へと急ぐ小さな漁船のようだ。
濃い潮の香りを含んだ風の音が聞こえて、彼女は耳が千切れそうだと思い、取りあえずどこかで暖を採ろうとして寺の境内を出た。
生まれて初めて訪れた釧路だから何処に何があるのかなど全く分からないのだが、道の両側に小さな商店が建ち並ぶ少し広い通りにそって歩くうちに小さな喫茶店が目に入った。
住宅街の中にある民家の一部を改装して造られたと思われるその喫茶店は壁に「喫茶室柏木」と書かれた木製のプレートがかけられていた。中の明かりが窓から漏れていたから営業中なのだろう。
ちりり
彼女が中に入ろうとするとドアの上に付けられた呼び鈴がなった。
カウンターとテーブル席が幾つかあるだけの小さな喫茶店。
カウンターの中にはママと思われる背の高い50歳過ぎの女と彼女よりは小柄な20歳前後に見える女が二人立っていた。
お好きな席へ、と言われたので紗月は窓側のテーブル席に着いた。
外は寒かった。
同じ北国とはいいながら秋田や仙台と比べてもこの釧路は寒気が厳しかった。その寒さに慣れない紗月は、暖房の効いた喫茶店の中に入ってもしばらく寒そうに両手で体をさすっていた。
「お客さん、そんなとこにいたら駄目だ、こっちに来なさい」
カウンターの中からエプロン姿のママが紗月に言った。何だか古くからの知り合いにでも言うような物言いに紗月は少し驚いたが、寒いことはたしかなのでストーブに近いカウンター席に移った。
カウンターには他に一人男性客が居た。
「紅茶お願いします」
紗月は何も見ないようにカウンターから視線を落としたまま言った。
一応、ダウンジャケットを着てはいたが何せ釈放されて直後に東京のデパートで買った安物だから釧路の寒さに耐えられるわけもなく、何よりも靴がおよそ釧路の冬に相応しくない代物だから足の指の感覚が殆ど無かった。
寒いところから急に暖かい室内に入ったからなのか、鼻水が出てきて彼女はすこし慌てた。
店内の暖かさが心地よかった。
外にいるときには気付かなかったが全身が寒さで強張っていて、その強張りが少しずつほぐれていった。
「ご旅行ですか」
いつの間にか紗月の前に来た、エプロン姿の若い店員が話しかけた。
紗月は少し戸惑った が無視することも失礼と思った。
「ええ、東京から」
「そうでしょう、だって、初めて見るもん、それに薄着だしさ」
男性客と向かい合わせになりコーヒーを淹れていたママが笑顔で言った。
「東京の人だら寒かったっしょ」
「ええ、少し」
「釧路、寒いからねー、でも、今年はあったかくていいわ」
真冬日が減ったといって喜んでいる人達の感覚からすると確かに「あったかい」のだろうが、マイナス3度かそれ以下の気温の中で小一時間も佇んでいた者からすると寒気は強烈だった。
「今晩は何処に泊まるんですか」
カウンターを挟んで向かい合わせになった若い店員の言葉に紗月はつくづく不躾な人達だと思ったが顔には出さなかった。
「虔陵院さんにお世話になろうかと思ってます」
「虔陵院、順照さんのところだね」
並んで座った男性客がそういいながら、紗月の方を見た。
「ご存じなんですか、順照さん」
「私、虔陵院の近くで小さな居酒屋をやってましてね、順照さんも時々、来てく れます」
男の言葉が終わらないうちにママが紗月の前に紅茶を置いた。
ママはいかにも人の良さそうな笑顔で言った。
「お口に合いますでしょうか」
馥郁たる香りが辺りに漂い、口にした紗月の舌に微かな甘みが残った。
「あったまるでしょ」
確かに人肌の紅茶は紗月を温めた。
感覚がなくなっていた両足の指が温まりだして痒くなった。
「寒そうだね、お客さん、なんか可哀相」
生まれて初めて会う人間の服装を見て同情する人も珍しいと紗月は思うが、侮辱して言うのではなさそうなので、笑顔で応えた。
若い店員が興味津々と言った様子で訊いた。
「お客さん、尼さんなんですか」
「いいえ、違います、ただ、知り合いの紹介で少しの間、お世話になることに なって」
紗月の言葉にママは笑顔になった。
「あら、そうかい、ウチ、虔陵院さんの檀家なのさ、よろしくね」
ママは人なつっこい良い人なのだろうが、紗月からすると少しずれているような気がした。その彼女がガステーブルの上に置かれた鍋から器に何かを入れて紗月の前に置いた。
「あの、私、頼んでませんけど」
「いいんだよ、お客さん、これ、ウチからのプレゼント、あったまるよ、残すん でないよ」
紗月は、目の前に置かれた白身魚の切り身が入った汁物に目が奪われた。
「あの、このお魚、なんていう」
「お客さん、東京じゃ知らないかな、これ、ウチらがカジカって言ってるのさ、 温かいうちに食べて」
そもそも東京で魚を口にする機会は滅多になく、仙台や故郷の秋田でも見聞きしない種類の魚の身がニンジンやジャガイモ、大根と一緒に器に盛られていた。
遠慮するのも失礼と思い紗月は、ありがとうございます、と言って箸をつけた。
出汁が濃く、一緒に入った野菜それぞれの甘みが汁に合う。魚特有の生臭さが不思議と無かった。
ママの言葉に嘘はなく、紗月は、あったまった。
紗月が箸を置いたころを見計らって若い店員が声をかけた。
「虔陵院には行ったんですか」
「ええ、先ほど」
「順照さん、居ました?」
「 それが、お出かけのようで」
紗月はそういうと口直しにコーヒーを飲んだ。
「どれ、まってな、電話しちゃるわ」
ママは、そういうと虔陵院に紗月が来店していることを電話で知らせた。
「今、誰も居ないんだね、留守電だった、ここに居なさいお客さん、美加子ちゃ んが迎えに来ると思うよ」
「美加子ちゃん?」
初めて聞く名前に紗月はオウム返しになった。
「聞いてないのかい、順照さんの姪っ子だって、今、順照さんと一緒に住んで運 転手やったりしてるんだよね」
順照のところに美加子という姪っ子がいるという話は紗月からすると初耳だった。
カウンター席で紗月と並んで座った居酒屋の店主だという男が口を挟んだ。
「東京から来たって言ってたな、年はお客さんと近い筈だよ、明るくて礼儀正しくて良い子だよ」
「こちら、平川さんです。」
紗月の目の前に立った若い店員がそういって平川の方を見た。
お互いに、よろしくお願いします、と言って軽く会釈した。
「この子はここの娘の幸子ちゃん、この人がここのママで久子さん」
平川はそう言いながら二人を紗月に紹介した。
幸子が洗い物をしている姿を横で見ながら久子ママは言った。
「美加子ちゃんは良い子だよ、寺の近所のじいちゃんばあちゃんとも直ぐ仲良 くなってさ、体はあまり大きくないけど力持ちみたいだよ」
紗月はここのママの話しを聞きながら、美加子とはどんな女性なのだろうと思い、そして、刑務所で見かけた受刑者達を思い浮かべた。そして、虔陵院の渡辺順昭の人柄だって何も知らないと同然ということにあらためて気づかされた。
刑務所に入れられた時だって、紗月は最初の頃は同じ雑居房で寝起きすることになった女性達の人柄など何一つ知らなかった。ただ、刑務所に入れられるようなことをした人達だから身構えていたことは覚えている。それが周囲の女性達を刺激して随分と辛い服役生活になったと思う。
結局、私は刑務所を出ても刑務所と同じような毎日を送ることになるのかと思うと涙が出そうになったが、いまさら釧路暮らしを断って例えば東京に舞い戻っても糧食の目処さえ立たない身の上では全てを諦めて受け入れるしかないと思い、俯いて沈黙した。そして、目の前で意味も無く紅茶をスプーンでかき回し続ける紗月を、幸子は不思議そうな顔で見続けた。
しばらくの間、平川と久子ママが雑談して、幸子と紗月がそれを眺めていると店の前に車の音がして、ドアが開いた。
「虔陵院でーす、ウチのお客さん迎えに来ました」
頭に赤い毛糸の帽子、マスクで顔半分が隠れて、紗月の着ている安物のダウンジャケットの倍くらいはあろうかという厚さのアノラック、手には真っ赤な手袋でスキーヤーが穿くようなズボンにピンクのスノーブーツを穿いてた、このまま北極探検にでかけても大丈夫といった格好の若い女がそこに居た。
「あら、美加子ちゃん、今日は檀家周りかい」
「うん、それと買い物と」
親しげに声をかける久子ママにみっかそう答えた。
「随分、寒そうじゃないか」
「寒いですよ、平川さん」
しばれがそうさせるのだろうか、親子ほども年齢が違う二人なのに、まるで旧来の知友であるかのように親しげに話す様子を見て紗月は何となくほほえましいと思った。
ドアと反対側の壁の近くで椅子にかけた紗月は実加子を見つめていた。彼女に気付いた実加子はつかつかと近づくと
「松田紗月さんですか、はじめまして、私、虔陵院でお世話になっている渡辺実加子といいます。」
と挨拶したので、紗月も椅子から立ち上がり
「はじめまして、よろしくお願いします。」
と言った。
帽子とマスクと手袋を取ってきちんと挨拶する渡辺実加子を一目見て綺麗な女性だと紗月は思った。目が大きく鼻筋が通り顎の線が鋭角で全体として何となくリスに似た印象で、化粧は一切していないようなのに肌の白さを際立っていた。
「あの、松田さん、お荷物は」
「今日はこのバッグだけなんです、他は運送会社に頼みましたから」
紗月はそう言いながら実加子に手に持ったバッグを見せた。
「では、行きましょう」
実加子に促されて紗月は会計を終わると「喫茶室 柏木」の外に止めた車に乗った。
車の中はエアコンが効いて暖かかった。
「直ぐ着きますから」
助手席に座った紗月に実加子はシートベルトをつけながら、そう言うと車を出した。
カーラジオの時計は午後5時を少し過ぎて日がすっかり暮れ、行き交う車は皆、ライトを点けていた。
実加子は慣れた様子でハンドルを操作した。
「私ね、松田さんが来てくれるって順照さんから聞いたとき、嬉しかったんです よ。今までずっと 順照さんと二人暮らしだったから。」
「ありがとうございます、そう言っていただけると嬉しいです」
前の方を見ながら言った実加子の言葉に紗月はちょこんと頭を下げた。
「順照さん、いい人だけど私とは年が離れすぎているから」
「お幾つくらいの方なんですか、順照さん」
「たしか、今年65歳のはずです」
「実加子さんて、順照さんの姪御さんなんですよね」
「え、ええ、まあ」
言われて実加子は少し、言いよどんだ。
「松田さん、順照さんは取っつきにくいかも知れないけれどとってもいい人です から」
大丈夫です、私、刑務所の中で取っつきにくい人には慣れましたから、と紗月は心の中で呟いた。
二人が乗った車は間もなく虔陵院についた。
「虔陵院、到着です」
実加子がそういうと二人して車を降りた。
庫裏のドアを開けて玄関に入る。
先に実加子が上がり奥に行った。
紗月は緊張したまま土間に立っていた。
こんなに緊張するのはおそらく刑務所に到着したとき以来だろう、紗月はそう思った。
間もなく防寒着を脱いでトレーナーにジャージのズボンという格好になった実加子が出てきて
「どうぞ」
と言った。
実加子について居間に入ると一人の年輩の女性が居た。その女性が東京の更心寮で保護司と教誨師をしている増井諒順が、得度後、同じ寺で修行した渡辺順照だった。
濃い灰色の作務衣を着てこちらを向いて立っている順照を見て、紗月は身構えた。何よりも人を射貫くような強い視線に彼女は少し怯えた。
「初めまして、渡辺順照です。」
紗月はリビングの中に進むと諒順の前できちんと正座して手にしたバッグを脇に置くと三つ指ついて
「初めまして、東京の更心寮の増井諒順さんのご紹介で参りました、松田紗月と 申します。よろしくお願いします」
と言った。
言われた順照は紗月と向かい合わせになるように座り、紗月の脇に、紗月に向かって実加子が座った。
「迎えにも行かずにすまなかったね、檀家周りしてたから留守にしてたんだ。」
「いえ、私の方こそ釧路に着く時間をお知らせしていませんでしたから。」
順照は紗月の言葉に頷いた。
「この寺でのことはおいおい分かるだろ、さ、実加子、夕飯の支度頼むよ、今日 は風呂を沸かしたから松田さんからはいりな」
「はい」
「松田さんの部屋に案内するよ」
そういうと順照が立ったので紗月も後に続いた。
「ここだよ。」
順照が戸をあけると6畳間があった。
畳の上には布団が既に敷かれていて窓側に小さな机と本棚、そして小さなクローゼット、それにストーブが置かれ、布団のある壁側と反対の壁に押し入れが造られていた。壁には棚まで作られている。
「好きに使ってくれて構わないよ」
夕飯が出来たら呼びに来るよ、と言い残すと順照はリビングに引き返した。
紗月は明かりを点けて一人残った部屋の中を見渡した。
机とクローゼットにストーブ、そして、何よりも嬉しい真新しく清潔で暖かそうな布団。足下の畳は少し古そうだが気にすることもないだろう。
あの東京の、常にじめっとしていて、紗月が寝ているときに顔に天井から落ちてきたウジ虫が降りかかり慌てて飛び起きると言うようなことが何度となくあった部屋に比べるとここは別天地に思えた。
例の濃紺のスーツ姿の紗月は机の上にバッグを置くと椅子に腰掛けて、窓をあけるとさらに外に窓があって少しびっくりした。そして、外窓にはめ込まれたガラスを通して庫裏の外を眺めた。
庫裏の外には玉砂利が敷き詰められていて、その玉砂利の向こう側には背の低いイチイの木が植えられていた。今の季節ではそのどれもが薄く雪に覆われて白くなり、夜の闇の底で月明かりに照らされていた。
リビングでは順照と実加子の話し声に混じって食事の支度の音が、そして、耳を澄ますと潮騒が聞こえる。
「松田さん、ご飯ですよ」
紗月が外窓を通して外の景色に見とれていると部屋の外から実加子が迎えに来て声をかけた。
はい、と答えると紗月は実加子と一緒にリビングに入った。
「松田さん、着替えないのかい」
食卓テーブルに着くと、順照は紗月が濃紺のスーツのままでいることに少し驚いた様子だった。
「服は全部、運送会社で送ってしまったんです、今日はこれしかなくて」
紗月が照れくさそうに答えると、順照が
「明日、美加子と一緒に買い物に行くといいよ」
と言いながら実加子を見た。
実加子は笑顔で頷きながら紗月を見て、紗月も小声で、お願いします、と言った。
テーブルの上には実加子が作った3人分の夕食は、炊きたてのご飯に、鮭の切り身、布海苔の具の入った味噌汁、それにほうれん草のおひたしと、中学校の家庭科の調理実習のようだった。
「いただきます」
3人が声を合わせていい、箸をつけた。
静かな食卓だった。
箸を動かす音も汁を吸う音もしなかった。
在監中も、更心寮でも、そして、そこを出て一人暮らしをしている頃でも、食事中は無言だった。刑務所ではそれが規則だったし、更心寮ではそれが常識だと思っていた。そこを出て一人暮らしを初めたときも食事は独りぼっちでとるものだった。
東京で一人暮らししているとき、何時の頃からか孤独癖がついたと自覚した。それはあの都会では必要な資質だと思っていた。
「口に合うかい?」
紗月と向かい合わせに座った順照が不意に言った。
「ええ、とっても」
「海苔の出汁がいいだろう」
言われてみると確かに味噌汁に入れられた布海苔の出汁がきいていて、美味い。
「実加子が作ったんだ」
汁椀から顔を上げずに言った順照の言葉に、紗月は思わず隣の椅子にかけた実加子を見た。
「うちの料理長だよ」
順照は手にした椀をテーブルの上に置きながら行った。
紗月は言われて思わず実加子を見た。
「実加子さん、料理、お上手なんですねー」
紗月の言葉に実加子は嬉しそうな笑顔を紗月に向けた。
「紗月さん、今日はぱっとしないけど、明日はもっといい物が出ますから、期待 していて下さいね」
食事を終えると紗月は順照の言葉に従い、風呂に入った。
一番風呂で新湯と分かった。
体と髪を洗った後、風呂を出た彼女はまた濃紺のスーツを着た。
リビングに行くとキッチンで実加子が洗い物をしていた。
「ごちそうさまでした、ありがとうございました。」
「順照さんは?」
「自分の部屋で寺の仕事していますよ」
実加子が背中越しに答えた。
実加子ばかりに世話になっていても申し訳ないと思い紗月は声をかけた。
「私、手伝いますよ」
「いいですよ、もう終わるし、それに順照さんが今日は紗月さんも疲れているだ ろうから早く寝なさいって」
たしかに疲れていた。
立っていられないほどではないとしても体がとても怠かった。
所在なげにソファに腰掛けた紗月だったが、このままここにいても仕方が無いと思い、順照たちに甘えることにした。
「では、お言葉に甘えて、休ませて貰います」
紗月はそういうと、お休みなさい、と言って自分の部屋に引き上げた。
パジャマは東京から送ってしまったから、今日は肌着だけで布団に入ることになる。
スーツの上下ととシャツを衣紋掛けに掛けると部屋の明かりを消して紗月は布団に潜り込んだ。
丹前に毛布に掛け布団という三枚重ね。秋田も北国で冬は寒いが、流石に布団をここまで厚くはしていなかった。
掛け布団も背中にあたるシーツも新品の感触が心地よい、あの三上君代と望まない再会をした病院に勤めていた時に住んでいたアパートで寝ていた布団とは別世界だった。この布団でならよく眠られそうだと思いながら、それでも紗月は掛け布団の心地よい重さを感じながらもの思いにふけった。
つい半月程前なら釧路で暮らすなどと言うことは考えもしなかった。そもそも釧路の位置さえはっきりと思い浮かべることが出来なかった。それが三上君代に他人に知られてはならない自分の過去を言いふらされて更心寮の増井諒順に助けを求めて、今、こうして釧路の虔陵院で寝ようとしている。
つい数時間前に生まれて初めて会った渡辺順昭やその姪の実加子のことを東京の諒順は何も教えてはくれなかった。紗月も自分の過去を知る人で「汚染」された東京から一刻も早く離れたかったから敢えて聞かなかった。
諒順からは釧路行きを勧められただけで、ここに滞在する期間などは2人の間では何も話していない。だから、気に入らなかったら何時でも何処かへ立ち去っても良いのだが、行った先での糧食の目処などない。相変わらず事務系の仕事に就きたいとは思うが、世間はちっぽけな理由で人を殺そうとした女に簡単に仕事をくれるほど親切には出来ていないことは東京での職探しの日々で思い知った。経歴不問の仕事は不安定で低賃金のパート仕事ぐらいだった。
紗月は訳もなく人を殺そうとするとはこういう報いを受けるということなのだと思い、こういう状態を八方ふさがりというのだろうと思った。そして、今の私はとにかく虔陵院で上手くやるしかない、そうで無ければ冬の日本の何処かで路上生活を体験することになりかねないということに気がついて、改めて深々とため息をつきながら
「あーあー、だね」
と独りごちした。
紗月は東京の増井諒順の顔を思い浮かべた。
紗月は彼女に自分が刑務所帰りということを虔陵院の渡辺順昭には知らせないで欲しいと言わなかったことを悔やんだ。尤も、諒順が相弟子でその人柄に信頼を寄せる人物の許に送ろうとしている者の過去について全く伏せたままでいて欲しいと頼むことはわがままだろうとも思うのだ。
今日、釧路で生まれて初めて会った2人は私のことをどれくらい知っているのだろうと思うと急に体がほてった。
「私のことは、全て知られている」
そもそも増井諒順と紗月が最初に出会った場所は武州刑務所だった。諒順が順昭に教誨師をしていることを知らせていないとは考えづらい。
あの2人はどこまで知っているのだろうと思うが、こちらから聞く勇気も無かった。そして、渡辺順照とその姪の渡辺実加子は、どういう人達なのだろう、私が人を殺そうとした女だと知っても何も感じないのだろうか、と思った。
それにしても、今日、生まれて初めて訪れた釧路で会った人達は強烈な人達ばかりだった。初対面なのに職業を聞いたり、客に向かって寒そうにしているなどと言葉を選ぼうとしなかったり、無料だからといってこちらの意向を訊かずに食べ物を出してきたりと郷里の秋田も含めて何処でも体験したことのない出来事だった。
一体、どういう人達なのだろう、と少しだけ考えて、今、ここで考えても自分の境遇が何一つ変わらないことに気がいた彼女は、考えることを止めて目をつむると、間もなく、眠りに落ちた。
この夜、釧路の海は穏やかだった。




