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さなぎたに1人  作者: きたお
14/30

第14章 過去との再会

「1,380円になります、こちらお釣りですね、ありがとうございました」

 マスクをかけて疲れ切った様な表情をした松田紗月はレジの向こう側で満面の笑顔を浮かべている若い女の子からビニール袋に入れられた風邪薬と釣り銭を無言で受け取ると外に出て、ふと立ち止まってを見上げると幾分傾いた日の光に黄色く染められた空があった。

 年が明けて1月も半ばの頃のこと、彼女は関東医大附属東京第一病院での清掃員としての仕事を定時に終えて、ここ数日、風邪気味なので病院の近くにある薬局で風邪薬を買ってゆっくりとアパートを目指して歩き始めた。その途中、お腹が減ったと思いコンビニに立ち寄って何時と同様にお握り3つと缶ビール1本を買った。

 この日も紗月は病院に出勤すると早速、仕事着に着替えて各病室やナースステーションからゴミを集めたりトイレ掃除をしたりして病院の中を動き回った。

 紗月は今の清掃員の仕事が嫌いというわけではない。毎日、出勤後は余計なことを考える暇などないくらいに病院内を忙しくかけずり回って疲れるが、先輩の小母さん達と余計な波風を立てないように心配りはしているから、今のところ普通に働いている。そして、それを終えると病院の近くに借りたアパートの部屋で心地よい疲労感に包まれながら眠る暮らしは、彼女の心を平穏にした。

 紗月はこの日、部屋に帰ると風邪気味で控えていた銭湯に行くことにした。なにせ体のあちこちが痒くて仕方がないのだ。

 銭湯では湯冷めをしないようにゆっくりと体を温めてからアパートに戻り、素早く寝間着に着替えるとミーシャを片手に布団に足だけ入れて起き上がり、お握りを食べながらビールを飲んだ。我ながらだらしないとは思うのだが、この寒い部屋で少しでも灯油を節約するためには仕方がなかった。

 それにしても毎日、コンビニのお握りか弁当という食事によく耐えていられると思う。この頃はさすがにそれに飽きているが、毎日、味などどうでも良くて最低限の体力を維持するための栄養補充作業だと思って胃に流し込んでいる。たまには自分で作るか食堂に入りきちんとした食事を取りたいと思うのだが、やはり懐具合が気になって二の足を踏んでいる。 

 「1年以上過ぎたんだね」

 暗い部屋の中で、薄いカーテンから差し込む街灯の明かりに照らされて辛うじて読むことの出来る部屋の壁にかけたカレンダーを見て、紗月は刑務所から釈放されて1年以上経ったことに改めて気がついた。

 1年経ったからといって、紗月の身の上に大きな変化はない。事件を境に家族からは見放されて世間からは疎んじられるようになった冴えない中年女のままだ。

 それにしても去年はよく泣いたと思う。刑務所で指折り数えて待ち望んだ釈放が近づくにつれて釈放されて、彼女の中で釈放後の社会での暮らしを想像して不安が膨らんで、更心寮を退寮してからの日々は、その不安が的中どころではない毎日だった。だから、彼女は何度となく泣いた。

 彼女は今年も泣くことだろうと思う。

 誰かに気持ちにより添って欲しくても、誰も傍らにいないことは分かっている。だから、泣く以外に何かが出来るとは思えないのだ。

 暗い部屋のベッドの枕元においたラジオを低くかけて、紗月はおそらく来年の正月も今と同じように孤独なまま迎えることだろうと思う、そして、それは再来年も、そして、その翌年も、多分、死ぬまで冬が寒いのと同じように孤独な毎日が続くのだろう、そんな風に考えると気が滅入るが、それ以外の人生を送っている自分を思い浮かべることは出来なかった。だから、彼女は近頃、将来のことなど考えないようになった。何時、何処で野垂れ死んでも悼んでくれる人などいるはずもない女だもの、今日、明日を生きていられるなら、そのことの幸せをかみしめると良いと思うようになったのだ。思い詰めたって誰も助けてはくれないことは彼女も骨身にしみている。誰かと気持ちを通い合わせることなど夢物語だと思えば一人も辛くは無かった。ただ、気持ちは誤魔化せても空腹とかゆみは誤魔化せなかった。

 今の仕事はとりあえず4月末頃で契約期間が満了を迎える。清掃員の仕事も嫌ではないが、1日に6時間しか働けないようなパート仕事では心許ない。だから、この仕事は契約期間満了で辞めて新たに仕事先を探そうと思う。世情に通じているわけではないが、九州の一部地域では景気が良いらしいと小耳に挟むことが多い。だから、新しい職場もそこにある会社に狙いを絞ろうと思った。そこなら東京などに比べて刑務所で一緒だった誰かと会うこともないだろうと思う。

 いまさら「仕事のやりがい」だの「仕事を通しての自己実現」だのといったきれい事を本気にするほどうぶではない、仕事とは日々の糧を得るための作業なのだと胸を張って言う自信はある。ただ、今のように隣の部屋の住人が盛大に立てるいびきの音が壁を通して伝わってくるような部屋での暮らしからは脱出したかった。東京に固執する理由などないから、そして、多分、安月給の暮らしになることだろうから、物価の安い都市でもう少し良い部屋に住みたい、社会保険や雇用保険をかけて欲しい、そして、出来ればボーナスも欲しいし、病気になった時のことも考えて少しは有給休暇も欲しかった。毎日の食事を今のようにコンビニのお握りや弁当で済ませるのでは無く、自分で台所に立って自分で作りたいと思い、だから、冷蔵庫や電子レンジぐらいは揃えたい、また、時にはしゃれたレストランで好きなワインなどを飲みながら食事を楽しむくらいの余裕も欲しい、希望職種はやはり事務系だが、正直言って、それに固執する気持ちも薄らいでいた。完全歩合制の会社の営業マンなどは考えず、また、老人介護といった医療福祉分野の職場し医師だった頃のことを思い出しそうで遠慮するつもりでいるが、それ以外なら分野にかかわらずにめぼしい会社に応募しようと思うようになった。

 この頃、紗月は会社に入ることはせずに、何か秀でた技能を身につけて収入を得ることは出来ないだろうかと思い、私って本当に馬鹿なのかしらと苦笑してそのような考えを打ち消した。

 幼い頃から、画才や文才という、世間で才能と呼ばれる技芸とは全く縁が無いことは自覚していた。手先だって器用と思ったことも他人から褒められたこともない。医学生だった頃の外科の講義で、傷口の縫合実習に取り組む紗月の様子を見ていた教官が、君は外科医を目指すことは止めた方が良いようだ、と言った。万事がそんなふうなのだ。刑務所の中で懲役として6年間もミシン仕事に取り組んで、時には刑務官などから褒められたこともあったが、あれは激励やお世辞の類いだろうと紗月は思う。

 紗月は結局のところ私みたいな凡人が刑務所なんか行っちゃ駄目ってことだよねという思い、暗い部屋に置かれたベッドの上で苦笑した。

 

 その日、病院の外来受付は朝から結構な混み具合で、入院病棟には結構な数の見舞客達が訪れていた。そんななか、紗月は病室で出たゴミの入った袋をを両手に持って順番待ちの人たちで椅子が満席になるほど混み合っている外来受付の前を通るとぽんと彼女の肩を叩く人がいた。

 紗月が驚いてそちらを振り向くと50代後半と思しきパジャマ姿の女がひとり、こちらを向いて立っていた。

 「久しぶりだね、元気だったかい、524番」

 嫌な笑顔だと紗月は彼女を見て思い、そして、どこかで彼女と会ったことがあると思った。それ以上に、彼女が口にした「524番」という番号が紗月を驚かせた。

 524番という紗月が刑務所で与えられた称呼番号を知っているということは、彼女の目の前にいる女も、あの頃、刑務所にいたことになる。

 「ふーん、今は田本さんって言うんだ、松田紗月さん」

 軽蔑の気味を声に込めていう彼女に紗月は口が渇いて何も言葉を返すことが出来なかった。

 「私だよ、覚えているだろう、お前と同じ寮舎の雑居房にいた618番の三上   君代」

 そうだ、思い出した、確かに、紗月の目の前に立って嫌な笑顔で話す女は三上君代という名前だった。彼女の称呼番号まで覚えてはいないが、それでもこの顔と男と聞き間違うほどに低く太い声は、紗月の中に残っていた。

 「こんなところで、掃除のおばさんやっているなんてね、医者の免許が泣くよ、  もと松田紗月で524番だった、清掃員の田本さん」

 三上が四方八方に顔を回しながら受付中に触れ回るような大声で言い、それから満足げに微笑むと病棟の方に消えた。

 受付前に並べられた椅子に腰掛けた人たちや病院の事務局で働いている人たち、そして、そこを通りかかった看護師などの病院スタッフや入院患者達は、両手にゴミ袋を持って佇む清掃員姿の紗月に注目して、一方の紗月は呆然とする以外に何も出来なかった。

 どさっとゴミ袋が足下に落ちた音を聞いて我に返ると、紗月は何食わぬ顔でそれを再び手に持つと院内にあるゴミ収納庫まで歩いた。

 この日、彼女は先輩から言われたとおりに仕事を済ませるとアパートに引き上げた。

 彼女はアパートに戻るとダウンジャケットにジーンズのままミーシャを腕に抱えてベッドに腰掛けると、灯りをつけずに暗くなるのに任せた部屋の中で彼女自身が初めて聞くでたらめな歌を口ずさんだ。

 寒くて暗い部屋の中で、紗月の脳裏には三上君代の顔が浮かんでは消えた。

 それにしても、世の中には刑務所帰りの人が沢山いるものだとあらためて思った。去年の秋に上野公園で野宿をしていた時に刑務所で一緒だった女性とばったり行き会ってドギマギした。

 消せないことは分かっているが、せめて1日でも早く忘れてしまいたい刑務所でのことども。だから、紗月は刑務所で一緒だった誰かと2度と会いたくないと思っている。それなのに、それはまるで腕の立つ猟師のように彼女を追いかけてくる。これだから人前に出る仕事は嫌だと思い、そして、他に糧食の目処を得られそうにない我が身をわらった。

 翌朝、いつもの時間に出勤するとき、紗月は久しぶりに冷や汗にまみれながらアパートを出て病院に着くと更衣室で着替えて早速、仕事に取りかかった。

 あの三上君代のことが気になるが、よく考えると彼女が紗月の過去を吹聴するということは自分の過去を曝け出すことになる、さすがにあの三上君代でも、そのような愚行はしないだろうと思った。ともかくも、この日、彼女は一緒に働いている小母さん達や患者、そして医師や看護師と言った病院スタッフの目が気になるものだから、日頃にもまして病院の中を素早くこまめに動き回った。

 昼休みになり、いつも通り清掃員に割り当てられている更衣室ので、中に置かれた机を囲むように座って小母さん達と一緒に昼食を摂った。

 紗月はこの時間が一番好きだった。

 刑務所の中では談笑しながら楽しい食事など考えられず、更心寮を退寮してから後も一人暮らしが続いているから食事時も殆ど一人で食べることが多い。それが、この病院で働き始めてからは、同僚達と他愛も無い世間話をしながら昼食を取っている、ぼろが出ては困ると思うからほとんど聞き役になるが、それでも1人で黙々と食事を取るよりはましだった。

 紗月が所属している清掃会社から来ている清掃員は紗月以外にも女性だけで5人いた。紗月以外は皆が結婚して家庭を持っていて、それぞれに子供の教育や住宅ローンの返済、親の介護など悩みを抱えているようだった。そんな同僚達の愚痴とも自慢ともつかないような話しを聞いていると家族も考えようだわな等と思えてくる。

 いつもどおり昼休みの時間内に昼食を終え、紗月はトイレに入って用を足して洗面台で手を洗っていると一緒に働いている小母さんが隣にたった。

 「田本さん、あなた、本名は松田紗月で、刑務所に入っていたんだって?」

 言われた紗月は濡れた手を拭こうとして口にくわえたハンカチを紗月は、ぎゅっとかんだ。

 その小母さんの方に軽く顔を向けて、口をあけることはせずに作り笑顔で首を小さく横に振った。

 小母さんが言うには、紗月がこの病院で「田本なつき」として働き始めてから間もなく、親しくなった入院患者から、田本なつきという清掃員は本名を松田紗月という元女医で、6年間武州刑務所で服役していたと聞かされたという。

 どれもこれも正しいから小母さんに不快を感じはしなかったが、それにしても何故、こんなにも詳しく知られているのだろうと思い、小母さんに訊くと、三上君代があちこちで言いふらしているらしいのだ。

 紗月はその小母さんの顔を見ながら、しばらく動けなくなった。すべて周囲に知られている、何もかも、全て。

 「私、刑務所なんか行っていないですよ」

 紗月は笑いながら言い、隣にたった小母さんも

 「そうよね、田本さんがそんなはずないもんね」

 と言った。

 その小母さんが、これ内緒話だけどね、といって教えてくれたのだが、三上君代は肝臓癌が悪化して体中のあちこちに転移していて、もう長くは無いらしいのだ、小母さんがナースステーションに掃除しにいった時に看護師達の立ち話を小耳に挟んだという。

 紗月は、そうなのか、と小母さんの話に一人、合点した。

 医師時代、自分の死期を悟った患者を何人も見た。中には誰彼構わず自分の苛立ちをぶつけて束の間の憂さ晴らしをしている人間もいた。多分、三上君代もその類いの1人で、自分の余命が幾許もないことを悟ったか、或いは告知されたのかも知れない。そこに刑務所で一緒だった紗月が「田本なつき」という名前の清掃員として入ってきた。

 小母さんの話を聞いて、三上君代の顔を思い浮かべた紗月は、私をいじめたくもなるわなと妙なことで納得した。

 この日、紗月は、午後も何食わぬ顔で働いて、いつもの時間で勤務を上がると、お疲れ様でした、の一言を残して、アパートに帰った。

 いつも通り、隣の部屋の住人のいびきが聞こえて、すきま風が外の冬の寒さを遠慮無く運んでくる部屋の中にあって、紗月は寝間着にしているスエットを着るとミーシャを腕に抱いてベッドに腰掛けた。

 病院で一緒に働いている小母さんたちが知ったら紗月が殺人未遂罪で下獄したという過去を隠すために偽名を使っているということを知ったのだろうか、携帯電話からでもインターネットを利用できる今日、あの小母さんのなかの誰かが「松田紗月」と検索して、例の記事を見た時のことを思うと紗月は泣き出しそうになる。

 紗月の脳裏には三上君代の顔が浮かんでは消えた。目が細く鼻か大きくて唇が厚く顴骨が高くて、話し時は周囲をはばからずに大声で話すものだから相手は気圧されてしまう。紗月は彼女がなにをやって下獄したのかすら知らないが、ただ、同じ雑居房にいる受刑者達から恐れられていることは、見て分かった。

 もうだめだと紗月は思った。

 悔しいとは思わない、ましてや今の仕事が惜しいなどとはまるきり思わない、今は只、逃げ出すことしか思い浮かばなかった。

 翌日、紗月は朝9時きっかりに会社の事務所を訪れて一身上の都合を理由に退職を申し出た。それを聞いた会社の担当者は紗月が拍子抜けするほどあっさりとそれを受け容れた。つづいて、彼女は、今住んでいるアパートの管理会社を訪れて明日付で退居したいと申し出て、こちらもあっさりと受け容れられた。後はリサイクルショップを廻るだけだった。

 今日、紗月は夜まで部屋に戻りたくは無かった。あの部屋にいては気持ちが揺らぐような気がしたのだ。だから、彼女は日が暮れるまで新宿をうろついた。

紗月が生まれて始めて入る大きな喫茶店の目の前には新宿駅が見えた。

 横断歩道の信号が変わる度に動き出す人の群れを見て、紗月は改めて随分と沢山の人がいるものだと半ば、感心する。

 今、この瞬間に新宿に居る人達の中でどれ位の人達がしあわせでどれ位の人達がしあわせなのだろうと紗月は思う。

 幸せと不幸せなんて人それぞれだから、他人と比べることが馬鹿げていることぐらいは知っているが、ただ、行き交う人達の顔を見て、殆どが疲れたような顔をしているように見えることが、紗月には不思議だった。

 どれ位時間がたったのだろう、喫茶店をはしごするなどして時間を潰して、日がとっぷりと暮れた頃、紗月は道すがらコンビニで新聞とレターセットなどを買って、部屋に戻り、銭湯に出かけた。

 銭湯ではいつにもまして入念に体を洗った。そして、部屋に戻ると薄く化粧をして、口紅を引いた。そして、僅かな荷物をまとめて運び出しやすいようにした後、肌着とワイシャツを新しい物に着替えて例の濃紺のスーツを着ると、今日まで着ていた物は全てゴミ袋に入れて、部屋の入り口のところに置いた。

 彼女は机に向かうとレターセット一式が入った袋から取り出した封筒に縦書きで「皆様へ」と書いた。続いて、便せんを取り出すと何かを書こうとしてボールペンを持った手を止めた。

 今、何を書くべきなのだろうと紗月は思い迷った。

 書きたいことは沢山有るような気もするが、それら全てを書き表すことは出来そうに無い。

 ボールペンを握って俯いて息さえも止めている自分に気がついて、このままでは気持ちが変わると思った沙月は、万感の思いを込めて目の前に置いた便せんに縦書きで

 「遺書

  皆様へ

  お先にまいります。

  私は誰も恨んではおりません。

             松田紗月」

 と書いて、深くため息をついて、それを便せんに入れて封をして、それの上に例の囚人服で写った写真がついた運転免許証を置いた。

 彼女はしばらく微動だにせずに机に両手を置いて窓を向いた。

 全てはあの事件の夜に始まったと紗月は、今、思う。

 住んでいたマンションで夕食を作っていて誤って手の指を浅く切った時、紗月はそれまでの恨みを堪えきれなくって、その日の夜、楠田聡子を刺した。そして、法廷で何人もの傍聴人や報道関係者がいる前で全てを暴かれて、結局、懲役6年の判決を受けて下獄した。

 紗月は両手の指を見た。

 この10本の指のそれぞれの指紋は事件の夜に警察に採取された。おそらく警察のどこかの部署で記録されているはずだ。更に机の上に置いた運転免許証の住所は武州刑務所のそれが記載されている。

 明日、少ない家具を引き取りに来るリサイクルショップの店員は、私の死体を発見し警察に通報するだろう。身元不明の死体となった私は、警察署に運ばれ、多分、指紋照合を受けるか、それとも机の上に置いた運転免許証の住所がそれと知っている人がいて武州刑務所に連絡するだろう。どちらでも構わないが、少なくとも、明日、ここで発見される死体が、生前、松田紗月という名前だった女医だということは分かるはずだ。それから先がどうなるかはわからないがかまうものか。

 彼女はミーシャを見た。

 去年の6月のある日、その時に住んでいたアパートの近くの商店街にあるおもちゃ屋で買った安物の縫いぐるみ。この半年と少しの間の紗月にとって、この子は掛け替えの無い人生の相棒だった。孤独や貧乏に打ちのめされ不安に涙した時の紗月の腕の中には常にミーシャがいた、だから、彼女はミーシャを血で汚すような真似はしないと決めた。

 紗月はさきほどコンビニで買った新聞を床に広げ、そして、部屋の外にある共同流しのところに行って洗面器に水を汲んできてその上に置いて、部屋の灯りを消した。

 窓から差し込む僅かばかりの淡い月明かりに照らされた部屋は闇の中に青白かった。

 紗月は新聞紙の上に正座すると果物ナイフの鞘を取った。そして、その柄を右手で握りしめて右膝の上に置くと、暫くの間、瞑目した。

まさか元受刑者同士の三上君代と今の病院で出っ会すとは考えもしなかったが、これが私の運命さだめなのだと思うことにした。彼女が自分をいじめて、どんな利益があるのだろうと不思議に思うが、それは彼女が決めることで私が干渉することでは無いとも思う。

 釈放されてからの約4ヶ月の更心寮で暮らした日々はともかくも、そこを退寮してからの毎日は疲れるために生きたようなものだと思う。常に周囲の人が自分の過去をあげつらって笑いものにしている様な気がして仕方の無い毎日、それが一生、続くのかと思うと耐えられそうには無かったから、紗月は命を捨てることにした。

 父母兄弟親戚友人知人それぞれから我が儘勝手の誹りは免れないだろうと思う、特に事件以後でも優しく接してくれた刑務所の竹中刑務官や更心寮の増井諒順や風邪をこじらせて入院した**病院のスタッフ達には申し訳ないとも思うが、それでも尚、紗月は生きることに疲れていた。

 彼女は目の前に置いた水を満たした洗面器に左手をつけて右手に持った果物ナイフの刃をその手首に当てて、目を閉じた。

 「うっ」

 思い切り右手を動かして左手首の血管を切ると楽になることが出来ると紗月も分かっていて、だが、ためらい傷が手首に出来るだけだった。そして、しばらくして、頸動脈を切ろうとしても、同じ事だった。

 紗月は刃に少しだけ自分の血がついたナイフを傍らに置くと両手で顔を覆い、むせび泣いた。

 何がせいに自分をつなぎ止めているのかが紗月には分からなかった。

 この夜、紗月は泣き明かした。

 誰にも喜ばれない自分だと知りながらも、紗月は、死にたくないと思い泣き続けた。

そして、その翌日の昼頃のこと。

 更生保護法人更心寮の一室には松田紗月と保護司の増井諒順、この寮の五平指導総務課長がいた。

 紗月は相変わらず濃紺のスーツの上に如何にも安そうなダウンジャケットを着ただけで、諒順達はこの冬のさなかに彼女がそんな薄着で更心寮の玄関先に現れたことに驚いた。

 2人は紗月を伴って入った部屋で並んで座り、紗月が涙ながらに語ったことを聞いて、更に驚いた。

 「私、どうしたら良いのでしょうか」

 言われて諒順達は顔を見合わせて、とりあえず指導員の吉田しのぶを呼んで紗月の相手をさせることにして、職員室に戻った。

 「彼女、やせたねぇ」

 五平が、はいどうぞ、と言いながら増井諒順と偶々、職員室にいた畑井寮長の前にお茶を置いた。

 「一回り小さくなってます」

 諒順が言いながら五平を見た。

 「彼女、そうとういじめられたのね」

 畑井寮長は向かい合わせに座った諒順に言い、彼女は頷いた。

 「彼女、東京にはもう居たくないって言ってましたね」

 「分からないではないわよねぇ」

 「そうはいっても、東京以外では仕事を探すと言っても難しいだろう」

 五平が誰に言うともないように言い、この後、3人は沈黙した。

 「彼女は寮を退寮してしまっているから制度上も寮として彼女を助けることは難  しいわよね」

 「でも、このまま、彼女を放っておくことも」

 「確かにねぇ。2人とも彼女の首筋を見たでしょう」

 五平が2人を見ながら言い、

 「課長も気がつきました?」

 「ああ、あれ、ためらい傷の跡だよ」

 3人とも、今、吉田しのぶ指導員と一緒にいる紗月のことを思いうかべた。

 「それに、彼女、あんなに早口で多弁な人だったかな?」

 五平が言う疑問は他の2人も思ったことだった。

 更心寮で寮生として暮らしていた頃の松田紗月はどちらかというと大人しくて目立つことを避けている様に見えたこともある。だが、今日、更心寮を訪れた紗月は、まるで油紙に火がついた様にまくし立てていた。その様子を見た3人は何となく紗月の精神が不健康な状態にあるような気がしていた。

 「彼女、ここを出てから1人で頑張っていたようで」

 「よほど自分の過去が周囲に知られたことが堪えたのね」

 「世間はくちさがないからね、彼女はそれを真に受けてしまったんだねぇ、分か  らないでもないけどね」

 五平は諒順の隣に座ると自分で淹れたお茶を飲みながら言った。

 「でも、私は松田さんはえらいいと思うわ、だって、そうやって周囲の目をきち  んと理解して、それに逆らわずに生きていこうとしている、これって大事なこ  とよね」

 「寮長のおっしゃるとおりですけど、このままでは彼女がもたない、というか」

  3人は茶碗を手にもって沈黙した。

 「彼女が腹を割って話せる友達って、いないか」

 「彼女、お医者さんだった頃から1人で頑張る人だったみたいで。この寮でも友達は出来なかったよう  ですしね」

 「僕のように愚痴をこぼし合えるような友達が1人でもいると良かったのにね」

 五平の冗談に他の2人はくすりとした。

 このあと、3人は松田紗月の今後について話し合った。尤も、松田紗月は既に寮生ではないから寮としては何も出来ずに、誰かが個人的に彼女に力を貸すことが精一杯だった。

 「紗月さん、少し良いかしら」

 諒順が五平たちと紗月の身の振り方について話して、結論のようなものをもって紗月たちのいる部屋に部屋に入った時、幾分、落ち着いた様子の紗月は指導員のしのぶと穏やかに談笑していた。

 「しのぶちゃん、紗月さんとお話しできた?」

 「ええ、色々と。紗月さんも大変だったみたいで」

 しのぶに言われて、紗月は恥ずかしそうに俯いた。

 「ところで、紗月さん、少し時間をくれないかしら」

 「時間ですか」

 「2、3日で良いのよ、連絡を取れるようにして何処かで待っていて欲しいの。紗月さんの行き先につ  いて心当たりの所に聞いてみようと思って」

 「分かりました、よろしくお願いします」

 紗月は諒順に言われて頭を下げた。

 このあ、紗月は諒順に携帯電話の番号を言ってから、安いホテルを探すつもりだと言い置いて更心寮を出た。

 そして、その4日後の昼間のこと、都内のカプセルホテルにいた彼女の携帯電話がなり、彼女は手荷物を駅のコインロッカーに預けると急いで更心寮に向かった。

 寮では増井諒順が彼女のことを待っていた。

 「紗月さん、ちゃんとご飯食べてた?、少し心配なんだけど」

 「大丈夫ですよ、夕べはホテル近くのレストランで」

 「そう、それなら良いけどね」

 諒順と紗月はお互いに顔を見合わせながら微笑んだ。

 「それでね、紗月さん、あなたの行き先のことなんだけど」

 増井諒順たちは、あのあと、松田紗月の身の振り方について、それぞれ考えたが、よい知恵は出なかった。3人とも要は紗月の過去を紗月自身が乗り越えなければならないのだが、それは簡単ではないと言うことを確認しただけだった。

 「紗月さんは去年の5月末で寮での滞在期限も満了しているの。制度上、寮として出来ることは正直   言って何もないの。それでね、これからいうことは私  の個人的な意見というか希望として聞いて  欲しいの」

 諒順が仏門に入り本山で修行に励んでいる頃、相弟子だった渡辺順照という尼僧がいる。彼女は諒順より一回り以上も年上だが2人は妙に気が合った。その渡辺順照は今は釧路の虔陵院という寺院に住職としている。

 「渡辺さんは紗月さんのことを引き受けるって言ってくれているの」

 紗月も釧路という地名は学校で習ったことがある。だが、北海道東部にある港町という位しか知らない。

 「私、釧路に行きます、だって、このまま東京に居ても何にもなりませんから」

 紗月は諒順の言葉に間髪入れずに言い、諒順は大きく頷いた。 

 「そういってくれると私も助かるわ。今晩中に向こうには連絡しておくから、どこかで待っていてね」

 そして、それから更に2日後、松田紗月の姿は羽田空港にあった。

 「ここでお別れね」

 釧路行き飛行機の出発がアナウンスされた頃、紗月は空港まで見送りに来てくれた増井諒順と分かれた。

 「諒順さん、本当にお世話になりました。このご恩は忘れません」

「気にしないでよ、水くさいな。そんなことより釧路に行っても頑張ってね。 こうの渡辺順照って人は少しとっつきにくい所もあるけど暖かい人だからさ」

 紗月はそう言う諒順の笑顔を見て、こういう諒順さんは好きだな、と思った。すっきりとして明るく嫌らしさが微塵もない思い遣りに満ちた笑顔、彼女はその諒順の笑顔に励まされた。

 「紗月さん、一つだけ約束して欲しいの」

 「何でしょう?」

 「今も紗月さん、俯いていたでしょう。それ、止めて欲しいの、顔を上げようよ、紗月さん、綺麗なん  だからさ、勿体ないって」

 諒順の冗談まじりの励ましに紗月は思わず笑顔になり、はい、と言って頷いて、出発ゲートの中に入った。そして、手荷物検査を終えてもう一度、立ち止まって振り向くと諒順に向かって笑顔で手を振った。その時の彼女の頬には涙の跡があった。

 1年と少し前に武州刑務所を釈放されてから後、東京で暮らし続けた松田紗月という女は、今、北海道の釧路への逃避行で機上の人となった。

 その日、海に面した羽田空港に吹き付ける風は、ことのほか冷たかった。

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