第13章 縁は途切れて
松田紗月が更生保護施設更心寮に備え付けてある協力雇用主制度登録事業所名簿で探してアルバイト従業員として勤めていた会社の社長が自殺して会社の倒産が時間の問題になったものだから解雇された。挙げ句の果てに会社近くのアパートの家主から9月末日までに退居を求められて、紗月は少しばかりの家具をリサイクルショップに売ったあとアパートを出た。
初秋の日の光は夏のそれに比べると穏やかになり、町を吹き抜ける風も爽やかに感じられるようになった。そんなある日の昼近くのこと、紗月は例の濃紺のスーツを着て、熊の縫いぐるみのミーシャと僅かな着替えの入った紙バッグとリュックサックを傍らに置いて上野公園の一隅におかれたベンチにこしかけて缶ビールを飲みながら、目の前に群れ集う鳩たちを眺めている。
「住所不定、無職、松田紗月35歳ただいま参上、だね」
刑務所で一緒だった誰とも出会いたくないと思ったから西日本のどこかで働き口を見つけて、その後に住処を探すつもりでいたから職探しも不調の今、紗月は住むところも仕事もない根無し草になった。
落ちる所まで落ちた、彼女はそう思う。
彼女は8月の中頃、自分の事件がインターネットで誰にでも検索できる状態になっていることを知った。しかも自分の顔写真までがネットで公開されているのだ。そのことをインターネットカフェで知った彼女はショックのあまり冷たい夏の雨に濡れながら歩いて風邪を引いて、それがこじれて入院して生死の境をさまよう羽目になった。そして、病院から退院してアパートに戻ってから退去までの約10日間、彼女は殆ど何も出来ずに、朝、起きても肌着姿で嫌な臭いのするベッドの上で膝小僧を抱えたままめそめそして過ごした。
あのインターネットの記事がどうしても気がかりだった。
ハローワークで希望する条件に合う会社を探し当てて、履歴書を送っても、先方は自分の名前をインターネットで検索することだろうと思う。そして、そこにはご丁寧に顔写真付きで自分が起こした事件の一部始終を知ることが出来るようになっている。履歴書には当然、自分の顔写真も貼り付けるから、相手が自分の過去を知ることは容易いことなのだ。そして、縁が無かった等と言われて仕事を貰うことが出来ない、その繰り返し。
刑務所に入れられるってこういうことなんだと頭で分かっていた頃が花で、家族も仕事も一切合切を失って独りぼっちの部屋で半裸で涙する以外に何も出来ずにいると、今更ながら一生を棒に振ったという思いだけが募った。
アパートを出てから10日ばかりの間、彼女はホテル代節約のために野宿したり、24時間営業のインターネットカフェを渡り歩いたりしている。時として昼間の最高気温が25度を超える日もある頃だから凍死することはないだろう。それでも、初めて野宿して、夜通し腰掛けていたベンチで朝日に照らされて目が覚めたときに覚えた体の痛さと空腹は彼女を痛めつけた。それなりに暖かく少しは汗もかくのに風呂にも入らずにいるから体のあちこちが痒くて、それに肌着も取り替えていないから自分でもはっきりと分かるくらいに全身が臭かった。そんな自分が哀れに思えて、昨夜はベンチに腰掛でビールを飲みながら、涙した。
数日前に聞いたラジオニュースでは北海道の平地では初雪が観測されたと言う。関東平野南部の東京といえども間もなく気温が下がり始めることだろう。
こんな安物の濃紺のスーツ姿でベンチに腰掛けたまま凍死している自分を想像すると身震いする。
紗月はつくづく世間で必要とされていないと思う。
大学を卒業して医師となってから、紗月は誰からも必要とされなくなった。担当した患者には立て続けに死なれて遺族に恨まれて抗議されて、挙げ句の果てに殺されかけた。そして、今、刑務所から出て、こうして住処さえもなく野宿する羽目になった。
刑務所に行き、そこから出てきた今、それ以前の暮らしに戻ることができるとは思えなかった。
それ以前は仕事を選ぶときに少しは社会的ステータスを気にしていた。大学医学部に進んでたときも「医師」という肩書きの世間体の良さは彼女のプライドをくすぐっていた。
今、手をさしのべてくれる人などいない身で、世間体を気にして仕事を選べるほどの余裕はないということは分かっているつもりだった。
紗月は、いっそのこと風俗店で働こうかと思う。30代半ばの今、体の線は20代と比べると多少崩れてはいるが、女性らしい膨らみとくびれはあると思う。東京でなら風俗店の勤め先には困らなさそうだ。刑務所で一緒だった女性達の中には釈放後は風俗店で働くつもりだと平然と口にしていて、それを聞いた時は少し驚いたりもしたが、今、こうして公園で野宿する羽目になると仕事を選んでいる場合ではないと思うようになった。だが、いくら生活費を稼ぐためとは言っても、客となった男達の性欲の捨て場所となって汗にまみれる自分を想像するとやりきれなくなり、その考えは捨てた。
だが、ではどうするというか、自問しても答えは出ない。
このままでは日干しになるまで長くはないだろうと紗月は思う。
彼女が医学生だった頃、数年早く医師として働き始めた先輩が大学に来て一緒に酒を飲んだことがあった。その先輩達の中に女医もいて、彼女はボランティアで関東地方の某所に在る貧困層の人達の多くが住み暮らす地区で短期間、医師として活動していた。
そこの住民達は、概して外から来た人、特に医師を大切にしてくれるから身の危険を感じると言うことはなかったというが、それでも紗月からすると余りにもショックな話が彼女の口をついて出た。
凍える冬の寒さの中、そこにいる人々は暖を取るために金属製の缶に薪などを入れて燃やすが、その火との距離にも厳格な不文律があって、それを破った者には男女の別なく容赦なく暴力による制裁が加えられる、闇の世界の住人達が労働者を募っているが、少しでも割の良い仕事は取り合いになり結局、体力のない者は除け者ににされる、春以外に売る者がない女達は酒で自分をごまかして男と寝て日銭を稼ぐ云々。
乳母日傘で「正しく」育った紗月からすると、それらの話は俄には信じられなかったが、しかし、その先輩の顔と声にはその光景を目の当たりにしてきた者のもつ説得力があった。
とにかくお金を稼がないことには先輩が見た地獄を当事者として経験することになりかねない、それだけは遠慮したかった。
それにしても、事件を起こす以前は、自分が、住所不定、無職の中年女と呼ばれるようになるなんて、考えたことも無かった。そして、そうなってからも自分の何が事件前と変わったのかが分からなかった。
幼い頃から真面目が取り柄だった。全ては努力で解決すると思って勉学に励んでいた。医師だった頃は精根尽き果てるまで頑張っていた。事件後、下獄して与えられたミシン仕事だって不器用ながらも一所懸命にこなしていた。癖のある女達に囲まれた刑務所の雑居房での毎日でも、もめ事は起こさないように注意して暮らしていたつもりだ。更心寮での毎日や、そこを出てからの日々でも世間に馴染むようにひたすら腰を低くしていたと思う。
事件を起こす前のように、世間を憚ることなく働いて食い扶持を稼ぐことが許されない贅沢なのだろうか、だれても良いから教えて欲しいと思いながら俯いていると不意に涙が溢れてきて、そんな自分に慌てた彼女はビールを少しだけ飲んだ。
彼女はここで死んでしまおうかと思った。
死ねば楽になることが出来る。
彼女が医師だった頃に担当した患者で自殺者が出なかったのは幸運だったと思うが、それでも中には病気や治療薬の副作用で苦しんで、彼女に安楽死させてくれと半ば本気で頼む者もいた。まだ駆け出し医師に過ぎなかった彼女が、そんな患者達をどのように励ましたか等は今となっては何も覚えていないが、ただ、酷い無力感に苛まれたことは覚えている。
私は医師としても無力で、そして、刑務所帰りの中年女となった今でもそれは変わらないんだねと思い、再び俯いてため息をついた。そして、彼女は片方の手に缶ビールを持って、もう片方の手で首筋をなでた。
そこには頸動脈という便利なものがあった。ここをナイフで切り裂いたら、全ての悩みや苦しみから解放されて楽になることが出来る。あとは決断だけだと自分に言い聞かせた。そして、ベンチに腰掛けたまま頸動脈から吹き出した血にまみれて死んでいる自分と、面白半分で自分の遺体を見物する群衆を想像して、にやりとした。
彼女がベンチに腰掛けてぼんやりと地面を見ていると鳩が数羽、えさを求めて集まってきていた。鳩同士でいざこざがあったようで、二羽の鳩が盛んに体をぶつけ合っている。そして、その様子を眺めていると不意に鳩たちに覆い被さる黒い影が出来て、何だろうを目を上げると幼稚園児くらいの女の子がこちらを指さして笑っていた。
その時、紗月はその子をギロリと睨みつけ、睨まれた幼子は慌てた様子でどこかに行ってしまった。
今、上野公園には多くの人がいる。平日の昼間だからなのだろうが、ビジネススーツを着た男女も多く見かける。明らかに旅行客と思しき人たちもいる。容姿から外国人と分かる人たちが大勢いることも東京だからなのかもしれない。
きっとこの大勢の人たちの中に紗月と同様の刑務所帰りの人がいると思う。げんに昨日、紗月は、この公園で刑務所で一緒だった紗月と年の近い女性と偶然、行き会った。
緑色の長袖Tシャツにくたびれたジーンズをはいた彼女は俯きながら歩いてきて、そして、紗月にぶつかりそうになり顔を上げて、驚いた様子だった。紗月も彼女を見かけて驚いて、そして、お互いに何も言わずに分かれた。
考えてみると人口の多い東京で刑務所帰りの女性が東京にいても不思議はないのだ。
彼女が、松田紗月は刑務所帰り、などと吹聴するとは思えないが、それでも、紗月は在監中に同囚として知り合った誰かと二度と会いたくないと思った。
紗月の方を指さして笑っていた幼い女の子を睨みつけてから少ししてから制服を着た三十代半ばといった年格好の男性警官と大学出たてという感じの若い女の警官が紗月のところに来て
「警視庁ですけど、どうされました」
と聞いてきた。
どうした、も何もアルバイト先が倒産して挙げ句の果てにアパートも追い出されたものだから野宿しているだけだ。
「私、なにもしてませんけど」
昼間だというのに片方の手に缶ビールをもって、涙の跡がはっきりと頬に残っている彼女を警官達は二人して満面の笑顔で紗月を見つめ、彼女は眉間に皺を寄せて言い返した。
「ここ、最近、盗みに会う人が多いから気をつけた方が良いですよ」
そういいながら男性の警官は紗月がベンチの傍らに置いた紙バックに目を遣り、女の警官は紗月が片手に持った缶ビールを見逃さなかった。そして、その女性警官の背中越しに、さきほど紗月を指さして笑った子とその母親と思しき若い女性が手をつないでこちらを見ている様子が見えた。
「私、逮捕されるのですか?」
紗月はベンチに腰掛けたまま男の警官を見上げながら言った。
「逮捕されるようなことでもしたんですか」
「ここでこうしてビールを飲んでいただけです」
紗月はふて腐れて答えた。
「人の迷惑にならなければ警察は何もしません。ただ、お姉さんのことを悪く言 う人もいるかと思って」
紗月は、男性の警察官のいうことに吹き出しそうになったがこらえて、
「私、行って良いですか」
とけんか腰に聞き、聞かれた方は
「結構ですよ、気をつけて」
と言った。
紗月はリュックを背負うと脇に置いていた紙袋をもって何も言わずに彼らの前から去った。
いくあてなどない彼女だが、とりあえず上野駅のコインロッカーに財布以外は全て預けて身軽になると駅構内を少しばかりうろついた。そして、トイレに立ち寄り洗面台の鏡に写った自分の顔を見て、その老けた顔に思わず息をのんだ。
考えてみると先月の末頃に病院を退院してから以降、化粧をしたこともなく髪も手ぐしで済ませている。
さえない中年女だとは知っているが、今の自分が余りにも不憫に思えてきた。
しばらくの間、鏡をのぞき込んでいると人が来たので、彼女はそこを出た。そして、自分の体が臭いことは気にせずに、とりあえずハローワークに行くことにした。
上野駅から一番近いハローワークで、慣れた手つきで求人情報を閲覧していると一つの会社に目がとまった。
それは東京都内に本社を置いた貿易会社だった。といっても自ら「ベンチャー企業」と言うくらいだから設立間もない会社だが、一応学歴年齢性別不問、ただ、採用条件で「英語が出来る方を希望」とある。紗月は医学生時代から英語は得意だったから何とかなるだろうと思えたし、何よりも「1年間働いた方には状況により正社員登用もあります」とある特記事項に惹かれた。
資料には電話は午前中のみ受付とあるので、あす電話することにして、今日は取り敢えず、ホテルに泊まろうと思い椅子を立った。
紗月はふと自分の外見が気になった。
こんな髪では折角の面接で相手に好印象を持ってもらうことは出来ないと思い、奮発して美容室に行くことにした。そして、その前に今夜、泊まるホテルを探した。こんな臭い体のまま美容室には行きたくないから、そこでシャワーでも浴びることにした。
その翌々日のこと。
一昨日、ハローワークの資料で見つけた会社には昨日の午前中に電話した。電話の相手は好感の持てる声をしていて紗月は安心した。そして、今、紗月はその会社のオフィスが入ったビルの前にいる。
昨日、美容室にいき久しぶりに髪をセットしてもらい、その足で履歴書に貼る写真を撮ってもらうために写真スタジオに行き、そして、早めにホテルに入り心を込めて履歴書を書いた。それには最終学歴もきちんと河北大学卒業と書いた。そして、両親は確かめてもいないのに死没したことにするなど所々、嘘も交えた。
紗月は、このとき、履歴書に本名を書いた。むろん、相手がインターネットで名前を検索することを考えなかった訳ではない。ただ、今まで紗月の採用を断った会社は全て履歴書を見ただけで判断していた。今度の会社は、担当者が直接、会って話しを聞いてくれるという。
紗月にしても面接だから大丈夫とは考えない。ただ、仕事が欲しい、それも事務仕事に就きたいという思いを履歴書だけで伝える自信がなかった。ダメ元で、とりあえず担当者に直接、会える会社に希望を見いだしたかった。
ビルの入り口の壁に付けられた入居テナント一覧表で目的の貿易会社を確かめるとエレベーターでそこに向かい、そして、受付で紗月が
「失礼します」
と入り口で礼儀正しく言うと、近くに座った紗月よりは大分、若い感じの女性が立ち上がってこちらに来た。
「どちら様でしょうか」
「昨日、アルバイトの面接をお願いしておりました松田紗月と申しますが。担 当の高野さんという方にお取り次ぎいただきたいのですが」
「分かりました、少々、お待ち下さいませ」
彼女がオフィスの何処かに生き、紗月と同い年ぐらいの女性とやってきた。
「昨日お電話いただいた松田さんですね、私、高野からアルバイトの方の面接 をするように言われている管理部長の吉川と申します」
ベージュのレディースシャツの上にグレーのビジネススーツを着た快活そうな細身の女性は紗月を見つめて眉間にしわを寄せて立ち止まり、紗月も彼女を見て息をのんだ。
吉川管理部長は、こちらへどうぞ、と紗月を促すと衝立で仕切られたて周囲からは見えなくなっている窓側の一角に彼女を案内した。
吉川はそこに入ると自分は応接セットのソファに腰掛け、立ったままでいる紗月に椅子を勧めた。
「お久しぶりです、松田さん」
「吉川さんもお元気そうで」
それきり、2人とも俯き加減になり黙り込んでしまった。
この会社のアルバイト採用面接担当だと言って紗月の前に現れた女性を紗月は知っていた。
紗月は大学性だった6年間は女子寮で暮らしていたが、彼女が吉川さんと呼んだ吉川加奈も同じ女子寮に住んで学部は異なるが同じ河北大学で学んでいた。2人は一般教養課程の幾つかの授業で一緒だったこともありそれなりに親しくなった。吉川加奈は他の学部と同じように4年間で大学を卒業して就職して、紗月は医学部生だからさらに2年間を寮で暮らした。加奈が就職のために東京に引っ越すことになった時、親しかった寮仲間達と仙台市内でささやかなお別れ会が開かれて、そのメンバーの中に紗月もいた。
「10年以上、会ってませんよね」
紗月は加奈に言われて俯いたままこくりと頷いた。
「まさか、ここで貴方に会うなんてね」
加奈が目の前で緊張しきって俯いている紗月を見つめながら言い、それきり黙ってしまった。
紗月は釈放されから今日まで自分が刑務所帰りと世間に知られることを極度に恐れてきたが、今、こうして思いもしなかった吉川加奈と再会をはたして、紗月はつくづく世間は狭いと思った。そして、彼女は吉川加奈を目の前にして、大学で医学を学んでいた日々を思い出した。
灰色の受験生生活を終えて、無事、第一志望だった河北大学医学部に合格した時の紗月は開放感に包まれていた。見るもの聞くもの全てが新しくて楽しかった。20歳前だというのに酒を覚えて、女子寮で出来た友達に誘われて出た男子学生との合コンの席で酒を飲み過ぎて半ば失神して、慌てた他の出席者が呼んだ救急車で病院に運ばれて、おかけで秋田の両親に全てが知られてしまい、母から大目玉を貰った。異性とも直ぐに親しくなり、大学1年生の時にアルバイト先のコンビニで一緒だった同じ大学の1つ上の学生といい仲になり、間もなく処女を失った。
今の境遇と比べると光り輝くばかりの毎日だった。
「なんで、貴方がここにいるの?」
沈黙にたまりかねた紗月が俯いて加奈を見ないままで言った。
「ここは私の主人が友達と作った会社なの、私も管理部長という肩書きで参加 していてね。仕事は専ら事務仕事なんだけどアルバイトの人の採用などは任 されているのよ。」
加奈に言われて紗月は無言で頷いた。
「あなたこそ、どうしてうちの会社に?」
「ハローワークでここの求人を見たの。私ね、失業しているの」
「私はこの会社では管理部長と言うことになっているけど要は経理全般と貿易 会社だから英語と日本語の翻訳を担当しているの。語学は大学時代から得意 だったしね。実は、私、間もなく産休に入るの、初産でね、楽しみだけど不 安もあるわ。それで、私の穴を埋めてくれそうな人を探しているって訳なの。 私の穴埋めだから、とりあえず来た人の一次面接は私が受け持つことになっ たの」
学生時代と変わらない快活な表情をした加奈は紗月を見つめながらいった。そんな加奈と向き合いながら、紗月は武州刑務所を釈放されてからの日々のことをかいつまんで加奈に言い、加奈は眉一つ動かすこと無く紗月の話しを聞いた。
「苦労してるんだね」
「うん。全部、自業自得だけどね。インターネットに事件のことがでているせ いで働き口がなくて」
それきり紗月は俯いたまま何も言うことは出来ずに、加奈は目の前にテーブルに置かれた紗月の履歴書に目を通した。
「秋田のご両親は亡くなっていると書かれているけど。これは?」
「本当言うと分からないんですよ、ただ、私が刑務所の中から手紙を何通も書 いても1回も返事が来なかったから、それで」
加奈は紗月を見て頷いた。
「確かに貴方のご家族も大変だったものね。週刊誌にも色々と書かれていたし」 「そのことは刑務所にいたときに少しは聞きました」
「あの手の週刊誌って直ぐに「関係者の証言」として色々と書くよね、でも、 そんな記事はほとんど信用できないよ、だって、貴方が事件を起こして1週 間後に発売された東京の週刊誌の記者が仙台市民の中で貴方と関係している 人を探し出すなんてできるわけないじゃない。もし出来たとしたら、河北大 病院の人達は皆、血も涙もないってことになるよ」
「そんなに色々と書かれていたのですか?」
「貴方が酷いワガママだったとか、とにかく男好きで下半身がだらしなかった とか、親が地方の小金持ちで金遣いが荒かったとか、私が知っている貴方と は全くかけ離れたことばかり書いていた。それに、どこからか貴方の高校の 卒業アルバムを探し出してきて、それに載せられた貴方の顔写真を載せたも のもあったな。テレビのワイドショーでも取り上げられて、芸能人が適当な こと言ったりしていたし」
「私、そんなだらしない女ではありません」
紗月は余りのことに涙を流しそうになりながら弁解するように言った。
「私もそう思いますよ、大学生だった頃の貴方は大人しくてまじめだった。時 々は皆と一緒になって馬鹿なこともしたかしれないけど週刊誌にあんなこと 書かれるような人ではなかったよ」
加奈は紗月の事件を取り扱った週刊誌の記事などのことになると興奮した様子で語り、それが終わると二人は再び黙り込んでしまった。
「私を雇ってもらえませんか?」
幾分、開き直った紗月は直截に加奈に言い、言われた加奈は紗月と同じように俯いて黙り込んだ。
「一生懸命働きますから」
紗月は食い扶持を手に入れたい一心で加奈に返答を促した。
「刑務所にいた人って、法務省で仕事を斡旋してくれるってテレビで見たこと があるよ」
加奈は俯いて床を見つめたままいい、俯いていた紗月は思わず顔を上げて彼女を見つめた。
「斡旋て言うほどじゃないんです、ただ、法務省に登録した会社を紹介してく れるって言うだけで、それだって雇ってもらえるかどうかは分からなくて。 私が3月末から7月一杯まで勤めていた会社もそうやって探した会社だった けど。」
「この履歴書には簿記検定2級を持っていると書いてあるけど、これは何時取 ったの?」
「さっきもいったけど刑務所を出てから身柄を預かってもらった施設で勉強し たの。今も別の資格試験の勉強をしています」
「それって事務系の仕事に就きたいっていう熱意のあらわれだよね、私なら、 そう取るな」
「だから、こうして、貴方の会社に雇って貰おうと」
紗月は加奈の気持ちに気がついて落胆して、再び俯いた。
「ごめん、紗月、私、貴方にうちの会社に来て下さいとは言えないよ」
加奈は紗月を真っ直ぐに見つめながら言った。
「紗月、私は貴方が良い人だって知っているよ。でも、たとえアルバイトでも 殺人未遂罪を犯した人を雇おうなんて会社の他の人には言えないよ」
加奈は俯いて小声で言い、それを聞いた紗月は危うく落涙しそうになった。
「この会社の社長は私の主人なの。貴方は知らないと思うけど私と彼は大学の 学部が同じでね、私たち大学生の頃からつきあってたの。彼と私は同じ会社 に就職したの。私の実家の親は都の職員でね、私は一人娘なのよ、それで私 たちが結婚するときに家の親は彼が婿養子になることを条件にしたの。彼は 三男だったから割とすんなり決まったわ」
学生時代から加奈の夫はいずれは独立して会社を興したいと言っていて、それも承知の上で結婚した加奈は、だから、彼がそれまで勤めていた会社を辞めると言い出したときも反対はしなかった。
加奈の夫は持ち前の才覚を発揮して会社も順調に滑り出した。しかし、今から4年前の秋口のこと、会社に取って主要な取引先の会社の社長が密輸と脱税で逮捕された。それだけならありふれた事件に過ぎなかったのだが、その社長と加奈の夫が酒席を共にしている写真が週刊誌に掲載されてしまった。しかも何故か加奈の夫がはっきりと分かるように載っていた。
設立間もない会社はどうしても資金繰りが厳しくなりやすいが、加奈達の会社も例外ではなかった。加奈の夫は、その週刊誌の発売された翌日、記事を見た取引銀行の担当者に呼び出された。そして、指定した期日までに銀行側が要求した書類を揃えて提出しない場合は資金の引き上げもあり得ると半ば恫喝された。
加奈の両親は加奈の夫が独立して会社を始めることに批判的で、遠回しに加奈にそのことを伝えてもいた。また、加奈の夫は開業資金として実家の親兄弟からも借金していた。そこに週刊誌の件が持ち上がって、双方の家族から詰問されたり嫌みを言われたりして加奈達はさらに憔悴した。加奈の夫は弁護士を通じて当の週刊誌の出版社に抗議したが、相手は表現の自由を盾に取り合おうとしなかった。
加奈の夫はともかくも他の得意先への挨拶回りやその逮捕された社長の会社との取引の精算、そして銀行から言われた書類の準備などのために不眠不休で働いて、どうにか資金の引き上げは免て会社も傾かずにすんだ。
加奈は夫と始めたこの会社が迎えた危機について言い、最後に
「これまでの人生の中で、あの時ほど世間の冷たさと恐ろしさを意識したこ とはなかったわ」
と付け加えることを忘れなかった。
「うちのような中小企業は世間に睨まれたらやっていけないのよ。貴方には悪 いけどうちの会社の社員に殺人未遂事件を起こした人がいるなんて噂が立っ て、それで他の社員まで疑われたら困るのよ。」
紗月を見つめて加奈は眉間にしわを寄せながら決然とした口調で言い、言われた紗月は俯くしかなかった。
二人の間を気まずい沈黙が支配した。
紗月はそれでも何とかして雇って貰うために食い下がろうかとも思ったが、出来ずにいて、そんな自分にいらだった。
「紗月ならきっとうちよりも良いところが見つかるよ」
満面の作り笑顔で加奈が不意に言い、それを聞いた紗月は全てを悟った。
「ごめんね、加奈さん、余計な手間を取らせて。私、諦めます」
紗月は嫌みをこめたつもりで言ったが、加奈は大きく頷くだけだった。
このとき、紗月は自分でも不思議なほど落ち着いていた。
紗月が知る吉川加奈は時々は馬鹿なこともしたが、それでも常識人だった。今、紗月に門を閉ざしたことも常識の範囲だろうと思うのだ。
「では失礼します。色々とお世話になりました」
これ以上、ここにいても何も得るものはないと思った紗月は礼儀正しく加奈に言うと席を立ち、加奈は
「どこか良いところがあるとよいですね」
と言った。そして、紗月と一緒にエレベーターに乗って1階に降りた。
「では、ここでお別れね、元気出してね、貴方ならきっと良い勤め先が見つか りますよ」
「ありがとう。加奈さん、貴方もお元気でね」
会社が入居しているビルの外まで見送りに出た加奈は紗月に言い、紗月は加奈の足下あたりを見ながら言った。そして、少し歩いて立ち止まると急に振り返り加奈のところに行って
「吉川さん、一つお願いがあるの、聞いてくれる?」
と言った。
「お願いって、なに?」
「私が刑務所から出てきたことも、今日、私がここに来たことも誰にも言わな いで欲しいの、いいでしょう?」
「わかったわ、誰にも言わないから安心して」
加奈は紗月を見つめながら言い、紗月は彼女の目に侮蔑の色があることを見逃さなかった。
そして、この日の午後8時を少し過ぎた頃、あの後、東京のどこを歩いたかも思い出せないまま、彼女は上野駅近くのホテルの一室にいた。
紗月は部屋に入るとミーシャの入った紙袋とリュックサックを床に放り投げて、濃紺のスーツを着たままベッドに上がって横になり、そして、上着を脱いで傍らに置き、ウエストを緩めると太ももが出るくらいまで下げてから大きくため息をついた。
昼間の緊張がとけたせいか体中が怠く呼吸することからも億劫になりそうだった。食欲などあるはずもなくシャワーを浴びてすっきりすることなど思いもつかなかった。
紗月は、背中でベッドの上で大の字になると今日の昼間に会った時の吉川加奈の驚いた顔を思い出して、苦笑した。
いくら大学生だった頃に同じ女子寮で暮らした気の合う友人同士だった間柄とはいっても殺人未遂罪を犯して刑務所に入れられていた女が何の前触れも無くひょっこり目の前に現れて仕事を下さいといったら、驚くに決まっているとと思う。
紗月にしてもアルバイトで働くことを拒まれたからと言って吉川加奈を恨むつもりなど無かった。彼女の言うとおり誰だって自分が経営陣として参画する会社に悪い噂の立つことは避けたいだろう。
前に勤めていた会社を解雇されてからの仕事探しで、履歴書を送った会社からは全部、断られた。皆、彼女の起こした事件をインターネットで調べたようなのだ。そして、今日、生き生きとしてやましいことは一切無く暮らしていたいた学生時代の自分を知っている人に会っても結論は殺人未遂罪で逮捕されたことのある人間は世間体が気になるからいらないというものだった。
紗月にしても、これからの人生が夢と希望にあふれた笑いの絶えない時間になるなどとは思っていない。在監中から釈放後、寂しく厳しい暮らし向きになることは何となく思い浮かべて、全て自業自得だよと自分に言い聞かせてもいた。だから、夢や希望を実現するために力を貸して欲しいというのではない、ただ糧食の目処が欲しいだけなのだ。そう思うことすらも世間は許してはくれないのだろうか。
私は世間からも家族からも、周囲の全てから一生、罰せられ続けるんだねと思うと涙がこみ上げてきて、だから、彼女はベッドの上で泣き続けた。
「誰か、少しで良いから優しくしてよ」
その時、彼女は小声で呟いた。
そして、彼女が吉川加奈が役員をつとめる会社でのアルバイト採用を断られてから数日たったころのこと、ホテル代を節約するために上野駅近くのインターネットカフェで仮眠したりする暮らしを繰り返していた頃のこと、上野駅の待合室で時間をつぶしていると例の濃紺のスーツの上着の内ポケットに入れた携帯電話が鳴った。
相手は、紗月が以前、「田本なつき」の偽名で履歴書だけを出した清掃会社の担当者だった。相手はどこも決まっていなければ明日午前中に会いたいという。
彼女に「断る」という選択肢は無かった。
取り敢えずその日の夜はホテルに泊まって臭くなった体をシャワーで洗うことにして、翌朝、そこをチェックアウトするとミーシャの入った紙バックとリュックを駅のコインロッカーに預けて、昨日、電話を寄越した会社に向かった。
それは新宿駅の近くのテナントビルに入居していた。
その事務所に入ると、四角い顔に四角い髪型をした、如何にも嫌みな人柄を滲ませている胸に会社名の縫い取りの入った作業服の上下を着た男が、挨拶もそこそこも紗月を応接セットのソファに座らせた。
彼は紗月が送った履歴書を斜め読みしながら仕事の内容などを話した。それによるとパートで時給1,000円、一日6時間勤務で超過勤務はない。パートだから雇用保険や社会保険はなく、手当もない、雇用期間は原則として10月下旬から半年だが、これは契約期間であって更新もあり得る。勤務場所は会社の指示に従って貰う云々。
紗月は覚悟を決め、即座に
「よろしくお願いします」
と相手に向かい頭を下げた。
話の間中、紗月を見下した心中を露骨に現していた会社の男は、上唇の片方だけを持ち上げた嫌な笑い方をすると
「じゃ、ここにサインして。判子はこの次でも良いよ」
と言い、勤務場所はこの会社の事務所の近くが多いが最初は関東医大付属東京第一病院に行ってもらうから、と言葉を継いだ。
後から言われても嫌だと思い紗月は給料の受け取り方法について聞いた。
「うちは全部、取引銀行の口座振り込みにしてるよ、口座が無ければ改めて作っ てよ」
「あの、私、口座の名義は別人のものになると思うのですが」
その男は眼鏡のそこから冷たい光に満ちた目で彼女を見た。
「あんたもか」
男は紗月を小馬鹿にしたように笑いながら言った。
「今は辞めちまったけど、前にウチにいたあんたと同じくらいの年の女の人がD Vの亭主から逃げて東京に来たとかでウチでは本名を名乗らなかったんだ。現 場の小母さんたちも偽名の方を信じてた。たしか四国の何処かの出身って話だ ったな、あの人。あんたもそのクチなんだろう、いいよ、名前の件は好きにし な、履歴書の名前を名乗ってもいいよ、タイムカードもそれで作るから。」
勝手に勘違いした男はそう言いながらさも大儀そうにソファから立ち上がった。
これで、紗月は「田本なつき」として働くことが出来る、本名を限られた範囲の人たちにしか知られずに。
その男性との話を終えると彼女は今朝、荷物をコインロッカーに預けた駅に行き、ミーシャの入った紙袋とリュックサックを取り出し、新宿に戻り部屋探しにかかった。この時も会社の助力など期待できずに、文字通り適当に不動産屋をあたり適当に決めてしまった。
案内された物件は築後40年で6畳一間でで風呂無し、トイレと台所は共同という1ヶ月4万円の部屋。前の会社に勤めていた頃と殆ど変わらない条件の部屋だが、他に選んでいる暇も無く銭湯が近いことも好都合だったのでここに決めて、その日のうちに家主との契約や新しい住所での住民登録等を終えた。
翌日の夕方、昨日買った、中古品のベッド、小さな冷蔵庫が運び入れられた6畳一間の部屋で、彼女はベッドに腰掛けるとぼんやりしていた。
清掃員の仕事など生まれて初めてだが、自分に出来るのだろうとか不安になるが、最早、四の五の言っている余裕は無かった。
翌日からの清掃員としての仕事で、毎月約13万円がもらえるはずで、ただし、雇用期間は来年の4月末頃で終わるから、それまで少しでも貯金をふやさないことには、再び、糧秣払底を懸念しながら心休まらない日々を送ることになりかねない。
耳を澄ますと夕闇に包まれた外の世界を行き交う人々の声がまばらに聞こえる部屋で、彼女は清掃会社に決まってからこれまでの間にやり残したことがないか考えた。
全てを独りでやり終えた、世間で暮らしていくための作業は一人で出来た。
紗月は灯りを点けずに部屋の真ん中に佇んで、何も希望の持てない日々なのに一人で頑張っている自分が不憫に思えて、ため息をついた。




