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さなぎたに1人  作者: きたお
12/30

第12章 全て1人で

その時、紗月の目の前に置かれたベッドには1人の若い女性が寝ていた。彼女は口にマスクを当てられたまま眉間にしわを寄せて苦しそうに息をしていた。

 紗月はその女性の顔に見覚えがあるような気がしたが名前を思い出すことが出来なかった。

 「お前は何をやったんだ!」

 紗月とベッドを挟んで向かい合った幾分年上の白衣をきた男が睨みながら語気鋭く彼女に言った。

 「私は、医局のカンファレンスで出た方針に従って治療していました」

 「嘘をつくな、それが本当なら患者はこんなことにはならないはずだ」

 「そんな、私は本当に方針通りに、医学的にも正しいと思ったし」

 紗月はべそをかきながら、それでも男に反論した。

 「うるさい、黙れ、お前のような藪医者に用はない、おい、へパリンの準備だ」

 「これ以上のへパリン投与は危険です!」

 「は?」

紗月は夢を見ていて、自分が何を口走ったのかも分からなかった。その時、偶然、彼女の枕元にいた中年の女性看護師は紗月の言葉を聞いて、5日前の夜に高熱を発しタクシーで「急患です」と自ら言いながらこの病院に乗り付た女性の意識が回復したと思い、ナースコールを押して

「ICUの松田紗月さん、目が覚めました」

 と天井のスピーカー兼マイクに向かって言い、紗月に向かって

「大丈夫ですからね、安心して下さいね」

と優しい声をかけた。

 すぐさま、上下の白のスクラブの上にさらに白衣をきた、年の頃なら紗月と同い年ぐらいの男性医師がやってきた。

「分かりますか、松田さん」

 紗月はしばらく何も答えることが出来なかった。

 目を開けたまま、無言でふぬけたような顔をしている紗月を見て不安になった医師は

「分かりますか、松田さん、もう安心して下さい、ここは病院ですよ」

 と言った。

 「病院?」

僅かに顔をベッド脇に立つ医師の方に向けて紗月は呟くように言った。

「ここは、**病院です。大変でしたね、松田さん」

 優しい人柄そのままの声と顔の医師は、穏やかな笑顔でそう言った。

「今、松田さんはICUにいます。症状が治まったら一般病棟に移りましょうね」

 医師の声を紗月は上の空で聞いていた。

「どこが辛いですか」

 紗月は、辛い、という言葉の意味をしばらく、考えた。そして、

「頭痛が、酷くて」

 と天井を見上げたまま答えた。

「呼吸は苦しくありませんか」

「少しだけ」

 医師は紗月の言葉に笑顔で頷いた。

「あの、今、何時ですか」

医師は紗月に言われて壁に掛けられた時計を見て

「午後1時を少し過ぎています」

と言った。

「しばらく、寝て良いですか?」

医師に紗月は問いかけた。

「ええ、お休み下さい」

 医師に言われて紗月は目を閉じた。

 医師と看護師がベッドの周りで小声で交わした会話の内容など紗月には聞き取ることが出来なかった。

 「良かった、私は、助かった」

 彼女はそう思うと、再び、眠りに落ちた。

翌朝、彼女は、一瞬、あの世に来てしまったのかと思ったほどすがすがしい目覚めだった。そして、自分のベッドの周りを見てぎょっとなった。

 なによりも紗月は自分がアパートの部屋にいると思い込んでいたから、口に付けられた酸素マスク、ベッドの周りに置かれた彼女の身体データをモニターするための機器やキャスター付き点滴棒に吊された点滴液パック、そしてそれらから腕や鼻に伸びる管などをみると不思議で仕方がない。

 「松田さん、気がつかれましたか、おむつ、新しいものと取り替えますね」

 髪は黒いがアイドルでも十分通用しそうな可愛らしい顔をした紗月より年下の看護師がそう言いながら、手にそれをもち近づいて来た。

 この時、紗月は初めて自分がおむつをあてられていることに気がついた。

 2人ひと組でやってきた看護師は手早く作業を終えるとベッドの側を離れて、それと入れ替わりに、年の頃なら40歳代半ばと言った感じの小太りで背の低い白衣を着た男性が寄ってきた。

 「気がつかれましたか、松田さん」

 言われて紗月は無言で頷いた。

 「ご気分は如何ですか」

 「ありがとうございます、大分、楽になりました」

 酸素マスクの下から紗月は医師に礼を言った。

 「よかった、一時は我々も緊張しましたから」

 紗月の寝ているベッドの脇に立った医師は暖かい人柄そのままといった笑顔を彼女に向けた。

 「あの、私、ここにどうやって来たのでしょうか、全然、自分では思い出すこと  が出来なくて」

 「5日前の夜中にタクシーで見えられたとその日の当直だった者に聞きました。  なんでも、タクシーの運転手さんに担がれて降りてきたって」

 紗月は全く思い出すことが出来ない。 

「ありがとうございます、助けていただいて。」

 「良かったですね、良くなって。詳しいことは後からお話ししますが、松田さん  は肺炎と心膜炎という病気でした。一時は特に心膜炎が悪化していたんですよ」

 心臓は筋肉の塊でその外側を薄い膜が覆っていて、この膜を心膜と呼ぶが、紗月は肺と同時に心膜まで炎症を起こしていたという。

 「検査のデータでは山場は越えたようですね、あと2,3日もしたらここから一  般病棟に行けるでしょう。」

 「ありがとうございます」

 礼を言った紗月に医師は笑顔で頷いた。

結局、紗月は入院から丁度10日目でICUを出て一般病棟に移った。

 紗月が入った6人部屋は満床で皆が病み衰えているせいもあり、皆、大人しく終始和やかな雰囲気だった。

 紗月は壁側に頭を向けて三つ並べられたベッドのうち真ん中のベッドを割り当てられて、廊下側には品の良さそうな老婦人がいて、窓側のベッドには紗月より若い女の子が寝ていた。

 自分がこの病院に着いた時の様子を看護師から聞かされた時、紗月は耳まで赤くなった。その時の彼女は到着後、間もなく気を失って、ついでに失禁、脱糞までしてしまい着ていたTシャツやジャージのズボンなどは全て処分されたのだった。

だから、ICUからこの病室に移されたとき、看護師に病衣の貸し出しを申し込み、車いすに乗せて貰って大急ぎで売店に行き肌着を買った。 

 二、三日するうちに、隣のベッドに寝ている若い女性と紗月は少しずつ話すようになった。ある夜、紗月が悪い夢を見てうなされて、自分の出した声で目が覚めた。その翌朝、紗月が前夜のことを詫びると彼女は気がつかなかったと笑顔で答えてくれたのが嬉しかった。

 紗月は口を滑られて他人に過去が知られることを避けようとして、もっぱら話しの聞き役に回ることが多かった。何かの拍子に相手が饒舌になった時も紗月はベッドの上に体を起こして笑顔で聞いて頷くだけだったが、その控えめな挙措を周囲は好感している様子だった。

 それにしても患者がこんなにも暇だとは驚いた。

 医師だった頃、医師と患者は協力して患者の病気と闘っている、だから医師は気も手も抜くなと叩き込まれて、目の回るような忙しさの中にあっても患者には「戦友」として接することを心がけていたが、実際に入院患者になってみると3食昼寝付きの結構なご身分とすら思えた。

 この病室に移ってから3日ほどして、病衣姿の紗月は看護師が押す車い椅子に乗せられて外来に行った。

 「松田さん、その後、いかがですか」

 外来診察室ではICUで紗月を診察した中年で小太りの医師が紗月と向かい合わせになって笑顔で言い、紗月は

 「おかげで大分、楽になりました」

と笑顔で答えた。

 彼は机の上に置かれた紗月の検査結果が記入された用紙を見つめて、一方の紗月は彼の机の上にある読影台に付けられた自身の胸などを撮影した数枚のレントゲン写真を見つめた。

 「血液検査の結果ですが、肺の機能が思っていたより回復が遅れていますね。心  臓にも気になる数値が検出されています。いますぐ大騒ぎすることはありませ  んが、もうしばらく入院が必要ですね。それに、肝臓にも一部、気になる数値  が見られます。松田さん?」

 医師は読影台のレントゲン写真を見つめたまま上の空の様子の紗月を見て声をかけ、呼ばれて彼女は我に返った。

 「入院の時に取られた血液検査のデータは本当に危険な状態だということをあら  わしていました。このレントゲン写真は昨日撮られたものです。肺の炎症は大  分、治まっています、ただ、血液検査のデータを見るとガス交換機能が基準よ  り少し低くなっていますね、肺も疲れているのかな、それにレントゲンを見る  と心膜が弱ったままです、まあ、あれだけ激しい症状が出た後ですから当然と  いうと当然なのですが」

 レントゲン写真を見つめたまま動かなくっている紗月を見た医師はボールペンでそれらの特徴を指しながら説明した。紗月も元医師だから彼に言われるまでもなく自分の体がかなり危険だったということは分かるのだが、もちろん、それを口にするようなことはなかった。

 「ところで、松田さん、血液検査が栄養失調と肝機能障害の可能性を示唆います  が、きちんと食事をとられていましたか?」

 医師は依然として笑顔で紗月を見ながらいい、言われた紗月は赤面して少し俯いた。

 「忙しかったりして、不規則だったかもしれません」

 「お忙しいことは分かりますが、やはり食事は栄養バランスに気をつけながらき  ちんと取らないといけませんよ。今回の病気だって体力の低下しているところ  に病気がつけ込んで悪化したとも言えるのですから」

  医師からやんわりと注意されて、紗月は思い当たる節ばかりなだけに無言で俯くしか無かった。

 一般病棟での日々で紗月は、たまにはこんな暮らしも悪くないと思いながらベッドに横になり続けた。なにせ1日に1回の点滴以外は3度の食事の後の服薬以外に治療らしい治療も無く、天井を見上げながら寝ている以外に何もすることがないのだ。体がだるいことが気になるが肝機能の低下を主治医から聞かされていたから、そのせいだろうと割り切った。ただ、見舞客が誰1人として来ないことが彼女を落ち込ませた。

 同じ病室の患者達の許には常に誰か彼か見舞客がある。紗月の隣のベッドに寝ている年下の女性は九州の何処かの出身のようで、その両親と思われる男女が殆ど毎日、見舞いに来ていて、周囲に気兼ねした娘が遠慮がちに断っていた。また、やはり同じ病室に入院している女性には家族がいて、夫と思われる男性やセーラー服姿の女の子、そして、まだ小学生と思われる男の子達が連れだって、あるいは代わる代わるに見舞いに訪れていた。紗月と同じ並びで廊下側のベッドに寝ている品の良い老婦人の許にもほぼ毎日、杖をついてきちんとした身なりの男性が見舞いに来ている。2人が長年連れ添った夫婦であることは聞くともなしに聞こえてきた2人の話しでわかるのだが、夫が見舞いにきて妻の横に置かれた椅子に腰掛けると短い挨拶程度の話しをして、それから後は2人は黙ってしまうのだった。はじめのうちは互いに黙り込んでいる2人を不思議に思ったが、そのうち、2人の間に柔らかい空気があることに気がついて、羨ましくなった。

 そんな同室の患者達の様子を見るに付け、紗月は、私には誰もお見舞いに来てくれないんだね、と胸中で呟いた。

 見栄や体裁など考えないが、紗月は寂しかった。そして、入院してから2週間ほどたった頃、とうとう彼女は病院内の公衆電話の前に立った。

 私だって誰かに優しくして欲しいと思う。病院スタッフの誰かの仕事ぶりに不満があるわけではない、ただ、紗月は医師だった経験がそうさせるのか、どうしても彼らの心底を疑ってしまう。そうではなくて、何も言わないでも心が通じ合うような間柄の人達のぬくもりが欲しかった。

 紗月はしばらく目の前に置かれた公衆電話を見つめて立ち続けた。

 もし、今、実家に電話をかけたとして、

 「もしもし、私、紗月です」

と言った後、次に言うべき上手い言葉が思い浮かばない。

 ご無沙汰しています、だろうか、それとも、ごめんなさい、だろうか。

 どのように詫びたところで自分の事件のせいで家族が受けた苦痛をいまさら埋め合わせることなど出来ないことは分かっているつもりだった。だが、釈放されて後、東京で独りぼっちで暮らしている最中に風邪をひいて、それがこじれて生死の境をさまよってどうにか回復しつつある今、この苦しさと寂しさを訴えたら、家族なら少しは自分の気持ちを分かってくれると思いたかった。わざわざ秋田から東京まで見舞いに来て欲しいなどというつもりはない、まして金銭的援助を求めようなどとは考えない、ただ、電話を通してで良いから、お前が生きていて良かったという家族の言葉が聞きたいのだ。

 紗月は細かく震える手で公衆電話の受話器を持ち上げて、忘れるはずのない実家の電話番号の初めの3ケタを押して、そして、受話器を元に戻した。

 もし電話に出た相手が自分の望むとおりに

 「生きていて良かった」

 「もう会えないかもしれないが元気でいろよ」

 と言ってくれるとよいが、

 「お前など知らない」

 等とと言ったら、今、この場で泣き崩れることだろうと思う。

 その時の紗月は、何故かふっと小さくため息をついて目立たないように苦笑した。 紗月はさらに更心寮の増井諒順に電話をしようとした。彼女なら入院していることを告げたなら見舞いに来てくれるだろう。そして、これに至る経緯を説明したら同情してくれるに違いないと思うのだ。だが、これからの人生の中で今回のように病気や怪我で入院する度に、誰かに寂しさをぶつけ続けるのだろうか、そもそも、それを受け止めてくれる相手が常に側に居るという保証などないのに、だ。

 彼女は自分の考えが甘いと思い、諒順への電話も断念した。

 結局、紗月はどこにも電話をかけずに病室に戻った。そして、ベッドに潜り込んで布団を頭からすっぽりと被って声を立てずに泣いた。

 そして、紗月は入院してから約1ヶ月が過ぎた9月の下旬に退院した。

 退院の朝、朝食を終えると着替えをして、紗月は病室の入り口にたって振り返り、同室の入院患者に挨拶をして1階の精算窓口に向かった。。

 ちょうど紗月が椅子にかけると入れ替わりに名前を呼ばれて立ち上がった、紗月よりは幾分若い感じの2人の男女がいた。

 ショートカットの髪型でクリーム色のワンピースを着た彼女の横に、スーツ姿でいかにもサラリーマンと言った容姿の男性が彼女の腰に軽く手を当てぴたりと寄り添っている。彼らは夫婦のようで、退院する妻に夫が付き添っているようだった。 精算を終えて2人は窓口職員に丁寧に礼を言い、去っていった。そのとき、夫が妻に、

「思ったより軽くて安心したよ」

といい、妻の

「ありがとう、心配かけてごめんね」

と言う小声を紗月は聞いた。

「松田紗月さん」

 1度呼びかけても紗月がその夫婦の後ろ姿を目で追ってばかりいてさっぱり耳を貸そうとしないものだから、窓口で制服を着た中年女性の声が少し大きくなった。

 紗月が窓口で支払った合計金額は10万円を少し超えていた

 紗月は自分をとりたてて不憫だとは思わない。今回の入院だって健康保険の保険料をきちんと納め続けていたから良いものの、それをしていなかったら退院した途端に借金の山を背負うところだった。それは良いのだが、寂しさは取り繕いようが無かった。

 病院の外に出ると9月も下旬だというのに暖かかったことが少し意外に思われ、ただ、8月の空気にはあった毒々しい程の湿気はなく空気がさわやかになっていたことが心地よかった。

 この病院からアパートまでの大体の道順はナースステーションで聞いたので歩くことにした。

 ほぼ1ヶ月ぶりの外出で、しかもそれまではベッドで寝ている時間が長かったから、ゆっくりと歩いても自分でも意外なほどに息が上がり、途中、幾度か立ち止まって深呼吸をするなどしながらアパートを目指して歩いて、アパートが見えてきたところで、いきつけのコンビニで食べ物と何故か地元紙と全国紙の二つの新聞を買い、そこを出ると更にゆっくりとした足取りでアパートに向かった。

 部屋はいつも通りきちんと整理整頓されているが、ベッドの上のタオルケットだけは文字通り乱雑なままで、その上にミーシャがいた。

 時計は午前11時を少し過ぎている。

東京という大都会にあるにしては割と静かな町のアパートの一室で、ベッドに腰掛けるとミーシャを手に持った紗月はぽつねんと目の前の壁を見続けた。

 入院中、彼女を見舞った人はなく、退院の時も1人で手続き全てを済ませた。そして、今、こうして、アパートに戻っても1人だった。

 彼女は静まりかえった部屋の中で何のために元気になったのだろうと思った。

 家族も友人知人も無く、仕事もないから経済的な余裕もない。

 病院のスタッフには申し訳ないが、死なせてくれても良かったのになどと考えていると知らぬうちに涙が流れた。

 不意に彼女は携帯電話のことを思い出した。それはベッドの上でくしゃくしゃになったシーツに紛れていた。それはバッテリーが上がって反応しなくなっていた。だから、彼女はそれを充電キットにセットすると、このままここにいてもめそめそするだけだと思い区立図書館に行くために部屋を出た。

 外に出ると、病院を出た時と同様、日本晴れの空が紗月の頭上にある。彼女は1度立ち止まると、空を見上げてその場でぐるりと一回転した。

 夏から秋への季節の移ろいゆく時の中で、その日、東京の空にある太陽も、盛夏の頃の暴力的とも言える輝きは失せ、人に歩み寄り始めるかのように穏やかになった様だった。

 彼女は時々、立ち止まって街路樹に目を遣った。

 花鳥風月に殊更思いを寄せる風流人でも無い紗月だが、それでも木々の姿の移り変わりは季節を教えてくれて時として彼女の目を引く。

 自分の中で封印しようとしても出来ない刑務所でのことども。

 刑務所にいては塀の外の季節の移ろいを知ることもままならないが、それでも、そのグラウンドに生えた雑草が枯れていく様子を見て秋の訪れを知ったものだ。そして、今、紗月は、色づき始めた街路樹などを眺め、こうして自由に外出できるだけでも幸せだよねと胸中で呟いた。

 紗月は、このまちに流れ着いてからの約半年のことを思い浮かべた。

 協力雇用主の会社があったから住むことになったこの町なのだが、それにしても他人と関わることが少ない町だった。過去をあれこれ詮索されても困るから、紗月から他人との縁を求めなかったということもあるのだが、あの会社を解雇された今となっては、おそらく紗月の生死にすら誰も関心を寄せたりはしないだろうと思う。

 区立図書館では数人の近所に住むらしい老人を見かけたりもしたが、誰とも挨拶したりすることも無く2時間もするとそこをでてアパートを目指した。帰り道の彼女は、来るときよりも更にゆっくりとした歩調で歩いき、アパート近くのコンビニで少し遅めの昼食を買った。

 アパートの部屋に入ると彼女はおそるおそるいった様子で机の前に行き、充電中の携帯電話を取り上げた。

 充電を初めて2時間ほどだからバッテリーインジケーターは充電完了をあらわしていた。それでも構わず紗月はそれに電源を入れ、着信履歴を見た。

 少しは期待していた着信は1件もなかった。およそ1ヶ月にわたり1件も、だ。

 理屈では分かっていた。

 この携帯電話の番号を知っている人は更心寮の職員以外では会社の奥さんだけで、解雇された今、奥さんから電話がある訳もなかった。

コンビニで買ったサンドイッチを食べた紗月は、何故か急に眠たくなってベッドに横になり、腕にはミーシャを抱いていたまま、何故こんなに疲れやすくなったのかと思いながら、目を閉じた。

 目が覚めたときは、部屋は真っ暗だった。

 紗月はベッドから起き上がると部屋の明かりをつけることもせずに風呂道具を持つといつもの銭湯に向かった。

 その銭湯のロビーの壁には大きな時計があって、午後8時を少し過ぎたころを指している。

 紗月はいつも通り洗い場で体を洗ってから浴槽につかった。

 実に3週間ぶりの入浴。病院でも看護師が体の清拭はしてくれるけど風呂好きの紗月としては、やはりこうしてゆっくりと湯につかりたい。

 浴槽と洗い場を何度か往復して、満足するまで寛いだ彼女は浴室から出て服を着てロビーに出た。

 浴室にいるときは湯煙で気がつかなかったが、ロビーの長椅子に同じコンビニで働いている女の子が座っていて、何となく紗月も彼女の隣に座った。

 2人は挨拶してから無言になった。

 気まずいとでも思ったかしてその子が紗月に急に話しかけた。

 「あの、大丈夫だったんですか?」

 「大丈夫って?」

 「あの日の夜、お客さん、酷かったから」

 紗月は隣に座った彼女の言葉に微笑んだ。

 「ええ、しばらく入院していましたけど」

 「びっくりしました、あの夜、辛そうでした」

 彼女と話してわかったのだが、紗月はあの発熱した夜、コンビニまで歩いていったのだった。

 その日、夜10時までのシフトで彼女が店長と2人で店番をしていた。2人は紗月が余りにも辛そうな様子で店に現れたから驚いたが、彼女が病院に行きたいというので119番で救急当番病院を探して紗月をタクシーに乗せたのだった。

 紗月と彼女はそれから少しの間だけ世間話をして、分かれた。

 銭湯の外に出て分かれるときに、その女の子は、紗月に

 「元気になってよかったです」

 と笑顔で言った。

 紗月は彼女の言葉を受けて丁寧に礼を言った。

 銭湯からアパートまでの道すがら紗月は何度も女の子の言葉を思い出した。

 むろん、あの女の子の言葉が社交辞令ということぐらいは分かっていた。それでも、「お前が元気で良かった」と言ってくれる人が、この世に1人でもいることが分かって何よりも嬉しかった。それは今朝、病院を退院するときに窓口職員が口にした「お大事に」よりも遙かに紗月を慰め励ました。

 「私、生きていていいんだよね」

 人通りが絶えたこの時間、街灯に照らされた薄暗い道を彼女はアパートを目指して歩いた。その彼女の頬にはうっすらと涙の跡があった。

 そして、住んでいるアパートの家主でもある不動産屋の主人から言われた退居期限の前日、紗月は部屋を出た。引っ越し荷物と言っても大きな紙バックに一張羅となった例の濃紺のスーツなどを入れて、他にもリュックサックに入る分しか持たないと決め、棄てられる物は極力、処分した。一つだけ、実用性はまるで無いことは分かっているのに棄てられない物があった。

 熊のぬいぐるみのミーシャ。紗月の愚痴の聞き役、首の辺りに着けた小さく赤い蝶ネクタイが可愛いそれを紗月はどうしても捨てられなかった。

 そして、昨日、リサイクル業者を呼んで売れそうな物は全部売った。代金は約2万円にしかならず、紗月は酷く落胆した。

 この日の東京は幾分蒸し暑さが残っていた。そして、その生暖かい空気が澱み、家具の一切が運び出されて何も無くなった部屋の入り口にたって、しばらく部屋を眺めた。

 この部屋に初めて入った時のことを紗月は思い浮かべた。

 3月の半ば、季節外れの寒さの中、紗月はこの町にやって来てこの部屋に入った。

 あの時だって夢も希望も無かった。でも、甘ったれるわけにはいかいないと思って会社に雇われ、そして、そこが倒産して解雇された。そして、その直後、このアパートから退居を求められて、今、そのための作業を終えてここにいる。

 今、この空間だけになった部屋を眺めても惜別の情がわいてこない。

 約半年とは言え、住み暮らしたこの部屋でのことどもを思い浮かべても何も出てこない自分が不思議だった。

 顧みるべきものが何一つない、それほど切羽詰まった気持で暮らしたこの部屋での日々を懐かしむ日が訪れるのだろうか、そして思う、必死になるということは、必ずしも幸せなことではないのだ、と。

 片手に大きな紙袋、そして、もう片方の手に部屋の鍵を持った紗月は、無言でドアを閉めようとして、急に思いとどまり荷物の全てを外の廊下に下ろすと、部屋の中に向かって深々と腰を折った。それが自分に対するせめてもの労りだと彼女は思った。

 今日は上野駅近くの安いホテルに泊まることにして、地下鉄駅までの途中に、あの不動産屋に部屋の鍵を返した。

 紗月以外の住民は既に退居していた。

 その不動産屋の主は

 「ありがとね、元気でね」

 と例の愛想笑いに言葉を副えた。紗月も愛想笑いで答えて、その不動産屋を後にした。これで、紗月は、更心寮を退寮してから約半年住んだまちとおさらばだ。

 随分とあっけない幕切れだった。

 テレビドラマのように友人知人が総出で紗月の旅立ちを祝ってくれる等と言うことを期待していたわけでも無いが、それにしてもこれだけかとも思う。そして、これが都会(まち)というものなのだと今、改めて知った。

 アパートから最寄りの地下鉄駅までとろとろと歩いた。あの喫茶店に寄ってコーヒーでも飲んで、口には出さずとも別れを告げようかとも思ったが、今日は休みだった。

 地下鉄に乗り上野駅を目指すことにした。

 秋の便りが聞かれるようになった頃、松田紗月という他人には知られてはならない過去を背負った1人の女が、行く先も決まらないままにこの町を去った。だが、そのことを気にかける人は誰もいなかった。


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