第11章 夏に去る
第11章
8月初めのこと、その暑さと湿気に耐えながら暮らすことは最早、「修行」だった。
7月一杯で彼女、松田紗月は新京電設工業株式会社のアルバイト従業員を解雇された。
紗月に落ち度があった訳ではないのだが、会社の社長が自殺してしまったのだった。彼は長年の友人に頼まれて借金の連帯保証人になっていたが、借金した当人が雲隠れして、彼が支払う羽目になったのだった。彼はそのことで気落ちしたかして、ある日、自宅の車庫で首をつった。
「専務、この度は」
葬儀の開始時刻の少し前に葬儀場についた紗月は遺族席に並べられたパイプ椅子に腰掛けた奥さんに近づいて挨拶して深々と腰を折ると奥さんが、来てくれたんだね、と小声で言った。そして、ここでは長話はできないから、明後日の午後、会社に来て欲しいと言い、言われた紗月は頷いた。
そして、翌々日の午後。
紗月は専務でもある奥さんから言われた通りに会社の事務所に行くと彼女は何時もどおり紗月の隣の席にいて、他には誰もいなかった。
「専務、この度は」
紗月はこの場に相応しい言葉を思い浮かべることが出来ずに奥さんの横に立つと深く腰を折った。
「松田、うちの人の葬式に来てくれてありがとう。きっと、うちの人も草葉の陰で喜んでいるよ」
奥さんは笑顔で紗月に礼を言い、そして、目の前に置かれた応接セットのソファに腰掛けるように促した。
「今、弁護士さんが帰ったところだよ、ほかの皆は現場に行ったよ、社長が死んだからって仕事の納期 を遅らせることは出来ないからね。」
「弁護士さんを呼んだんですか?」
「呼んだよ。明日は税理士さんと会うことになっている。会社をやめるための打ち合わせをするんだ よ」
「会社をやめるんですか?」
紗月にしても社長亡き後の会社の行く末について考えないでは無かったが、奥さんの決断の早さには少し驚いた。
「やめるよ。今の手持ちの仕事を最後にするつもりだよ。うちの職人たちには今朝、私から直に話した よ。皆も納得してくれた。この会社はうちの人の会社なんだよ、うちの人がいなくなったら会社は続 けられない、この会社はそういう会社なんだよ。」
奥さんは大変な決断を淡々といい、このことを少しは予想していた紗月は頷くことしか出来なかった。
「私とうちの人は同じ青森の小さな港町の出でね。中卒で集団就職で東京に来たんだ。金の卵なんて聞 こえの良いことを言うけど体の良い口減らしさ。社長は定時制の工業高校に通いながらビルの内装会 社で働いて、私はクリーニング店だった。お互い朝から晩まで働きづめに働いたよ。私の勤めていた クリーニング店の近くのアパートに社長が住んでいて、あの人が洗濯物を持ってくるようになったの が知り合ったきっかけだった。偶然、同じ町の出身ということが分かってね、あの時は嬉しかった よ。二人とも若かったから直ぐに結婚したんだ。それから社長は幾つかの会社を渡り歩いて仕事覚え て今の会社を作ったんだ。」
紗月に社長との馴れ初めを話したときの奥さんは目は輝いてい た。
「お前を雇おうと言ったのもうちの人だった。最初、私は反対したんだよ、刑務所帰りの女なんてって 思ってね。他にも良い人はいるはずだって思ったよ、でも、うちの人は俺も世間の皆に助けられてこ こまで来たから、世間への恩返しだって言って考えを曲げなかったよ、青森男は頑固なんだよ、それ にお前も気づいていると思うけど現場の職人の何人かはお前と同じように刑務所帰りの男たちでね、 元々が血の気の多い奴もいるから現場で揉め事を起こすこともあるし、会社の備品を盗む奴もいる けど殆どの連中はうちの人のことを聞いてまじめに働いているよ、だから、お前も大丈夫なはずだっ て言ってね。」
紗月は社長と話した覚えが殆ど無かった、というよりも、その厳つい風貌が苦手で彼女から距離をとりたがっていたというのが正直なところだった。だが、奥さんの話を聞く限り、彼は真っ直ぐで優しい気性の男性だったようだ。
「お前の前に私と一緒に働いていたのは私の姪っ子でね。あの子は東京に住んでみたいというだけだっ たんだよ。だから、仕事は全然、だめでね。でも、お前は違った、仕事の飲み込みは早いし、何より も気が利いた、私も長いことうちの会社の経理をしてきて、何人かと一緒に働いてきたけどお前が一 番、働きやすかった、随分と助けと貰ったと思っているよ。本当にありがとうございました。」
奥さんはそう言いながら、両手を両膝の上にきちんとそろえて紗月に向かって頭を下げた。
「これ、少ないけど退職金だと思って受け取っておくれよ」
奥さんはそう言いながら紗月に茶封筒を差し出した。
「うちの会社は言ったとおり、今、手がけている仕事を終えたら倒産する、みんなには、そのときに退 職金を払ってやめて貰うつもりだよ、ただ、紗月、お前は少しでも早くうちを辞めて次の働き口を探 した方が良いよ、前科者の女が働き口を見つけるのは大変だろうからね。残務整理は私一人で引き受 けるつもりだよ、残念だけどお前とは今日限りにさせてもらうよ」
紗月は奥さんの話を聞いていて、目にうっすらと涙をためて、それは奥さんも同じことだった。
「最後に、一つだけ聞かせておくれよ、お前、何をやって刑務所に入れられたんだい?」
紗月は奥さんのいきなりの直截な質問に戸惑った。
「殺人未遂罪で、懲役6年で」
紗月は自分の両膝を見つめながらか細い声で答えた。
「そうなのかい、それで、親御さんとは?」
「縁を切られました」
「そうかい」
それっきりしばらくの間、二人は沈黙した。
「紗月、さっきも言った通り、うちの会社の職人の中にはお前と同じように刑務所帰りの男もいるんだ よ。中には親兄弟と縁を切られても当然の奴もいるよ。でもね、私はお前と一緒に働いていて思った けどお前の家族がお前と本気で縁を切りたがっているとは思えないんだよ。悪いことは言わないから 実家の親御さんに謝って許して貰いなよ、お前なら家族と和解できるはずだよ。」
「ありがとうございます」
紗月は奥さんの温情に一応は礼を述べた。
「私が家族を裏切ったんです。私の家族は何も悪いことしていな いのに世間からわらいものにされる原因を作ったんだす。そん な私と縁を切りたくなるのも当然だと思って」
紗月は俯きながら小声で言い、奥さんは紗月を見つめたまま無言になった。
「他に行くあてはあるのかい?」
「それは、ありません。またいちから仕事を探します」
「前科者のお前がおいそれとは仕事にありつけないんじゃないかい?」
「それは、そうですけど」
「どうするんだい?貯金なんてすぐになくなるよ。東京だって冬はあるんだ、寒い中、アパートにも住 めなくなったらホームレスで生きていくつもりなのかい?」
奥さんは紗月が懸念していることを全て言い当てた。
「今日限りでお前と私は赤の他人になるから、お前と家族との間についてこれ以上言わないけれど今は 家族に助けてもらうことを考えた方が良いと思うよ」
紗月は奥さんに言われて力なく頷いた。
紗月はこの後、僅かな私物を更衣室のロッカーなどから取り出して段ボール箱に入れると会社を辞去した。
「ここでお別れだね、もうお前と生きて会うことはないだろうね、元気でね」
「短い間でしたが本当にお世話になりました。奥さんもお元気で」
両手で私物の入った段ボールを持った紗月は会社の外まで見送りに出てくれた奥さんに丁寧に礼を述べるとアパートを目指して歩いた。
アパートに帰った紗月は夏になってからいつもそうしているように、全裸になりバスタオルを体に巻き付けるとミーシャを腕に抱いてベッドに座り、汗でべたついた背中を温い板壁にあてながらうつろな目をして目の前の壁を見続けた。
奥さんからお前とは働きやすかったと言われたことが嬉しかった。辞めてから思うが案外と働きやすい会社だったのかもしれない。だが、その会社からも解雇されてしまった。
惜しむような勤め先でも無かった。会社の誰とも親しくなることは無く給料だって最低限だったが、たとえアルバイトでも現実に失職したとなると明日からの暮らしが思い浮かんでため息が出た。
紗月は不意に外の空気が吸いたくなり、所々がすり切れたピンクの半袖Tシャツに赤いジャージのズボンをはいて財布を片手にアパートを出た。
紗月の住むアパートの周辺はアパートや一戸建ての住宅、そして、それらに住む住民達を相手にいている小さな商店が幾つかあるだけの平凡な住宅街だった。
アパートを出てから少しだけ歩いて、図書館に通うときに見かける公園に立ち寄り、ブランコに乗った。
平日の午後ということもあってか公園には紗月以外に人影は無かった。
紗月の中で奥さんから言われたホームレスになる気かという一言がこだました。
在監中、累犯の受刑者を何人も見た。彼女達の多くは万引きなどで警察に突き出された女性達だった。中には最初の服役で割り切ってしまい、以後はお金が無くなると万引きや無銭飲食を繰り返して刑務所と世間を往復するようになった女性もいた。彼女らにとって刑務所は国営宿舎のようなもので、中にはホームレス生活よりも刑務所暮らしの方が快適だとうそぶく女もいた。
紗月はあのようにはなりたくないと心の底から思う。
今まで暮らしを切り詰めて貯蓄に努めてきたから直ちに暮らしに困ると言うことはないはずだ。それでも、1日でも早く次の仕事にありつかないことには日干しになってしまう。
奥さんから家族との和解を勧められた。紗月だってそれを望んで、そして、果たせずにいる。なにせ下獄してから2年の間、折に触れて許される限度一杯まで実家の家族に手紙を書き続けたのに梨の礫だったのだ。
紗月にしても釈放されてから今日までの間に何度か前触れも無く実家に足を運ぼうかと思ったことがある。玄関先で土下座でもしたら、血の繋がった家族だもの、まさか足蹴にされたりはしないだろうと思い、そして、止まった。
今の暮らしは確かに辛いが、自分が起こした事件で家族が味わった苦痛を思い浮かべると助けてくださいなどと泣きつくことは許されないと思うのだ。
それにしても、また明日から仕事探しだと思うと先が思いやられる。
志望職種は事務系で、雇ってくれるなら働く場所は問わないつもりだった。
今日、会社で奥さんから別れ際に働きやすい相手だったと言われた。あの無口で無愛想な奥さんも見るべきところは見ていてたのだ。 紗月は一緒に働いたら私の良さが少しは分かってもらえるのにと思う。だが、世間からすると殺人未遂罪で6年の懲役を科された前科一犯の中年女でしかなく、そんな女においそれと仕事をあてがうほど世間は親切には出来ていないことも更心寮にいたときの職探しの日々で思い知った。
こうして公園のブランコに座って仕事探しのことを考えていても気が滅入るだけだと思った紗月はたまに利用する地下鉄駅の近くにあるビルの一階に入っている喫茶店のことを思い出して、そこに向かった。冷えたコーヒーを飲みたいだけなら何時も行くコンビニで缶コーヒーを買うと良いが、今の紗月はそれだけで済ますことは自分がひどく不憫に思えたのだ。
紗月が喫茶店に入るとカウンターの向こう側で椅子に腰掛けて本を読んでいた女性が立ち上がって、
「いらっしゃいませ、お好きなところにどうぞ」
と言った。
ほどよく冷房の効かされた店内にはクラシック音楽のBGMが静かに流れていて、照明が抑えられているから通りに面した大きなガラス窓から離れたカウンターの付近は薄暗くかった。
店内には平日の昼間と言うこともあってか紗月より10歳ほども年上のようで半袖のピンクのワンピースを着た女性客が一人いるだけだった。
席に着くと彼女はアイスティーとかき氷を注文し、ふと壁にかけられた時計を見た。
時刻は4時を少し過ぎている。
店内の所々に置かれている国籍不明の調度品は店主の趣味なのだろう。そして、壁に掛けられた額縁に入れられて飾られている数枚の絵画が紗月の目を引いた。
紗月は席を立ってそれらの絵を見るために店内を歩いた。
絵は全てが何処かの冬景色を題材にして書かれた水彩画だった。
未だかつて絵が上手と他人から言われたこともなく特別な関心も無い紗月だから、それらを見ても技巧の巧拙を言うことなど出来ない相談だが、ただ、不思議にどの絵も、綺麗だ、と思った。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
紗月が注文したアイスティーとかき氷が運ばれてきた。
紗月はそれに気付いて、ありがとうございます、と言い、なおも絵を見続けた。
流氷に覆われた海なのだろうか、氷と氷が不規則に重なり合いながら沖まで続く白く暗い海を白くて小さな月が照らしている絵、冬枯れの林で、一本の高い木の上で口に何かをくわえた大きな鳥が止まり羽を休めている様子、小さな湾とそこに住む漁民のものと言われる家を近くの丘の上から眺め下ろしている絵など、見るからに寒そうな景色が並んでいた。
「絵はお好きかしら」
いつの間にか紗月の隣に来た品の良いママさんが絵を見ながら笑顔で言った。
「ここのマスターをしているうちの主人が書きましたの。今日は美大の授業で出かけていますけど」
「プロの方なんですね」
「一応、ですけどね。絵で食べられるようになったのはここ10年くらいで、それまではずっとコック のアルバイトですのよ、ここでも料理していますしね」
ママは問わず語りに語り、紗月はそれを聞いて頷いた。
「あの、この長節はどこの?」
「根室ですの、マスターは根室出身で大学でこちらに来て、後はずっとこちらですの、冬の根室が大好 きだって、それ、「ちょうぼし」と読みますのよ」
「この穂香というのも、根室で」
「ええ、それ、「ほにおい」って読みますの」
「寒そうですね」
「ええ、彼がお客さんに目で涼んでもらおうって言って、うちにとってあった絵を持ってきましたの」
確かにそう言うこともあるだろうと紗月は頷いた。
紗月はしばらく無言で絵を見続けた。
「きっとご主人はお好きなんですね、絵を描くことが」
紗月の言葉をきいてママが手を口元に当てて可笑しそうにした。
「好きだっていうより、他に何も出来ない人ですの、主人って」
紗月は謙遜だろうと思ったが、ママは本気のようだった。
「絵を描くことと料理を作ること以外に何も出来ないって、本人が言ってますもの、字は下手だし経理 はからっきしで、これで絵と料理が出来なかったら本人が困ったと思いますよ」
ママは愉快そうに言ったあとカウンターの向こう側に行き、紗月は更にしばらく絵を見続けた後、店内に置いてあった週刊誌を手に席に着いた。
中の氷が溶けて水っぽくなったアイスティーとかき氷を口にしながら、紗月は見るともなしに週刊誌のページを捲った。アパートの部屋では小さなトランジスタラジオから流れてくるニュースとたまに買う新聞以外に世間の動きを知ることができないから、それに載せられた芸能人のゴシップややんごとなき方々の動向、買い物情報などはどれも目新しかったが、知らなくても困らない内容の記事ばかりだった。
今日は何故か何時ものコンビニのお握りを数個食べるだけの夕食では物足りないと思い、ピザトーストとアイスティーを追加注文した。
この喫茶店のマスターはコックのアルバイトをしながら、ときにはここで客の注文に応じて料理を出したりしながら、絵描きを続けたという。
ママはマスターが絵と料理以外は何も出来ないと本人がいないところでからかうように言うが、世間からはじき出された紗月からすると仕事にできる技芸を身につけている彼が羨ましかった。
汗をかいたグラスに入れられたアイスティーをストローで吸いながら、ぼんやりとテーブルを眺め続けた。
暫くするとママが
「おまちどおさまでした」
と言ってピザトーストとアイスティーを持ってきた。
ピザトーストなど何年ぶりだろうと思い口にする。
口の中に広がるスパスイスの香りと、絶妙な堅さのチーズが合わさり、旨い。
窓越しに見える通りでは人や車が行き交う平凡な日常の光景が見て取れた。その外の様子を見て、紗月は先ほどから何を考えて悩んでいるのだろうと思った。
刑務所帰りの人が世間から冷たくされることぐらいは、それこそ事件を起こす前から考えていたことのはずだった。だから、警察沙汰を起こすことだけは止めようと事件以前は思っていた。在監中だって折に触れて他の受刑者や刑務官達からそれを聞かされていた。
今、窓の外の通りを行き交う人たちが手にしている平凡な暮らしを私は自分から捨てたのだと思う。それに、あの会社の奥さんのように仕事ぶりを褒めてくれる人だっている。世の中、冷たい人ばかりではないことは更心寮の増井諒順や吉田しのぶたぢを見ても分かる。
今、私のやるべきことは仕事探しだよねと思った紗月は、目の前のテーブルに置かれたアイスティーの残りを飲み干すと席を立った。
「お会計、お願いします」
「あの、ご近所の方よね」
カウンターのところで代金を支払おうとした紗月の顔をのぞき込むようにしてママが言った。
「ええ、そこのアパートに」
「お見かけしたことがありますもの」
笑顔でママがいい、紗月も合わせて笑顔で頷いた。
「ありがとうございました、これからも、ごひいきにね」
レジで支払いを終えて人の良さそうなママから釣り銭を受け取ると紗月は、そこを出た。
無駄遣いだったとは思うが、少しは気持ちが軽くり、これって無駄遣いとは言わないよねと胸中で呟きながらアパートを目指した。
そして、アルバイトをしていた会社を解雇されて10日ほど経った頃のこと。
紗月はこの日、ハローワークに向かい、求人情報を幾つかプリントアウトしてアパートに持って帰った。
アパートに帰ると全裸になり体にバスタオルを巻いた紗月は机に向かい、ミーシャを丁度、赤ん坊に授乳する母親のように胸に抱くと
「ミーシャ、私、ここにいるからね」
といって頭を撫でた。
机の上にハローワークでプリントアウトした資料を並べて目で追っていると不意に眠気に襲われて机に突っ伏した。そして、背後のドアで何かがなった様な気がしたが、気のせいだと思い、机の上の資料に改めて目を向けた。
「松田さん、いないんですか?」
気のせいでは無かった。
確かにドアの外には誰かがいる。
「はぁーい、ただ今」
尋ねてくる人など誰もいないと決め込んで、全裸にバスタオルでいたものだから、まず声だけ上げて大急ぎで服を着た。
ドアを開けるとそこには、あの不動産屋の店主がいた。
例の愛想笑いを浮かべた店主は挨拶もそこそこに用件を告げ、紗月に20万円の入った封筒を差し出して帰って行った。
紗月は店主の話を聞くと呆然となり玄関の戸を開けたまま立ち尽くし
「分かりました、ありがとうございました」
と言うのが精一杯だった。
店主は出来るだけ角が立つことのないように遠回しに言うが、要は紗月は退去を求められたのだ、尤も、それは紗月だけでは無く、このアパートの入居者、といっても、1階2人、2階は紗月だけの3人だが、全員だった。店主が言うには、このアパートの底地が良い値で売れた、なにせ、先月の孤独死のせいもあり部屋が埋まらない状況が続いているから思い切って売ることにした、ついては、9月末日までに退去して欲しい、封筒の中には保証金等として受け取ったお金にといくらかを足して20万円を入れておいたから悪く思わないで欲しい云々。
紗月の心中は、正に、は?、え?、だった。
夢や希望は見えないにしても、少しは落ち着いて職探しをする気分になった矢先、まさか部屋から追い出されるとは思いもしなかった。
紗月は、大家が帰ると再び全裸になり机の上からミーシャを手に持ちベッドにたおれこんだ。
「どうしよう、ミーシャ、私、宿無しになっちゃった」
ぬいぐるみ相手に言う冗談以外、紗月は何も思い浮かべることが出来なかった。
さらに数日後のこと、今住むアパートの持ち主でもある不動産屋の店主の来訪を受けてからの間、紗月は何もしなかった訳ではない。ハローワークに通い精力的に職探しを進めて、さらに、事務系の仕事に就くために役立ちそうな資格の勉強もしていた。
今日も紗月は、最寄りのハローワークで希望に合いそうな会社を探した。
有効求人倍率や失業率と言った専門用語の意味について何も知らない紗月だが、どうも今年の冬に仕事を探していたときよりも求人が減っているような感じがした。
ハローワークで求人情報にあたるうちに、紗月は自分の希望に合いそうな会社を10件以上見つけた。新しい勤め先の住所が東京都23区内にあることに固執する理由など無い、ただ、どこか余所のまちにいくとしても、秋田や仙台に近い東北や北陸、そして、何となく行く気がしない北海道は初めから念頭に置かなかった。
早速、それらの会社に電話して担当者と連絡を取ると、皆、履歴書を送って欲しいと言う。紗月はアパートで気持ちを落ち着けて何度も下書きした末に、正に一筆入魂の文字を連ねて履歴書を作り、各会社に送った。で、それから全く連絡が無かった。
紗月は履歴書に本名を書いたことが不安だった。
前の会社では偽名の「田本なつき」で通した。彼女の本名を知る人は今の彼女の周辺では殆どいないはずだ。それで何も問題が起きなかった。だから、新しい会社へ送る履歴書にもと思うが、今、彼女がそれを送ろうとしている会社はどれも正社員に登用もあり得る会社だった。
「正社員」の定義など紗月は知らないが、多分、社会保険などはかけてもらえるのだろうと思い、そして、そのような会社が偽名で働くことを認めるだろうかと思ったのだ。
迷いに迷った挙げ句、彼女は本名の松田紗月を履歴書に書いた。そして、今日は金曜日、もし今日中に何も連絡が無かったら、月曜日に先方に電話しようと紗月は思った。
そして、月曜日。
先週末の金曜日、ずっと待ち続けた電話はどこからも来なかった。
今日も午前中は携帯電話機を机の上に置いて暑い部屋の中で、それが鳴ることを今か今かと待ち続けた。
電話機は微動だにしなかった。
ついに紗月は控えてあった番号を頼りに三つの会社に電話した。
案の定というかそれぞれの会社の電話口に出た担当者からは
「縁が無かった」
「既に他の人に決まった」
「募集自体を取りやめた」
等々、春の職探しの時と似たり寄ったりの言い訳を聞かされた。 紗月は電話口でにべもなく断られて落ち込んだ。
送付した履歴書に不利になるようなことでも書いただろうかと思い、その内容を思い浮かべた。
どれも同じ内容を丁寧に書いた。ただし、家族欄の両親の名前はデタラメで既に死亡とした。最終学歴は無論「秋田県立**高校卒業」となった。その他は概ね本当で、特技の欄に医学部で使う程度の英語なら理解できるから英語は日常会話程度と付け加えて、さらにパソコンも一太郎、ワード、エクセル、パワーポイントいずれも操作可能とした。大学生や医師だったころにそれらを扱った経験があるから全くの嘘でもないのだ。写真もわさわざ写真スタジオに例の濃紺スーツを着て出かけて撮って貰った物を貼った。
3つめの会社に電話して、不採用をはっきりと告げられて急にむかっ腹が立って、電話機を握りしめて
「もし、差し支えなければ私の何がいけなくてとっていただけな いのか教えていただけませんか」
と言った。
電話の相手が口ごもる様子がはっきりと分かった。そして、少し間をおいて
「松田さんご自身の問題です。」
と言った。
「私自身の問題、と言いますと」
「松田さんのお名前をインターネットで検索したところ仙台で起 きた事件の加害者と受け取った履歴書の名前が一致しました」 電話の向こう側の担当者が、では、と言って切り、紗月はしばらくの間、携帯電話機を片方の耳に当てたまま呆然とした。
そして、急に腹が立ち、今朝、朝食を買いに出かけたコンビニで珍しく買った新聞の朝刊を手にすると、八つ裂きにした。
国家国民の為をおもい国権の最高機関たる国会において熱弁をふるう内閣総理大臣の勇姿は紗月の怒りをうけ引き裂かれた。その千切れた新聞を置いた机を彼女は荒い息をしながら力一杯両手で叩いて、部屋には大きな音が鳴り響いた。
紗月にしても少しは覚悟していた。
事件前、医師として働いていた頃、既にインターネットは社会に浸透していて、紗月も医学論文の検索などには重宝していた。職場の同僚達の中には芸能人のゴシップが大好きという人もいて、その人にとってはインターネットは良いおもちゃだった。自分の事件の記事がゴシップと同様にそれに載せられたとしても不思議がることはないとは思う。
前の会社を解雇されてからハローワークに通い詰めて希望に合いそうな会社を探した。履歴書を送った先は10件を超えている。今、机にはそれらの会社の名前を書いたメモがあり、二つ目の会社まではペンで消した。今、三つ目の会社も消して、そして、彼女はそのメモ用紙を手に取ると細かくなるまで破いた。
それぞれの会社が従業員に期待している仕事を詳しく知るはずもないが、それでもパソコンを操作できて英語も日常会話程度は理解できる人材なら「お得」と思ってもらえるのではと期待して、それも夢となった。
28歳の梅雨時に取るに足らない恨みを爆発させて殺人未遂事件を起こしたからこんなことになったということくらいは彼女も分かっていた。だが、では、私にどうしろというのだろうと思う。
過ぎたことさといって忘れてくれなどというつもりはない、ただ、事件の罰として6年間を刑務所で過ごしてきて、釈放された今、せめて働き口を求めることは許して欲しいのだ。
微かな希望の手がかりが何処かへ行ってしまったという寂しさは覆いがたかった。その寂しさを抱え蒸し暑い部屋の机に向かったまま、彼女は、涙した。
その翌日のこと。
その日も暑さは朝から強烈で湿度も高く、クーラーの無い屋外にいるだけで体力が消耗してしまいそうな日だ。
昨夜は一睡も出来ず、自分のかいた汗の臭いが染みこんだベッドの上で目を閉じたまま悶々としているうちに夜が明けた。
酷い寝不足でふらふらする彼女は、とにかく部屋にいたくないとと思い、10時を過ぎた頃には何時もの区立図書館に向かった。
何時もの通り2階の図書コーナーで本を読み、新聞に目を通した。 習慣とは恐ろしいもので、彼女が新聞を開いてまず目を遣るのが求人欄だった。今日も、そこをまず読んだ。その欄の下の方にアルバイト情報誌の広告があった。
今の時代、求人情報もインターネットでやりとりされる。その広告にも「詳しくはwebで」とあった。
昨日、アルバイトの採用を断られた会社の人ははっきりと紗月のことをインターネットで検索したと言った。
彼女は我慢できなくなり電話帳を頼りに最寄りのインターネットカフェを探すと、それは、この区立図書館から地下鉄で二駅ほど離れた場所に在った。
紗月は、アパートにとって返すと車の運転免許証を片手にそのインターネットカフェに向かった。
そこのカウンターで会員登録を済ませて周りを板で仕切られたブースに入った。
ブースの背後の扉がしっかりと閉じられていることを確認すると快適なリクライニングシートに腰掛けて目の前のパソコンの電源を入れる。ディスプレーにはロゴが表示され、間もなく操作可能となった。
下獄以前も使ったことのあるポータルサイトに自分の名前、「松田紗月」と入力した。そして、震える手でキーボードのエンターキーを押した。
ディスプレー上には、幾つもの見出し記事が並んだ。
一番多いのは姓名判断だった。その次が大学の研究者の業績へのリンク元で、その他に企業の宣伝というところだった。
画面に表示されたリンク元を一つずつ丁寧にクリックしていく。
紗月の額にじっとりと汗が滲み、鼓動が早くなる。
出ないで欲しい、紗月はそう思った。しかし、4ページ目の真ん中辺りに表示されたリンク元を見て、紗月は固まった。
「宮城県発 宮城県警は**日、仙台市内で殺人未遂事件があったと発表した。発表によると**日深夜、仙台市**区の路上で近くに住む河北大学病院の看護師楠田聡子(34)さんは勤務を終えて帰宅途中、同大学病院の医師松田紗月容疑者(28)に刃物で刺され重傷を負った。警察は殺人未遂容疑で同容疑者を逮捕した。」云々。
その記事は間違いなく自分が起こした事件の記事だった。
紗月はその時、「画像」まで調べた。
ディスプレーには沢山の写真が表示された。それらは紗月の高校大学の卒業アルバムからとられた写真だった。おおかた心ない物好きの仕業に違いないのだが、紗月は愕然とした。
その中の1枚に紗月の目が止まった。
それは事件現場となった河北大学付属病院の職員玄関付近を撮ったものだった。
背中に「宮城県警 POLICE」と書かれた作業服を着た人たちが数人、地面に這いつくばるようにして何かをしている。そして、画面の中央付近に、スーツ姿の男女と、その2人に挟まれるようにして、頭から茶色のコートをすっぽりと被せられた人物が立っている。
間違いなかった、あれから7年以上たった今でも鮮明に思い出すことが出来る、その写真は、あの事件の翌日の現場検証に立ち会わされた時の写真だった。スーツ姿の男女に挟まれてコートをすっぽりと被っている人物は紗月自身だった。
あの朝、留置場から連れ出されるとき、腰に食い込むほどがっちりと青い捕縄を巻き付けられ手錠をかけられワゴン車に乗せられた。
その写真では見えないが、男の私服警官はその捕縄の縄尻をがっちりと手に巻き付け、もう片方に立った女の私服警官は紗月のウエストのベルトをつかんでいて、彼女が紗月が余りにも泣くものだから同情してハンカチを貸してくれたことも覚えている。
紗月は事件の夜のことを殆ど思い出すことが出来ない。
台所で夕食の支度中に誤って左手の指を切ってしまって、その時、堪えていた楠田聡子への恨みと憎しみがふつふつとわき上がり、ウエストポーチに果物ナイフと僅かな現金の入った財布を入れてマンションを出たことまでは薄らと思い浮かべることが出来る。だが、次にはっきりと思い出すことが出来る景色は、この写真に写された現場検証に立ち会った時のものだ。
呆然とした面持ちでディスプレーを見続けた紗月は、少しだけ気を取り直してポータルサイトに戻ると別の人物の名前を打ち込んだ。それは、紗月が釈放される直前まで一緒の雑居房で暮らし、紗月と徹底してそりが合わずにお互いに距離を取ることに腐心した女の名前だった。
年齢と罪名が直ぐにヒットした。
確か殺人罪で懲役13年を宣告されて服役している筈の女だった。大した興味も無いからディスプレーに表示された内容を斜め読みした程度だが、それでも、5W1Hを知ることが出来る。
「ざまみろ」
紗月は腹中で、そう呟いた。
たしか22歳と言っていたあの女性は、13年後、丁度、今の紗月と同じくらいの年齢になって社会に復帰する。きっと仕事や住処の確保に苦労するに決まっている、その女が途方に暮れている姿を想像すると何だか嬉しくなった。
これ以上、ここにいても何も得るものはないと思った紗月は、そのネットカフェを出て思わず、空を見上げた。
店に入る前は憎たらしくなるほどに元気な太陽が輝いていた空が重そうな鉛色の雲に覆われていて、彼女は、その空の下をとぼとぼと歩き始めた。
店を出てから5分も経たないうちに、紗月の上に雨がぽつぽつと降り始めた。そして、降り始めてから間もなく、その雨は南方の島々に降り注ぐスコールのような勢いで辺りを覆った。
低く垂れ込めた雲から地上まで垂直に落ちる雨粒は最早、粒ではなく空から地面まで貫く無数の矢のようで、その矢が幕となり人々の視界を遮った。余りの暗さに行き交う車は皆、ヘッドライトをつけ、無駄な抵抗と分かっていてもワイパーを最大限に動かした。歩道を歩く人たちは、ある人は雨宿りのために近くの民家や商店の軒先に身を寄せ、ある人は雨傘を手に先を急いだ。その中にあって、紗月は傘も差さずに雨宿りをするでもなく、薄手のタンクトップに白いジーンズという姿で、濡れて肌着が透けと見えることも意に介さずに俯きながら濡れるに任せて歩き続けた。人々は、猫背になりずぶ濡れになりながらアパートを目指して歩く彼女に人々は病みを見た。
体が急速に冷えた。
むろん、彼女が知るよしも無いのだが、気象台はこのとき、雨が降っている約1時間の間に気温が10度近くも下がっていることを観測していた。
アパートに着いた彼女は、直ぐに全裸になると体を拭いてからタオルケットを肩からかけてベッドに腰掛けた。
窓を閉め切った部屋には熱がこもって何もしなくても汗をかくほどだった。
彼女はしばらくの間、呆然とした面持ちで床を見つめ続けた。そして、こんなべたべたした体のまま寝るのは嫌だと思って、銭湯に出かけて、そこから帰ると途中のコンビニで買ってきた弁当を食べた。
机に向かって弁当を食べ、いつも通りお腹にバスタオをルの上にミーシャを抱いた。
ラジオをつけて流れてくる音楽やパーソナリティーの話を聞いても心楽しまなかった。そして、彼女は、部屋の灯りを消すとベッドに倒れ込んだ。
横を向こうとして手を壁に少し強くぶつけた。その瞬間、紗月は泣き出した。
タオルケットを頭からすっぽりと被っていたから部屋の外に聞こえる心配は無いが、部屋の中には紗月の泣き声が響いた。
助けを求めようにも誰もいなかった。
大都会独りぼっち。
悔しいし、悲しい。
その夜、紗月は寝たり泣いたりを繰り返し、朝を迎えた。
翌日、彼女は10時頃、暑さで目が覚めた。
多分、部屋の温度は既に30度を超えているはずだ。
机の上においた手鏡でみると、泣き明かしたせいで酷い顔になっていた。
全裸にバスタオルという格好で彼女はベッドの端に腰掛けた。
昨日、あのインターネットカフェで見た高校、大学の卒業アルバムなどから取ったと思われる写真が思い出された。その中の1枚が彼女に追い打ちをかけた。
その写真に写った紗月たち10人の男女は皆、医療現場で「スクラブ」と呼ばれる青色の服の上下を着てその上から胸ポケットに聴診器を入れた白衣に袖を通して、墨痕鮮やかに「河北大学医学部」と書かれた大きな木製の看板をおどけた様子で指さしている。
写真に写っている人たちの名前を紗月は今でもすらすらと言うことができる。
それは医学部5年生たちが病棟実習を終えた記念に医学部棟の前で撮った写真だった。
この時の晴れ晴れとした気分を紗月は今でも思い出すことができる。
学生たちの実習だから関わる範囲も自ずから限度があるが、それでも、生老病死という節目に立ち会うことは緊張の連続だった。写真に写った学生たちのひたすらに晴れやかな笑顔は若さだけでは説明できない。
私は裏切られたのだろうか、それとも、皆から嫌われ蔑まれていたのだろうかと思った。
「私はみんなの面汚しってことは知ってるけど、だからって、 さらし首にしなくても良いじゃない、そんなのあんまりだよ」
ベッドの端に腰掛けたまま、俯き加減になりミーシャを腕に抱いて昨日のことを考えていると、膝に何かが触れた気がした。
それは喉元から落ちた汗の滴だった。
ぼんやりとしているうちに随分と部屋が暑くなった気がした。取り敢えずクーラーの出力を上げたが、どうも効き目がなさそうだった。
1時間ほど前に起きたときから紗月には弱い悪寒と頭痛と悪心があった。
まずいな、熱中症になりかけている、紗月はそう思った。このままこの部屋にいてもクーラーがこの調子では心許ない。仕方が無いので、彼女は外出して何処かで冷房にあたることにした。
白のノースリーブに水色のジーンズという格好になって、出かける直前に思い立ち手鏡を見て、思わず吹き出した。
昨夜一晩中泣いていただけあって、目が腫れ顔の肌は明らかに荒れていた。
このままで人前に出る気にもならず、彼女は珍しいことに化粧した。
机の端に他の化粧道具と並べていた化粧水を手にとって顔につける。固まって開けにくくなっている化粧水のボトルの蓋を開けようとしながら、紗月は前回、化粧したのはいつだったろうかと考えた。
ともかくも薄く化粧して、アパートの外に出た途端に、首根っこを捕まれて地面に押しつけられたような気がした。
冷房にあたるためだけに出かけたから行く先など決めていない。そのぶらぶら歩きでも、苛烈な夏の日差しと、そのアスファルトからの照り返しが紗月を容赦なく熱した。
陽炎、逃げ水、蝉時雨。
大都会の東京にあっても人々に夏を報せることどもに巡り会うことができる。北国秋田の生まれの紗月だから夏を待ち遠しいと思ったこともあったのだが、ここまで暑いとそれを恨めしく思わないでも無い。
アスファルトが溶け出す温度など紗月が知るよしも無いが、彼女の足下でそれが柔らかくなり、もしかしたら靴底のゴムが一緒に溶け出すのではと不安を覚えつつ、ふと空を見上げると確かに太陽は輝いているのだが、空全体に薄い幕が張られたような具合になっていた。
地下鉄駅を目指して歩き始めると途端に軽い目眩に襲われた。明らかに熱中症の兆候だったが、冷房のあるところに行けば症状もおさまるだろうとやけくそ気味になりながら歩き続けた。そして、地下鉄で目指したデパートに着くと、紗月はまず、肌着売り場を目指した。
暑い日が続くようになると着替えの回数も増える。多いときには、朝起きた時、昼間、就寝直前と3回も肌着を換えることがある。当然、必要な枚数は増えるわけで、着替えに余裕がない紗月は洗濯する回数を増やしたものだから傷みも早いような気がした。
今、紗月が持っている肌着類は全て更心寮に入寮したときに買ったもので、当然、値段とサイズ以外は気にしなかった。領置品として刑務所を出所するときに返還されたそれらは、寮についた時点で早めに処分してしまった。やはり、辛い思い出とはできるだけ早く遠ざかりたいものだ。
今日の紗月はいつもの紗月とは違った。
材質や色、デザインを先に見た。値段は後回しだった。ブラジャー、ショーツ、そしてTシャツ全て値段よりも品質だった。そうでもしなければ紗月はこの場で泣き崩れてしまいそうだった。
欲しい衣料品と化粧品を買い、以前に1度見たときから入ってみたいと思っていた、そのデパートの中に入っている割とカジュアルな感じのイタリアンレストランで食事を済ませると時間は夕方の6時を少し過ぎていた。
この時、紗月は少しの悪寒と偏頭痛を覚えだ。そして、軽い熱中症だろうと判断し、深刻になることなくそこを出た。
来たときと反対の経路で家路につき、アパートの最寄りの地下鉄駅を出ると、そこは夕立の真っ最中だった。紗月はその中を、大したことはない、と高をくくり、体を雨に濡らしながらアパートを目指して歩いた。昨日と同様に雨が降っている最中に気温がどんどん下がり、幾分肌寒いような気もしたが、距離が短いこともあって気にとめなかった。
アパートの部屋に着くと10分程もたって、風呂道具を手に銭湯に向かうために外に出た。
外の雨は上がっていて、小一時間も銭湯に入っていた紗月は、アパートの部屋に戻るとミーシャを片腕に抱いてベッドに倒れ込み一言
「私、風邪引いたよ、ミーシャ」
と言った。
耐えられないほどの頭痛、はきけ、悪寒、全身の倦怠感、そして目眩と風邪の初期症状がはっきりと自覚できた。
昨日のあの豪雨の中、しかも気温が短時間に10度近くも下がるという状況の中、また、今日もついさっきの夕立で体が濡れて冷えたものだから、すっかり風邪を引いてしまったのだ。
体温計も風邪薬も氷枕もない蒸し暑い部屋に置かれたベッドで天井からの落下物除けのために取り付けた黒いビニール袋で出来た幕を見上げながら横たわること以外に何も出来そうに無かった。
猛烈なはきけと腹痛に襲われ、夜中、何度か部屋と外の共同トイレとの間を往復した。体温は分からないが、平熱より高いことははっきりと自覚できる。
熟睡など及びもつかず、ベッドに横になっているだけのうちに日が昇り、再び、部屋の温度が上がり始めた。
脱水症を警戒した紗月は、冷蔵庫に入れてあったミネラルウォーターを何倍も飲んでは、1時間もするとトイレに行くことを繰り返した。相変わらず頼りないクーラーはそれでも精一杯の働きをしているようで、少なくとも熱中症で死亡することはなさそうな部屋の温度に保ってくれた。
時計を見ようにもそれが机の上にあり、立ち上がることも出来ないほどに倦怠感に襲われているから、時刻を知ることも出来ない。いつも枕元に置いてあるラジオをつけると正午のニュースを流していた。
食欲はそこそこあるが冷蔵庫は常に殆どからっぽだから何も口に入れられそうに無い。
呼吸がどんどん速くなり、薄い胸に手を当てて鼓動を計るとそれも早くなっていることが分かった。
再び、うたた寝のように浅い眠りの中、紗月は耳元でささやく人がいることに気がついた。相手が何語を話しているのかは分からないが、たしかに、小声で話しかけてくる。そして、目を開けると大きな入道雲がわき上がる様子が見えた。彼女はそれらが幻覚だと直ぐに分かった。さらにあれだけあった倦怠感が消え、体が急に軽くなった。
「ミーシャ、今までありがとね、私ね、もう駄目みたい。良いん だよ、これでも良いんだよね、ミーシャ。私が死んでも誰も悲 しむ人なんていないんだもん」
死を覚悟した紗月は途切れ途切れになる小声で枕元のミーシャに言った。
元女医だから、死の現場に立ち会った経験は他人より遥かに多い。その一つが自分に発生するだけだと思うと急に気が楽になる。それに、自分がいなくなった方が世の中の為なのだろうという気もする。
どんどん呼吸が速くなっていく。
腕が怠いから脈拍を測るために胸や頸動脈に手をやる気にもならない。
いよいよ、だ。いよいよ、あの世からのお迎えが来たのだ。
薄れ行く意識の中で、紗月はそれでも楽しかった昔の日々のことを思い出した。
下獄以後はともかくも、それ以前は不幸せな生き方はしてこなかった。
暖かい家庭で育ち、学校でもいじめられることもなく、貧困も飢えも知らずに生きてきた。それ以後の転落は全て自分のせいでおきたことだから諦めも付く。
潔くありたい、死に臨んで取り乱したくはないと、今、思う。
事件の夜に、その場で死を選ぶべきだったと、今、こうして東京で死に臨み思う。そうすれば、少なくとも世間だって不思議がるだろうが、わらいものにはならずに済んだと思う。死後の遺体のことが気になるが、考えてみるとこのアパートも間もなく取り壊される。その時、解体業者が見つけて処理してくれるだろう。
万事、ことも無し。
殺人未遂罪で下獄した女医がこの世から消えるだけだ。松田紗月が消えるなど世間からするとどうでも良いことなのだ。
「あなぁ、あっぱぁ、まずなぁ」
秋田言葉で「お父さん、お母さん、さようなら」と呟いた紗月は、気を失った。
蒸し暑い部屋の中には、クーラーと冷蔵庫の音だけが聞こえた。




