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さなぎたに1人  作者: きたお
10/30

第10章 夏の日のこと

 6月のある日のこと、紗月が更心寮にいたころに同じコンビニで働いていた吉田という男から、そのコンビニで彼女が刑務所帰りということを仲間たちに知られていたことを知って落ち込んだ彼女は会社を休んで外房の海辺の小さな町に出かけたりした。そして、暦は進んで7月半ばになった頃の日曜日のこと。

 その日の午前中、紗月はアパート近くの商店街を歩きながら、ふと立ち止まり空を見上げて目立たぬように小さくため息をついた。

 梅雨は明けたとラジオは伝えるが、今日の東京の空は重苦しい雲に覆われていた。今朝、目が覚めて、いつもの習慣でベッドの枕元においた小さなトランジスタラジオをつけると天気予報を聞いた。それによると関東地方は今日の午後は雨の予報だった。しかも、結構、強く降るらしいのだ。

 傘を持たずにアパートを出た彼女は、だから、できるだけ早く用事を済ませてさっさと戻ろうと思い再び歩き始めた。

 近くに温度計などないから今の気温はわからないが、体感では30度を超えているはずだった。それに雨を予感させるには十分すぎるほどの湿気を含んだ空気に包まれて、紗月の体は走った訳でもないのに汗にまみれて閉口した。

 日曜日の昼間ということもあって、その商店街は結構な人通りだった。紗月はその行き交う通行人の中に自分の過去を知る人がいたらどうしようと思わないでもない。

 紗月が今日、ここに来たのは買い物のためだった。

 彼女がそれに気がついたのは2、3日前のことだった。

 アパートの床に点々と落ちている白い何かを見たとき、彼女はそれが何だか分からなかった。そして、近づいてよく見るとそれがウジ虫だと分かった。つまりは住んでいるオンボロアパートの天井がハエの住処となっていたのだった。そして、彼女はベッドの上の天井に目をやった。そこには、この部屋の天井で最も濃くて大きなシミがあった。

 寝ている間に天井からウジ虫が落ちてきて、それを知らぬ間に飲み込んでしまうなどということは避けたかった。だから、彼女はベッドに覆いを付けることにして、その材料を買いに来たのだった。 商店街をしばらく歩いて、彼女が必要としている物を売っている店で必要な物を買いそろえてレジに持っていた。

 彼女は会計を待っているとき、壁に取り付けられた大きな鏡に映った一目で安物とわかるピンクのTシャツに赤いジャージをはいて全く化粧をせずに長い髪を頭の後ろで輪ゴムで束ねただけのさえない中年女となった自分の姿を見て、少し苦笑して俯いた。

 私だって年相応の華やぎのある服を着て髪をセットして化粧したら結構、良い女のはずなのにと思わないでもない。だが、見せる相手がいないままに綺麗になろうとすることの空しさが彼女には怖かった。

 買った物を大きな紙袋に入れてもらって支払いを終えて店を出てしばらく歩くと不意に太ももの辺りに何かが触れた。振り返ると頭に誰かに折って貰った新聞紙製の兜を乗せた幼稚園児くらいの男の子がそこにいた。その可愛い男の子は間違いに気がつくと自分の母親と思しき若い女性に慌てた様子でかけより、その母親らしき若い女性が彼女と同い年ぐらいの男性と並んで、その子の手を引きながら盛んに紗月の方を向いて詫びていた。紗月はその親子に笑顔を返して、その場を離れた。

 更心寮を出てから早いもので約4ヶ月が過ぎた。

 紗月も今年で35歳。先程の家族連れのように、夫と子供と手をつないで買い物をしていても何の不思議もない年齢だ。

 「寂しい」

 口には出さずに胸の中で紗月は呟いた。

 そして、ふと横を見るとそこはおもちゃ屋だった。

 窓越しに見える店内の台の上に載せられていた熊のぬいぐるみ。それは襟のあたりに蝶ネクタイを着け、じっと紗月の方を見つめていた。

 紗月はしばらくそのぬいぐるみの前で立ち止まると、店内に入って、それが欲しい、と店員に言った。 言われた方は店の中を行ったり来たりしながら、彼女の注文したそれと同じぬいぐるみが入ったピンクの箱を持ってきた。

 箱に入れられ、その箱を包装して貰い何故かその上からリボンまで付けて貰った。

 しめて2,677円也のお買い物。どう考えても無駄遣いなのだが、今の紗月には必要だった。

 結構な量になった荷物を片手に持ち、もう片方の手で傘を差すと紗月はアパートを目指して歩いた。

 アパートに帰ると熊のぬいぐるみは箱から出すことをせずに机の上に置き、ウジ虫よけの作業に取りかかった。

 まず、ベッドの四隅に木の棒を立ててしっかりと固定した。その上で、何枚かのビニール袋をさいてガムテープで固定して1枚の大きなビニール製の幕を作り、それを先程の棒の先につけた。

 これで、少なくとも寝ている間に顔の上にウジ虫が降ってくるなどと言う事故は防げる公算だ。

 時計を見ると午後2時を少し過ぎていた。

 アパートの外には予報通り雨が降っていた。

 彼女はさきほどの商店街から戻ってからすぐに部屋の中を掃除したが、6畳一間の部屋の掃除などでそんなに時間はかからない。

 掃除を終えて、机の前の椅子に腰掛けてぼーっとした。

 それにしてもひどい部屋に住んでいると思う。

 アパート全体が少し傾いていてドアの開閉にもこつがいる。天井板が薄いからなのだろうが雨の日にはトタン屋根を打つ雨粒の音が盛大に鳴り響いて夜などはそれが気になって寝られないこともある。畳と天井にはいくつもの大きな茶色いシミとカビがついていて、紗月もここに引っ越してきたときはそれらを拭き取ろうと頑張ったが今では諦めた。窓をあけても隣の敷地にたつ倉庫の壁があるものだから風通しが悪くて、特に今の時期は室内の空気が暑く重たくなった。すきま風が酷いことは分かっていて、寒い時期のことを考えると不安がかき立てられる。さらに、室内にある申し訳程度の台所の配水管から上がってくる嫌な臭いは時として耐えがたい。その台所に置かれた洗面器の中には彼女が着た数枚の肌着が漂白剤とともに漬けられていた。コインランドリーは近くにあるが、それにかかる経費さえも惜しくて衣類の殆どは台所で手洗いしていた。自分で洗わない物は数着のジーンズとシーツとタオルケットぐらいのものだった。だから、彼女の衣類は会社に着ていくワイシャツ以外はしわだらけだったが気にしないことにした。アイロンなどは贅沢品に思われて買わなかった。その半乾きの肌着類が天井につるされたロープに無造作にかけられた様子を見て、彼女はげんなりした。

 紗月は大学時代は女子専用の学生寮に入れられた。入学前にアパートでの一人暮らしを強硬に主張したが、母が女子寮に入ることを絶対に主張し、もし聞き入れないなら「仕送りはしない」と宣った。そこで大学時代の6年間を過ごした後、河北大病院に就職したときには同じ仙台市内に賃貸マンションを借りた。

 病院に歩いて通勤可能で1LDKの間取りで月々10万円の家賃は安月給の研修医には少し痛かったが、なによりも新築で大学の卒業式の翌日から入居開始ということが気に入り、親に何も相談せずに契約した。秋田の両親は、3月末の医師国家試験の合格発表を待ってからでも遅くはないと諫めたが、試験に手応えを感じていた紗月は譲らなかった。

 家具も全部、自分で選んで決めた。

 一人暮らしにしては少し大きめのセミダブルのベッド、新品でふかふかの寝心地抜群の寝具、そして、医学書を沢山買い込むことを予想して買い込んだ大きな本棚、もしかしたら心通い会う人と出会うかもしれないと思い、一人暮らしには不似合いなほどの大きさの食器棚も買った。その他に机と椅子、パソコン、パソコンラックといった物を買いそろえた。

 就職後にも幾つか買い揃えた物もある。

 他人から独り癖があると思われることが嫌で買うときは必ず2コひと組の物を買うようにしていた瀬戸物類、結構な大きさの衣装ダンス、そして、友人と着物店に出かけて素材も柄も吟味し抜いて誂えた浴衣、ブティックで買った国内外のブランドの洋服、四つのソファと机からなる応接セット、こたつ、そして、気まぐれで買った割には気に入って眺めていたドイツ製の陶器で出来た小人のオーケストラ。

 あの頃が自分の人生のたった一度の絶頂期だったと今、紗月は思う。

 椅子に腰掛けてばかりいることにも疲れた紗月はベッドの上にごろりと横になり、そして、立ちのぼった嫌な臭いに思わず顔をしかめた。

 考えてみるとベッドの上に敷いたシーツもタオルケットもクリーニング代が惜しくて、そもそも替えを1枚ずつしか持っていないから2週間ばかり替えていない。パジャマだって同じ物を1週間以上は着ている。それぞれ新しい物を買いそろえたいのだが、お金がないのだ。

 6月は会社の奥さんから言われて3回休んで、おかげで約2万円の減収になってしまった。7月だってどうなることやら分からない。 そろそろ別の会社に移るための活動を始めようかと思う。とりあえず今の会社に1年くらいは勤めないことには義理を欠くような気もするが、なにせ冬を越せるかどうかも分からないような部屋にしか住めないような給料しかもらえないとあっては紗月も腹を括るしかなかった。志望職種はやはり事務系だった。6月に受験した簿記2級検定の手応えは感じていたから履歴書に書くことは出来る。それ以外にも事務系の職種で役立ちそうな資格を通信講座で学んで取得しようと思う。

 更心寮の寮生だった時に働いていたコンビニで、自分の過去が他の店員たちに知られていて、その人たちから陰で嘲笑われていたことを知って、しばらくの間は落ち込んだ日が続いていた。今でも気持ちが沈んで、夜、寝付きが悪くなるものだから寝不足となり、会社で働いている時に危なく居眠りしそうになることもある。

 しかし、彼女は落ち着きを取り戻しつつあった。

 よく考えると彼女が勤めている会社は法務省の協力雇用主制度に登録している会社なのだ。彼女も詳しくは知らないが、現場で社長達と一緒になって働いている職人の中には紗月と同じように刑務所帰りの男達もいるようだ。それなのに、彼女の過去を問題にして解雇すると言うことはないだろうと思う。

 会社とのことは別にしても相変わらず世間の目は気になる。常に誰かに陰口を言われているような気がして仕方が無い。だが、彼女はそれに甘んじようと思うようになった。

 彼女の事件の時、TVのワイドショーや週刊誌などが面白がって取り上げた。テレビ局の中にはわざわざ東京のキー局から秋田の紗月の実家に取材チームを派遣したところもあった程だ。その取材にはインターホン越しに母が答えていた。

 紗月の父、松田正幸は松田家の本家の継嗣だった。

 彼女の事件の時、両親は親戚中を謝罪して回ったことだろう。そして、訪れた先々で責め立てられたはずだ。父はプライドをズタズタにされたことだろうし母は身の縮む思いをしたはずだ。

 それに紗月の兄のこともある。

 兄の幸治という人も頭脳明晰で地元の高校を卒業すると現役で父と同じ大学の法学部に合格して、大学在学中に司法試験にパスして、大学を中退して司法修習生に任官としい輝かしい経歴の持ち主だった。その兄は、紗月が大学を卒業して医師に成り立ての頃、当時、勤務していた九州の地裁で事務局職員を見初めて結婚して、そして、紗月が事件を起こす直前に長男が誕生していた。

 紗月は今でも実家の父が、孫が出来た、これで思い残すことは何もない、と明らかに酒に酔った様子で電話をかけてきたことを覚えている。あのときの父は電話の向こうで泣いていた。

 紗月の事件が兄の家庭にどのように響いたかは何も知らない。まさか離婚はないだろうとは思うが、多分、裁判官は辞職したことだろうとは思う。紗月は実家の母から兄の嫁は山形県の出身で、その父親は高校の校長だと聞かされていた。当然、両親と兄は嫁の実家にも謝罪に出向いたはずだ。

 紗月は、家族皆の平凡な暮らしを奪ってしまった。だから、紗月は誰かの思い遣りにすがろうとすることは許されないと思う。それが彼女なりの家族への償い方だった。 

 狭い部屋の中で体を動かしたからすっかり体が汗臭くなった。

 お金が無いときは台所でくんだ水で体を拭くこともあるが、やはりそれでは体が綺麗になる感じがしなかった。

 このアパートに入居したてのころ、近所を歩き周り商店などの位置を確認すると丁度良い所に銭湯があった。で、定休日以外は毎日、その銭湯に出かけた。

 事件以前の紗月は風呂が好きだった。

 女子寮や大学卒業後に住んだ賃貸マンションの浴室は無論のこと、当直などでそこに帰られない時は病院の職員用浴室で、休みの日には仲の良い友達と連れだって仙台市郊外のスーパー銭湯で、仕事の疲れで強ばった体と心をほぐした。

 ここに引っ越しできて直ぐの頃は紗月は銭湯が苦手だった。

 刑務所の浴室を思い出してしまうのだ。

 常に長靴を履いた刑務官たちが監視にあたっていて、夏場は週3回、冬場は2回で許される入浴時間は20分だけ、同じ工場で働く女たちと浴室に連れて行かれて一斉に入浴するという、寛ぎも何も有ったものではないあの時間。銭湯に行くとなんとなく6年間暮らした刑務所でのことが思い出されるのだ。

 「いらっしゃいませ」

 結構な降りの雨の中を傘を差して歩いて何時も行く銭湯に着くとロビーに面したカウンターに座った高校生くらいの女の子が言い、紗月は券売機で入浴券を買った。

 脱衣所で服を脱いで浴場に入ると中は空いていた。日曜日の夕食時に銭湯に入りに来る人は多くはないのだろう。

 浴槽の所で入念にかぶり湯をして体を洗ってから浴槽に浸かる。

 「あー、」

 思わず知らず小さく声が出る。

 刑務所を出たからこそ、好きな時間に、この清潔で快適な銭湯で不快な汗を流してすっきりとした気分になることが出来る。そんな小さな幸せを紗月は、喜んだ。

 日曜日の午後の銭湯で汗を流して、すっかり気分を良くした紗月は、アパートに戻った。

 彼女は部屋に入るなり戸締まりを確認して、そして、肌着だけの姿になってから、机の上を見るとまだ箱に入れられたままの熊のぬいぐるみがあった。

 丁寧に箱を開けてそれを取り出し机の上に置いて、うっとりとそれを眺めた。我ながら乙女チックなことをしていると思うが一人暮らしとあれば誰に憚ることもない。

 名前をつけなくちゃと思い、あれこれ候補を思い巡らせるが、結局、最後に思いついた可愛い名前にした。

 「君はミーシャだ、ようこそ、私のおうちに、これからよろしくね、ミーシャ」

 彼女はそういいながらミーシャの首に巻かれた赤い蝶ネクタイを指で触れた。

 銭湯からの帰り道のコンビニに立ち寄って買った缶ビールを開けて、そして、片方の手に持ったビールの入った缶を眺めて、今日は無駄遣いばかりしていると思い苦笑した。

 今日、商店街で彼女に触れた小さな男の子と、その両親のことを思い出した。

 もし事件を起こすことがなく平凡な暮らしを続けていたなら、愛した男性と結ばれて、そして、おそらくは母になっていたことだろう、そして、暖かい家庭を作り、過ぎゆく時を惜しみながら生きていたことだろう、今日のあの親子連れのように、と思う。

 彼女は、子供を産んでみたかったと思い、目に涙をうっすらと浮かべ、そして、河北大付属病院に就職した時に仙台市内のホテルで開かれた出席した新人歓迎会でのことを思い出した。

 その会に出席していた各講座の教授や病院長と言ったお歴々たちは型どおりの挨拶を終えて早々と退席し、紗月たち新人医師たちは緊張の余り目眩を起こしそうになりながらも、その場にいた。

 座が和み、出席者たちが酒やつまみを口にしながら歓談していたとき、新人たちの余りの緊張ぶりを哀れと思ったかして、結婚を間近に控えた先輩の女医がビールの入ったグラスを片手に紗月たちの席に来て、新米の女医たちに向かって

 「早くいい男見つけないと卵子の夜泣きを聞く羽目になるよ」

 といった。

 その女医は近々結婚予定だと自分で言い、

 「これでようやくお腹の中で夜泣きする卵子たちをなだめることが出来る」

 と酒で頬を薄桃色に染めていった。

 その場に居合わせた新人たちはどっと笑った。

 セクハラそのものとも言える発言も、彼女が言うと毒が無かった。

 あの女医がその後、どうなったかについて紗月は何も知らない。ただ、「卵子の夜泣き」という言葉は、今でも耳に残っている。

 「ごめんね、君たち、私のような馬鹿な子の所に生まれてきたばかりに無駄死になっちゃうね、今度生  まれてくるときは、もっと賢い子の所に生まれてこようね」

紗月はそう言うと、両手で自分のお腹を撫でた。

 刑務所帰りの女医と知って結婚しようとする男などいるわけが無かった、紗月もきちんと結婚という形式を取らないで母になりたいとは思わなかった。つまり、彼女は、母になることは出来ない、と思った。

 「うん?」

 机が少し濡れた。それは紗月が流した涙だった。その時、紗月は自分の体が小刻みに震えていることに気がついた。

 在監中も更心寮の寮生になってからも、時として、今のように体が紗月の気持ちと体がばらばらになることがある。周囲には気取られることのないようにしていて、今の会社では涙が出てきたときなどは慌てているが、奥さんに気づかれているようで気が気ではない。 彼女は雨に打たれてなるトタン屋根の音を聞きながらビールを飲んだ。その味は、何故か酷く苦く感じられて、そして、不意に軽いめまいがした。よく考えると夕べもよく眠られなかったのだった。

 昨夜も悪い夢にうなされて夜中に目が覚めた。その時、彼女は全身汗をかいて肩で息をしていた。そして、目が覚めてから、しばらくの間、声を出さずに泣いていて、やがて再び浅い眠りに落ちて、そして、朝を迎えた。

 夢の中で、医師だった頃、救えなかった患者や遺族、そして、刑務所で仲の悪かった者たちが彼女を罵倒した。彼女はそれらの人たちを前にして無言で立ち竦むことしかできなかった。

 今日は眠りたいと思った紗月はもう1本の缶ビールのふたを開けて、一気に飲み干して、寝具に染みこんだ紗月の汗が嫌な臭いを出すベッドに肌着姿のまま倒れ込んだ。明日も目を覚ますかどうかなどどうでも良くて、ただ、今夜は眠りたいと思いながら、紗月はやはり臭いタオルケットを被ると目を閉じた。

  

 その日、東京の空にはいつにもまして強く輝く太陽があり、早朝から熱中症で倒れる人がいても不思議はないような暑さの中で、人々はそれぞれの仕事場に急いだ。そして、夕方、太陽が沈んでも気温は下がらず、テレビで気象予報士が熱帯夜になる可能性を指摘していた。

 紗月はこの日、会社の奥さんから残業を頼まれて午後7時少し前に会社を出た。

 「明日、大地震があったりして」

 確かにここ数日、会社では二人して大忙しだった。だが、奥さんから残業を頼まれるなど考えもしなかったから、驚いた。普段は締まり屋の奥さんがアルバイト代の他にお小遣いとして3,000円を出してくれたから、更に驚いた。

それにしても会社の専務でもある奥さんは無愛想な人だと思う。紗月に笑顔を向けることは殆どなく、会社にいるときは紗月の隣の席で淡々と仕事をこなしている。ただ、社長と一緒になって一癖も二癖もありそうな職人たちを上手くまとめているようだから人扱いの勘所は心得ているのだろう。

 「今日は何食べようかな、たまにはカルビ弁当なんて良いかもね」

 紗月は、普段、朝食はヨーグルトを1,2個で、昼食と夕食はコンビニのおにぎりと2,3個ずつと決めているから栄養に偏りがあることは自覚するどころではない。その彼女は少しばかりの臨時収入があったから奮発して普段よりも上等な物を食べようかなどと考えて、思わずにやけた。

 会社からの帰途、行きつけのコンビニで弁当と缶入りカクテルを買い、家路につこうとそこを出ると車体の横に「警視庁」と書かれたワゴン車が2台、紗月の目の前を走って行った。

 紗月はそれを気にとめることもせずに、何時もの道を歩いてアパートに向かうと、その前にパトカーが数台止まり、スーツの上着を脱いでワイシャツ姿になった数人が忙しそうにしている光景が見えた。

 よく見るとテレビドラマなどで見る黄色のテープが張られている。

 なんだろう、空き巣でもあったのかな、紗月はそう思いながらアパートの前につくと、近所の住人たちがその様子を取り囲んで眺めていた。

 紗月がそこにいた中年の制服姿の警察官におずおずと

 「あのぉ、私、ここの住人なんですけど」

と言うと、彼が、少々お待ち下さい、といい駆け足でアパートの方に行き、彼と一緒にスーツ姿の男が2人こちらにやってきた。 「どうも、すいません、お忙しいところ」

 2人は口々にそう言いながら上着のポケットから警察手帳を取り出すと紗月に示した。

 「お手間は取られませんので、少しだけお話をお願いします」

 一人の私服の刑事がそう言いながら愛想笑いを紗月に向けた。

 紗月は、仕方なく頷いた。

 もとより自分の過去を思うと警察と仲良しになりたくはない。

だが、ここで断ったら更に疑われそうな気がした。

 一人の刑事が質問し、もう一人は黙ってそれを聞いていた。

 「お名前は?」

紗月は迷った。

 この界隈で、自分が松田紗月ということを知っている人は殆どいないはずなのだ、皆、といってもごく限られた範囲の人たちだが、このアパートの203号室に住む30代半ばの女は「田本なつき」だと思っている。だが、今、この警官に「田本なつき」と名乗って万が一、後から調べられて嘘がばれたら、何もしていないのに疑われることになりはしないか。

 「松田紗月、です」

 紗月は目の前で警察手帳にメモを取る刑事から視線をそらして答えた。

 その後は、紗月が予想したとおり、ここ数日の行動や怪しい人物を見なかったかなどテレビドラマの刑事物でみるようなやりとりが続いた。

 「念のために伺いますが、ここに入居される前はどこにお住まいでしたか」

 紗月は刑事の問いに、どきっとした。

 警察としては捜査に必要な情報なのかも知れないが、紗月からするとは聞かれたくない話だ。

 「言わなくては、いけませんか」

 「お願いできませんか」

 「私にも、プライバシーが」

 「秘密は必ず守ります。お願いします」

 なんとなく相手に気圧された紗月は渋々と言った様子で

 「**区の、その、更心寮というところに、住んでいました」

 と答えた。

 「えーと、更心寮ですね、これは会社の社員寮か何か?」

 紗月の心は、突然、明るくなった。

 彼は「更心寮」を知らないのだ、ということは、今、彼の目の前で話をしている女が刑務所帰りということに気がついていない。考えてみると、寮の建物もさほど目立つような外観では無かったし、世間の目に配慮してか表だって寮の存在を訴えかけるようなこともしていなかった。

 「会社じゃ無いんですけど、その、女子寮なんです」

 「ああ、不動産会社がやっているシェアハウスのようなものですね」

刑事は勝手に勘違いしてくれたようで、紗月は嬉しかった。

 「あの、ここで、何か」

 紗月はメモを取る警官に恐る恐る訊いた。

 「1階の一番奥の部屋で男性の方が亡くなっていたんです、今日の夕方に、この近くの交番に異臭がす  るって連絡があってそこの警察官が大家さんに立ち会って貰って中に入ったら、死体があって、それ  で我々が」

 紗月は刑事が話が半分くらいしか耳に入らなかった。

 紗月から話を聞いた刑事と組んでいるらしい刑事が、相方がメモを取り終えたことを確かめると

 「お忙しいところありがとうございました、もしかしたら、後からお話を伺うことも在るかも知れませ  んので、その時はよろしくお願いします」

 と如何にも人の良さそうな表情で言い、紗月を解放した。

 黄色いテープをくぐってその中に入り、部屋に向かう紗月の後ろ姿を見送りながら、メモを取っていた刑事の相方で、二人のやりとりを笑顔で黙って聞いていた刑事が

 「あの女、刑務所帰りなんだな」

 と小声で言った。

 「そうなのか?」

「おれは**署でで生活安全課にいたからね、更心寮は知ってるんだ。女の子の更生保護施設なんだよ」

 「任意同行を求めるか?」

「それは止そう、死体の出たアパートの上の階に住んでいたというだけでは、無理だ。鑑識さんの結果  次第だけど事件性もないようだし、それに」

 「それに?」

「あの女、お前が名前を聞いたときに、凄い目をしてお前をにらんだだろう、もし加害者ならあんな風  にはしないよ」

 紗月に直接質問した刑事が同僚から言われて頷いた。

 「綺麗な女だったな、何やってるのかな」

 「ホステスかな」

 「それは無いと思うよ、あの顔とスタイルだぞ、銀座のクラブでだって十分、通じるよ、こんなおんぼ  ろアパートには住まんよ、もっと豪華なマンションにでも住むさ」

 「たしかにな」

 二人はそういながら再びアパートの方に向かって歩いた。

 一方、紗月は煩い刑事たちと別れ、自分の部屋に入った。

 今朝、出勤するときにクーラーの出力を上げていったので部屋は外に比べると幾分、快適だった。

 今日も紗月は汗まみれだった。さすがにこのままで眠ることはできないと思い、ジャージに着替えて風呂道具をもって銭湯に向かった。

 夕食後の時間帯ということもあってか銭湯は結構な客の入り具合だった。

 蒸し暑いでは済まされないほどの湿気と気温に辟易しながら何とか生きているが、この風呂に浸かると1日の疲れが溶け出すようで、心地よい。大学生だった頃、東京出身の友人が、東京の銭湯は熱くて入られないと言っていたが、ここのお湯は温めで紗月には丁度良い。

 女風呂の客は殆ど近所の主婦たちで占められていて、皆、大きな声で紗月の住むアパートで警察の捜査があったことを話題にしていた。そんな中、紗月は風呂の心地よさに何かを考える気力を奪われて、彼女は時としてそうするように、湯に浸かりながら居眠りを始めた。

 ふと自分の体が傾いた様な気がして目を覚まし、隣を見ると紗月よりは大分、年下の女が湯に浸かっていた。

 紗月は何故か酷く恥ずかしい姿を他人に見られたような気がして、さっさと風呂からでて洗い場で体を洗い、浴室をでた。

 服をきてロビーに出た彼女は自販機で買ったリンゴジュースを飲んだ。

 喉に染み渡る冷たさとほんのりとした甘味とリンゴの風味が心地よい。

 熱帯夜という予報は多分、的中していて、せっかく、風呂に入って汗を流したというのに、紗月は外の蒸し暑さでまた汗をかいた。

 紗月のアパートでは警察の現場検証なども終わり、何時もと同じような静けさを取り戻していた。

 熱くなってから自室ではいつもそうしているように、全裸になりバスタオルを捲いて机に向かった。

 少しずつ冷えていく体が心地よい。

 紗月はミーシャの手を取って引き寄せた。

 「ただいま、ミーシャ、今日ねぇ、このアパートの1階でね、人が死んでたんだよ、怖いねぇ。」

 紗月は、そう言いながら、ミーシャの頭を撫で続けた。

 銭湯では考えないようにしていた、今日、このアパートで起きた孤独死のことが脳裏に浮かんだ。

 都会、夏、孤独死、異臭、警察。

 紗月は死体として発見された人について何も知らない。おそらく見かけたことも話をしたことも無いはずだ。だから、その男性に同情する気持も余りない。だが、紗月は自分も孤独死するかもしれないと思い、ぎくりとした。

 この部屋で自分が死んだとしたら会社の奥さんは心配してくれるだろうか、人が溢れるこの東京(まち)で紗月の代わりは幾らでもいるのに、だ。

 クーラーと冷蔵庫のコンプレッサーの作動音以外に音のない部屋で、紗月は何も考えることが出来なかった。

 ぬいぐるみのミーシャの手をもてあそびながら、机に突っ伏して胸に幾分冷たいその感触を覚え

 「怖いよ、ミーシャ」

 と紗月は小声で呟いた。

 翌朝、紗月は、いつもより早く起きて例のコンビニで新聞の朝刊を買って部屋に戻り、昨日、住んでいるアパートで起こった事件の記事を探した。

 一面から順に捲り目を皿のようにして紙面をみたが、どこにもそれは載っていなかった。

 紗月はそのこと妙に納得した。

 紙面を見ると昨日は他にも大事なことが沢山ある日だったようだ。事件でも事故でも無く、単なる人の死を載せる余裕が無かったのだろう。

 そして、紗月はふと思った。

 私が顔も名前も知らないその男性は、もしかしたら、自ら孤独死を望んでいたのではないか。そして、今、私がこの部屋で死んでも、世間からすると「孤独死を選んだ女」だ。

 紗月は、在監中、同じ雑居房にいた受刑者が仮釈放が認められると 皆、

 「親が迎えに来てくれる」

 「夫が待っていると手紙で知らせてきた」

 などと嬉しそうに話していたことを覚えている。中には、そのことを他の受刑者から揶揄されて不機嫌になった者もいたが、ここで揉め事を起こして懲罰かけられて挙げ句の果てに仮釈放が取り消されては元も子もないから、皆、大人しくしていた。

 紗月は今でも同じ雑居房で服役していた60代半ばの受刑者のことを鮮明に思い出すことがある。

 その老婆は白髪を頭の後ろで束ねて、刑務所でのことだから化粧は一切していないのに肌に艶があり、一見したところどこかの大会社の重役夫人といっも通じるような品を備えていたが、実際の彼女は人生の半分以上を刑務所で過ごしてきたと言う刑務所では有名人という人物だった。

 その彼女は紗月よりも1年ほど遅れて下獄して半年ほど早く満期で釈放された。その老婆が

 「私の親兄弟は全部死んでしまっていて刑務所を出ても私のことを誰も助けてくれないの」

 と運動の時間に紗月の隣にたって呟くように言い、紗月は、そうですか、と気のない返事をしただけだった。そして、そのあと、ため息交じりに老婆は

 「私、刑務所では死にたくないけど外で死ぬときも独りぼっちで死ぬしかないの」

 と言った。

 今、紗月は彼女と自分の境遇が重なって思える。

 紗月もその老婆と同様に刑務所を出ても独りぼっちだった。これからの人生も一人のままだろう。あの老婆が背負っていたのと同じような孤独を、今、紗月も背負っていて、これからも変わらない気がする。

 朝から皮肉っぽい笑みを浮かべた紗月はミーシャに、行ってくるよ、良い子にしていてね、と声をかけると会社に向かいアパートを出た。

 結局、昨日、このアパートで死体で見つかった男性のことは東京ローカル紙の夕刊の片隅に小さく載っただけだった。

 全ては何事もなかった。


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