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壊レタ世界ノ唄ウ詩

作者: 秋月雅哉

乾いた風が砂埃を運ぶ。癖のある黒髪が視界を遮った。何処までも続く不毛の大地。少年は一つ息を吐く。

度重なる核戦争で人々は地上を追われた。進む少子化で人々はゆっくりと、しかし確実に絶滅への道を辿っていた。

「…終わらない悪夢、か」

小さな呟きは風に掻き消されて自分の耳にすら遠く聞こえる。終わらない悪夢。自分がいるのは地上だ。放射能で汚染され、土と砂のみで形成された不毛の地だ。普通の人間なら、否、生き物ならば防護服で身を固めなければ息絶える場所。

其処に少年は立っていた。詰襟の服は夜色。服の上にあるべき筈の防護服を、彼は纏っていなかった。年は十代の半ばだろうか。

不機嫌そうに寄せられた眉も目も、髪も黒い。名を、風城楓。彼はある特殊な組織の一員だ。生き物は全て地上を追われ、地下シェルターでの生活を余儀なくされたか、或いは絶滅したか。

その二つ以外はないと大抵の人々は思っている。だが例外が存在したのだ。ゲームの世界にのみ存在すると思われていた異形の化物。彼らは感染する。人だったモノが異形へ変わる。

空気感染、血液感染など、弱い存在程容易に感染する力を持っている。 一部の人間は彼らをこう呼んだ。

――妖、と。

力の強い妖は人に近い姿をしている。遠い昔から伝わる神や悪魔の物語は、妖の物語であるのかもしれない。そしてその物語で言う救世主も、この世には存在した。妖にならない人間。地上で防護服なしでも活動できる人間。

抗体者。楓もその抗体者の一人だった。最も、実戦経験はまだない。学園と呼ばれる施設で生きる術を学んでいる最中だ。彼には記憶がなく、呆然と学園の前に立っているところを発見された。それが数ヶ月前。それ以来、楓は暇があれば学園の門から外を眺めていた。何時もと変わらない砂埃に辟易して戻ろうかと身を翻した瞬間、何かが視界に入る。それは徐々に近付いてきていた。地上に存在するのは自分達抗体者と妖のみ。そして抗体者は全員学園内にいる。

「…っ!」

息苦しさ。冷や汗が身体を伝う。学園を滅ぼそうとする妖がいるというのは話に聞いていた。 だが、実戦経験と過去を持たない少年にとってそれは何処か遠い話だったのだ。

そう、御伽噺の様な。

影は三つ。人のように見えた。小鬼や妖精のような、殆ど力のない、運さえ良ければ人でも倒せる妖はC級。トロールやオーガ等はB級。それより少し人間に近い姿をしているのがA級。A級より知性が高いとS級。そしてほぼ倒すのが不可能、と言われるSS級。人の姿をしているという事は、少なくともA級だ。

実戦経験のない楓が敵う相手ではない。それが分かっていながら楓は動けなかった。恐怖が身体を支配する。 はっきりと姿を確認できる距離まで近付いた時、楓は息を呑んだ。似ている。 似すぎている。 自分のパートナーに。違うのは髪と目の色。服。パートナーにはない三対の黒い翼。 蒼い目が訝しげに細められた。

血が通っているのか疑いたくなる程肌が白い。 銀色の髪は長く、風が吹いていなければ太腿半ばまではあるだろうか。華奢な身体を暗紅色のタートルネックのセーターと黒いロングコートが包む。 楓は無意識の内に剣を抜いていた。敵う筈がないと分かっていた。 それでも、この先に行かせる訳にはいかない。 少し後ろにいた長身の青年が面白そうに目を見張る。 鮮やかな赤い髪と対照的に目は濃紺。

胸元の開いた服の上からでも、機能的に鍛え上げられた体付きをしているのがよく分かる。 背には身の丈程もある大剣を背負っていた。最後の一人は最初の一人よりは背が高く、二番目の青年よりは小柄だ。 膝裏まである金の髪。サイドは片方を金属の髪留めで留め、もう片方を二房に分けてそのまま垂らしている。

最初の一人とよく似た顔立ちで、目は水色に近い青だった。

「…何のつもりだ」

その声を聞いた楓が思わず剣を取り落とす。 外見だけでなく声までそっくりだった。

「止めないのか、カイン」

赤い髪を掻き揚げながら青年が聞く。

「止める理由は特にないかな」

金髪の青年は飄々と答えた。

「相変わらずいい性格してるな」

「君の方こそ止めないのかい?彼はセレンのパートナーだろう?」

セレン、と楓の唇が動く。 しかし声にはならなかった。

「此処で生活していく以上、蛙も大海を知る必要があるんじゃないかと思ってな」

「カイン、ランス。軽口は其処までにしておけ」

黒い翼の持ち主は不機嫌そうに眉を寄せた。

「風城楓、だな」

「……だったら何だ」

「お前は総帥に剣を向けるのか?」

「総帥?妖の間違いだろう」

「やれやれ…留守が長かったとはいえ総帥の顔を知らない相手に出迎えられるとはついていないな」

「仕方ないよ、フィル。君、自画像も写真も残してないんだから」

「義兄様、お帰りなさい」

みれば門に駆け寄ってくる人物がいた。 楓が剣を抜いた理由。 護ると誓ったたった一人の存在。

「…にい、様?」

「楓?どうして剣を抜いてるの?」

「セレン、こいつらは…?」

エメラルドグリーンの外に跳ねた髪と赤い目。十字架を模した柄のシャツに身を包んだ少女は翼を持つ来訪者と全く同じ顔付きだった。

「俺はランス。セレンの義理の兄だ」

「僕はカイン。ランスの従弟」

「…フィリエルだ。剣を退け、風城」

「フィリエルって…男、なのか?」

呟きの返答は拳骨だった。

「見れば分かるだろう」

「いや、分からねえと思うけど」

ランスの呟きはしっかりフィリエルに届いていたらしく射殺すような視線が向けられる。向けられた本人は慣れているのか神経が太いのか何処吹く風だ。

「という訳で中に入れてくれるかな?」

何がという訳、なのかさっぱり分からない。 楓が悩んでいると再び足音がした。

「総帥。お帰りをお待ちしておりました」

穏やかな声が背後から響く。

「鴉か。留守中、何か変わった事は?」

「此方の少年が発見された他は、何も」

「そうか」

総帥代理である鴉が『総帥』と呼んだ以上、少女にしか見えない少年が真の総帥である事は間違いない。 黙って剣を納めた。

「人に剣を向けておいて謝罪の一言もないのか?」

「っ!」

反射的に其方を向いて、動きが止まる。 目を離せない瞳。 強い意志を宿した、深い蒼。

「………悪かった」

「動揺は死を招く。気を付ける事だな」

脇を通り過ぎていく影。 心理であるが故に反論できず、反論できない故に苛立つ。

「俺達も行くか。楓も、眉間に皺寄せてないで来いよ。一人でいるのは危険だぜ?」

ランスに背を押され、セレンに手を引かれる。 子供扱いされている。 不満はあった。 けれど発見される以前の記憶が全くない自分は彼らから見れば子供同然だという事も分かっていた。


「…本体は?」

後ろの集団に聞こえないよう、そして唇の動きを読まれないよう殆ど口を開かずフィリエルが問う。

「貴方が去る前と何一つ変わりません。…繋がりませんか?」

「ああ。これ程近くにいるのにな」

細い眉が寄せられた。

「模造品ができる事は限られている。さっさと目覚めて欲しいものだがな」

「まだ時期ではないのでしょう」

「そう悠長に構えてもいられないだろうに」

「こういう時程落ち着け…貴方の言葉ですよ」

「…そうだな」

蒼い目が、空を見上げた。



夜、楓はバルコニーにいた。 欄干にもたれかかって溜息を一つ。

「どうした、少年。悩み事か?」

突然響いた声にビクリと身体が反応する。 隣の部屋のバルコニーでランスが片手を上げた。

「悪い、驚かせたな」

その体躯にしては意外な程身軽な動作で楓の隣まで飛び移る。

「…あんたらも、人間じゃないのか?」

黒と濃紺の目がぶつかる。

「ああ。俺とカインは龍人だ」

「…彼奴は?」

「龍人と天使のハーフだよ」

――大丈夫?

パートナーの声が甦る。 何も分からず立ち尽くしていた自分に、彼女はそう声をかけてきた。不審が消え、好意に変わるまでそれ程時間はかからなかったように思う。

――ボク、人間じゃないんだ。

困ったような表情でそう彼女は告げた。 下を向いていた視線を上に向けると彼女の義理の兄も同じような表情をしていた。

「もう、滅んだ国だ。…でも、フィリエルは諦めてない」

謎かけの様な言葉。 疑問は沢山あった。 何故滅んだのか。 滅んだのなら何故彼らは存在しているのか。 何故、此処で抗体者として生活するのか。 諦めないとはどういう事か。

何故。

何故。

何故。

疑問が頭を埋め尽くす。

「…フィリエルは、さ」

少しの沈黙の後ランスが口を開く。

「可哀想な奴なんだ。…こんな風に言うと怒るんだけどな。それに不器用だ。真っ直ぐ過ぎる位真っ直ぐで、頑固で。重荷を背負っていながらそうと気付かせない。一人で何でも背負って、フラフラになりながらそれでも弱音を吐かない…吐けない。そういう奴だ」

昼間見た蒼い目が脳裏を過ぎる。

「彼奴が何であんな態度を取ったか、分かるか?」

少し考える。 フィリエルという人物を、楓は何も知らなかった。だから首を振った。

「お前がセレンのパートナーだからだ」

「…それって」

「お前はセレンに選ばれた。それは同時に彼奴がお前を選んだようなものなんだ」

「…訳、分かんねぇよ」

「後でフィリエルに聞けばいい。これ以上は、今話しても混乱するだけだ」

「…聞いたら答えが出るのか?」

「お互いを認める事が出来たらな」

「…激しく無理っぽいんだけど」

楓の言葉にランスが声を上げて笑う。

「時期が来れば分かるさ」

「時期?」

「聖と魔の、一瞬の邂逅」

謎めいた言葉を残してランスが自室へ戻る。 それから暫くの間、楓は黙って空を見ていた。 頭の中を渦巻く疑問と、その疑問を与えていった青年に少し恨めしさを感じながら。それでも投げ出しはせず、考えていた。 夜が明けるまで。




「…どうして」

小さな声は発した本人以外には届かず床に落ちた。

「…どうして、目覚めない?」

怒り。 悲しみ。 戸惑い。 そして切なさを孕んだ声。暗い室内の中央に据えられた手術台。 周りは入り口以外全てが淡い青の光を放つ水槽。 その中にたゆたうのは何人ものフィリエルだった。 そして中央の台に横たわるのもフィリエルだった。 其処にはフィリエルしかいない。言葉を発したフィリエルがそっと台の上のフィリエルに触れる。 身体の傷は癒えている。 では心の傷は? 今はいい。模造品である自分でも耐えられる。 今は、まだ。 だが、もう少しで限界が訪れる事を彼は悟っていた。 その時までに目覚めが訪れなければ、この世界は崩壊する。 自分では、力が足りない。

フィリエルは黙って唇を噛んだ。 彼は台に横たわる本体の模造品。 力は数十分の一まで抑え込まれ、それでも長い時間身体を維持する事が出来ない、言ってしまえば粗悪品のような存在だった。自分が何度目の代用品なのか、数えるのを止めたのは随分前の事。

「眠れないのですか?」

穏やかな声にフィリエルは顔を上げた。

「…鴉」

「珍しいですね。此処に来るのは」

「時間がないからな。……これだけ近くにいるのに、何も分からない」

「…本体は」

「何だ?」

「心を閉ざしているのでしょうか?」

「…そうだな。日増しに同調を保つ事すら難しくなってきている」

思い当たる理由は一つ。 もうじき、決着を付けなければならなくなる。 脳裏を過ぎる影。 フィリエルは静かに首を振った。

「逃げていても何も変わらない。それどころか犠牲が増えると分かっている筈なのにな」

「貴方は、どうするのですか?」

「さあ、な」

フィリエルが水槽に手を翳す。不思議な事にそれだけで水槽の中にいたフィリエルの一人が水槽の外に出た。周りも二人のフィリエルも水に濡れた様子がない。 二人の身体が重なる。 淡い光が場に満ち、静まった時には既にフィリエルは一人になっていた。

「…何度経験しても嫌な感覚だな」

「もう少し強度があがれば良いのですが…」

「これ以上は無理だろう。…だが」

溜息が一つ。

「これでは、足りない」

沈黙が訪れた。

「風城は何処まで知っている?」

唐突な話題変換だったが鴉はあまり気にする素振りを見せなかった。

「まだ、殆ど何も」

「…話す、べきだろうか」

「巻き込もうとするのであれば話しておいた方が良いのではないでしょうか」

「…何処から話すべきかな」

「それは総帥がお決めになる事ですよ」

「敵対意識を持ってるみたいだから何処まで聞いてくれるのかが問題だな」

「緊張しますか?」

その問いには緩く首を振る事で否定の意を示す。

「古傷が疼くだけさ」

会話は此処まで、と示すようにフィリエルは背を向ける。

「ああ、総帥」

「何だ?」

「食料品と医療品の在庫が少なくなっています」

「補充すれば良いだろう」

「お忘れですか?」

黙って首を傾げる。

「シェルターに降りるには総帥の許可が必要ですよ」

「…ああ。そういえばそうだったな。まだ指紋やら眼球やらの検査があるのか?」

「はい。前より更に厳しくなっています。妖は女子供の肉を好みますからね」

「相変わらず少子化は進んでいる訳か」

「我々は順調に滅びの道を辿っているようですね」

鴉の言葉にフィリエルの眉間に皺が増えた。

「滅びるならこの地に緑を戻してからにして欲しいものだな」

「緑といえば虚木が宿った地で桜が咲いたようですよ」

「随分懐かしい名だ。…折角だし、会ってくる」

「お気をつけて」

扉へと向かうフィリエルに副総帥は静かに一礼した。 中庭は外に比べると外観にかなりの差があった。 密林と呼んでも差し支えない程の木々がざわめいている。 片隅に植えられた桜の木。地下シェルターではもう見る事の出来ない、東の島国の春を告げる花。 その木の根元に、誰かがいた。

胸まで土に埋もれ、藤色の髪が地面を這っている。 長い前髪に隠れて表情は窺えない。 その異様さに飲まれる事なくフィリエルは膝を折った。

「久し振りだな、虚木」

「…神龍主…か。どうした」

「挨拶に来た。此処を緑豊かな場所にしてくれて、有難う」

「…汝の為ではない」

「分かってるよ。それでも礼が言いたいのさ」

「……この木々が、枯れるとしても?」

「宿木はまだ其処にいるのか?」

「…我らは表裏一体。離れる事など出来はしない」

「それなら木々が枯れ、やがてまた芽吹くのも表裏一体。自然の摂理さ。お前達はそれを少し早めるだけに過ぎない」

「相変わらず甘いなぁ」

髪の色が赤紫に変わっていた。 口調も違う。 長い髪の向こうからクツクツと笑う声がする。

「宿木か。久しいな」

「それは虚木の中にいた時聞いたよ」

「お前には言っていない」

「はいはい。ご機嫌如何ですか?神龍主様」

「あまり麗しくない」

笑声が増した。

「一大事だもんねぇ。ドラゴンマスター同士の戦いなのに本体が目覚めないなんて」

神龍の主、神龍主。

邪龍の主、邪龍主。

その二つの存在はどちらも『ドラゴンマスター』と呼ばれる、対だ。

或いは光と闇。 或いは聖と魔。 或いは生と死。 対極にありながらしかしそれらは同じものでもあった。

「あんまり欲張りすぎると全部壊れるよ?」

「…………」

「君は生まれ故郷を壊した。今度もそうならない保障が何処にある?」

「……」

「君も、君の本体も。怖いんだよ」

「…分かってるさ」

銀の髪が表情を隠す。

「それでも、退く訳には行かない」

「そう」

「…ところで」

不意に顔を上げたフィリエルが後ろを振り返った。

「何時まで其処で盗み聞きをしているつもりだ?」

不機嫌そうに眇められた目は闇に紛れた楓をしっかりと捉えていた。

「…何時から…」

「最初から」

「…故郷を、壊したって」

「……龍人界ドラス。神龍国ドラグニール。それがオレ達の故郷だ。今はない。本体が惑星ごと壊してしまった」

息を呑む楓に構わずフィリエルは木に凭れ掛って話を続ける。

「本体はドラスの住民全ての魂を自分の身体に移した。癒しの時が終わればドラスは復活する。…本体の魂を軸にして」

「…じゃあ、あんたはどうなるんだ?」

「本体の目覚めと共に消滅する」

「何で!何でそんなに冷静なんだよ!?」

激昂する楓と対照的にフィリエルは冷めていた。

「冷静さを保たなければ犠牲が増える」

「……」

「初めて戦場に立った時、誰も犠牲にしないと決めた。ドラスを崩壊させた時、必ず元に戻すと誓った。この世界に来た時、この世界を在るべき姿に戻すと誓った」

握り締めた手が微かに震えていた。

「ランスが言ってた。…あんたが、可哀想な奴だって」

「……セレンの方が可哀想だ。オレが男だったから…そして双子だったから、両親を殺された」

「え…?」

「ドラスは予言を重視する。銀色の髪と蒼い目を持って生まれてくるのは女でなくてはならない。でもオレは生まれる筈のない男だった。そして双子だった。神龍主が双子の片割れとして生まれた場合、禍が起こると言われている」

手袋越しに爪が掌に突き刺さる。

「オレは表向き王女として公表され、母と弟は処刑された。…オレの対にあたる、セレンの両親もな」

「!」

「だから本当に可哀想なのはセレンとオレの母と弟なんだ。オレが生まれたせいで、殺されなくてはならなかった」

楓を捉える蒼い瞳。 揺れているように見えるのは距離があるからだろうか。

「…そして予言通り、オレは世界を破滅させた」

泣き出しそうに見えるのは距離があるからだろうか。

「オレが生まれなければ、母と弟が死ぬ事はなかった。セレンは両親の元で幸せになれる筈だった。カイン達が故郷を失う事にもならなかった。全部オレが悪い。…それでも、オレは生きなくてはいけない。邪龍主と決着をつけ、全ての悪夢を終わらせる為に、生きなくてはいけないんだ。それがオレの存在理由。生かされてきた理由だから」

それは酷く哀しい言葉だった。 楓は返す言葉を持たず、ただ下を向く。 そして一つだけ問うた。

「…あんたは、幸せになろうとは思わないのか?」

「……そんな資格、オレにはない」

短い沈黙。

「幸せになるのに、資格がいるのか?あんたはまだ誰も殺していないんだろう?」

「実質的に手を下していなくてもオレが殺したようなものだ」

「…生きてる奴は多少の差はあれ生き物を殺してる。それが生きるって事じゃないのか」

「微生物であれ龍人であれ命の重さに変わりはないと?」

「そうだ」

楓の言葉にフィリエルは苦く笑う。

「…それでも、オレの罪が消える訳じゃない。沢山の存在を哀しませた事。それもオレの罪だから」

「……」

「オレには転生前の記憶がある。全部女性のものだけどな。神龍主が生まれる度に邪龍主も生まれて、彼女達は邪龍主を討ってきた。それも、オレの罪」

「それはっ…」

「オレの魂は、罪で穢れている。それでも…何か出来る事があるのかな」

小さな呟き。

「…夜も更けた。部屋に戻れ。明日はシェルターに向かうぞ」

背を向けた総帥を引き止める言葉を、楓は持たなかった。




護りたい存在こそ、呆気なく掌から零れ落ちてしまう。どうすればいい? どれだけ力を求め、手にすれば、護る事ができる? 何度も何度も自分に問うた。答えは、でない。 古傷が疼く。 沢山の命を犠牲にしてきた。 償うためだけの命。 それなのに。生きていていいという理由はそれ一つだけなのに。 また、大切な存在が掌から零れようとしている。 どうして。 どうして自分はこんなにも無力なのか。 フィリエルは問う。 自分に。 本体に。 答えは、出ない。

噛み締めた唇から。握り締めた掌から。血が、滲む。この翼は罪の証。この命は、罪で穢れている。それはフィリエルが一番良く知っていた。だからこそ、彼は悩む。 だからこそ、彼は迷う。大切な存在全てを護る為に、彼は剣を振るう。 その結果、自分がどんなに傷付くとしても。




そして、長い夜が明けた。翌朝楓が広間に集まると全員が揃っていた。

「…準備は」

問いかけるフィリエルの背に、翼がない。

「…翼があっては妖と勘違いされるだけだからな」

視線を辿って結論に至ったフィリエルは感情の篭らない声でそれだけを告げた。

「持っておけ」

投げつけられた物が手の中でずしりと存在を主張する。それは簡素な鞘に収まった、短剣だった。

「シェルターの防備も、完全ではないからな。念のためだ」

楓が固い表情で頷く。

「…鴉」

「準備は出来ていますよ」

「行ってくる」

「お気を付けて」

シェルターに繋がる門が、開く。

地下なのに空がある事に楓は驚いた。

「単なる映像だけど、中々リアルだろう?」

ランスが笑みを含んだ口調で話しかける。

「そっか。楓はシェルターに下りた事、なかったもんね」

指紋、声紋の照合。 眼球を始めとする体のパーツの確認。 目的の説明。 兎に角、時間がかかった。管理官の目は不審を隠そうとする努力すら、なされていなかった。その原因は主に総帥を名乗ったフィリエルにある。

「こんな吹けば飛びそうなお嬢さんが総帥?冗談も程々にしてくれよ」

対してフィリエルは表情一つ変えずに答えた。

「動くなよ」

「は?」

一瞬の間の後、管理官の横をすり抜けたナイフが壁に突き刺さる。

「な、何をするんだ!!」

耳障りな声で絶叫する男の脇を、フィリエルが通り過ぎる。 ナイフには何かが刺さっていた。

「…蟲型の妖だな。セレン、悪いが鴉の所に行って解析を頼む」

「うん、分かった」

「月読。セレンの護衛を」

月読、という言葉に楓が首を傾げる。そんな名前の存在は知らない。 ゆらり、と空気が揺れた。 姿を現したのは長身の青年だった。 月光を思わせる、淡く光るようなパールブルーの髪。 水面の様な静かさを湛える、深い青の目。 先程まではいなかった存在に驚きを示したのは楓だけだった。

「…『感染』しているな」

フィリエルの言葉を察知した全員が顔を強張らせる。 コートの留め具になっていた十字架が外される。 地面に落ちる寸前のところで十字架は細身の剣に姿を変えた。

「ランス、周辺に感染者がいないか確認を」

「了解」

「カインと風城は住民の避難経路を確保しろ」

「君は?」

「招かれざる客の相手をする」

「分かった。行こう、楓君」

あっさりと指示を受け入れるランスとカインに楓は困惑する。

「瑠璃、翡翠。お前達はランスへつけ。藍玉と琥珀はカイン達に。不知火はセレンの許へ」

ランスとカインの影に、別の影が重なった。

「一人で大丈夫か?」

「その方がやりやすい」

行け、と目が促す。それと同時に濃い瘴気が辺りを包んだ。C級の妖と、それに混じるB級の妖。全てを合わせると三十体はいるだろうか。

「一人でなんて無茶だっ」

「無茶かどうかはオレが決める。…行け。総帥命令だ」

フィリエルが剣を構え、楓は引き摺られるように走り出した。

「心配じゃないのかよ!?」

「君は僕程フィルを知らない」

声は飄々としている。 が、楓の腕を掴む強さが、苛立ちを教えた。

「君は化物と呼ばれる覚悟があるかい?」

「…え?」

「人にとって妖は脅威だ」

「それ位…」

知っている、と言おうとした。

「じゃあ、妖を倒す力を持つ僕達は?」

「……」

「見た目は変わらない。それなのに自分達の脅威を抹殺する。そんな僕達は、何?」

「……」

「答えは簡単。『バケモノ』さ」

自嘲するような響きの声。

「護り抜いた存在から化物、と罵られる覚悟が、君にはあるかい?」

「…っ…」

「君の心が壊れる事を一番心配しているのは多分、フィルだよ」

戦いから遠ざける。戦う姿を見せない。どんな時でも自分より周りを優先させる、甘さ。

「君の心が壊れるのを、望んでる連中がいる」

「え…」

「それは僕達にとっての、本当の敵だ」

カインの顔が険しくなる。

「僕はあの子が幸せならそれで良いんだ。…その結果、世界が滅ぶ事になっても、ね」

でも、とカインは続ける。

「あの子は、僕と違って優しいからね。世界が滅んだら、悲しむんだよ」

「……」

言葉が、出なかった。

「君の心が壊れても、僕は一向に構わない。セレンは悲しむかもしれないけどね。ただ、闇に堕ちられては困るんだよ」

意味は半分も理解できない。 それでも楓は恐怖した。

「闇に堕ちたら、フィルが君を殺さないといけなくなるからね」

「!」

「それが、神龍主の役目。誰も肩代わりできない、業」

「…何、で」

「セレンが君を選んだからさ」

ランスと同じ言葉。

「君の意思とは関係ないところで、物語は進んでいるんだよ」

現実を突きつける、冷たい声。

「住民は避難済みみたいだね」

誰も外に出ていない。その時になって漸く楓は警報が鳴り響いている事に気がついた。 想像以上に話に引き摺られていたらしい。

「カイン、楓。無事か?」

ランスが近付いてくる。

「逃げ遅れた住民はいないみたいだよ。そっちは?」

「こっちもだ。…戻るぞ」

走り出す三人。

「学園の方は無事なのか?」

「セレンは攻撃能力を持たない。けれどそれ故に僕達の中で一番強い結界を張れる」

「で、攻撃担当がフィリエルの命令で護衛についた。今一番危険なのはフィリエルだ」

現場が近付くにつれ、楓の動きが鈍る。 ランスとカインは当然気付いていたが、何も言わなかった。 かつて自分達も通った道だ。そして、乗り越えなければならない道でもあった。

「フィル」

最後の一体に、剣を突き刺す。 妖は粒子となって消えた。

「    」

フィリエルが何かを呟いた。

「怪我は」

「大した事はない。…が、取り込んだ魂が多すぎる」

常から白い肌は白いを通り越して青白くさえ見えた。

「…数時間もすれば慣れる。……戻るぞ、買い物は中断だ」

白い頬に一筋の赤。 大丈夫か、とは問わなかった。 答えは、分かりきっている。 そう長くはない付き合いだがそれ位は、楓にも分かった。

「…新しい管理官が、必要だな」

「そうだね」

「運がいいんだか悪いんだか」

軽口を叩きながらも何時もとは目が違う。 張り詰めた気配。

「…上に戻るぞ」

抜き身の刃物の様な鋭さを秘めたフィリエルの眼差しに、楓は息を呑んだ。 これが、妖と対峙する『抗体者』の生き様か、と。 護る対象から『化物』と謗られる事を覚悟し、受け入れ、それでも護る者の目なのか、と。 上に戻る間、誰も口を聞かなかった。 学園とシェルターを隔てる、最後の扉を開く。

「無事か、セレン」

「あ、お帰りなさい」

セレンの横には青年が二人立っていた。

一人は月読、と呼ばれた青年だ。 もう一人は見た事がない。 漆黒の短髪から紅玉の硬さを帯びた目が覗く。

「月読、不知火。異常は?」

「……これから起こる」

不知火と呼ばれた青年が短く答える。

「主」

「ああ」

フィリエルが再び留め具を剣に変えた。 ランスが大剣を引き抜く。 カインは杖を構え、セレンの顔が強張った。

「お久し振りですね」

笑みを含んだ、けれどぞっとする程冷たい声が響いた。白髪に、血の色の瞳。薄い唇から覗く犬歯。襟を立てたコートに包まれた背中には蝙蝠を思わせる翼が生えている。其処に存在するだけで全てを飲み込む気配。足が竦む。肌が粟立つ。声がでない。間違いようもない殺気。妖に関して知識でしか知らない楓も理解せざるを得なかった。SS級の妖だ。

「お顔の色が優れないようですね」

「…シェルターに妖を放ったのは、貴様か」

「ええ。足止めにもなりませんでしたが…貴方の力を削ぐ事ができただけでも良しとしましょうか」

冷たい微笑。

「此処には我が主の『器』となる資格を持つ方が何人かいますからね…折角の好機を、逃す理由はないでしょう?破壊神の円卓騎士の一人として、当然の義務です」

破壊神。 妖を生み出す者。 倒すべき、敵。 だが…『器』とは?

「…風城」

フィリエルが低く呼びかける。

「…セレンを、護れ」

「え…」

予想外の言葉。

「お前は、セレンを護れ。それがお前の戦う理由だろう?」

「!」

自分でも分かっている。足手纏いだと、本当は役立たずなのだと、楓は痛感していた。それでもフィリエルは言う。護れ、と。ならば答えは一つだ。

「セレン」

「楓…」

「お前は、俺が護るから」

「…うん」

セレンを背中に庇う。

「微笑ましい光景ですね」

先に動いたのはフィリエルだった。 ふわり、と体重を感じさせない、けれど猛禽よりも鋭い一撃をもって襲い掛かる。 しかし敵はそれをいとも簡単にかわしてみせた。

「模造品では私に勝てませんよ」

「黙れ!」

「セレン、全力で結界を」

「はい!」

「しかし…厄介だな。よりによって彼奴かよ」

ランスが舌打ちと共に言葉を吐き出す。

「知ってるのか?」

「『死を超えた者』ベアルファレス。吸血鬼化した天使と悪魔のハーフで…変態、かな」

「失礼な事を仰いますね。水龍主」

「だって君、フィルをストーカー並に追い掛け回してるじゃない」

「それは当然でしょう。模造品でも器である事に変わりはないのですから」

「随分余裕だな」

剣がコートを引き裂く。 振り下ろされた剣圧で白い頬に一筋赤が加わる。

「甘いですよ」

剣を引く瞬間、ベアルファレスが攻勢に転じた。 普通の剣より幾分細身の剣が叩き落される。

「…っ!」

「本気で私に勝てると思っていたのですか?死なない私をその、脆弱な体で倒せると、本気で思っていたのですか?」

嘲笑の色合いの強い言葉。

「だとしたら…貴方は愚かだ。その瞳を絶望に染め上げてあげますよ」

気付いた時には間合いに入られていた。 楓はただ闇雲に剣を振り翳した。

「おやおや。ナイト気取りもいい加減にしないと…怪我をしますよ」

瀟洒なナイフが何時の間にか握られていた。 とっさに目を庇う。 が、何時まで経っても痛みは訪れなかった。

「ぼさっとするな」

赤い血。 自分のものではない。 黒いコートに突き刺さったナイフ。 庇われたのだと、理解した。

「何で…」

「オレは替えがきく。お前は一人だけだ」

模造品。代用品。本物が目覚めたら打ち捨てられる存在。それを承知で、それでも護れるものは全て護るという強い意志。勝てないな、と楓は納得した。覚悟が、違う。

「言っておくけどな、白髪頭」

暢気な声。

「此処にいる戦力は、フィリエルだけじゃないんだぜ?」

地面に浮かび上がる魔法陣。

「僕達も、それなりに戦える事を忘れてないかな」

「長生きしすぎて呆けたんじゃねえ?」

軽口を叩きながらも研ぎ澄まされた殺気は本物だ。

「貴方達に呆け老人扱いされるのは本意ではありませんね」

ふわり、と舞い上がる。

「今日は目覚めを確認しに来ただけです。まだ貴方達と刃を交える時ではない…」

「なら、さっさと帰れ」

視認出来ない程の速さで投げられたナイフを、ベアルファレスは労せず受け止めた。

「御機嫌よう、未来の我が主…」

掻き消えるように、姿が消えた。 それと同時にフィリエルが膝を付いた。

「おい…」

大丈夫か、とは聞けなかった。 見れば無事ではないのが明らかだった。

「…全く…『入れ替え』るのは好きじゃないんだけどな」

蒼白の唇を噛み締めるフィリエルの周りが、一瞬歪んだ。 歪みが消えた後には無傷のフィリエルが立っていた。

「…先が思いやられるな」

重い溜息が一つ零れる。

「本体の覚醒が何時になるか分からないのに、円卓騎士が動き始めるとは…予想より、動きが早い」

「どうするんだい?」

「取り合えず、風城を鍛える」

「…俺?」

「SS級に対峙しても死なない程度の実力を身に付けて貰えなければ此方が困る」

無茶を言う、と思ったのは楓だけらしい。 誰も異論を挟まなかった。

「ランス」

「あいよ」

「剣術は、お前に任せる」

「俺に?」

「オレでは持久力が足りない」

「ああ…成程な」

「セレンは自分の鍛錬の合間に傷を治してやってくれ。後、基礎知識を叩き込んでやれ」

「うん、分かった」

「カインは防護壁の強化を」

「了解」

「…オレは本体のところにいる。何かあったら来い」

剣を拾い上げるとフィリエルは一度も振り返らずその場を後にした。

「ランス、先に行ってて」

「一人で平気か?」

「結界を張ったらすぐ行くよ」

「…分かった。行くぞ、楓、セレン」

引き摺られるように歩き出す。

「面倒な事になったな」

その言葉はぼやきに近かったがそれが上辺だけのものだというのはすぐに分かった。

「ベアルファレスは死なない、という点を踏まえてもかなりの強敵だ。だが…それに負けず劣らず強い奴が、まだ十一人いる」

「…じゅう、いち?」

「十二人だからな。円卓騎士は。…当然、親玉の破壊神はもっと強い」

先刻の殺気を思い出す。 気配だけで殺されると思う程の、強い憎しみ。

「…勝算は」

「フィリエル次第だな」

「……あんた達は?」

「俺も剣術にはそれなりの自負がある。体力もな。それでも…」

「…何だ?」

「全力開放したフィリエルの力には、遠く及ばない」

淡々とした口調が事実だと告げていた。

「世界を打ち砕く程の力でなければ、彼奴等を倒して生き残る事は出来ねぇよ」

「…本体ってのは…何で起きないんだ?」

「さあな。…もう、時間がないんだがな」

「…何で平気なんだろうな」

「あ?」

「本体が目覚めたら、今の彼奴は消えてなくなるんだろう?」

「…そうだな。『今』のなのかずっと『先』のなのかは分からねぇけど」

「…俺だったら、耐えられない。誰かのために其処までする気にはなれない」

「俺もさ」

溜息を一つ。

「きっと誰だって耐えらんねぇよ」

濃紺の瞳が空を写していた。

「彼奴はずっと一人で。たった一人で戦ってきた。戦場では周り全てが敵。日常でも、全てが敵。そんな生活を、ずっと続けてきたんだ」

「……日常、でも?」

「俺もカインも彼奴を殺しかけた事がある」

「なっ…」

「彼奴は父親にも疎まれていたしな。…誰もが、彼奴を殺そうとする。それが彼奴の日常だった」

「…一人だけ、だった。フィリエルと関わって、殺意を向けなかったのは。付き合いの長い俺らが知ってる中で、たった一人だ」

たった、一人。その言葉が、哀しかった。

「でも…ソイツは破壊神の器として闇に呑まれてしまった」

「!」

「ソイツだけだったんだ。彼奴を救えたのは。それなのに、否、だから、敵に呑まれた」

「……今は、どうしてるんだ?」

「分からない。破壊神となったそいつと対峙したのはフィリエル一人だけだったからな…それが、瑕になって本体は目覚めを拒んでるのかもしれねぇな」

語られた真実はあまりに重い。 楓は考える。 もし、セレンが闇に呑まれたら、と。 誰よりも大切な存在を、自分の手で討たなければならなかったら、と。考えるだけで吐き気がした。考えるだけで眩暈がした。想像する事、それを既に脳が拒んでいた。

「…お前も、『器』になる素質があるんだよ」

「…俺、が?」

「セレンとフィリエルは対だ。そしてその二人の内どちらかに選ばれた奴が、邪龍主になる可能性を持つ」

では、先刻の夢想は逆になるのか。 自分が闇に呑まれた時、自分を討つのは、この優しい少女なのかもしれないのか。戦慄する。駄目だ。それだけは。駄目だ。彼女は優しい。誰かを殺めたら、きっと彼女は壊れてしまう。

「…フィルも、器になり得る。そしてもしフィルが闇に呑まれたら、その時点で僕等の負けだよ」

「カイン」

水色に近い青の目は苦悩を湛えていた。

「結局、僕等はあの子の負担にしかならないのかな」

「お前が、諦めてどうする」

「…僕だから、諦めたくなるんだよ」

そう言ってカインは一度俯き、笑った。 ゾッとするような、壮絶な笑み。

「僕はあの子が幸せならそれで良いんだ。…その結果、世界が滅ぶ事になっても、ね」

「でも彼奴は諦めないだろう」

「そうだね。…諦めてしまえば、楽になるのに」

「カイン」

「…ごめん」

「お疲れ様です。…物資の補給は、後日改めて行うしかありませんね」

「鴉…何時から?」

「先刻来たばかりですよ。門が開いたのに総帥以外誰もいらっしゃらないので、お迎えに上がりました」

「…フィルは、本体のところかい?」

「はい」

「…そう」

短い沈黙。

「楓君」

「…?」

「妖と対峙した、ご感想は?」

「……強く、なりたい」

「上出来だ」

大きな手がグシャグシャと楓の頭を撫でる。

「…どこが」

「諦めないところ」

「…諦める訳には、いかねぇだろ」

「そうだね」

そう、諦める訳にはいかない。 諦めたら、全てが終わってしまう。

「…ランス」

「分かってるよ。鴉、俺達暫く運動場に篭るから」

「ええ」

「じゃあ、ボクは図書室に」

「分かりました」

「僕は…」

「カイン、お前、調理場にだけは行かないでくれよ」

ランスが真顔で訴えた。

「食料がただでさえ少なくなってるんだから、強力な毒に変えたりはしないでくれよ」

「分かってるよ」

諭されたカインは苦笑して肩を竦める。 楓は説明を求めてパートナーを見た。

「…カイン様はね、とっても料理が下手なの」

「下手とかそういう問題じゃねぇよ、あれ」

「失礼だね、ランス」

「事実だろうが」

「フィルは、料理上手なんだけどね」

「…彼奴が?」

「自分ではあまり食べないけどね」

「多分、カイン様が料理下手だから自分で作るようになったんじゃないかな」

「…そんなに下手なのか?」

「……前にスープがね、一滴で周囲一帯の植物を枯らした事があったかな」

それは凄い。 というかランスの言うとおり、料理が上手い下手の問題ではない。

「…王族なのに自分で料理するのか?」

「フィルは隔離されて育ったからね。育ての親は、カイン様だし」

「楓、行くぞー」

「あ、ああ」

中々凄いカインの料理の話で一瞬意識が飛んでいた。

「…除草剤よりは、保存食の方がマシか…」

「フィルが時間を忘れなければ、作ってくれると思うけど」

「そんなに美味いのか?」

あの浮世離れした容姿からは料理をする姿が想像できなかった楓が問う。

「今まで逢った人達の中で、一番料理上手だよ」

セレンはそう言って笑った。 因みに、彼女もあまり料理は得意ではないらしい。 鴉は自動人形なので食事を必要としない。それ故に食事は基本的に保存食が主になっていた。不味い訳ではない。が、流石にそればかりだと飽きるのもまた事実だった。

「まともな料理、食いたいな」

「その辺はフィル次第だね」

其処でセレンとは別れて運動場へ足を運ぶ。

剣術を鍛える相手がいなかったので、運動場に足を運ぶのは初めてだった。 型を浚うだけなら、別に広い場所は必要ではない。 が、実戦形式で鍛えていくなら、やはり広い場所が必要になる。

「俺、理論とかそういうの教えるのは苦手だから最初から最後まで実戦式な」

「その方が有難い」

「気があうな」

にやり、と笑ってランスが剣を構える。 肌が切れると錯覚する程鋭い気配が場に満ちた。

「取り合えず、殺気に慣れる事から始めろ」

「…慣れる、ものか?これ」

「慣れなきゃ、動けなくなって殺されて終わりだ」

ベアルファレスと対峙した時、動けなかった。フィリエル達と最初に会った時もだ。殺気というより、気配に呑まれた。

「気配で下級の妖の動きを止められるようになるまで、剣は交えねぇぞ」

「……分かった」

無茶苦茶だ、と思いながらただ対峙する。

「目が合ったら、逸らすな。勝てないと思ったら、目が合う前に逃げろ」

構えた剣が細かく震えた。

「情けないと思うか?」

答える余裕は、楓にはなかった。

「つまらねぇプライドは捨てろ。…生きていたければな」

重い言葉だった。ランスが一歩楓に近付く。それだけで剣の震えは激しくなる。ランスが楓の元に辿り着く頃には、剣は手から滑り落ちていた。

「少し、休むか」

「けどっ…」

「初めて妖と対峙して。初めて円卓騎士と向き合ったんだ。少し休まねぇと、神経がもたねぇよ」

座れ、と促される。 座ろうとして体が異常に強張っている事を初めて認識した。

「初めてにしちゃ、上出来だ」

「…これで?」

「ああ」

慰めではないらしいが、慰めにしか聞こえない。

「休憩中?」

軽やかな足取りで本を抱えたセレンが近付いてくる。

「その本は?」

「歴史の本だよ。…事実とは、一寸違うけどね」

ランスが露骨に嫌そうな顔をする。

「…役に立つか?それ。大分脚色されてるだろ」

「知っておく必要があると、フィルが判断したみたいだから、一応は教えておいた方がいいかと思って」

セレンが困ったように義兄をみる。

「まず、基本知識からね。妖がどうやって生まれるか、知ってる?」

妖は感染して数を増やす。では、その素は?

「…知らない」

「楓もこういうの、苦手だもんね」

半ば予想していたのだろう、セレンは苦笑しながら腰を下ろす。

「妖はね、破壊神と円卓騎士によって生み出されるんだよ」

「…それってつまり…」

「うん、この世界を在るべき姿に戻すには破壊神と円卓騎士を全員倒して、素を絶たなきゃいけない。それに、今いる妖になった人達をどうにかしなきゃいけないね」

気が遠くなるような話だ。

「歴史では、その点は曖昧な記述しか残ってない。…まあ、大分昔の話だからな」

「…どれ位前の話なんだ?」

「しらねぇよ。百年二百年じゃきかねぇだろうけど」

「数えるのも嫌になる位昔、かな」

兄妹の言葉に楓は眉根を寄せる。

「…お前ら、何年生きてるんだ?」

「…覚えてない。義兄様は?」

「数えるのも嫌になる位、だな」

要するに相当長い間生きているのだろう。

ベアルファレスを呆け老人と称した時の反応を思い返す。 百年二百年できかない程生きてる存在に呆け老人と称されるのは、誰だって嫌だろう。

「けどフィリエルよりは若いぜ。前世の記憶がないからな」

「…頭痛くなってきた…」

思わず、といった調子で呟きが漏れる。 前世の記憶をあわせると何年生きているのか。

「…彼奴だけなのか?前世の記憶を持ってるの」

「断片的には覚えてるが…はっきり言って他人事のようだな。或いは夢みたいな物だ」

「ボクも。感覚が遠いって言えば良いのかな」

「完全に覚えてたら、多分脳が壊れるぜ。何度も転生してるからな」

「フィル、よく平気だなって何時も思うよ」

「何の話だい?」

割って入ってきた声に楓だけがビクリ、と身を震わせる。

「カイン様。結界の補強はもういいんですか?」

「うん。円卓騎士が一度に大勢こない限りは大丈夫だと思うよ」

「何か異変は?」

「特になし、かな。異変が起きない事がある意味異常だけどね」

カインがひんやりと笑う。

「あの呆け老人とか例のケバイ女とかが来る前に出来る限りの事はしねぇとな」

「…ケバイ女?」

胡乱気に問いかける。

「円卓騎士の一人だよ。『魅了する者』ティアリア…だっけ?…双子だったよね、確か」

「…だったと思うぜ。ケバイ印象しかないけどな。もう一人は『咲き誇る者』ローゼス、だったか?」

「うん、二人共、二つ名もケバイ女一号二号とかにすれば良いのにね」

「本人は絶対認めないと思うけど…」

カインとランスの不真面目な会話にセレンは苦笑する。

「そんなにケバイのか?ソイツら」

「うーん……そうだね。煌びやか、かな」

言葉を選ぶのに苦労している様子から本当にケバイのだと認識する。十二人もいるだけあって中々個性的な面子が揃っているらしい。

「食事の時間だ」

フィリエルの声に皆が其方を向く。

「保存食かい?」

「多少手は加えたがな」

皆が立ち上がって食堂へ向かう。 今まで食べてきた保存食とは全く違っていた。 作り手が変わるだけで此処まで変わるのかと妙に感心してしまう。

「新しい管理官が決まったそうだ」

「今度は物分りがいいと良いね」

「全くだな」

「早いな」

「さっさと決めないと面倒な事になるからな」

蒼い目が料理から楓に移る。

「明日、もう一度シェルターに降りる。本当に食料品が底を尽きそうだからな」

「…それで?」

「荷物持ちとしてお前に同行して貰いたい」

「…俺に?」

「円卓騎士が目覚めたという事は留守中、此処を襲撃してくる可能性が高い。カインもセレンも前線向きではないからランスは此処に留まって欲しい」

「そうだな」

「…月読とかいう奴らは?」

「非常時以外、シェルターで魔法を使う事は禁じられている」

それに、とフィリエルは言葉を続ける。

「月読達には此処の守護を頼むつもりだ。円卓騎士は手強いからな」

「…分かったよ。行けばいいんだろう」

「話が早くて何よりだ」




次の日、楓が広間へ向かうと今回も既に全員が揃っていた。

「…いくぞ」

「ああ」

再び地下へ降りる。 管理官は前任者と打って変わって穏やかな性格の持ち主で、好感が持てた。

「まずは食料と衣料だ」

「薬とかは良いのか?」

「…ああ…それもだな。…荷物が増えるが仕方ない」

「…………」

「いくぞ」

歩き出すフィリエルの後を追う。生鮮食品の他に保存食も補給する。後は丈夫な繊維で作られた衣料。薬も大量に購入した。

「…ほら」

いきなり財布を渡され、楓は黙ってフィリエルを見た。

「セレンに土産でも買って来てやれ。荷物は、オレが見ていよう」

「え…けど…」

「向こうに行商人がいる。早く行って来い。……荷物持ちの手間賃だ」

フィリエルなりの気遣いなのだと察する。

「…悪いな」

「良いからいけ」

銀細工を取り扱っている行商人のアドバイスを聞いて、十字架のペンダントを買った。 初めて財布を開いて愕然とする。 支払いを済ませて慌てて駆け戻った。

「早かったな」

「この財布、何なんだよ!?」

「…?普通の財布だが?」

「何でこんなに金が入ってるのかって聞いてるんだ」

行商人の売っていた細工物を全部買ってもまだ十分に余る程の金銭。

「シェルターは各地に点在している。広さもまちまち。大陸ほぼすべてを網羅するような巨大シェルターもある。留守中、オレ達はシェルターを巡っていた」

黙って説明に耳を傾ける。

「占いやら結界の強化やら護衛やらの賃金だ」

「…どんだけ荒稼ぎしてるんだよ…」

「それだけ世界が物騒なのさ」

お陰で儲かってるけどな、とフィリエルは肩を竦めた。

「…帰るか」

土産を買ったものの、楓は渡すタイミングを逃していた。ランスやカインの前で渡したら絶対からかわれる。漸く覚悟を決めた時には夕方と夜の中間になっていた。

「…セレン」

「どうしたの?」

「…これ、土産」

銀細工のペンダント。

「銀は魔よけの効果があるって聞いて…それで…」

「有難う」

セレンはふわりと微笑む。

「大切にするね」

早速首から下げ、少し考えた後服の中に入れる。

「…兄様達に見付かったら、からかわれるからね」

同じ事を考えていたとその言葉で理解し、二人は笑いあった。




それからは、ひらすら稽古、稽古、稽古。 漸く殺気にも身体が慣れてきた。剣を交えるようになってからは、自分の未熟さを痛感した。時間がない。焦りが隙を生み、剣が弾かれる。そんな日が何度続いただろう。 進歩のなさに歯噛みする。ランスの手がクシャリと髪をかき混ぜた。

「少しずつ、戦ってられる時間が増えてるって、気付いてたか?」

「え…?」

「そう思い詰めるな。お前はちゃんと、進歩してるさ」

濃紺の目は、戦ってる時とは比べ物にならない程優しい。

「最初は五分も持たなかった。今は十分。焦りさえ取り除ければ、もっと飛躍的に伸びるぜ、きっと。お前、筋は良いみたいだからな」

「…うん」

「さてと、飯、行くか」

息が上がり、フラフラな自分に対しランスは疲れた素振りも見せない。目標は、まだまだ遠い。

そんな日々を過ごしていた。 円卓騎士が動く気配は、今のところない。 夜、楓は中庭で風を感じていた。

「…眠れないのか?」

静かな問い掛け。 どうしてこいつらは足音も気配も消して近付くんだ、と楓は思う。

「癖なんだ」

顔に出ているのを読んだのか、フィリエルは、珍しく困ったように笑った。

「…本体に、逢ってみるか?」

思いもしなかった申し出が頭に浸透するまで暫くかかった。

「…逢えるのか?」

「オレが許可し、お前が望むなら」

暗闇でも鮮やかに輝く銀の髪。

「…逢って、みたい」

「…此方だ」

踵を返して歩き出す背を追う。心臓が、不規則に跳ねた。本体。前を行く少年の、生存理由を奪う存在。学園内に入り、フィリエルは何もない壁の前で立ち止まる。そして何かを呟いた。壁に手袋を外した手で触れる。一瞬の後、扉が現れた。呆然とする楓を目で促してフィリエルが扉を開く。 薄暗い廊下を、二人は無言で歩いた。 その先に『部屋』があった。 水槽の中でたゆたう何人ものフィリエルに楓は言葉を失う。

「…オレも、あの中にいた」

フィリエルが静かに語る。

「この身体はもって一週間だからな」

では自分が知らない間にこの少年は何度か入れ替わっていたのか。 その事実が漸く戻りかけた楓の言葉を再び奪った。

「…そして」

フィリエルが台の上の布を剥ぎ取る。

「…これが、本体だ」

人形のようだ、と楓は思った。 顔立ちはフィリエルと全く変わらない。 銀の髪の長さも、血が通っているのか疑いたくなる程白い肌も。暗紅色のセーターも、黒いロングコートも、コートの留め具も、ピアスも同じ。 人形めいて見えるのは目を閉じているからだ、と楓は思った。強い意志を宿した目が閉ざされているから、人形のように見える。

「…やはり、繋がらないな…」

フィリエルが呟く。

「…何がだ?」

「精神が。本体が眠りについてから、目覚める時に備えてオレ達は常に精神を同調させてきた。それが突然切れて、オレ達は戻ってきた」

「……」

それからずっと同調を戻そうと接触しているが…成果は芳しくないな」

楓はもう一度本体を見る。 そして目の前の少年を見た。

「…あんたは、目覚めを望んでいるのか?」

「ああ」

「本体が目覚めたら、あんたは消えてしまうのに?」

「目覚めなくても一週間の命だ。別に未練はない」

蒼い双眸は不思議に穏やかだった。

「…それに。記憶は残るからな」

「記憶…?」

「此処でこうして話していた事、皆で食事をした事、昼の空の青さ。夜空に瞬く星々。それらは本体に戻っても消えない。オレが生きていた証は、本体の記憶として残る。それで十分だ」

フィリエルは敢えて言わなかった。 同調が切れている今、自分の記憶が残る確率は二割に満たない事を。言ったところでどうにもならない事を知っていた。

「…戻るか。夜も更けた」

それが退出を促す言葉だった。 部屋に戻って楓は考えた。 もし自分がフィリエルと同じ立場だったら。 自分は耐えられるだろうか、と。

「……俺には、耐えられないな…」

呟きは、誰にも届かない。 改めて自分の弱さを思い知る。改めて彼の強さを思い知る。やがて楓は目を閉じた。 疲れ果てた身体は泥の様な眠りへと沈んでいった。




ある日の訓練。 その日はカインとセレンが同席していた。 彼は黙って稽古の様子を見ていたが、不意に相棒の名を呼んだ。

「…ランス」

水色に近い青の目が眇められる。

「ああ」

応じるランスの声も硬い。 セレンは唇を噛み締めた。

「…来た」

何が、と問う前に気付く。 空気が冷たい。 恐ろしいまでの重圧感。 息が出来ない。

「俺とカインが出る。お前らはフィリエルに…」

「その必要はない。…が、代わりに頼みたい。鴉の所へ行ってくれ」

落ち着いた声が場に響く。 それだけで不思議と息をするのが楽になる。

「月読、不知火。セレン達の護衛を」

呼びかけに応じて現れた長身の二人の顔は苦渋に満ちていた。

「主…」

「お前らが確実にセレン達を護ってくれると信じればこそ、オレ達は全力で戦えるんだ。…頼む」

二人の唇から同時に溜息が零れる。それが了承の意味だと、誰もが理解した。

「…ご無事で」

「ああ」

駆け出す背中。

楓は手を伸ばしかけて、途中で降ろした。自分の無力さが歯痒い。心底そう思った。そっと手が握られる。驚いて其方を見ればセレンが泣き出しそうな顔で頷いた。その手が、微かに震えている。

「…何も出来ないのって、辛いね」

ポツリとそれだけ。

「ボクには戦う術がないから。…ずっと、護られてばかりで。何も出来ない…」

「…ならば役目を与える」

不知火が静かに口を開いた。

「鴉と合流次第、全力で、戦いが終わるまで結界を張り続けて欲しい」

「そしてお前は」

冷たい青の目に気圧されたが、目を逸らさずに見つめ返す。

「その間、この女の盾となれ」

「…分かった」

「では、行くぞ」

「来たか。紛い物と無力な者達よ」

「…『死を告げる者』、タナトス。…久しいな」

「無力かどうか、その身で確かめるがいいさ」

「生憎、今日は争うために来たのではない」

気だるげな言葉に本人以外の全員が眉根を寄せる。

「今日は我が主を迎えに来た。そして」

「宣戦布告をしにきたのだ」

「フレア……『焼き払う者』か。…二人揃ってお出ましとは…穏やかじゃないね」

黒髪に夜闇よりも深い、絶望を煮詰めて固めたような瞳が細められる。

漆黒のマントが風を受けて翻った。 空中に浮く二人に三人が身構える。 全体的に【夜】を思い起こされるタナトスと対照的な姿のフレア。

その髪は純度の高い炎の色。その金色の瞳には笑みが宿る。戦いには向かないであろうヒラヒラとした布地を多用した服は華やかですらあった。

「耳、遠くなった?戦いに来たわけじゃないさ」

「渡せといわれて渡す程腰抜けだと思うか?」

「残念。もう遅いよ」

「フィル!」

「セレン!?」

「…鴉が、何処にもいないの…」

「…っ!」

初めてフィリエルの目に動揺が走った。

「主は闇へ還る。模造品では敵わない。世界は、滅びる」

「残念だったね。神龍主の成り損ない。アンタはまた、護れないのさ。大切な物を、ね」

そして二人は忽然と姿を消した。

「どういうことだ」

ランスの低い詰問にフィリエルが答える。

「…鴉の核は……『彼奴』の魂だ」

彼奴。 それは…。

「…オレの、たった一人のパートナーだった男の、魂だ。浄化の魔法を組み込んで、記憶を消し、核にした」

フィリエルが俯く。誰も何も言わなかった。

「…次の新月、だね。決着は」

「……楓。訓練に戻るぞ」

湧き上がる怒りを無理やり押し殺した、感情の篭っていないランスの声。

「兄様…」

「行くぞ」

「あ、ああ…」

次の新月まで、後、七日。




それからの日々は、誰かが時間を早めているのではないかと疑う程早く過ぎて行った。 朝起きて稽古。食事を挟んで稽古。知識を身に付けて、稽古。 眠って朝が来て、焦る。SS級どころかC級の妖を退治する事すらした事がない自分。 足手纏いになるのではないかという危惧。 恐怖。 焦燥。 不安。 様々な感情が入り乱れ、発狂しそうだった。そんな時、必ずセレンは手を握ってくれた。 その手の温もりは、不思議と気持ちを静めてくれた。 決戦の前日、楓はセレンに誘われるまま、庭に出ていた。

「…楓」

「?」

「明日で、お別れなんだ」

「何…だと?」

「ボクは『鍵』扉を開いて、皆を送り出して、扉を閉めたら、死ぬんだ」

「っ!?」

「…それが『鍵』であり、土龍主であるボクの役目だから」

セレンは泣きそうな顔で微笑った。

「…ごめんね、黙ってて。…でも、この戦いで、ボクも兄様もカイン様も…死ぬ」

嘘ではないと、分かってしまった。

「君は、生きて」

静かな声。

「生きて……出来たら、忘れないで。ボク達がいたって事、忘れないで…」

涙交じりの声。 腕を強く引いて抱き締めた。

「…忘れられる訳、ないだろ…っ!」

初めて愛した人が、明日、死ぬ。 共に生活してきた仲間が、明日、死ぬ。初めて抱き締めた体は想像以上に華奢で、震えていた。

「…ねえ、楓。ボクは幸せだったよ?とても、とても、幸せだった。その言葉に嘘はないんだ。でも…君を残して逝く事だけが、心残りだな」

涙の温度を感じながらの、一瞬の間。

「…死にたくないよっ…君と、生きていたいよ…!」

痛切な叫びが夜に響いた。

「…………ごめん。ボク、部屋に戻るね」

俯いたまま、駆け去る背中。楓はただ立ち尽くしていた。 暫くの間、ただ立ち尽し、やがて歩き出した。一度だけ訪ねた場所。本体の眠る場所へ。壁の前で立ち止まる。自分には開け方が分からない。

「…開いてくれ」

扉は現れなかった。だが壁は消え、あの薄暗い通路が現れた。多分、フィリエルが察して壁を消してくれたのだろう。楓はふらふらと歩き出す。扉をノックすると入室を許可する声が響いた。

「…どうした」

「…あんたの、パートナーの話を聞かせてくれないか」

「…少し、お前に似てたかな」

答えてくれるとは思っていなかったので楓はただ黙ってフィリエルを見つめた。

「…俺に?」

問い掛けにフィリエルは頷く。

「『今、自分に出来る事を全力でやる』口癖のようにそう言ってたよ」

本体の横たわる台に座り、淡々と語る。

「護られるのが嫌だからって剣術を学んで、手、肉刺だらけにして。それでも毎日ランスに稽古をせがんで。経験不足を努力で補おうとしてた。今のお前みたいに、な」

胸の前で手を何かを包むような形にして、低く呟く。現れた光の球に、一人の少年が映っていた。

「…これが?」

「ああ」

楓と同じ黒髪だが癖っ毛ではない。 穏やかに笑う、十代後半の少年だ。鴉を幼くして、笑わせたらこんな感じだろうか、と楓はぼんやりと思う。尤も、少年は眼鏡をかけてはいなかったが。

「…ずっと昔、コイツに会う前の話をしようか」

「え…?」

「お前の過去についてだ」

楓が目を見開く。

「…俺の、過去?」

「ああ」

フィリエルは一度目を閉じ、開いて楓を真っ直ぐに見た。

「人類がまだ地上で暮らしていた頃、カインは冥府の王に身体を乗っ取られた。そして時期を同じくしてセレンの気配を辿れなくなった。事態を重く見たオレとランスは冥府の王に仕える死神へと姿を変え、セレンを探しながら情報を集めた」

語られる真実を、己が失った過去の話を、楓は黙って聞いていた。

「セレンはカインと共に攫われたが、身体を乗っ取られる前に逃げ出す事に成功したらしい。だが、重傷を負っていた。その傷の手当をしたのが、お前だ」

フィリエルは俯き加減になり、束ねていない銀の髪が顔を覆って表情を見る事は出来なかった。

「…冥府の王に身体と意識を乗っ取られたカインは、セレンとお前を追い詰めた。…自分が完全に復活する為には、生贄が必要だったから。そしてセレンを殺せば、カインの心を砕く近道になる…」

フィリエルの手元を離れた光の球が楓の前で揺らめく。

「セレンはお前を刺すとみせかけて二人で崖から飛び降りた。…お前だけを、結界で護り、自分は……崖下の岩に身体を貫かれた」

光球がその光景を示す。徐々に甦る記憶。楓を刺すと見せかけた時、セレンは自分の腕にナイフを刺したのだった。楓が怪我をしないように。腹部を貫かれたセレンの姿を見て、絶叫したのを思い出す。その後現れた、黒いローブに身を包んだ二人の事も。

「…あれは、お前とランスだったのか?」

問い掛けに頷きが返ってくる。

「夢を、見た」

唐突な言葉に楓は黙ってフィリエルを見た。

「…その夢は、『今』だ」

「…予知夢、か?」

「多分な。…世界を救うためには、セレンの力が必要だった。だから傷を治し、魂を癒し、記憶を修正して未来へと送った。…お前と一緒に」

苦しげな声に何も言えなくなる。

「…お前達を巻き込んだ事を、許してくれとは言わない。恨まれて当然だ。…済まない」

楓は一つ溜息を吐く。

「あんたは意外とマイナス思考なんだな」

楓自身驚く程穏やかな声だった。

「あんたはセレンを助けてくれた。もう一度、逢うチャンスをくれた。どうして恨める?あんたは俺達の命の恩人なのに」

「…セレンも、そう言ってくれたよ」

顔を上げたフィリエルは泣きそうな顔をしていた。

「……有難う」

「…明日、あんたらは死ぬのか?」

「オレはお前達を死なせない。それが歪みを生むなら、その歪みごと引き受ける。今度こそ、お前達が幸せになれるように、全力を尽くす」

「一人で気張るなよ」

「…え?」

大きな目が瞬く。

「俺だって一応、強くなったんだぜ。あんたには敵わないけど」

「…風城…」

「楓、だ」

「…強いな、お前らは」

「開き直った、とも言うけどな」

微かな笑みを見て、背を向ける。

「…話してくれて、ありがとな」

振り返らずにそれだけ言って、楓はその場を後にした。




「…明日で終わりだね」

「…そうだな」

「…あの子、ドラスを再生させるつもりみたいだよ」

「…オリジナルでも成功率は五割に満たないのに、か?」

「うん。…他にも、何か考えがあるみたいだ」

自分の髪と同じ色のワインの入ったグラスを弄びながら、ランスは暫く黙っていた。

「…無茶するよな、お前らは」

「君には言われたくないな」

何時もの覇気がない。

「…民を護るのは、王(お前)の役目だ」

「…そうだね」

「そして王(お前)を護るのは騎士(俺)の役目だ」

「ランス…」

濃紺と、水色に近い青がぶつかった。

「ドラスにはまだ、王が…お前が必要だ」

「………」

「お前は、生きろ」

カインが目を閉じる。

「君は時々…信じられない程残酷だね」

「お前には言われたくないな」

「…そう、だね」

短い間の後、カインは口を開いた。

「今まで黙っててごめん。あの時の事、全部、思い出したから」

あの時。その言葉が示す時期を、ランスは一つしか知らない。冥府の王に身体と意識を奪われた相棒。崖へ身を投げた義妹とその恋人。情報を求めて共に旅した従弟。冥府の王を追い出す為、聖なる力を持つ剣と、浄化を担う炎で相棒を灼いたのは、自分だ。

「…もう二度と、あんな真似はさせるな」

低い声にカインはもう一度ごめん、と謝った。 沈黙が、部屋を包み、やがて朝が来た。




荒野に五人は立っていた。

「準備はいいか」

フィリエルの問いに全員が頷く。

「…セレン、頼む」

「うん」

「…門は、閉じなくていい」

「…え?」

「帰り道が必要だからな」

淡々と述べられた言葉に全員がフィリエルを凝視した。

「だって門を閉じなかったら、妖が…」

「それらからお前とこの世界を護るのが楓とこいつ等の役目だ」

召喚された月読、不知火、藍玉、瑠璃、翡翠、琥珀。全員が浮かない顔付きをしていた。

「最悪、カインとランスが包囲網を抜けた妖を殲滅する。お前の仕事は生きる事とセレンを護る事だ」

「人使い荒いなぁ…まあ、いいけど」

「此処一番で無茶を言うのは変わってないな。それが楽しいからお前と一緒に来たんだけどよ」

「フィル……フィルは、帰って来るの?」

「…さて、どうだろうな」

フィリエルは曖昧に言葉を濁した。

「それは、お前達の頑張り次第だな」

夜空には星すら見えない。 闇の中で同じ顔を持つ少年と少女は向かい合った。

「…門を、開くね」

「ああ」

「『我、異なる世界を繋ぐ者。古の龍の血を身に宿す者なり。聖なる龍よ、力を与えたまえ。間を討つ戦士を彼の地へと運びたまえ!』」

普段の穏やかな声ではない。鋭い声と厳しい目は、やはりフィリエルに似ていた。空間が歪む。異なる世界へと導く門は開かれた。崩れ落ちるセレンの身体を楓が抱きとめ、三人を見る。

「…行ってくる」

「…ああ」

それだけのやり取り。 一瞬だけ、蒼と黒が交錯する。

「…これを、持っておけ」

放り投げられたのは掌に載る程の翠の宝玉。

「…これは?」

「龍人としてのお前の魂だ」

「…は?」

「風龍主…ファルナーゼ。とっくの昔に絶えたと思っていたんだが…人間として転生していたとはな」

「…説明になってないよ、フィル」

カインが苦笑しながら諫める。

「その宝玉はお前の命。身に宿せば俺達に匹敵する力を持てる」

ランスの言葉を理解するまで暫くかかった。

「…俺が、龍人?」

「ああ」

「時間がない。飲み込め」

「無茶言うなよ、フィリエル。飲み込むにはでかいだろう」

ランスの言葉にフィリエルが眉根を寄せる。そのまま楓に近付くと宝玉を取り、楓の胸に押し当てる。僅かな熱を帯びたそれはするりと身の中へ入り込んだ。

「なっ…!?」

「拒絶反応がないって事はやっぱり楓君が風龍主なんだね」

「どうだ、龍人になった気分は」

様々な記憶が津波のように押し寄せる。感情の渦。 情報の洪水に目を閉じて耐えた。

「……頭、パンクしそうだ」

「妖が大挙するまでにはまだ少し時間がある。それまでに慣れろ」

「だから無茶言うなって」

「言わざるを得ないだろうが」

「喧嘩しないの。行くよ」

三人は、門へと飲み込まれていった。残ったのは楓と、意識不明のセレン。そして月読、不知火、藍玉、瑠璃、翡翠、琥珀。

「私がセレン様の周りに結界を張ります」

鬱金色の長い髪を様々な飾りで飾った少女が進み出る。

「では、私は妖が此処から逃れられぬよう、周りを結界で囲もう」

肩口で切り揃えた女性が落ち着いた口調で申し出た。

「他の皆は楓様の援護を」

少女の言葉に男性陣は黙って頷いた。

「…仕方ねぇか。フィリエルの命令だしな」

「そうだな」

「…来るぞ」

「足手纏いにはなるなよ」

全員の目が、門に向けられた。ゴブリンやピクシーを始めとするC級の妖の群れが先発隊だった。

「徐々に強い力を持つ妖達の数が増えて来る筈だ。ペース配分を間違えるなよ」

「分かった」

楓は剣を構えた。




人の内臓を思わせる色をしたグネグネとした通路を三人は駆ける。

「…何度か来た事あるけど、相変わらず悪趣味だね、この道は」

「そうだな」

「これはこれは…模造品と力なき王とその無力な王に仕える騎士団長様。ようこそ、我が主の居城へ」

「…デロイ、だったか」

「ええ。『心を壊す者』と呼ぶ方もいますね」

「生憎僕達、壊されるような軟弱な心は持ち合わせていないよ」

「ふふっ…私が壊せるのは心だけではありませんよ。肉体を壊す方が遙かに容易い…」

群青の髪が右目を隠している。左目に宿る、微かな狂気。薄い唇は弧を描く。

「主の『器』となる魂を保存して下さっていて、感謝していますよ」

「貴様らの為ではない」

「そう仰らずに…お礼も兼ねて、痛みを感じる間もなく殺して差し上げますよ」

「それじゃあつまらないじゃないか」

高飛車な声が割って入った。

「ああ、久し振り。ケバイおばさん…もう一人はどうしたの?」

「誰がおばさんだって!?」

「お前以外に誰がいる」

「こ、この美しい私を捕まえて…おばさん、だって…!?」

「ケバイ、が抜けてるよ。美しくもないし」

「…楽に死ねると思うんじゃないよっ!」

「…で、名前と肩書き、何だっけ。ケバイおばさんの片割れ」

フィリエルの口元に笑みが浮かぶ。

「『咲き誇る者』ローゼスだよ!ケバイおばさんと呼んだ事、後悔させてやる!」

「レディに剣を向けるのは気が進まないんだがな…」

「おや、少しは道理を分かる奴がいるじゃないか」

「…でも、年増でケバくて高飛車で可愛げの欠片もなくて…何より、敵だからな。躊躇う必要もないか」

ランスの飄々とした言い分に兄弟は顔を見合わせて苦笑しながら肩を竦めた。

「どうやら…八つ裂きにされたいらしいね」

「…ローゼス。落ち着きなさい」

黙って言い合いを眺めていたデロイが口を開いた。

「あんたは引っ込んでな!」

「…ローゼス。怒りは技を鈍らせますよ」

「分かったような口を聞くんじゃないよ!」

「取り込み中、悪いんだけど」

デロイとローゼスは同時に少年を見る。

「オレ達、急いでるからさ。言い争いをしたいなら封印の地でしてくれる?」

「封印の地、だって?」

「懐かしい地名ですね。…ですが、大人しく戻る気はありまんよ?」

「無理やりにでも送り返すさ」

「ほぅ…模造品の分際で口だけは達者なものですね」

嘲笑に怯む気配すら見せない様子にローゼスが舌打ちする。

「その顔を苦痛で歪めさせてやりたいね。その唇から許しを求める言葉を吐き出したって私を侮辱した罪は消えないよ」

「ああ、心配しなくていい。勝つの、オレ達だから」

ローゼスの言葉にフィリエルはふわりと微笑んで答えた。それ以外の出来事など、ありはしないと示す微笑だった。

「生意気なガキだね…その目、抉り出してあげるよ!」

風が動く。視認するのも困難な程のスピードでローゼスがフィリエルに迫った。フィリエルは動かない。

――いける!

ローゼスはそう確信して鋭く長い爪を持つ手を掲げた。響く、絶叫。フィリエルのものではない。

「…これが本気だとしたら…興醒めだな。円卓騎士の一人ともあろう者がこの程度の実力とはな。封印されている期間が長すぎて腕が鈍ったんじゃないか?」

ローゼスの腕は通常ならあり得ない方向へ曲がっていた。

「模造品とはいえ、オレは一応神龍主の力を受け継いでいる。見縊らないで貰いたいな」

「ふん…余裕ぶっていられるのも今のうちだよ!」

折れた腕を翳す。植物の蔓が三人の動きを封じようと蠢き始めた。

「これでお前達は動けない。嬲り殺してあげるよ」

「ランス」

「はいよ」

カインの呼びかけにランスは軽い返事を返した。

「『我が血に眠る炎よ、今一度目覚めて我が敵を討て』」

瞬間、炎が辺りを包んだ。

「なっ…何だっていうんだい!?」

「俺が火炎龍主だって事、忘れたか?肉弾戦の方が得意だが…この面子の中で一番強い炎を喚べるのは、俺だぜ?」

デロイとローゼスは彼方此方に火傷を負い、植物は炭化していた。だがランスやカイン、フィリエルには傷一つない。

「魔法ってのは面倒だな。下手したら俺達まで黒こげだ」

「そんな阿呆な真似をしたらただじゃおかないよ」

「分かってるから真剣にやったんだろうが」

「ランス、カイン。無駄口を叩くのは戦いが終わってからにしろ」

「了解」

「そうだね」

フィリエルが剣を構える。カインは杖を掲げた。ランスが大剣を抜く。

「ケバイおばさん、その火傷、多分今以上に厚化粧にしても隠せないぜ」

「う、五月蝿い!!」

「図星を差されて腹立てるのってみっともないからやめない?」

「…怒ってるのは厚化粧、という単語に対してじゃないか?」

「ああ、そういう考え方もあるね」

「『暗闇に咲く花よ、血を糧とし、肉を喰らい、魂を飲み込む花よ、今目覚めて全てを飲み尽くせ!』」

先程とは比べ物にならない程巨大で醜悪な植物が現れた。闇色の葉がぬらぬらと輝く。花は血の色にも似た暗紅色。

「こいつには炎は効かないよ!」

剣を構えるフィリエルとランスを制してカインが前に進み出る。

「『包まれたモノに永遠の眠りを齎せ。氷縛結界』『全てを砕いて無に帰せ、ダイアモンドダスト』」

二つの呪文によって植物は凍りつき、目視出来ない程小さな粒子となって砕けた。

「…これが、本気?」

酷薄な笑み。

「…っ!」

ローゼスは無事な方の腕でレイピアを抜いた。そのまま風の速さで距離を詰める。ガシン、と金属同士がぶつかる音が響く。

「『遠き地よ、始まりの場所よ。全ての罪が消えるまで、長き眠りを我が敵に齎せ』」

ローゼスの胸にフィリエルの剣が突き立てられる。 一瞬だけ、苦悶の表情が浮かび、足元から徐々に粒子へと変わっていく。 フィリエルはそれを苦い表情で見つめていた。

「お見事ですね。…紛い物にしては、ですが」

「…薄情な奴だな。仲間が封印の地に送られたってのに、敵を褒めるか」

「ご冗談を。彼女は…円卓騎士に相応しくない」

デロイは言い切ると微かに笑った。

「忍耐を知らず、敵の挑発に容易く乗せられ、大した力も持たないのにプライドだけは山より高い。扱い難いモノを封印の地へ送り返して下さって、感謝していますよ」

「…不仲なのは相変わらずのようだな」

「友情の代わりに疑惑を。信頼の代わりに猜疑を。それが我らが心から望む関係ですよ。弱い者は滅びるのが定め。…貴方達も、ね」

「生憎、俺達はまだ滅びる訳にはいかないのさ」

「君も送り返してあげるよ。封印の地へ、ね」

「では…無駄話はこの辺で終わらせましょうか。我が君の復活の際には貴方達の首が何より相応しい贈り物となるでしょう」

細身の二本の剣を引き抜くデロイ。

「三対一で構いませんよ。その位のハンデがなければつまらない」

「負けた時の言い訳か?」

「まさか。事実ですよ。ローゼスと同じに考えて貰っては困りますね」

「カイン、フィリエル。先に行け」

「…ランス?」

「時間がないんだろう?…それに、この道のすぐ先に最初の分かれ道がある。火炎龍主の祈りの場だ。俺が残るのが一番効率的だろう?」

「…分かった。行くぞ、カイン」

カインは眉をぎゅっと寄せた。そして唇を噛み締め、走り出す。二人の背が徐々に遠ざかっていく。デロイはそれを黙ってみていた。

「…随分親切なんだな」

「今生の別れを邪魔するのは無粋でしょう?」

「…円卓騎士は、全員戻ってきてるのか?」

「…それを聞いて何になりますか?貴方は此処で死ぬのに」

「俺が死んでもカインとフィリエルは生きる」

デロイの嘲笑が響く。

「愚かな!まだそんな夢の様な事を考えているのですか?」

「お前は俺程あの二人を知らない」

「たった二人ですよ?そして此処には円卓騎士達がいる。勝てる訳がない!」

「並の二人じゃないさ。俺の信じた二人だ」

「ふっ…その幻想を打ち砕いて終わりにしてあげますよ」

剣がぶつかり合う。

「細っこい身体の割には力、あるんだな」

「ヒトの括りに入れないで頂きたいですね。我らは魔人ですよ」

「ああ…そういえばそうだったな」

二人同時に飛びずさり、距離が開く。今度の沈黙は多少長かった。ランスが動く。その長身からは考えられない程素早い動きだった。デロイの剣が半ばで折れた。

「馬鹿な…我が君が鍛えた剣が折れるなど…あり得ない!」

「実際折れてるんだ。現実見ようぜ」

唇が弧を描いた。

「この剣はただの剣じゃないぜ」

「…私の剣は一本だけではありませんよ」

剣が正確にランスの目を貫く。 血飛沫が辺りを赤く染める。

「…わざと、受けましたね?」

「ああ」

「何のつもりですか?」

ランスは笑った。片目を貫いていた剣を自分で抜く。剣先は消失していた。

「なっ…!?」

「言っただろう、ただの剣じゃないってな」

濃紺の瞳には強い意志の光が宿っていた。

「ドラスを作った創造主、ミストの鍛えた剣だ。魔に対しては絶大な効果を発揮する。触れただけで、邪悪な物はガラスより脆くなるのさ」

顔の半分を血で染めたランスが凄絶に笑う。

「『我が身を流れる熱き血潮よ、炎となりて全てを灼け!』」

辺り一面が、炎に包まれた。

「炎は浄化の役割を担う。聖と炎、それが俺の武器だ」

流れ出す血は次々と新たな炎を生み出す。

「共倒れをする気ですか?」

「いや、倒れるのはお前だけだ」

炎を纏った剣がデロイの腹部を貫く。

油に引火したかのように炎の勢いが増した。

「彼奴等に残りの円卓騎士全部任せるのは流石に酷だろうからな。俺は先に進ませて貰うぜ」

服の袖を破り、裂いて目を覆う。 炎は徐々に沈静化していった。

「お前らは強い。…けどな。相手を見縊りすぎなんだよ」

炭化した物体は淡い粒子に包まれ、やがて消えた。 残ったのは、炭と焼け焦げの後、焦げ臭い匂い。

「…さて、と。行くか」

大剣を鞘にしまい、ランスは駆け出す。 自分の死に場所へ向かって。




「…一人、死んだな」

「そうだね。重圧感が少し減った」

「…ランスが力を解放したみたいだな」

「一寸厄介な相手だったんでな」

気楽な声に二人が同時に振り返る。 先程別れた筈の青年が其処に立っていた。

「怪我、してないか?」

問い掛けに対するフィリエルの答えは。

「な、何のつもりだよ、フィリエル」

剣先を喉元に突き付ける、という友好的とは言えない物だった。

「ランスが力を解放したなら、無傷ではあり得ない。ランスは炎系の攻撃魔法しか使えない。従って無傷でのうのうと現れる事はない。…勉強不足だな、『像無き者』レオン」

「やれやれ…騙されてればそう苦しまずに死ねたんだよ?」

「まだする事が残ってるから、死ぬ訳にはいかないな」

「君に殺せるの?かつてのパートナーを」

「…………」

「優しい君には無理だよねぇ?諦めて死んじゃった方が楽なんじゃない?」

ランスの顔をした敵が笑みを浮かべる。

「それに、水龍主の君も。この顔をした僕を殺せるのかな?相棒の姿をしたこの僕を」

「ランスにそっくり?冗談じゃない」

カインの声は凍り付く程冷たい。

「全然違うよ。腕が落ちたんじゃない?」

「強がりは止めなよ」

笑うその頬が、唐突に裂けた。

「な…?」

「知ってるかい?見掛けを取り繕う事しか出来ない馬鹿な円卓騎士。空気の中には水がある。そして僕は水を司る水龍主だ。君を傷付ける事を、躊躇う必要すらない程君は僕を怒らせた」

「加勢する」

背が低く、がっしりとした体型の男が現れる。 兜とヒゲでその相貌ははっきりしない。

「『叩き潰す者』ヴェルド…どちらこのがワシの相手をしてくれるのじゃ?」

低くしゃがれた声だった。

「フィル。悪いけどそっちのご老人の相手をお願いできる?」

「…分かった」

「僕の相棒の姿を模して現れたのが運の尽きだったね。僕は今、最高に機嫌が悪いんだ」

杖を一振りすると無数の水の刃がレオンを襲う。

自分で言う通り、カインは機嫌が悪かった。自分を置いて逝こうとする相棒。その相棒の姿を模して話しかけてくる敵。近付く別れ。助力は出来ても肩代わりは出来ない事実へ苛立つ。ずっと見守ってきた命。何度も擦れ違った。和解を繰り返した。自分の命よりずっと大事な存在。その弟が、世界を救うために命を落とす。 それが許せない。弟が死ななければならない世界など、滅んでしまえばいいと本気で思った。

それなのに。それなのに弟は死に急ぐ。世の不条理が憎かった。自分の無力さが厭わしかった。その負の感情をありったけ杖に込める。数え切れない水の刃がレオンを切り裂いた。今なら誰にも負ける気がしなかった。この憎しみは、この怒りは。全てを滅ぼし尽くすまで止まらない。

「怒りでは僕を殺せないよ」

「五月蝿い!」

水の波動を受けて金の髪がゆらゆらとたなびく。

「そんなに世界が憎いのなら、此方側に付けばいいのに」

嘲笑とも取れるレオンの囁き。

「僕は世界がどうなろうと構わない」

「へぇ?じゃあ、どうして護るんだい?」

「フィルが望んでいるからさ」

そう。ただ、それだけ。自分の傍らにあった、優しい魂に、これ以上の傷を付けないため。闇に堕ちた自分を救ってくれた光。それだけが、全て。

「『水よ、全てを押し流せ!』」

カインは絶叫した。




何体の妖を倒しただろう。息が上がり始めた。門からは絶え間なく妖が飛び出してくる。自分一人だったら、とっくに息絶えていただろう。

「セレンは…無事、か?」

「はい。…心配は無用です。今は、妖に集中して下さい」

何度目かのやり取り。不意に妖の襲撃が止んだ。空気の温度が下がる。この重圧感には覚えがあった。破壊神の円卓騎士。フレアとタナトスだった。

「頑張ってるじゃん。ご褒美に、思いっきり苦しい死をあげるよ」

軽薄な態度とは裏腹に、金の目は何処までも冷たい。

「アンタ達、邪魔なんだよね。門を開けていてくれた事には感謝するけどさ」

「愚かだな…自ら死刑執行書にサインをするとは…」

「此処は、通さない」

以前は向き合っただけで息が詰まり、動けなくなった。だが今の楓はしっかりと剣を構えていた。護る為。自分の背後に横たわる少女を護るため。自分を信じて門を潜った仲間との約束を守るため。世界なんてどうでもいい。ただ、大切なものを護る為。その決意だけが、楓を支えていた。

「いくぞ」

不知火の一言で場が戦場へ戻る。

「……翡翠、琥珀。土龍主の守護を」

「分かったよ」

「…承知した」

琥珀色の髪をした少年は憮然とした表情で。青竹色の顔をした、琥珀よりも幼い容貌の翡翠は重々しく頷いた。

「アンタ達、本当に馬鹿だよね。私達に勝てるって本気で思ってるの?」

「それが我らに課せられた役目だからな」

「じゃあ…死んじゃいな!」

周りに炎の包囲網。同時に投げ付けられたナイフは楓の頬を掠めた。

「今のはわざと外してあげたんだって、分かってる?」

「そんな事はどうでもいい」

「ふうん…。じゃあ、アンタに絶望を教えてあげるよ」

ヒラヒラとした布地をたなびかせ、フレアが炎を召喚する。琥珀と翡翠の結界を通り抜けて向かった先は――。

「セレン!」

意識のない、少女の身体が炎に包まれると誰もが思った。だが炎は少女を包む前に掻き消えた。

「…遅れて済まない」

此処にいる筈がない、門を通った筈の人物の声。オリジナル、だった。

「遅いお目覚めだね?今から行っても間に合わないんじゃない?…行かせるつもりもないけどね」

口調は変わらないのにフレアが動揺しているように楓は感じた。

「『神龍主の名に於いて命ず!光よ、我が道を照らし、我を阻むものを討て!』」

光の洪水が視界を奪う。フレアとタナトスの絶叫が響き渡る。視界は相変わらず白一色だ。しかし苦痛は感じない。寧ろ力が戻ってきているのを、楓は確かに感じた。

「暫くはこの光が妖の進出を食い止める。その間にしっかり休んでおけ」

「…お前は…どうするんだ?」

「物語の、幕を引くのはオレの役目だ」

苦渋が微かに感じられた。

「一方が生きる限り、他方は生きられない。それがオレ達の宿命だ」

かつてのパートナーを前に、彼はどんな決断を下すのか。

「…行ってくる」

やがて光が収まった時、オリジナルの姿はなかった。

「…っ…」

「セレン!?」

「かえ、で…?」

華奢な身体を抱き締める。

「良かった…気が付いたのか…」

「…オリジナルが、来たんだね」

「分かるのか?」

「対、だから。それに…神龍主はボクらを導き、ボクらに力を与える存在。ボクが意識を取り戻せたのは、オリジナルの力だよ」

力のない声。

「…オリジナルは何時もボク達を助けてくれる。それなのに…ボクは無力で…何も、返せない…。力に、なりたいのにっ…!」

「力になりたいのならば」

静かな声に二人は弾かれたように声の主を見上げた。

「その子供の援護をしてやれ。邪龍主を倒しても妖を殲滅しなければ意味がない」

妖は感染する。 全てを殲滅する必要があった。

「楓。力を貸してくれる?」

少女の問いに、少年は笑って答えた。

「当然」




敵が粒子となって消えていくのを確認して、カインは倒れこんだ。弟の姿がない。けれど死の衝撃は伝わっていなかった。

「…カイン」

「…遅いよ、起きるのが」

口を付いて出るのは文句だが、顔が笑っている事は自覚済みだった。

「どうするか、決まった?」

「ああ」

フィリエルがカインの体に手を翳す。 温かな光に包まれ、光が消えた時にはすっかり気力も体力も回復していた。

「無茶をしたな」

「相棒を侮辱されてつい、ね」

顔を合わせて微かに笑う。

「ランスは?」

「祈りの間についた頃じゃないかな。…僕も、向かうよ」

「…カイン」

背を向けた兄に向けて、弟が呼びかける。

「…何だい?」

カインはゆっくりと振り返った。

「…貴方の弟で在れた事を、誇りに思います。兄上」

カインの顔が泣きそうに歪む。

「…僕も、君の兄で在れた事を誇りに思うよ」

弟はそっと兄を抱き締めた。一瞬だけの抱擁。

「…さよなら」

二人は同時に背を向け合って走り出した。 自分の役目を果たす為に。




血が止まった事を確認して、ランスは目を覆っていた服を取り除いた。無惨に貫かれた筈の目は当たり前のように元通りに治っている。

「…オリジナルが目覚めたか…」

「愚かよね。死ぬのが分かっていながら目覚めるなんて」

艶麗な声が前から響く。

「『時を告げる者』リリンか…兄貴はどうした?」

「…死んだわ。神龍主の光に灼かれて」

タナトスと酷似した容貌の女性は一瞬だけ目を伏せた。

「……どうして、光と闇があるのかしら」

「さあな」

「どちらか一つしか存在していなければ、争わずに済むのに」

「それでも強い光が生まれれば影もまた濃くなる。それが、この世の理だ」

「では、世界が闇のみだったら?」

「誰かが光を求めるんだろうさ。俺の中に闇があり、お前の中に光があるように。光と闇は対。どちらか一方のみが残る事はありえない」

「…哀しい事だわ」

「…そうだな」

「無駄と知りながら足掻く私達も…そんな私達を滅ぼす役目を課せられた貴方達も…この世界の犠牲者なのね」

「…………」

「お行きなさい」

「…何?」

「私は全てを諦める。…生も、今となっては必要ない物。我が君を貴方の主が討つなら、それを定めと受け入れるわ」

「つまり、裏切るのか。リリンよ」

低く豊かな声が響いた。

「ええ」

リリンは毅然とした表情で声に応じる。

「では、死ね」

冷たい声が終わりを告げる。リリンの身体を貫く為に投じられた槍を、ランスは弾き返した。

「何故…?」

「死ぬ事は許さない。償いたいというのなら、生きろ」

「償う?はっ!何を言うかと思えばそんな世迷い言か!長い輪廻転生の果てにとうとう頭がおかしくなったようだな、火炎龍主よ」

「生憎俺は正常なつもりだぜ、少なくとも、あんたらよりはな。『貫く者』シェザード」

壮年の男性が槍を手にした。

「我らは相反する者。自分が正常だと言い張るのなら、相手を異常だと決めるしかない」

「よく分かってるじゃねぇか」

「それなりに長い時を生きているのでな」

「流石、破壊神の円卓騎士を束ねる最強の守護者だな。他の連中よりは話が通じる」

ランスの皮肉に、シェザードは笑みを返した。

「退く気は?」

「ない。俺の後ろには、護る存在が沢山あるんでね」

シェザードの問いに、ランスは少しも迷わず答えた。 此方も口元には笑みが刻まれている。

「護る存在、か。実に君達らしい言葉だ」

互いに武器を構えたまま、ただ時を刻む。

「だが、矛盾しているな」

「……」

「護るために己の半身を殺し、仲間を殺す。それが救世主の役割か?」

「そう決断させるのは、お前達だろう」

ランスの目に剣呑な光が宿る。

「彼奴から半身を奪い、世界を闇に染めたのはお前達だろう!!」

激昂。

「我らの側に付かぬか、火炎龍主よ」

「お断りだ!」

「神龍主も、我が主も元は一つの存在。融合すれば神ですら殺せる。壊したくはないか?この不条理な世界を。新たな世界は我らもお前達も戦う事なく時を刻める」

「生憎、俺はこの世界が気に入ってる。神なんて、殺そうと思えば何時でも殺せる」

シェザードは一つ溜息を吐いた。

「殺すのは惜しい存在ばかりが消えていくな…」

「俺は馬鹿だから難しい事なんて知らねぇ。だけど、人を見る目はあるつもりだぜ。カインもフィリエルも、セレンも楓も。俺の好きな世界を護る為なら、大切な存在の為なら、命懸けで戦い、それを誇りに思う筈だ」

「…神龍主はその信頼を裏切るかもしれんな」

「…敵の言葉に惑わされる程、落ちぶれちゃいないぜ。俺は」

槍を構えたシェザードに向かってランスが走る。 突き立てた剣。 肉を貫く感触。 生暖かな血。

「…リリン…?何故…」

貫く筈だったシェザードは無傷だった。ランスが貫いたのは、リリンだった。

「…父様。私は…光を信じたいのです。貴方に裏切り者と呼ばれても。…光があると、何時かその光に包まれる事が出来ると…信じたいのです」

「…父、だと?」

「…ああ。私の子だ」

シェザードの瞳に絶望が揺れる。

「…皆、私を置いて逝く…妻も、息子も。娘まで…」

「…父様……」

血の気の失せた顔。色味を失った唇。もう目が見えていないのかもしれない。虚ろな目が父を求めて彷徨った。

「…ごめんなさい、父様。でも私……この世界が、好き…」

それが最後の言葉だった。倒れる亡骸をシェザードが受け止める。白い衣装は血で斑に染まっていた。シェザードの纏う戦装束も血に染まったが気にする素振りも見せず、ただ娘の亡骸を抱き締めていた。やがてリリンの身体が徐々に粒子となって消えていく。

「待ってくれ…!待ってくれ、リリン!逝くなっ…」

悲嘆の声が途中で切れる。喉元に弓が突き刺さっていた。

「破壊神の円卓騎士に、情けなんて必要ないんだよ。シェザード」

「そうそう。殺すのが俺らの生きる理由でしょ?」

『雷を呼ぶ者』ゼオ。

『炎を呼ぶ者』アズ。

双子であり、破壊神の円卓騎士の少年達。二人揃って残忍な性格。時として仲間ですら手にかける、殺人狂だった。

「さて、恥曝しの爺さんには退場して貰おうか。なあ、相棒?」

「そうだな。今回はお前に譲るよ」

ゼオが手を翳すとシェザードの身体を雷が貫いた。

「『貫く者』を貫くってのも中々出来ない経験だよな」

ゼオが笑う。かつての破壊神の円卓騎士の筆頭は、二、三度痙攣してやがて動かなくなった。

「呆気ないよな、死ぬって」

粒子となりはじめたシェザードを冷めた目で見る二人。

「…で、火炎龍主。死ぬ覚悟は、出来た?」

「それはこっちの台詞だ」

押し殺した声音には一切の感情が篭っていなかった。

「あれ?怒ってるの?」

双子は顔を見合わせて同時に笑う。

「敵が減って喜んでくれるかと思ったのに」

「心優しい火炎龍主様。俺らが生きたいって言ったら見逃してくれるのかな?」

答えは金色の炎での攻撃だった。

「下衆を殺すのに、俺が躊躇すると思うか?」

「ははっ!下衆だってさ」

「無作法者の君には言われたくないなぁ」

「世界を滅ぼすのが正しい作法なら、無作法者のままでいいさ。俺達は、今度こそ護り抜いてみせる」

剣圧で壁に亀裂が入る。熱風が走り抜けた。

「本気で怒ってるんだね。馬鹿だなぁ」

答えは、沈黙。弓がしなり矢が走る。腕を掠った矢が壁に刺さった。

「何で護ろうとするのさ?君達の生まれた世界じゃないだろう?」

心底不思議そうにゼオが問う。

「故郷を護れなかった罪悪感?それとも自己満足?どちらにせよ下らないなぁ」

「君達がこの世界を護っても、人間は何時かこの世界を壊すよ」

「つまり君達の犠牲は無意味だ」

炎の勢いが増した。濃紺の瞳は何処までも冷たく敵を見定める。

「無意味かどうかは、俺達が決める事だ」

抜き身の刃物を思わせる鋭い口調。

「彼奴はこの世界を護ると言った」

刃がアズの頬を裂き、髪を一房落とす。

「上司の命令は絶対、かい?」

「彼奴は上司じゃねぇ。仲間だ」

その瞳は揺るがない。その心は揺るがない。信頼している、と言う言葉では足りない。分かっている、という言葉でも足りない。或いは『知っている』という言葉が最も相応しいのかもしれなかった。あの魂を、優しい心を、知っている。 苦しむ姿も、嘆く姿も、ずっと見てきた。 だから彼のために力を尽くす。

彼が破滅を選ぶなら、それでも構わないと思った。それでも彼は再生を望んだから。彼のパートナーが生きた世界を、救いたいと心から願っている事を知っているから。彼がどんな選択をするのかは知らない。知らなくていい。どんな結末でも、受け入れる。

彼が、彼らが。戦うと言うなら自分は剣となり盾となると、遠き昔、誓った。今がその誓いを果たす時。 ジオの片腕が飛ぶ。 耳障りな絶叫すら、ランスの集中力を乱さない。

弓を叩き折り、炎に焼かれ、雷に打たれて尚、立ち続ける。双子が満身創痍であるように、ランスも傷だらけだ。 剥き出しの腕は血に染まり、全身に裂傷が走る。それでも、二対一でありながら、気迫のみでランスは優位に立っていた。

「破壊神の円卓騎士とやらも大した事ないな。二人で協力してこの程度か」

「五月蝿い!」

新たな火炎弾を放ちながら叫ぶアズ。ランスは面倒そうにその火炎弾を剣で叩き切った。そのまま一気に距離を詰める。大剣が、少年の腹部を貫いた。赤い血を顔に受け、ランスは顔を顰める。

「遊びは終わりだ。義妹と義弟が待ってるんでね」

引き抜いた大剣で今度はゼオの首を刎ねる。ごろり、と首が転がった。その目は、驚愕に見開かれていた。

「自分は死なないとでも思っていたのか、……馬鹿だな」

その後は振り返る事なく駆け出した。 火炎龍主が世界再生の力を送る場、祈りの間へと向かって。

「…随分遅くなっちまったな…」

カインが怒りそうだ、と頭の片隅で考えて少し笑う。 本来ならば其処で自分も、既に水龍主の祈りの間へと辿り着いているであろうカインも、命を落とす事になっている。

心を全て捧げなければ世界は戻らない。心は魂と同義。全てを捧げれば、生きてはいられない。それでも彼は何か勝算があるらしい。

「…後はフィリエル次第、か…」

低い呟きは誰にも聞かれる事なく地に落ちた。 祈りの間は紅水晶で出来ていた。

「…座り心地悪そうだな」

一人肩を竦めて呟く。 辺りを見回した後、一つ溜息を付いて腰を下ろす。

――ランス?

脳内に声が響いた。

聞き慣れた、相棒であり唯一人の主である青年の声。

――そっちは無事か?カイン。

声に出さずに頭の中で言葉を紡ぐ。

――無事だよ。一寸力を使いすぎたけどね。

――おいおい。本番はこれからだぜ?

――大丈夫。オリジナルが力を分けてくれたからね。

その言葉に安堵する。 そして安堵した事を厭う。

――結局、彼奴に辛い事全部押し付けちまうな…。

――…そうだね。

自分達が手伝える事は本当に僅かで。肩代わりする事も出来ない。無力さが心を覆い尽くす。

――僕の弟である事を、誇りに思うって言ってくれたんだ、あの子。

泣き出しそうな、それでいて笑みを含んだ声。

――良かったな。

それ以外に何を言えるだろう。

――大丈夫かな。あの子。

暫くの沈黙。

――結局、どうするつもりなのか聞けなかったよ。

諦め混じりの嘆息。

――言ってくれれば、何か手伝えるのかもしれないのに。

――俺達は、生き残るために全力を尽くそうぜ。…それで…。

――それで?

――彼奴が帰ってくるのを、誰一人欠ける事なく待とう。

彼奴が帰ってくる場所を、全員で護る。きっとそれが俺達にしか出来ない事。

――そう、だね。

――そのためには、生きないとな。

会話は其処で途切れた。

後は、待つだけ。




カインと別れた後、フィリエルは更に通路を進んだ。 やがて現れた巨大な扉。

人が折り重なり、倒れ、もがき苦しむ様を忠実に模した彫刻の刻まれた扉をみて、白い額に皺が寄った。 黒い手袋をはめた華奢な手がゆっくりと扉を押す。 巨大さに反して、扉は呆気なく開いた。

「あら、いらっしゃい。起きたのね。もう少し寝ていれば、苦しまずに済んだのに」

「ああ…ケバイおばさん二号か」

フィリエルの言葉に女性が眉を顰める。

「『魅了する者』ティエリアよ」

「…一つ、聞いていいか?」

「何かしら」

「円卓騎士の二つ名は、誰が付けるんだ?」

「自分で付けているわ。それがどうかしたの?」

「…いや、随分自意識過剰だと思って。そのケバイ格好で魅了できた相手はいるのか?」

「…失礼な事を言うわね」

緩く巻いた黒髪を払ってティエリアは横を向く。

「ベアルファレス、この生意気な神龍主、私が殺しても構わないかしら?」

「私がどう答えようと、意思は変わらないのでしょう?ティエリア」

「ええ。変わらないわね」

「では答えるだけ無意味でしょう」

「私はローゼスとは違うわよ」

「…ケバさ加減ではいい勝負だと思うが」

「…お黙り」

鞭を構えるティアリアをフィリエルは見ていなかった。

二人の間にある玉座。其処に座る少年。黒い髪と黒い目。現実を見ていない証拠に、焦点はあっていない。

「気になる?貴方が大事に護ってきた元パートナーが」

嘲笑を含んだ囁きを、フィリエルは故意に無視した。

「血を浴びる事で我が主は完全に復活する。貴方の施した封印から解き放たれる。…貴方の血を使うために待っていたのよ」

一歩、踏み出す。 ティアリアは主を護るように玉座の前に立ちはだかった。

「何か言ったらどうなの?それとも怖くて声が出ないのかしら?」

「何を恐れる必要がある?」

冷たい声に混じる揶揄の響き。

「この場に、オレを殺せるものはいないのに、何を恐れる必要があるんだ?」

ゆっくりと紡がれた言葉。 ティアリアの顔から表情が消え、怒りで蒼白になる。

「私が殺してあげるわよ!」

鞭が空気を切り裂く音。視認する事すら出来ない速さで振るわれた鞭を、フィリエルは摘んだ。

「なっ…!?」

「…この程度で、オレを殺せると?」

「…っ!」

沈黙が場を満たした。

「…この程度で死ねるなら、オレはずっと昔に死を選んでいただろう」

静かな声だった。淡々と紡がれる言葉は、感情が篭っていない分、恐ろしくさえある。

「故郷を破壊する前に、自分で死を選んでいただろう。誰もがオレの死を望んでいたのだから」

一歩、近付く。

「お前に、オレは、殺せない」

「殺せるわよ!」

それは強がりでしかないとはっきり分かる程、声は震えていた。

「殺してあげるわよ!そしてこの世界を絶望で染め上げてあげるわ!」

「出来る事と出来ない事を混同するな」

「五月蝿い、五月蝿い五月蝿い五月蝿いっ!」

フィリエルが先を掴んだままの鞭を振り回す。しなった鞭が、頬を裂いた。

「化物でも血は赤いのね」

「お前達もな」

「お黙り!」

ティアリアは激昂していて気付かなかった。この場にいるのは自分と、仲間と、主。 敵はたった一人だと思い込んでいた。背後にいるのは自分の主だと欠片程も疑っていなかった。だから気付かなかった。自分が主と仰ぐ存在の目が、意思を持つものに変わった事に。

剣が、引き抜かれた事に。フィリエルを倒す。それだけを考えていたティアリアは気付かなかった。ただ、衝撃を感じただけだった。

「…え…?」

小さな呟き。大量の血を吐き出しながら、振り返る。忠誠を誓った相手が、手にした剣で自分を貫いていた。

「…我が……君……?」

腹部からとめどなく血が流れる。

「な…ぜ……?…わ……み…」

瞳孔が完全に開き、ティアリアの身体は粒子へ変わる。

「…ベアルファレス」

「はい」

ベアルファレスは動じた様子も見せず、優雅に一礼する。

「お前は、我が命を聞くか」

「勿論です、我が君」

「…では、死ね」

ティエリアの血で濡れた剣がベアルファレスの血で更に赤く染まる。首はゴロリと音を立てて胴体から離れた。

「我が君」

「何だ」

「私は死を超えた者。この姿になっても、完全に死ぬ事は出来ません」

慈悲を乞う声ではなかった。ただ事実を述べただけだった。

「『闇から生まれし破滅の申し子よ。邪龍の長が命ず。遠きかの地で長き眠りにつき、やがて闇へと還るがいい』」

ベアルファレスは不思議と穏やかな顔をしていた。そして粒子となって消える間際、何か呟いた。だがその呟きは音にはならず、誰にも届かなかった。最後まで残った部下を二人共切り捨てた少年は剣を放り投げた。 そして顔を上げた。

「…久し振りだね」

「…そうだな。……紫苑」

邪龍の長はその名を聞いて少しだけ笑った。

「君にもう一度その名で呼んで貰えるとは思ってなかった」

「オレもお前をこの名で呼ぶ日が来るとは思わなかったよ」

穏やかな表情の紫苑と苦渋に満ちた表情のフィリエル。

「終わらせようか」

「そうだな」

フィリエルが、剣を構えた。



――目覚めたね。

――ああ。

力が徐々に吸い取られていく。青水晶で出来た部屋で、カインは目を閉じた。代われるものなら代わりたい。あの子は酷く傷付くだろう。あの、優しい魂を、自分は護る事ができない。それが、どうしようもなく歯痒い。目を開いた瞬間、身体を稲妻が駆け抜けたかのような衝撃が走った。

「――っ!?」

血が近い者が死に瀕した時に走る死の衝撃。それが今訪れた。

「…フィル……?」

掠れた声。

「フィリ、エル…?」

弟の名を呟く。

「フィリエル!?」

声に出してだけでなく、魂に呼びかけても、返事は、なかった。

あの子は、逝ってしまった?

絶望がこみ上げる。カインは絶叫した。護ると誓ったのに。自分はまた、護れなかったのか。

視界が、黒く染まった。ランスが何かを叫んでいる。それすらカインの耳には届かない。彼はただ叫んだ。

心を、魂を砕く程の絶望が篭った声で、ただ、叫んだ。視界がさらに黒く染まる。意識は急速に拡散していった。




フィリエルは剣を突き立てた。

――自分の胸に。

「フィリア!?」

紫苑の叫びに、フィリエルは微かに笑う。

「その呼び方、やっぱり直らないんだな…」

「どうして…どうして君が!!」

「…仕方ないだろ?オレはお前を殺す事なんて出来ないんだから」

ぐらり、と傾ぐ身体を反射的に受け止め、その軽さに驚く。

「……最初からこうすればよかったんだよな。お前ばっかり悪者にしなくても、さ」

フィリエルが笑う。

「生きろなんて言わない。死にたければ勝手に死ね。…傍に、いるから」

穏やかな声だった。

「もう、お前は一人じゃないよ」

「…うん。僕も逝くよ。一緒に逝こう」

紫苑は剣を手に取ると躊躇う事なく自分の胸を突いた。

新たな鮮血が二人を染める。

「『光よ、我は汝を求めん』」

「『闇よ、我は汝を求めん』」

神龍主と邪龍主、二人のドラゴンマスターが世界再生の儀式を始める。

「『風と水と炎と土よ、息吹となれ』」

「『風よ、駆け抜けて季節を伝えよ。水よ、満ちて命を潤せ。炎よ、その温もりで凍えるものを温めよ。土よ、磐石の基盤となるがいい』」

「『我ら、願う。光と闇が共存する事を』」

「『我ら、願う。世界の修正を。歪みの正された世界を』」

「『全ての命よ、平等であれ』」

「『全ての命よ、自由であれ』」

「『我、全ての魂を解き放つ。ドラスよ、在るべき姿へと戻れ』」

「『我、全霊を込めて願う。ドラスよ、正しき時を刻め』」

そして二人の身体は、重なり合い、ゆっくりと倒れた。




「…フィル……」

セレンの頬を涙が伝う。

「何時も、そうだ。何時もフィルは遠くへいってしまう。…追いかける事すら出来ない程、遠くへいってしまうんだ」

楓はその言葉で現状を認識した。彼は、逝ってしまった。もっと聞きたい事があったのに。もっと話したい事があったのに。全てを擲って、逝ってしまった。

「…星が」

「え?」

セレンの涙混じりの呟きに空を見上げる。 妖の襲撃は止んでいた。

「ドラスが、戻った…」

「…彼奴は……」

「此処にいるよ」

門が閉じる。だが現れたのはカインとランスの二人だけだった。自分の想像が正しかった事に楓は唇を噛み締める。

「…此処にって…何処に…ですか?」

セレンが困惑したように尋ねるとカインは握り締めていた手を開いた。フィリエルが付けていたピアスの、石だけが乗っていた。

「自分の核を軸にして、二人で世界を作り上げたんだよ、彼奴らは」

「…一人じゃない事が、せめてもの救いなのかな」

カインが俯く。

《何、浮かない顔してるんだよ》

「!?」

石から声が聞こえた。

《オレ達は、一度天に還る》

フィリエルの声だ。

《お前らの顔、見飽きたから当分来るなよ?》

笑みを含んだ声。

「…フィル」

《何だ?》

「鴉も、一緒かい?」

《ああ。…これも、預かっててくれ》

カインの手に黒い石が何処からか現れた。

「…君が戻ってくるまで、ドラスの時間を止める」

《カイン…》

「ドラスにはまだ、導く者がいるだろう?」

《…そうだな。これから先、予言は意味を成さなくなる。それが浸透するまでは導く者は確かに必要だ》

「君が戻ってくるまで、待ってる」

《…分かったよ》

淡い光が空へ昇っていく。

「…また逢おう。…フィリア」

カインの頬を伝った涙を、誰もが見ない振りをした。

「…さて、それじゃあ…帰郷といくか」

「そうだね。…楓君も来るだろう?」

「良いのか?」

「風龍主だからね、君は。目の色が変わってる事に気付いていたかい?」

「え?」

目を瞬かせるが当然自分の目を道具なしで見る事は出来ない。

「翠色だよ」

「…核、の影響か?」

「多分な。さ、行くぞ」

一度だけ振り返る。

「…さよなら」

呟きを、風が掻き消した。自分のものではない記憶が示す、故郷。手に温かな感触。セレンが穏やかに微笑んだ。楓の迷いが一瞬で消える。

例え何があろうとも。繋いだ手を離さずにいよう。この温もりの持ち主を、生涯をかけて護ろう。そっと誓いを胸に刻んで、楓は目を閉じた。




風が頬を撫でる。草花の香り。土の感触。自分に身体がある事を認識する。ゆっくりと身を起こすと微かに痛んだ。ずっと動かずにいたせいだろう。身体を解しながら辺りを見渡す。

「神々の箱庭――ミニチュア・ガーデン――、か」

楽園という名の牢獄。神の座所。立ち上がる。手を見る。最後に見たのと同じ、黒い手袋をはめた何時もの自分の手だ。俯き加減になった事で髪が流れた。銀色の髪。腕を包む黒のロングコートは土も血も付いていない。

「…便利なものだ」

呟いた声も記憶に残るとおりの自分の声。水の流れる音がした。其方へ向かって、顔を確認する。蒼い目。あまり鏡を見る習慣はなかったから細部を思い出せない。けれど見たところ前とそれ程変わっていないようだとフィリエルは感じた。もう一度立ち上がって、視点の高さも以前と変わらない事を認識し、溜息が零れる。

「…縮んでないだけ、マシか…」

背には三対の黒い翼。要するに、殆ど何も変わっていない。ただ気の向くまま、歩き始めた。視線を感じたが、其方を向く事はなかった。蘇生したばかりなのに長距離を移動しても疲れない。ただ草原が広がり、時折樹木がある、変化に乏しい光景。 暫く歩いた後、不意にフィリエルは足を止めた。ただの草原。 目を閉じ、手を翳す。何もなかった草原に、扉が現れた。

――神龍主よ、何処へ行く。

何処からともなく響く声。

「出て行く。待ってる奴らがいるんでね」

――ならぬ。汝は罪人。此処を流離うのが汝へ与えられた罰。

重々しい声は反論を許さない。けれどフィリエルはその言葉を聞いて笑った。

「あのな、馬鹿親父。オレが何処に向かって何をするか、決める事が出来るのはオレだけなんだよ。オレは誰の命令も聞かない」

――ならば汝の対を殺す。

「…阿呆か。脅しても逆効果だぞ。セレンは楓とランスとカインが守る。紫苑は自分の身位自分で護る。…そしてオレは脅しには屈しない。…何なら、神殺しの罪も付け加えてもいいんだぞ。オレには、貴様を殺すだけの力がある」

沈黙が辺りを包んだ。

――愚かだな。此処にいれば安息が得られる。血を流す事もないというのに。

「愚かかどうかはオレが決める事だ。…それに此処にはオレの求める『安息』はない」

翳した手に更に力を込める。

「開門」

扉が、開いた。

――汝の行く先に、安息はないぞ。

「そんな物」

一度だけ振り返ってフィリエルは笑う。

「必要ない」

言葉だけを残し、門は掻き消えた。




学園の痕跡はなかった。それだけ長い時が経ったという事だろう。けれど場所はすぐに分かった。不毛な大地の中、一箇所だけ緑に満ちた場所があったからだ。

「…この地を守って下さり、有難う御座います。…父上、母上」

此方も最後に会った時と何一つ変わらない姿だった。藤色の髪は地面を這っているし、俯いているので表情は分からない。

虚木の前に膝をつく。記憶の父との共通点は何もない。母に至っては性別すら違う。それでも分かった。きっと、ずっと前から。

「…何時、気付いた?」

「……多分、初めから」

虚木が顔を上げる。藤色の髪は徐々に色を変え、純金の流れになった。土に埋っていた身体が姿を現す。カインと良く似た相貌の男性の横に、フィリエルに良く似た女性が寄り添うように立っている。翼が一対で白い事だけで、後はフィリエルに瓜二つだ。

「…紫苑は、どうなりました?」

「此処を訪れ、ドラスへ向かった」

父の顔が曇る。

「…核を軸にした世界の再生には大きな犠牲が伴う。災厄の全てがお前に降り注ぐだろう」

「承知の上です。…新たに生じる歪みも、この身で受け止めます」

母は泣き出しそうな顔をしていた。

「…どうして、箱庭を出てきたの…?」

「オレを、待ってくれている人がいるから。そして…逃げるのは止めると、自分に誓ったから、です」

ふわり、と風が動いた。 抱き締められていると数瞬後に理解した。

「貴方が辛い時、傍にいられない…この母を、恨んでいますか…?」

「…いいえ。……母上、オレを生んでくれて、有難う御座います」

抱き締める腕の力が増した。

「忘れないで。魂は、貴方の傍に、常にいるという事を…」

「はい」

「…お前には、死の予言がなされていない」

父が口を開く。

「…つまり、どれ程辛くとも、死ぬ事は出来ない」

「承知の上です」

蒼と水色に近い青の目が交差した。

「…オレは、大丈夫です。一人になっても、思い出だけは誰にも奪われないから」

どれだけ辛い未来が待っていようとも。共に過ごした時間は、魂に刻まれているから。だから大丈夫だと笑う。

「…それじゃあ、行ってきます」

引き止める事は出来ないと両親は悟ったようだ。 二人は目を閉じ、何かを小さく呟く。フィリエルが首を傾げ、問いを発する前に変化は起きた。三人を中心として緑が広がっていく。

何処からか桜の花弁が降ってきた。まだ妖が跋扈していた時、最後に虚木と話した時も桜の花が咲いていた。自分はその時、まだ眠っていた。沢山の『フィリエル』が生まれては消え、消えては生まれた。沢山の犠牲があった。それでも…あの魂を失う事だけは、耐えられなくて。彼を生かすために自分が何を出来るのか、眠りの中で考え続けた。そして出た答え。自分で自分を殺す事を選んだフィリエル。そんな彼と共に世界の軸となる事を選んだ紫苑。

戻ってくる事は出来ないと思っていた。それなのに自分は此処にいる。それはきっと残してきた仲間が心から自分を思ってくれた。祈りは時に、奇跡を起こす。

「…春、だったんですね」

頬に花弁を受け、フィリエルは目を細めた。

「幸運を」

「元気で」

「…はい。父上も、母上も、お元気で」

掻き消える二人の姿。

死して尚、己の子が道を違わぬよう、魂の一部を残していたのだ。そして消える間際、本当にぎりぎりのところで親子は再会を果たした。フィリエルは目を閉じた。 この世界の姿を目に焼き付けておくために。 そして翼を広げ、飛び立った。 その先に安息はないと知りながら。




金属同士のぶつかり合う音。一方の剣が、打撃を受け止めきれずに手を離れた。

「其処まで」

カインが本から顔を上げる事なく終了の宣言をする。

「…相変わらず馬鹿力だな…」

黒髪に翠の眼をした少年は顔を顰めて手を振る。どうやらまだ痺れが残っているらしい。

「おいおい、義弟よ。もっと強くなってくれないと安心して義妹を預けらんねぇぜ?」

ランスがからかうように言いながら楓の背中をばしばしと叩く。

「近衛騎士団の副団長候補なんだし、明日も個別特訓だ」

「だから俺には副団長なんて務まらないって何度言わせるんだよ…」

「その位の身分でないと釣り合わないって騒ぐ馬鹿共がいるんだよ。血統以外に誇れるものがない没落貴族とかな」

ランスが顔を顰めて言葉を返す。

「…あ……」

セレンが弾かれたように顔を上げた。どうしたのか、と問う者はいない。揃って上空を見上げる。

「…帰ってきたか…」

銀色のドラゴンが徐々に近付いてくる。しかし近付くにつれその様子は霧がかかったように朧気な物へと変化していく。柔らかな光が辺りを包み、四人が目を開くと一人増えていた。宙を漂っていた銀色の長い髪がゆっくりと重力に従って降りてくる。緩く頭を振った後、訪問者は蒼い目で一人一人を視界に写した。

「…元気そうだな」

「言う事は他にあるだろう?」

ランスの言葉に淡く苦笑する。

「ただいま」

「お帰り、フィル」

カインが笑う。

「遅かったな」

ランスが笑う。

「お帰りなさい」

セレンも。

「…お帰り」

楓も笑いかけた。

「フィリエル。一つ提案なんだが」

「何だ?」

「楓を、近衛騎士団の副団長に任命して欲しい」

「ランス、勝手に…」

「剣術の腕前は?」

「悪くない。それに俺と違って謙虚だ」

フィリエルが薄く笑った。何かを掴むように手を挙げる。何処からか現れた一枚の紙。お茶のセットが置いてあるテーブルに近付くと何かを記してランスに渡す。

「許可証だ」

「仕事が早くて助かるよ」

「…カインのサインは要らないのか?」

せめてもの反抗か、楓が問う。

「ドラグニールでは政は国王が、軍事は神龍主が務めるのさ。基本的にお互いに不干渉だ」

「最後の風龍主だ。折角だから名前の通り、この国を吹き抜ける風になれ」

「…ったく…俺には向いてないって言ってるのに…」

楓が渋い顔で呟く。

「…紫苑は、どうなった?」

全員の顔から笑みが消えた。

「……何年か前に、暗殺された」

フィリエルは一瞬だけ俯き、やがて顔を上げた。

「…そうか」

「…というのは建前でね?」

「…何?」

訝しげに眉を寄せる弟に兄は笑いかけた。

「攫って来ちゃいました」

「は!?」

フィリエルが驚く姿は貴重だな、と楓は暢気に考えていた。

「戦争勃発寸前なんだよね、実は」

「…おい」

「向こうも混乱してるみたいで取り戻す為に戦争を起こすか、こっちにきて暗殺するかで揉めてるみたいだから、もう少し余裕はあるよ」

その間に君が帰って来て良かった良かったとのほほんと告げる国王。

「妖精達の庭にいる。逢いにいったら?」

「…………」

「あ、でも」

「まだ何かあるのか…?」

帰ってきて早々兄のペースに乗せられ、フィリエルは溜息を吐く。

「夕方からは近衛騎士団副団長の就任記念と軍事総長復活祝いがあるから早めに帰ってきてね」

当事者の二人は揃って顔を顰めた。

「…何だ、その『復活祝い』とは」

「お帰り会の方が良かった?」

「…もういい。行ってくる」

地面を蹴り、翼を羽ばたかせて空をかけていく。

「…龍になれるんだな、彼奴」

「血が濃いんだろうね」

「ハーフなんだろう?」

ならば純血の彼らはどうなるのか、と楓が問う。

「あの子は先祖返りみたいなものだから特別なんだよ」

「ずっと昔、この世界が造られた頃は普通だったんだけどな。今龍になれるのは彼奴と彼奴の相棒だけじゃないか」

「…実はね」

水色に近い青の目が悪戯っぽく煌く。

「破壊神の円卓騎士は、十三人なんだよ」

「な…!?」

では自分達の戦いは無意味だったのかと危惧する楓。

「十三人目の円卓騎士の二つ名は『悪夢を終らせる者』もしくは『破滅へ誘う者』」

「…?」

正反対とも取れる二つ名に楓は首を傾げる。

「あの子が、十三人目。闇に堕ちたら、破滅を呼び、堕ちなかったら悪夢は終わる」

『終らない悪夢』

それは出会った日、自分が呟いた言葉だった。あの日から、随分変わった。そして、変わらないものもある。 戦う理由は一つ。傍らに立つ少女の笑顔を護る。それだけ。

「さて、忙しくなるよ」

カインの言葉で楓は現実へ引き戻された。唐突にパーティーが開かれるのだ。招かれる方も準備する方もかなり忙しくなるだろう。楓は一つ溜息を吐いた。




結界を通り抜ける感覚。懐かしい光景だ。何かに導かれるように先へと急ぐ。記憶より少し伸びた黒髪。身長差も、少し開いていた。

「…綺麗なところだね」

「ああ」

黒と蒼の双眸が交わる。ゆっくり広がっていく笑顔。

「お帰り」

「ただいま」

飛ぶような身軽さで腕の中に納まる。

「…僕は終わりある者で、君は終りなき者だけど」

「……」

「傍にいて、いいかな?」

「当たり前だっ…!」

その言葉に、かつて邪龍主と呼ばれた少年は笑った。

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