そして人魚は恋に落ちて、
「……これが、中学二年生の時の話。あれ以来私は一度も泳いでいない。泳げなくなったという方が、正しいかな」
冷ややかにきらめく月を眺めながら、低く呟く。
隣に座って、黙って話を聞いていた篠崎くんが、小さく頷くのが視界の端に映る。
あの夏からもう三年経つ。
臆病な私は水に入れなくなり、入浴もシャワーで済ますようになった。自殺する勇気もなく、前を向くには絡みついた鎖が重すぎて、また意味もなくこの場所に来てしまう。
月明かりしかない、中学校の夜のプールに。
「……その制服って」
「これ?ここの中学校の制服だよ。高校生にもなって着てるのは気持ち悪いでしょ。でも、これじゃないとここに来れないの。……来ない方がいいんだけどね」
自分のセーラー服を見おろし、苦笑する。
高校の制服はブレザーとネクタイだ。同級生がセーラー服を着ているのを変だと思わないはずがないから、今まで篠崎くんは訊くのを我慢していたのだろう。
私としても、篠崎くんが何故私の中学校のプールに来るのかは謎だった。気にはなっていたが、あまり彼に関わりたくなかったのもあって、何となく聞きはぐっている。
「気持ち悪くないよ」
柔らかい声が落ちた。
見ると、篠崎くんは優しい目をして笑っている。口元だけはへらっと。
「気持ち悪くなんかない。……てか、むしろ、俺の方が気持ち悪いよね」
毎日こうして付きまとってるわけだし、と照れたように笑う。
「まあ、確かに」
「うっ。そ、そうだよね……しつこいしウザいよね……」
頭を抱えてブツブツひとりごとを言う姿は、噂よりもずっとダサくて、つい笑ってしまった。
「……ありがとう。少し、楽になった」
篠崎くんが驚いたようにこちらを向く。
「茜は今でも私のことを赦していないだろうし、山田にも酷いことを言って、私だけ勝手に楽になるのもズルイけど、それでも、誰かに聞いてほしかったんだ。ずっと、ずっと」
はっきりと願望があったわけじゃない。けど、言葉にしてみて納得した。
「……あれは、水野さんは悪くないよ。本当に無神経だったし。それと、話に聞く限り、妹さんは水野さんを恨んだりしないと思うよ」
「……そうだといいな。篠崎くんは優しいね」
カァッと篠崎くんの顔が赤くなる。何を照れているのだろう。自分は平気で好きだの綺麗だのと言うくせに。冗談なのはわかっているけど、褒められすぎても勘違いしそうで困るのだ。
「そう言えば、篠崎くんと最初に会った時から訊きたかったんだけど、何でここにいたの?私がいるからとか言ってたけど……?」
「あ、それね。ストーキングはしてないよ」
別にストーカーだとは思ってない。山田じゃあるまいし。
「水野さんの近所に友達が住んでるんだけど、そいつが夜遊びしてるらしくて、水野さんがセーラー服を着て歩いているところを何度か見かけたらしいんだよね。で、その格好とそいつが水野さんを見かけた方角的に、中学校だろうと思って。まさかプールにいるとは思わなかったけど」
「そんな不確かな情報をもとに来たの?馬鹿でしょ……。でも、何で私の中学校の場所まで知ってるの?誰かに聞いたの?」
「えっ?」
篠崎くんが大きく目を見開く。
「そりゃ、自分の母校くらいわかるよ」
「は?母校?篠崎くんって、私と中学校同じだったの!?」
「同じも、何も……」
困惑していた篠崎くんが、突然ハッとして動きを止めた。引きつった笑みが浮かぶ。
もしかして、私たち、噛み合ってなかったりする?
「水野さん、最初に会った時、俺のこと知ってたよね?あれはどういうこと?」
「篠崎くんはうちの学年じゃ有名だからね。むしろ、何で私のこと知ってたのかが不思議だよ」
「……マジかああぁぁぁっっ」
篠崎くんは顔を手で覆い、絶叫した。
え?何が?何でこの世の終わりみたいな顔してるの?
「マジか……わかってて許してくれたんだと……思いこんで……」
「ど、どうしたの?篠崎くん?」
「そっか……そうだよね、知らないよね……死にたくなってきた……」
「物騒なこと言わないでよ!本当になに!?」
「水野さん……」
乾いた笑みを張り付け、じぃぃぃっと、穴があくほど見つめてくる。わりと怖い。
「あの、ごめん。殴ってもいいしそこのプールに突き落としてもいいので、これだけは信じて。騙そうとしたわけじゃないんだ」
「は、はい」
息を吸う音が、やけに大きく響いた。
「俺、……や、山田、です」
………………は?
「何言ってんの?」
「本当に山田なんだよ……。水野さんが水泳やってた頃、毎日のように見に来て、無神経なこと言ったあの山田、です。あの頃の俺は母子家庭で、今は再婚したから、篠崎になったんだ」
申し訳なさそうに言う篠崎くんを頭のてっぺんから爪先まで眺め、私はあははと笑った。
「いやいや、騙されないから。山田と篠崎くんは似てなさすぎるから」
「努力して変えたんだよ!水野さんの友達が、茶髪で明るいイケメンじゃなきゃ認めないって言うから!イケメンは無理だったけどっ!」
「何でその話知ってるの!?」
「だから俺は旧姓山田!山田京介だったの!どうしても水野さんを諦められないんだよ!好きなんだ!」
「……あれ、作り話だよ。茜や友達が勝手に言ってただけで、私の好みじゃないし」
「嘘だろおおおっ!」
思いきりショックを受けたらしい篠崎くんを見つめ、私もかなり呆然としていた。
山田と篠崎くんは似ても似つかないし、もし、もしも本当なら、本人にストーカーとか色々失礼なことを言ったことになる。そんな馬鹿な話が、
「……あるわ」
最初に会った夜、篠崎くんは、泳いでいる私に一目惚れしたと言った。人魚みたいだ、と。
つまり、篠崎くんは山田で、山田は篠崎くんだった?
「……う、うそ。そんな、……きゃっ!」
「水野さん!」
ふらふらと後退し、足を踏み外す。ふわりと一瞬の浮遊感の後、背中から水に叩きつけられ、水飛沫が上がる。服が鉛のようにのしかかって、真っ逆さまに沈んでゆく。
三年ぶりの水は冷たくて、重い。黒く濁った液体が目や鼻や口にドッと流れこみ、生気も体温も奪われてゆく。
怖い。怖い、苦しい。窒息してしまう。
青白い手が闇から伸びてきて、私の首をつかむ。
死ぬのだろうか。誰か、だれか。
たすけて。
「水野さん!」
声が聞こえたのと、水から引き上げられたのが同時だった。思いきり咳きこむ私の背中を、温かい手が優しくさする。
「ごめんね、驚かせたよね。あの時無神経なこと言って、本当にごめんね。怖い思いをさせてごめんね」
黒く冷たい水から守るように、篠崎くんはそっと私を抱きしめて、背中をさすり続ける。冷えた身体に篠崎くんの体温が心地よかった。
どうして謝るの。酷いことを言ったのは私だ。勝手にプールの中に落ちたのも私。そんな馬鹿な私を、自分もずぶ濡れになってまで助けてくれたのに。どうして。
「水野さんが好きだ」
耳元で囁かれた声は、微かに熱を帯びて震えていた。
「迷惑なのはわかってるけど、それでも好きなんだ。付き合ってくれなんて言わない。でも、もっと水野さんを知りたいし、力になりたいから、その……と、友達から、」
「京介くん」
驚いたように京介くんが私から身を離す。だから私から寄りかかった。
君は、私には勿体ないくらい優しい。優しくて、一途で、誠実だ。
「京介くんが助けてくれたから、もう水も怖くないよ。一緒にいてくれたら、また泳げるかもしれない」
本当はまだ怖い。手が震えているのも伝わっているだろう。
それでも、君が私を人魚と呼ぶのなら、この場所で伝えるべきだろうか。伝えたいと、思った。
「私も、好き。……たった今、好きになった」
ぽたりと、月の光に染まった雫が、波紋を残す。
どちらからともなく重なった唇は、濡れていて冷たい。反対に、触れ合った手は焼けるように熱かった。
ふわりと離れて、京介くんが囁く。
「……俺は、昼でも夜でも、水の外でも中でも、水野さんが水野さんである限り、あなたが好きですよ」
「その言い方、山田みたいだね」
「山田も篠崎も俺だからね」
へらりと笑いかけてくるので、つられて吹き出した。笑ったら、何故だか涙が出てきて、私は京介くんに縋りついて泣いた。みっともなく、子供みたいに。
その間中、京介くんは黒々と揺れる水に腰まで浸りながら、私を柔らかく抱きしめてくれていた。
袖をまくりながら、じっとりとした暑さに溜息をつく。まだ朝だというのに陽光か厳しい。廊下に溢れ返るひとの声も、やはり好きになれない。
昼間の世界はどうしても苦手だ。
「水野さん、おはよう」
明るい声に振り返ると、京介くんが晴れやかな笑顔で立っていた。
ざわざわと周りが反応し、視線が集まる。
「こっちで話すのは二回目だね。……だ、だよね?」
少し頼りなげな表情になって、私を伺ってくる。次第におろおろするのがおかしくて、笑った。笑ったけど、もう涙は流れなかった。
私ができる中で最高の笑顔を返して、言葉を紡ぐ。
「おはよう、京介くん。二回目じゃないよ。私たち、何度も会ってるじゃない」
どよめきが上がる。嫉妬の視線が増え、身体中に刺さる。
でも、そんなものはもう、どうでもよかった。
「……うん、そうだね。そうだったね!」
なんて言う君が、へらへらと気の抜ける笑顔を向けてくれることの方が、今はずっと、大切だから。
昼間も太陽も苦手だけど、それらよりも眩しいひとが私の傍にいるから、どこにいたって、どの時刻だって、もう息を止めたり、しない。