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窒息する人魚  作者: Manary
3/5

嵐を招く夜

 結局、今夜もここに来てしまったと、絶望的な気分でプールサイドに立つ。

 塩素の臭いに、湿気の気配が混ざっている。風も強い。背中に垂らした髪とスカートの裾が激しく揺さぶられている。

 今夜は天気予報では雨が降るらしい。今のところは大丈夫そうだが、自己防衛のためにも傘は持ってきている。

 この天気ならさすがに篠崎くんも来ないだろう。もし来たら嘲笑ってやろう。馬鹿な奴、と。

 本当に馬鹿なのは、私だけど。

 真っ黒な水は突風にかき乱され、ざわざわと細波を立てる。月も星もない世界は濃密な闇に満たされ、ねっとりとした空気と黒い水と、その隙間にある何もかもが溶けてゆくようだった。

 不意に、ぱしゃんと水音が聞こえた。

 プールから、手が伸びている。

 墨で染め上げたような黒一色の中で、青白くか細い手はぬらぬらと水滴に覆われ、淡く輝いている。

 ゆらり、と手が動く。ゆっくりと近づき、それは私の足を握り潰すほどの力で、つかむ。


「……ごめんね」


 私を引きずりこもうとする手を見下ろして、呟く。

 臆病な私は死ねない。死で償うべきだとわかっていても、恐怖に足が竦んでしまう。

 けれど、これは水の中に戻るだけ。本来いるべき場所に帰るだけだ。

 自分に言い聞かせて、青白い手に身を任せる。ずるりずるりと引かれて、ローファーが水に触れた。


「何やってんのッ!」


 強く肩をつかまれ、ぐらりとバランスを崩す。そのまま倒れそうになったところを、後ろから支えてくる腕があった。


「……篠崎くん」

「いくら暑くてじめっとしてるからって、服着たまま入ろうとしちゃダメでしょ!」

「脱げってこと?変態……」

「えっ!?や、ち、違うよ!そういう意味じゃなくて!とにかくダメだってば!」


 慌てふためきながら私から離れ、篠崎くんは騒ぐ。

 本当に来るとは思わなかった。やっぱり馬鹿だ。


「何でまた来たの?」

「水野さんに会いたいからに決まってるじゃないか!」

「雨の予報だけど」

「傘持ってきてるから平気!」

「私がここにいるのを変だとは思わないの?」

「別に?まあ、最初はびっくりしたけどね〜」

「昼間は知らないふりに付き合ってくれたのに、どうして来たの?」


 咎めるような調子で訊くと、篠崎くんはぱちぱちとまばたきを数回。

 そして、へらり。

「だって、昼と夜は別世界でしょ?」

 心臓が止まるかと思った。それくらい衝撃的な言葉だ。

 私がいつも言い訳として使っている言葉を、この男は当然の事実のように言ってのけた。

 心の中を覗きこまれたようで、少し気分が悪い。


「……変なの」

「え〜、そう?でも、どっちの水野さんも綺麗だよね」

「篠崎くんって、しつこいし、チャラいね」

「え……そ、そう見える?マジ……マジかあぁぁぁ」


 わりと本気でショックを受けているらしく、茶色の髪をガシガシかいてブツブツひとりごとを言う。

 と思うと、急に真面目な顔になって、


「水野さんは何でここに来るの?」

「……」

「言いたくないなら無理強いはしないよ。でも、ここは昼とは別の場所だから、よかったら話してくれないかな?」


 優しく目を細めて、ふわりと笑った。意外なほど温かい笑みに、小さく目を見張る。

 少しの間躊躇って、私はぽつりと言った。


「罪滅ぼしと、逃避」


 ひゅうっと風が通り抜け、湿気の臭いが強くなる。


「私は恨まれていることを忘れてはいけない。だから、忘れないようにここに来てる。同時に、ここじゃなきゃ息ができないの」


 ぽたりと、雫が髪に落ちた。それを皮切りに、次々と雨粒が闇を通り抜けて落下し、黒々とした水に吸い込まれてゆく。

 髪もセーラー服も雨をたっぷり吸って、鎖のように私の身体に張り付く。

 激しい雨の向こうにいるはずの篠崎くんが、どんな顔をしているのかはわからない。

 ただ、しばらくの間、二人で雨に打たれながら立ち尽くしていた。




 次の夜も、その次の夜も、私は夜の校内に忍びこみ、プールサイドに立った。篠崎くんも来ていた。

 昼間の学校ではあれ以来話しかけてこなかったが、夜のプールでは、太陽のような明るさを振り撒き続けた。

 水野さん、水野さん、と呼びかけてくる暢気な声に、いつの間にか慣れていた。

 一言も会話のない夜もあった。向こうが一方的に話しかけてくるのを無視したことも多い。

 それでも、篠崎くんは私の隣にやって来ては、楽しそうに笑うのだ。


 ……わけがわからない。気持ち悪い。

 何を勘違いしているのかは知らないが、篠崎くんが思っているほど、私は価値のある人間ではない。

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