嵐を招く夜
結局、今夜もここに来てしまったと、絶望的な気分でプールサイドに立つ。
塩素の臭いに、湿気の気配が混ざっている。風も強い。背中に垂らした髪とスカートの裾が激しく揺さぶられている。
今夜は天気予報では雨が降るらしい。今のところは大丈夫そうだが、自己防衛のためにも傘は持ってきている。
この天気ならさすがに篠崎くんも来ないだろう。もし来たら嘲笑ってやろう。馬鹿な奴、と。
本当に馬鹿なのは、私だけど。
真っ黒な水は突風にかき乱され、ざわざわと細波を立てる。月も星もない世界は濃密な闇に満たされ、ねっとりとした空気と黒い水と、その隙間にある何もかもが溶けてゆくようだった。
不意に、ぱしゃんと水音が聞こえた。
プールから、手が伸びている。
墨で染め上げたような黒一色の中で、青白くか細い手はぬらぬらと水滴に覆われ、淡く輝いている。
ゆらり、と手が動く。ゆっくりと近づき、それは私の足を握り潰すほどの力で、つかむ。
「……ごめんね」
私を引きずりこもうとする手を見下ろして、呟く。
臆病な私は死ねない。死で償うべきだとわかっていても、恐怖に足が竦んでしまう。
けれど、これは水の中に戻るだけ。本来いるべき場所に帰るだけだ。
自分に言い聞かせて、青白い手に身を任せる。ずるりずるりと引かれて、ローファーが水に触れた。
「何やってんのッ!」
強く肩をつかまれ、ぐらりとバランスを崩す。そのまま倒れそうになったところを、後ろから支えてくる腕があった。
「……篠崎くん」
「いくら暑くてじめっとしてるからって、服着たまま入ろうとしちゃダメでしょ!」
「脱げってこと?変態……」
「えっ!?や、ち、違うよ!そういう意味じゃなくて!とにかくダメだってば!」
慌てふためきながら私から離れ、篠崎くんは騒ぐ。
本当に来るとは思わなかった。やっぱり馬鹿だ。
「何でまた来たの?」
「水野さんに会いたいからに決まってるじゃないか!」
「雨の予報だけど」
「傘持ってきてるから平気!」
「私がここにいるのを変だとは思わないの?」
「別に?まあ、最初はびっくりしたけどね〜」
「昼間は知らないふりに付き合ってくれたのに、どうして来たの?」
咎めるような調子で訊くと、篠崎くんはぱちぱちとまばたきを数回。
そして、へらり。
「だって、昼と夜は別世界でしょ?」
心臓が止まるかと思った。それくらい衝撃的な言葉だ。
私がいつも言い訳として使っている言葉を、この男は当然の事実のように言ってのけた。
心の中を覗きこまれたようで、少し気分が悪い。
「……変なの」
「え〜、そう?でも、どっちの水野さんも綺麗だよね」
「篠崎くんって、しつこいし、チャラいね」
「え……そ、そう見える?マジ……マジかあぁぁぁ」
わりと本気でショックを受けているらしく、茶色の髪をガシガシかいてブツブツひとりごとを言う。
と思うと、急に真面目な顔になって、
「水野さんは何でここに来るの?」
「……」
「言いたくないなら無理強いはしないよ。でも、ここは昼とは別の場所だから、よかったら話してくれないかな?」
優しく目を細めて、ふわりと笑った。意外なほど温かい笑みに、小さく目を見張る。
少しの間躊躇って、私はぽつりと言った。
「罪滅ぼしと、逃避」
ひゅうっと風が通り抜け、湿気の臭いが強くなる。
「私は恨まれていることを忘れてはいけない。だから、忘れないようにここに来てる。同時に、ここじゃなきゃ息ができないの」
ぽたりと、雫が髪に落ちた。それを皮切りに、次々と雨粒が闇を通り抜けて落下し、黒々とした水に吸い込まれてゆく。
髪もセーラー服も雨をたっぷり吸って、鎖のように私の身体に張り付く。
激しい雨の向こうにいるはずの篠崎くんが、どんな顔をしているのかはわからない。
ただ、しばらくの間、二人で雨に打たれながら立ち尽くしていた。
次の夜も、その次の夜も、私は夜の校内に忍びこみ、プールサイドに立った。篠崎くんも来ていた。
昼間の学校ではあれ以来話しかけてこなかったが、夜のプールでは、太陽のような明るさを振り撒き続けた。
水野さん、水野さん、と呼びかけてくる暢気な声に、いつの間にか慣れていた。
一言も会話のない夜もあった。向こうが一方的に話しかけてくるのを無視したことも多い。
それでも、篠崎くんは私の隣にやって来ては、楽しそうに笑うのだ。
……わけがわからない。気持ち悪い。
何を勘違いしているのかは知らないが、篠崎くんが思っているほど、私は価値のある人間ではない。