真昼の波風
昼のプールは、眩しい。真っ青な空の下、空気も水も透明にきらめく。
大きく息を吸い、派手に水飛沫を上げて飛び込む。コポコポと泡が私を包み、火照った身体を冷やしてゆくのが心地よい。指先から水をかき分け、スイスイと泳ぐ。
あっという間に向こう側に辿り着き、壁を蹴ってぐるりと反転。勢いのままスピードを上げる。
迫ってくる壁に手をつき、水から身体を半分ほど出して大きく息を吸った。
軽く呼吸を整えていると、わっと歓声が上がった。
「紫すごい!またタイム縮んでる!」
「これなら優勝も楽勝だよ!」
「本当!?やったぁ!」
ゴーグルを外し、プールサイドに上がりながらガッツポーズ。私を囲む友達に笑い返していると、水着ではなくジャージを着た少女が松葉杖を突きながらやって来る。
「お姉ちゃん、また速くなってる!私と一緒に大会に行こうって言ったのにぃっ!」
「ごめんって。茜も早く足治しなよ。待ってなんてやらないけどね」
「意地悪!」
妹の茜は唇を尖らせて私を睨む。ちょっと生意気だが、可愛い。
濡れた手で頭を撫でようとすると、「わっ、馬鹿!濡れる!今日のセット時間かかってるの、この水泳馬鹿!」と悲鳴を上げる。足が思うように動かず慌てふためく茜の姿に、私たちは笑った。
少し前に茜は階段から落ちて足を骨折し、出場予定だった二週間後の水泳大会を諦めなければならなかった。そこで、補欠だった私が出場資格を得た。
罪悪感はある。けれど、心のどこかでチャンスを喜んでしまう自分がいて、浅ましさに苦しくなる。
いっそ、水に飛び込んで泡になってしまいたい。そうすれば、私の汚れた感情も水が洗い流してくれるだろうか。
「……ちゃん。お姉ちゃん!」
「えっ!あ、な、なに?」
「もう、何ぼーっとしてるの」
呆れたような茜に、曖昧に笑って誤魔化す。
そうだ。ここは昼の世界。光と熱に溢れた、人と人が交わる場所。
だから、今は暗い感情など持ってはいけない。
苦しむのは夜でいい。夜なら、一人になれる。
陽光を浴びる美しい水面。そこに映る私は明るく楽しげだ。それで、いい。
身体を拭き、白のセーラー服に着替え、紺のスカートを引っ張り上げたところで、友人の一人が走ってきた。
「紫、アイツまた来てるよ」
「えー……またかぁ」
私がげんなりすると、みんな一斉に、
「ほんっとしつこいよね。地味でブサイクな奴がストーカーなんて可哀想」
「でも、覗きしてる証拠はないから、追い払えないし」
「してるに決まってるじゃん、あんなキモ男。しれっとしちゃってさー、ムカつく!」
私への同情とアイツへの侮蔑で、周りが賑やかになる。
この頃、私にストーカーもどきができてしまっていた。そいつは家について来たりとかはたぶんしてないのだが(そうであってくれ)、部活の間中、いつも出待ちをしているのだ。部活中以外でも学校にいる時に視線を感じることがある。
正直、気持ち悪い。
しかし特に証拠もないし、今のところ被害もないのでどうしようもないのだ。
いつものように友達に周りを囲んでもらいつつ、塩素の臭いが立ち込めるプールから埃っぽい階下へ降りる。
いた。
階段の陰に隠れるように、ひょろりとした男子が猫背気味に立っている。
もっさりした黒髪に分厚い眼鏡、ヨレヨレのシャツ。痩せて青白く、根暗なモヤシ男子そのものだ。
そいつは前髪で半分隠れた眼鏡をかけ直し、こちらを凝視してきた。
「ちょっとぉ、邪魔なんだけど。こっちは怪我人なんだよ!?いい加減にしてよ田中!」
茜が松葉杖をカシャンカシャン言わせて怒鳴る。私にはもったいないくらいいい子なのだ、茜は。……ところで、こいつの名前、田中だったっけ?
田中(仮)は無言で突っ立ったまま、やはりこっちを見つめてくる。ああ、気持ち悪い。
「えっと、田中くん。私に何か用?」
「お姉ちゃん!何話しかけてんの!」
「そうだよ紫!ストーカーは無視が一番って言うじゃん!」
本人の目の前でストーカー扱いはマズイような。変に逆恨みでもされたら大変だ。
ちらっと様子を伺うが、怒った様子はない。というか、さっきから反応がない。
「あの……?ないなら、帰るけど」
「水野さん」
急に名前を呼ばれてギョッとする。
そう言えば、田中が何か言葉を発したのは初めてだ。
「俺、田中じゃなくて山田です」
「えっ、そ、そう。そうなんだ、ごめんね」
やっぱり田中じゃなかった。田中も山田も変わらない気はするけど。
「……俺、水野さんが好きです」
ピシリと空間が凍りついた。
そんなような気はした。そんなもんだろうけど、不意打ちはキツイ。どう返せばいいのかわからない。
「一目惚れでした。あなたより美しいひとを俺は見たことがありません。水野さんのためなら何でもします。だから……」
「ちょ、ちょっと待って」
次々に飛び出す賛辞に目眩がしてきた。どうしよう。今は昼間の私なんだから、上手くやらないと。
「あ、あの。私、部活で忙しいから。付き合ったりとか、そういうのは、ちょっと」
なかなかの言い訳じゃないか。よくやった、私。
そう思ったのも束の間、山田はそうですかと呟いて、
「では、いつまで待てばいいですか」
「は?」
「わからないなら、いつまででも待ちます。それまで見つめさせてください」
山田の表情は変わらない。だが、声に熱がこもるのを感じた。
どうしよう。
戸惑いと恐怖に息が詰まる。どうしたら、穏便に済むのだろう。
その時、カシャンと音がした。
「ちょっと!お姉ちゃんが困ってるじゃん!あんた、さっきからキモいよ」
茜だった。
松葉杖を強く握り、山田をキッと睨み上げる。
「言っとくけど山田なんて論外だから。お姉ちゃんには超!イケメンな彼氏じゃなきゃつりあわないの!」
「茜!?な、何言って……」
「そうそう!今日だって同級生に口説かれてたんだから。ストーカーのくせに知らないの?」
「背が高くて髪もあんたと違って茶色で、人懐っこくて優しいよね〜!女子にも大人気なのに、紫一筋ってところがイイ!」
「ちょ、待って!」
「紫は恥ずかしがって彼から逃げてるけど、あんたの出る幕じゃないから」
「失せろ、ストーカー」
「ガリ勉のくせに紫につきまとうな!」
当事者である私を置いてけぼりにして、周りの山田に対する罵倒は止まらない。
山田は特にダメージを受けている様子はないが、何かを考えているようだ。
恥ずかしい。居た堪れない。私のために言ってくれているのはわかるが、付き合ってなどいない。
「ごめん!先行ってるね!」
「あ、お姉ちゃん!待ってよぉ!」
「水野さん!」
走って逃げ出した。逃げる、逃げる。どこへ?どこまで?
ただ、息を切らせて走り続けた。