第十話 ティナと婚前旅行。
唇が離れると、ティナの目に涙が浮かんでいた。
「武士に嫌だって言われたらどうしよう、って思ってた」
「馬鹿だな。俺は初めてお前と会ったときからな、そのな。可愛いと思ってたんだぞ?」
「あたいだって」
最初は吊り橋効果みたいなものだったんだろう。
極限までお腹を減らしたティナに、俺が酒と食べ物をあげただけの出会い。
たった一週間だったけど。
一緒に暮らして、こんなに楽しかったのは初めてだったと思う。
ティナは根っからのお姫様だ。
ぶっちゃけ、なーんもできない。
ティナの話ではこっちにきて初めてひとりで風呂に入ったってくらいだ。
ただ、俺の作った料理を食べて笑顔をくれる。
それも俺が知る中で、最高の笑顔だぞ。
これ以上を求めるなんて、そんな贅沢、俺は言わない。
こんな枯れたおっさんを好きだって言ってくれたんだ。
それ以上の覚悟をしてくれたんだ。
それに応えないでどうするってんだよ。
「なぁ、ティナ」
「んー?」
再び俺に背中を預けてるティナが振り向いた。
その表情が『なぁに?』という凶悪なほどの可愛さ。
「俺な、小さいころに父さんと母さんが死んじまったんだ」
「……うん」
「それでな、俺のことを息子みたいに可愛がってくれた人が。弟みたいに可愛がってくれたひとがいるんだ」
「うん」
「その人たちと会ってくれるか?」
「いいの?」
「あぁ。俺は二人に心配をかけちまった。だからな、お前に会わせて安心させたいんだ」
「いいよ」
「そうか。なら来週、店休んで行くか」
「うんっ」
壁の時計を見た。
そろそろ十七時を過ぎたあたりだった。
「よし、ティナ。飲みに行くか」
「やったー」
▼
先週一週間、俺は店に来る常連のお客さんへ根回しをしておいた。
『婚前旅行かよ、このロリコン』やら『ティナちゃん、タケのことよろしくな。こいつ寂しいと死んじゃうやつだから』やら。
実に言われたい放題だった。
店の前にも大きな看板をつけた。
『ちょっと里帰り。戻り次第、店を再開します』こう書いておいた。
久しぶりにスーツ着たな。
上着はスーツケースの中だけどな。
まだまだ残暑が厳しい。
東京は多分、もっと暑いだろうな。
ティナは真っ白のワンピースに真っ赤なスパッツ。
人と会うからと頼んで着てもらったんだが、スパッツだけ譲れないんだそうだ。
麦わら奉仕を被って、とても可愛らしい。
もちろん席も予約した。
かなり贅沢な全日空のプレミアムクラス。
朝の便だから弁当みたいな朝食もつくらしい。
ティナは『おなかすいた』って騒いだけど、飛行機に乗るまで我慢してもらおう。
プレミアムクラスはチェックインから保安検査まで専用の場所があって、優先してくれるサービスみたいだ。
スーツケースを預けて搭乗手続きも終わり、そのままラウンジへ。
ティナは肩から下げる小さなポシェットだけ持っている。
俺はセカンドバッグだけだな。
「武士武士っ」
「ん?」
「これから、あれに乗るんだなっ!」
「そうだな。俺も久しぶりだよ」
「空飛ぶんだよな? どんななんだろう」
「まぁ、二時間ちょっとだから。それにまだ時間あるから、こっちで休めるってよ」
本来は搭乗口近くの待合場所で待つもんなんだが、プレミアムクラスに乗る俺たちは、国内線ラウンジを使うことができるらしい。
搭乗手続きから到着先の荷物の受け取りまで、徹底した快適なサービスをしてくれる、これがプレミアムクラスだ。
高いだけはあるんだな、俺は通常料金しか払ってないけど……。
そこはホテルのラウンジみたいな、落ち着いた空間だった。
ここで飲み物を飲みながらゆったりと登場開始時刻までゆったりと待つことにする。
俺は正直助かったと思ったよ。
これだけ目立つティナが普通の待合場所だったら、なぁ。
俺が針の筵状態になっちまう。
美ラインには『いってらっしゃい」やら『お土産たのむ』やら。
沢山のメッセージが入っていた。
七時五十分発だ。
羽田には十時過ぎに着く。
店が終わってから準備もあって、俺はほとんど寝てない。
ティナだけ仮眠をとらせて、結局一睡もしないでこっちに来たと言うわけだ。
チケット取ってあるのに、寝坊して乗れなかったら目も当てられないからな。
ティナはとにかく凄い。
こいつ、タブレットに入ってる電子書籍。
ルビがふってあるラノベ読んでるんだぜ?
俺の知識をもらったって、本当だったんだな。
こっちに来て二週間で小学校で教わる程度の漢字なら、書けはしないらしいけど、読めるようになってやんの。
俺の部屋にあったタブレットで遊んでたら、いつの間にか漫画を読むようになった。
そしていつの間にか、ラノベまで読んでいやがった。
とにかくこいつの知識欲は物凄いものがある。
ひっくり返って笑ってるから、何してるのかと思ったら。
漫画見て笑ってたんだぜ。
驚いたよ。
基本的に紙の本は店にしか置いていない。
俺の部屋には積み本が嫌で電子書籍を買うようになった。
こっちに引っ越しするときに、悲惨な目にあったんだよ。
運送代が洒落にならないから、泣く泣く兄貴分に全部譲った。
まさかそんな経緯でタブレットに突っ込んだものを、ティナが読んでるとは思わなかったな。
「武士」
「ん?」
「この新刊、買っていい? 続き読みたい」
ネット上での売買の意味もわかってるらしいんだよな。
「あぁ、一冊ずつならいいぞ。どれ、……あーこれか。……ほい、これで読めるぞ」
「ありがとっ」
そんなとき、登場案内のアナウンスが流れてきた。
「ティナ、それあとにしような。とりあえず、電源切っとけよ」
「うん。飛行機、乗るんだね?」
ティナは、まるで子供みたいな、期待に満ちた目で見てくる。
楽しみだったんだろうな。
ポーチにタブレットを突っ込んで、もう立ち上がって俺の前に来てるんだから。
そうそう、この便のチケット取ろうとしたとき、実は満席だったんだよ。
でも、飛行機には必ず空いてる席があるらしいんだ。
俺にはよくわからないんだけど、ということにしておこう。
どうしようかと悩んでたときに、スマホに折り返しがあったんだ。
『プレミアムクラスであればご案内できます』って。
それも通常の料金で構わないときたもんだ。
これって絶対、立花さんが手を回したとしか思えないよな?
まぁ、そこは渡りに船だ。
ありがたく使わせてもらおうと思ったんだ。
なんせほら、予約してないハイヤーが、朝待ってたんだぜ。
誰だってそう思うだろうよ。
ある意味、監視されてるんだろうな。
怖い怖い。
搭乗口を通るときにグランドスタッフの女性が。
「快適な空の旅を楽しんでくださいね」
「ありがとっ!」
ティナが笑顔で応えるもんだから。
「いってらっしゃいませ」
そう応えてくれた。
最近はあまりいないんだろうな。
こうやって、ティナみたいにしてくれる人も。
俺は苦笑しながら軽く会釈だけしてみた。
俺たちが乗る飛行機はボーイング777。
それの二百型機。
案内された席は、一番前の右側の窓際。
前に席がなく、圧迫感がない。
きっと予約されてる『例』の席なんだろうな。
株主や、航空会社のお得意さんなどの役員が急な予約を入れたときなどに対応できるような席があるらしいのだ。
立花さん、やりすぎじゃね?
ティナを窓際に座らせると。
「武士武士、凄いよ」
「こらこら、これからもっと凄いのが見られるんだから」
「そ、そうだったね」
昔はスーパーシート。
今はプレミアムクラスと名前を替え、サービスまで変わった。
俺も利用するのは初めてだ。
なにせ、俺の身体の大きさでは一般席では最悪、三列席の真ん中だったりすると最低なんだ。
狭いやら、ひじ掛けが使えないやら。
それにくらべて、この席はなんだ?
ゆったりとした造りの席が二、三、二の形で並んでいる。
リクライニングはもとより、フットレストまでありやんの。
席と席の間にちょっとした幅があるから、ティナは手を繋げないとぼやいてはいる。
そんなちょっとした不機嫌が吹き飛ぶほどの快適な席なんだ。
CA(キャビンアテンダント、客室乗務員)のお姉さんが、ショールのようなひざ掛けをくれたが、俺はいらないからティナだけかけてあげる。
最近の飛行機は無線LANまであんのな、驚いたわ。
「おい、ティナ」
「ん?」
「シートベルトつけるからちゃんと座ってくれ」
「うん」
俺はティナのベルトをつけてやる。
そろそろ離陸だ。
「武士武士、動いたよ」
ティナは二週間目でやっと車にも慣れてくれた。
最初は目を瞑ったまま、俺の手をぎゅっと握って我慢してたもんな。
あのときも可愛かったけど、今は子供のようにはしゃいでいる。
このティナもたまらんわな。
背中がぎゅっとシートに押し付けられる感覚。
さすがジェットエンジン。
「おおおおおお」
「あははは」
離陸の感触に驚くティナが、可愛らしくて、おかしくてつい笑ってしまった。
飛行機が水平飛行に入った。
ベルトの着用サインが消える。
「ティナ、もうベルト外しても大丈夫だぞ?」
「うん。あ、武士」
「ん?」
「あんなに上に見えた雲が、あんなに下にあるぞ」
「おう」
「すっごいよなー」
「そうだな」
初めて乗る飛行機に興奮気味なティナ。
そして五分後には飽きてしまった。
いつの間にか、ポーチからタブレットを取り出して、さっき買った漫画の新刊、読んでやがんの。
機内食は、まぁ。
美味かった。
まるでレストランで食べてるような感じだな。
ティナも満足してたが、量が少ないと文句を言ってた。
そこはあっちについてから美味いものをたっぷり食わせるからと、納得してもらったけどな。
快適な空の旅も終わり、優先的に荷物を受け取ることができた。
「失礼ですが、本郷様でいらっしゃいますね?」
「あ、はい」
振り向いたら、二十代くらいの真面目そうな青年が笑顔で立ってた。
「私、青崎と申します。お迎えにあがりました」
やられたよ。
名刺に『内閣府』だってさ。
黒塗りのセンチュリーだぜ。
まいったな……。
俺たちは仕方なく車に乗った。
「もっとリラックスされて構いませんよ。私はただの運転手です。ハイヤーだと思っていただいて結構ですので」
「センチュリーでハイヤーとか、勘弁してくださいよ……」
「あははは。どちらへ向かいましょうか?」
この官僚の青年、かなりフランクな方だな。
助かるっちゃ助かるけどな。
「あ、はい。〇〇墓地までお願いできますか?」
まぁ、そこは礼儀あってのものだ。
俺も舐められちゃいけないと、丁寧な対応をしておく。
「了解いたしました」
▼
車で二時間ほどだっただろう。
東京の多摩地区にある、とある有名な墓地だ。
「ここで待っててくれますか?」
「かしこまりました」
俺はティナの手を握って外へ連れ出す。
ペットボトルの水だが、お酒と花も用意してくれたようだ。
なんつ、至れり尽くせり。
俺は途中で買おうと思ってたんだけどな。
ゆっくりと整備された墓地の間を歩いていく。
「武士、ここって」
「あぁ」
俺はとある墓石の前で足を止めた。
そこでティナの背中に手を当てて、しっかりと墓石を見る。
「父さん、母さん。ただいま。暫く来れなくてごめんな。こいつ、俺の嫁になってくれるティナだ。最初の結婚は失敗したけど、今度は大丈夫。心配かけてごめん。こいつのこと、よろしく頼むな」
「……ここに、武士のお父さんとお母さんが?」
俺は墓石に手を当てながら、振り向かずに返事をした。
「あぁ」
ティナを見ると、その場に跪いて頭を下げている。
両手を胸に当てて深く深呼吸をすると目を瞑った。
ゆっくりと墓石に向けて話しかけてくれた。
「初めまして、武士さんのお父様、お母様。ティナグレイブアリエッタ・フレイア・メルムランスと申します。縁あって武士さんと夫婦の契りを交わしました。まだ武士さんの役に立てているかわかりませんが、精一杯努力することをお約束します。これから末永く、お願いいたします」
ティナは顔を上げて俺を見た。
俺はティナの髪をくしゃりと撫でていたんだ。
墓石は綺麗に管理されているようだ。
俺は水をかけ、ティナは花を手向けている。
俺の真似をしてティナも手を合わせてくれた。
「じゃ、また来るよ。父さん、母さん」
ティナは深々と頭を下げて挨拶をしてくれた。
墓地の敷地を出て、センチュリーの手前まで来た。
俺はスマホで電話をかける。
応答があった。
『こらっ、武士っ!』
「はいっ、すみませんでしたっ!」




