七悔目「少女」
よく考えてみれば、不思議なことではない。いつかは僕らは別れて暮らすことになる。その時期がちょこっと早くなるだけだ。しかもいい年だし。僕が虹にぃの望みを阻止する資格などない。僕が嫌であっても、我が儘にすぎない。
だから、問い質す必要はない。
テストは目の前に迫っていた。そのおかげか、ほとんどの授業が自習となっている。
「これは……こうするのです」
「なるへそ。そこでその公式かよ……」
「藤野、大丈夫かよ? この問題と来たら、それ使うっつってるようなもんじゃん」
「だから数学は嫌いなんじゃあぁい! 公式なんて大人になったら使わねえじゃん!」
「まぁまぁ……。我慢してください。受験に使う道具だと思ってください」
「勉強なんか嫌いだあぁっ!」
「そこ、うるさいぞ!」
藤野君は軽く謝った。気持ちはわからなくはない。
岡本先生は深くため息をつく。
「……いいかお前ら。頼むから赤点だけは取らないでくれ。四捨五入して30点なら頑張るから」
そう嘆いた。このクラスは理系だが、半分は数学が最悪に苦手なのだ。先生も本当に大変だ。
ちなみに期末テストは来週の月曜日から三日間ある。九教科ある。今日は12日の金曜日なので今日を含めて三日間の猶予がある。
「数学さえなければ……」
先生の最大の敵はある意味藤野君だ。彼は数学以外ならそれなりに好成績を取っている。だが数学がクラスで一番苦手だ、とうたっていた。
後ろから彼が肩を組む。
「その気持ち、よくわかるぜぃ……藤野……」
「ま、まえばっし……」
かくいう前橋君も同じだ。ただ彼の場合、他の教科も厳しい。でもあまりあまって部活で大活躍しているのだ。いわゆる体育会系。
「だが、試練は乗り越えねばならん! これ以上赤点をとったら我々は留年するやもしれん」
「そうだな……。去年は年間“赤”で追試でおまけだった……」
もはや、背水の陣だ。
「とおやん、ちょいえぇか?」
「んぁ? なに?」
奈多弓さんはいきなり、顔面にルーズリーフを叩き付けた。はらりと舞うそれを手に取った。
「とおやん、あんさん掛け算もできなくなったん? どうして9×7が58なんっ? 56ならまだしも、一桁同士の掛け算で58はないで!」
「バカヤローッ! 小数があるだろ!」
それを幾折りにもして、細かくちぎっていく。
「馬鹿はあんさんや! 小学生でもできるがな!」
「我々は習っとらんぞおぉぉっ!」
我々って、藤野君も入ってる……。
とりあえず58も56も有り得ない。本当に数学が苦手のようだ。いや、基礎が出来てないだけかもしれない。ちゃんとした時間と教える人がいれば、何とかなると思う。時間はかかるだろう。けど掛け算ができないのは……。
「と、とりあえず藤野君も一からやればできますよ」
「ホントかよ〜」
「僕は嘘は言いません」
時間的余裕があれば。
「にぃちゃんが言うなら、やってみっか」
藤野君は席に戻っていった。手に持っているのは……すうがっ……“算数”? ……僕もやろう。
ペンを持ち、机に向かう。机の中から化学を取り出した。
「……」
彼女は好きな人はいるのだろうか? 話に陸奥実君が出ると、僕とは少し違う反応を見せる。
「……瑠璃人」
だが、彼女が他の男と話しているイメージが湧かない。部活でもその光景は見かけない。
「聞いてるか?」
今日の帰りで聞いてみようか。……あくまでもこれは好奇心だ。
「無視するなよ」
「……」
ふと、ペンを持つ手が何かに包まれた。変に温かい。
「瑠璃人」
「陸奥実……君……?」
僕の手は陸奥実君の手に覆われていた。僕は彼に気付かなかったようだ。すぐに解放された。
「珍しいな。勉強に精を出してるのか?」
「……まあ……、そんなところです」
でも机を見れば明らかだった。僕は一文字も書いていないし、ましてや問題集すら出していなかった。出ているのは教科書だけ。
「悩んでるようだな?」
もちろん気付かないわけがない。
「……そう見えますか?」
「どことなく」
僕のことはいい。
「そういう陸奥実君は何か用でもあるのですか? わざわざ先生がいる中、端っこから来て……」
「真乃がな……わからないと……」
「陸奥実君が教えればいいのでは? 僕に頼む必要がありません」
陸奥実君は嘘が下手だ。見ただけですぐわかる。だからぼろが出てしまう。それも彼の良いところかもしれない。
「……陸奥実君も本当のことをおっしゃった方がいいですよ」
「……ごめん」
まったくもって、弄りやすい。
「いや、虹さんの一件が気になってな」
「…………」
なぜかわからないけど、欝陶しい気持ちが生まれた。
「もう……、平気です。解決しました」
「そうか? ならいいけど……」
どうしてだろう? 苛つきが収まらない。虹にぃ……。
「東條さんが恋しがってますよ」
あなたには東條さんがいる。
「そんなわけあるか」
なのに……、
「正直に言います」
礼香さんと虹にぃまで、
「彼女のことをどう想っているのですか?」
「何だって?」
奪う気なのかっ?
いや、僕は何を考えているのだろう?
「それとも他に好きな人がいるのですか?」
「瑠璃人、やめてくれよ。お前、おかしいぞ?」
「質問に答えてください」
「…………」
僕は射殺すかのように視線を向ける。
「あいつは……いい友達だ」
「では、他の方がいるのですね?」
「い、いない」
だから、気になるんだ。そのちょっとした躊躇いが。
当たり前だ。僕がこんなことを聞くのに驚いているのだ。
「……どうしたんだよ? 勉強のしすぎで神経質になってるぞ?」
「なってません。気になっただけです」
「……虹さんの件、解決してないんだろう?」
「……っ……!」
「微力だけど力になるよ。お前と俺の仲だし」
……あなたごときで何が出来る?
陸奥実君まで考えてもらうことはない。手を煩わせたくない。
「何……? 何か言った?」
……身も心もボロボロのあなたに……僕はどうして助けを乞わなくてはならない?
「瑠璃人?」
「っ……! 触るなっ!」
「!」
その時、終わりのチャイムが知らせた。
次の時間はLHRだが、テストの関係でなくなった。僕は早々に立ち去ることにした。
重たいハンドバッグを抱え、教室を出ようとした。
「……」
「……何か用でもありますか?」
進路を遮る手。彼と馬場君がいた。……少し意外。
「瑠璃人、話がある」
「陸奥実君……馬場君……」
「新戸……」
ざわざわとしている中、ここだけ空気が張り付く。いい話ではないことはわかる。もう……面倒だ。何も考えたくない。
「すみません。僕には用事があります。話は後日、お願いします」
「10分だけでいいんだ、新戸」
「…………」
後で長々とされるより、今のうちにケリをつけたほうがいいか……。僕は腕時計のタイマー機能で、10分に設定する。
「わかりました。場所を変えましょう。ここでは話しづらいですし」
この時、密にスタートさせる。
「分かった。剣柔道場の裏に行こう」
剣柔道場は校舎、体育館、食堂と抜けて、曲がった先にある。つまり、全体的に言えば、正門を入って右側にある。そこは人目につきにくく、よく虐めの現場としても使われている。僕らはそこへ向かった。
雑草が生い茂り、直射日光が突き刺さる。熱帯地のような暑さだ。話す気力も搾り取られる。だが、僕は腕まくりはしなかった。時間を悟られないためだ。今は多分、半分過ぎた。
「始めるか」
ここで時間を計る“仕草”を忘れない。
「今日はどうしたんだ?」
壁に追いやり、手を壁につけて逃げ道を塞ぐ。陸奥実君だった。彼らしくない。
「友達としても相談してほしいんだぜ? 新戸が怒るなんてなかったことだし」
本来なら嬉しいことなのだろう。
「そうですね」
だが、捻くれている僕には捩曲がって聞こえる。
「堅物の僕にも悩みはあります。こう言うと冷めて聞こえてしまいますが、陸奥実君と馬場君には関係ないことです」
残りは1分32秒。
「で、でもよ、」
「バッチ、いいよ。無理強いはしたくない」
「陸奥実……」
態らしい。
「瑠璃人、いつでも話してくれよ。待ってるから」
「…………」
「行こう」
「あ、あぁ」
ここでタイマーが終了を伝えた。彼はおそらく、これを見抜いていたのだろう。
二人とも愛想よく別れを告げて離れていった。
「…………」
煩く知らせる音を消し、帰る。そして、校門を通り過ぎたところで、いつものように待っていた。
「最近は登場回数が多いね」
「? 何の話です?」
「瑠璃ちゃんの登場回数」
「すみません。意味がわかりません」
「相変わらずクールだね……。まっ、いっか。る〜りちゃん! 帰ろっ」
「……はい」
彼女はけらけら笑いながら言った。
特に不振なところはない。
「どうしたの?」
「……いえ、何でもありません」
逆に僕が怪しいか。心理戦では彼女の方が断然強いので、できればやりたくない。
「なんか初々しいね」
「? どこがですか?」
今度はじっと見られる。
「ん〜、何て言うかな……、……“人間観察”って感じ」
「は、はい?」
「初めての娘と話す時って、何話そうかな、とか考えたりしない?」
「……それは当たり前ですよ」
「あはははははっ……!」
「?」
何だかからかわれている気がする。
「だから初々しいなぁってね、あははは……!」
「いい気分しないですね。よくわからないです」
「いいんだよ。……瑠璃ちゃんは素直だね。弄りがいがあるよ」
一段と笑いこけている。本当に表情豊かな人だ。僕とは正反対。そして僕を狂わせる唯一の存在だ。
そろそろ本題に入ろう。
「……それで、言いたいことがあるんでしょ?」
「え?」
見透かされている?
「瑠璃ちゃんは口数が減ると、質問コーナーに入る癖があるからね」
「……では、お言葉に甘えて……」
心情を悟る力は読心術並みだ。きっと学んだに違いない。
僕は一呼吸おいて、言った。
「礼香さんは彼氏はいるのですか? あるいは好きな方はいますか?」
「……えっ……?」
眼を見開いた。今のはおかしかったのだろうか?
「すっすみま、」
「いたよ」
「……?」
ぼそっ、と呟いた。
「大分年上だけどね。……私が中学生の頃に、事故で亡くしたの……」
「……ごめんなさい……」
「いいの。瑠璃ちゃんはカッコイイし」
「それは関係ないです」
きっぱりと言い切る。
「見た目は冷めてるのに、中身はびくびくしてる。小動物みたい」
「?」
的を射ている。けれども複雑だ。僕のような性格は他人からすれば、何とも相入れがたいものだと思う。
ニコニコと僕を見る。僕の微妙な表情から何を考えているのか、どうしたいのかを判断しているようだった。僕はそんな単純なつくりではない。
「私も聞いていい?」
「もちろんです」
彼女はさらに顔を近づけて、微笑んだ。
「あなたはどうしていつも……“敬語”なの……?」
「……え……? 僕……ですか……?」
「私はユウレイとお話はしてませんぅ」
僕は慌てて振り向いた。……誰もいない。ここで見回すと、いつの間にか日が傾いて暗闇が現れ始めていた。気付かなかった……。
正直、それについて自分でもわからない。いつ、どうして、どのような過程を経てこうなったのかなんて覚えていないし、興味もない。ただ……自然となっただけだ。僕にしてみれば、どうして生きているのか、という質問と同じようなものだった。
「……わかりません」
「? わからないってどういうこと?」
「そのままです。理由がわからないのです」
「……」
「赤ちゃんが自然と立てるようになるのと同じです。僕もいつの間にかこうだったのです」
少し驚いているのか、口許が張っていた。
でも、すぐに緩んでくれた。仕方ないのを悟ったのだろう。
「ごめん、瑠璃ちゃん……私ね……」
「いいのです。僕が悪いのですから」
「……“嘘”……大嫌いなんだ」
「虹、来てやったぞ。あの遭難で鍛えたお前の手料理を食いに」
「まったく! 温泉巡りがどうして森のクッキングになったんだか!」
「いいじゃないか。瑠璃人君にウケてるんだろ?」
「まあね……。あんな野宿を繰り返してれば自然と……できた」
「おぉ……オムライスか!」
「それなりのね。あとは瑠璃を待つだけ」
「ビール調達しに行きまーす」
「駄目だよ。今日はシラフでね」
「じゃあワインは?」
「却下」
「焼酎は? ブランデーは?」
「却下」
「じゃあ……カクテルは?」
「……!」
「おっと、反応したな? 出張マスター呼ぶよ」
「何だそれ」
「私の行きつけの店で、私だけに特別でやってくれるんだよ」
「なるほど。道理で診察室が酒臭いわけか」
「…………」
「はい、現行犯逮捕」
「待て待て、冗談だ。仕事と酒は分けてるから大丈夫」
「先輩がいたら何て言うか……」
「多分、ハンマーか鉈で頭をかち割られるな」
「だな」
「お、帰ってきたみたいだぞ?」
「……お帰り、瑠璃」
「………………ただいま……です」
「……」
「…………」
「……ゆっくり休んできなさい」
「……ありがとう、です……」
「…………」
「……」
「………………」
「……」
「何かあったのか?」
「わからない。ご機嫌斜めだし、声に力がなかった」
「疲れてるんだよ。最近の高校生は複雑なんだ」
「そうだといいけど……」




