十七壊目「現れる」
「……」
「……」
「あの……瑠璃人くん」
「……」
「その、何て言うか……えっと、」
「いいですよ、そんな気遣いしなくても。……虹にぃの言ったことは正論でしたからね」
「瑠璃兄ちゃん、これからうちにすむの?」
「そうですよ」
「やったぁっ! 毎日あそぼうねっ!」
「みっみぃちゃんっ! 静かにしてっ!」
「ふぇ? ご、ごめんなさい……」
「怒っちゃ駄目ですよ、茜さん。ほら、稔ちゃんも喜んでくれてますし……。稔ちゃん、泣いちゃ駄目ですよ」
「う、うん……」
「……」
「どうぞ」
「こんにちは」
「おっ?」
背もたれの大きい回転式の黒椅子に座っていた。ファイルやら本やらある机をひじ掛けにしている。
「瑠璃人君に茜さん、稔ちゃんじゃないか。異色のコラボだな」
徹さんは豪快に笑った。
患者用の丸い椅子にとすんと腰掛ける。茜さんと稔ちゃんは僕の背後に立っていた。
「顔色からして熱があるみたいだな。……計ってきた?」
「えぇ。三十八度二分あったんです」
僕の代わりに茜さんが答えてくれた。
「うーん……」
机にある僕のカルテをめくっていく。
「瑠璃人君は季節の変わり目によく来てるから、今回もそうだと思うよ。熱もちょうど同じくらいだし」
机の端っこにある銀色の筒から、銀色のひらべったい棒を取り出した。棒アイスの柄の形をしている。それで喉の奥を診てもらった。む、むせた……。
次に、
「はい、服脱いで」
「はい。任せてね〜」
「ちょっと待ってください、茜さん。確かに服ですけど、下は脱がなくてもいいはずです」
「てっきり瑠璃人くんの、」
「聴診器投げつけましょうか?」
「どんなプレイだよっ!」
「違いますからっ! さっさと診てくださいよっ」
「診るって瑠璃人くんの、」
「この部屋にまとも人間はいないんですかっ?」
「瑠璃兄ちゃん……」
「そうだ、稔ちゃんが、」
「おねつあるなら、みせた方がいいよ……お、」
「バッキャローッ!」
清純な小学生になんてことを……!
「と、とりあえず身体を診よう……」
「とりあえずって何ですか! 教育上、よろしくないことの連発じゃないですかっ! 僕はも〜、怒りますぅ〜……よ……?」
「あれ? 瑠璃人くん? 瑠璃人くうぅぅんっ!」
「しっかりするんだっ、瑠璃人君っ!」
ホントにもう……くらくらする……! そういえば、熱あるのを忘れてた……。
徹さんの後ろにある窓。その近くにあるベッドで横になりながら診てくれた。全身熱くて、身体が異様に重い。それも訴えて、診察は……風邪だった。何も驚きはしない。むしろその過程がぶっ飛びすぎていたのに驚いている。
そろそろ帰る支度をしよう。
「瑠璃人くん、少し話があるんだけど大丈夫か?」
「はっ……はい」
「神地先生、では……」
「はい」
「?」
しかし、おばさんと稔ちゃんたちだけ、この部屋から去っていった。壁の向こうで稔ちゃんがぐずついているのが聞こえる。
僕をまたベッドに運んで、再び椅子に座る。机の上を片付けていた。
「悪い。体調不良なのに……」
「大丈夫です。それで、話って何ですか?」
徹さんは椅子から立ち上がって、窓のブラインドを開ける。窓からずっと眺める。
どす黒い雲から激しい雨が落ちていく。雨粒は点でなく線となっていた。
小さい舌打ちが耳に飛び込む。
「例の話は聞いてるよ」
「……」
「正直、言葉が見つからない。まさか虹のやつが、そんな決断をするとは……」
「……僕は、ただの足手まといですから」
「ただな、瑠璃人君……勘違いはしないでくれ」
「勘違いですか?」
「あいつは瑠璃人君を危険に晒されないようにした。でも一筋縄では君も諦めないだろう? だからああ言うしかなかったんだと思いたい」
「……虹にぃの弁解ですか?」
「そうさっ!」
僕を見るその表情は、いつになく弱々しい感じがした。
「私は虹の親友だっ! どんな想いで決断したか、痛いほど分かる! 実際、私にも相談しに来たからなっ。本当は君を邪魔がったりしたことは絶対なかったし、これからもしないはずなんだ!」
……徹さんが真剣に声を上げているところは見たことがない。僕に芯に訴えようとしているのも、よく分かる。……でも……。
「果たして、そうでしょうか……?」
「瑠璃人くん……」
「僕がここの高校に来たのも、虹にぃが新しく配属された警察署に近かったからです。義母さんや義父さん、そして虹にぃの反対を無理矢理押し切って、一緒に家を出たんです。僕はただ、虹にぃと一緒にいたかった……それだけだったんです」
「……うん」
「お荷物にならないように、家事全般を近所のおばさんに教えてもらいました。担任にどやされないように成績を上げて授業態度も良くして、三者面談の時間も出来るだけ減らしました。部活も虹にぃの帰ってくる時間を見越して、参加してました。虹にぃへの負担を出来るだけ最小限にしてきました。……でも、虹にぃにとっては、邪魔なだけでしかなかった……」
最初から僕なんかがいなければ、こんなことにはならなかった。しかも僕の我が儘が事の発端だ。
「……瑠璃人君、君はそこまでしていたのか……!」
「僕が勝手にしていただけですから。……今回の件も含めての決断だと、そう思います」
一生会えないわけじゃない。だから悲しんだり嘆いたりしない。逆に僕はすっきりしていた。ずっと抱いていた疑問が解消されたんだ……。
「……泣かないのか?」
「大丈夫です。泣くことでもないですし」
ブライドを閉める。
「……そうか」
そして椅子に座り、僕に背を向けた。
「虹はな、実は照れ屋でな、真正面から言えないことがたくさんあるんだ」
「……?」
「例えば、弁当が美味いだとか、」
……えっ……?
「疲れが抜けたりだとか、忘れ物がないだとか、スーツにシワがないだとか、よく眠れるとか……」
あっ……。
「センスのいい服だったりネクタイだったり、差し入れ美味いし、」
……。
「楽しかったり嬉しかったり、時には怒ったり、よく笑ってたりしたしっ」
「……」
「あいつは職場でもここでもよく言ってるよ」
徹さん……。
「自分が自慢できる最高の弟だってな」
「!」
「まったく、羨ましいものだよ」
「……」
込み上げてくるものを必死で堪える。でも……でもっ……。
「……ぅっ……うぅ」
でもっ……!
「うぅっ、ふっ、うっ」
「……」
「うわあぁぁぁぁぁああぁぁんん! ん、んぅっ、あぁぁぁん!」
「落ち着いたか?」
「! ぼ、僕は、」
「大丈夫だ。一、二時間くらい眠っていただけだよ」
時計を見ると、もうすぐで正午だ。いつの間に眠って……。
「“軽く”なった?」
まるで幼い子に笑いかけるような小さな笑顔。今まで肩にのしかかっていた“何か”が、すーっと消えていく。代わりに胸に満ちていった。
「……はい」
ありがとうです。
「それじゃあ、そろそろ帰るか?」
「はい」
徹さんは机の引き出しから鍵を取り出した。
虹にぃと離れるのは嫌だけど、悪い意味の別離じゃない。虹にぃにはきちんとした理由があって、僕のために決断したんだと思いたい。
蟠りはとけて小さくなっていた。今まで以上に爽やかで素直になれる……そんな気がした。
「……僕も、虹にぃ離れしないと駄目ですね。べったりくっついて頼り切りじゃ、何も解決しない……」
「カッコイイこと言うようになったな、瑠璃人君。まさにそれが成長ってやつだよ」
「はい」
徹さんは窓のブラインドを指で開いて、外を見る。わずかな隙間でも土砂降りが見える。
「ん?」
その視線がやや下に傾いた。
「あれ? 美浦さんじゃないか。今日は半日だったかな?」
僕も重い身体を起こして外を眺めてみた。やはり、雨脚が衰える様子はない。
そんな雨の中、美浦さんが私服で駐車場に行く姿があった。透明のビニール傘を差しているから、よく分かる。仕事上がって帰宅のようだ。
「美浦さんの車ってどれなんですか?」
「ほら、道路側の一番奥隅の白い車だよ」
「……まさか」
ベンツ? あれ、ベンツ……? いや、気のせいだ。相当疲れてるんだ。他のところ見よう、……!
「あれは……」
窪んで形成されている病院入口。そこに……陸奥実君!
「どうして陸奥実君が……?」
「あ、本当だ。私のところには来てないし……。待ち合わせか?」
「いや、徹さん以外の医師の診察待ちではないですか?」
「患者を外で待たせるくらい混んでいないし、そんな馬鹿なことはありえない。しかも、陸奥実君は虹の頼みで私以外に診察をすることはできなくしている」
「なるほどです……、って徹さんどんだけ権力あるんですか? 仕事サボったり、僕や虹にぃに都合をよくしてくれたり、とても普通の医者とは思えないですよっ」
「気にするな。そんなことより、陸奥実君だ」
気にするな、って……気にならないわけがない。……徹さんだけ特別なのか?
「ちょっと聞いてみます」
携帯電話を出した、
「おい、ここは病院だぞ? まさか、私の目の前でその四角い物体を使うわけじゃないだろうな?」
瞬間に取り上げられた。み、見えなかった……。
「……分かりました。なら外に出ましょうか」
本当は重要なことだけど、伝えてはいけないこと。ただ、お願いするしかなかった。
徹さんは顔を手で押さえて、ため息をついた。
結局、病院から出るまで返してくれなかった。
「ここは……裏門ですか?」
「あっちじゃ車多いし遠いからな。いつもなら病院入り口から瑠璃人君をお迎えしたかったけど、瑠璃人君は体調不良。だから今回は特別に秘密の場所にお連れしたわけだ」
「……ありがとうです」
徹さん愛用の黒いワゴン車に乗り込んだ。助手席にはモコモコした座布団が敷かれている。
まず、僕はすぐにメールした。
[何を考えているのかわからないが、ありがとな。心に留めておくよ。]
絶対に忘れてる、もう……。僕はとりあえず返信した。すると数分後、電話がかかってきた。
「むつみく、」
〈乗って〉
「えっ……?」
陸奥実君の声じゃない女の声。美浦さんのだ。間に合わずにそのままポケットにしまったのか。でも、声がはっきり聞こえる。何らかの細工を施したんだろう。
どうやらあちらも発車したみたいで、偶然か、同じタイミングで徹さんも発車した。道路に従っていくと、
「! 徹さん、まさかっ!」
「気付かなかったのか?」
ちょうど前に陸奥実君たちが乗る車があった。
「尾行……ですか」
「美浦さんは今日はこんな時間に上がるスケジュールじゃない。急用でも看護長に一報伝えなければならないし、すぐに私に連絡が来る。しかしそれがなかった……」
「すごいですね」
「これが大人の仕事ってやつだ」
徹さんが初めて格好よく見えた。
「瑠璃人君、一回携帯電話はしまうんだ。あちらに感づかれるとまずい。陸奥実君の身に何かあった時に対処しづらくなる」
「は、はい……」
仕方なく携帯電話を閉じずに、股に置いた。
「これって、美浦さんを疑っているから行ってるんですよね? なぜですか?」
「瑠璃人君のことだ、N事件を含んだ一連の事件に“手紙”が関わっていることは分かっているんだろう?」
「!」
「なにせ、虹が私に手紙を送ったんだから。陸奥実君の“手紙”の内容を綴って……」
「つまり、疑っているのは美浦さんではなく、陸奥実君なんですかっ!」
「いや、ターゲットは二人だ」
赤信号に捕まり、徐々に減速、ついには止まった。
「ふ、二人っ?」
まさか、美浦さんも持っているのかっ?
「なるほど、“所有者”二人がこうして密会していれば、何か事を起こすだろうと考えているわけですね?」
「さすがは虹の自慢の弟だ」
あながち否定しきれないから、想像したくない。陸奥実君が本当に美浦さんと組んで殺人計画を立てているとしたら……。
「でも矛盾があります。もしそうだとしたら、僕にそれを聞かれたくないはずです。」
信号が青に変わる。徹さんは前の車が走り出してから発車した。二車両前にはターゲットの車がある。
「美浦さんがこれから伝えるとしたらどうだ?」
「!」
陸奥実君は美浦さんの思惑を知らないまま……。だとしたら、一番危険だ。
「だから私が尾行している。仮に杞憂に過ぎなかったとしても、いいドライブになるだろ?」
「……僕、体調不良何ですけど……」
「陸奥実君の命とちょっと長い苦痛、どっちを取る?」
「……このヤブ医者……」
追跡はまだ続く。……せめて通話したい。彼らが何を話しているのかを知りたい。そうすれば、
「ぐあっ!」
急ブレーキでシートベルトが身体に食い込むっ!
「ぐぅ……安全運転でお願いします……」
「赤信号になる直前で突き抜けていった……。失敗したな。いつも使ってる車だから、さすがにばれたか。尾行用のでいけばそこそこだったんだが……」
「……」
意外に呆気なく、ドライブは終わった。
〈なかなかかっこいいでしょう? こういうの好きなのよ〉
〈えぇ、すごいです。二つの意味で緊張しますよ〉
〈あら、もしかしてお姉さんとドライブは恥ずかしい?〉
〈まぁ……ノーコメントで〉
〈……どう? 乗り心地は?〉
〈かなりいいです〉
〈ちょっとカタくなってるわ。リラックス、リラックス!〉
〈……いいですね。居眠りできますよ〉
〈そう? 私は眠気覚ましにやってるんだけど……〉
〈居眠り運転防止ですか?〉
〈えぇ。こう見えて結構事故ってたのよ。……仕方ないのよね。人間だって完璧じゃないもの……〉
〈…………あ、あの、ところで、話したいことってなんですか? ……ほら、メールでくれたじゃないですか〉
〈忘れてたわ。……嘘よ。そうね……、あなたって気になったことない?〉
〈……何をです?〉
〈手紙の内容よ。あれを読み返すうちにおかしな点を見つけたの。……“方法の一番”って意味分からないのよ〉
〈方法の一番……? って確か……〉
〈気付いたわね〉
〈……これだと、何もせずに諦めれば死なないことになりますね〉
〈そうね。だけど引っかからない? そんなのなら、みんなそっちを選ぶわよね? 何もしなければいいわけなのだから〉
〈……意味がない……。どちらを選んでも助かってしまう……? 一体“一番”は何をさせたいんでしょう?〉
〈さあ…………。あなたはどうするの?〉
〈……え?〉
〈もう一週間近くしかないのよ? あなたの期限は……〉
〈とりあえず、焦らずに行こうかと思います〉
〈ふふ……、呆れた……〉
〈あはは……。自分でも思います〉
〈わりと余裕あるのね〉
〈……余裕とかじゃなくて、まだ信じられない気持ちが強いんだと思います。いろんな事を考えたけど、俺自身何も起きてませんし〉
〈あら、襲われたじゃない。あの時……〉
〈それはまた別の話じゃないですか。あの時は真乃たちは狙われなかったですけど、何か理由があったんですかね?〉
〈それは……自分の愚かさに、気付いたからかしらね〉
〈……はぁ〉
〈……私はね、中学の頃に弟を亡くしてね。あなたにすごく似てるのよ〉
〈お、俺にですか?〉
〈あなたを襲ってしまって、後でものすごく自己嫌悪に陥ったわ。弟を自分の手で殺した気分になって……〉
〈そうだったんですか……。でも、そういうことに気付いてくれて良かったです。俺はもう怒りも憎しみもないですから、罪悪感を感じなくていいですよ〉
〈……ありがと。あなた、お姉さんをオトすのが上手ね〉
〈い、いやっ、そういうわけじゃ、〉
〈あなたと話してると、成長した弟と話してる気分になるわ……〉
〈み、美浦さん?〉
〈ごめんなさい、ちょっと……〉
〈……〉
〈私の行きつけの店までもう少しかかるわ。ちょっと寝ててもいいから……〉
〈分かりました。少し寝ますね〉
〈ふふっ、おやすみ〉
〈すみませ……ん……〉
〈……私も年を取って、涙もろくなったかしら……〉
〈……〉
陸奥実君は多分、電話をかけっぱなしでいることをすっかり忘れていたんだろう。というより、僕自身も驚いていた。まさか、通話内容を録音できる機能が付いていたなんて……。あの人たちはそんなところまで手を染めていたことに、改めて用意周到さを感じる。でも、おかげで恐ろしいキーワードがボンボン出てしまった。
そして……、
「……なるほど……」
陸奥実君は関係しているのでなく、大元の一部だったのか。そしてこれがバレていないことから、お互いにほぼ完全に信頼し合っている。
でも、用心に越したことはない。万が一になったら救出できなくなる。僕にとってこれは命の綱だ。
「…………」
明らかに異常だ。自分の命を護るために人を殺すなんて馬鹿げている。そんなものがあるはずない。
陸奥実君が関係しているとは正直思いたくはなかったが、現実はそうなっている。僕もどうすれば助けられるのかずっと考えていた。わからない、わからなかった。殺す以外に方法は……ない……。
でもそれ以前に僕は最低な事をしている。
「…………っ……!」
「……瑠璃人、何してるんだい?」
「!」
「携帯とにらめっこして、だいぶ苛ついているようだけど……」
「虹にぃ……」
……気づかなかった。
「部屋に籠もりっぱなしでどうしたんだい? もう昼ご飯はできてるぞ」
「……はい……、今すぐ行きます……」
陸奥実君を餌にしてやろうなんて馬鹿げている。それでも陸奥実君は受け入れてくれた。その瞬間、僕は最低な人間になったのだ。
僕は虹にぃを部屋から出たのを見計らって、携帯を机に置いて行った。
「虹にぃ、どうしてここに?」
「その……何て言うか、上手く言えないんだけど……悪かったというか、申し訳ないというか……」
「……?」
返答になっていないし、しどろもどろで言葉だけでは今一分からなかった。でも、
「いいんですよ」
「え?」
「僕は虹にぃを信じてますから」
「瑠璃……」
虹にぃは僕の頭を優しく撫でてくれた。




