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十一壊目「留まる・下」

 僕は急いで自転車をこいでいた。やはり遠いらしく、一時間以上かかってしまった。でも、あの状況では、自分の足で行かなければならない雰囲気だった。

 目的地に着いて、真っ先に向かう。折りたたみ自転車は門前に立てかけておいた。鉄板を貼り付けたような階段を上って、真ん中辺りの部屋、そこに用があった。しかし、


「……」


 インターホンを押しても、誰も出ない。ドアに耳をあてて人気を探っても、それらしいものは聞こえなかった。留守みたいだ。

 非常に困った。兄妹二人して出掛けているとは……。まだ二時くらいだし……、仕方ない。次の機会にしよう。

 また長い道のりをこんな炎天下の中、こぎつづけなければならないと思うとしんどい。いつもはそんなに太陽を気にしないが、今回ばかりは憎かった。身体中が汗ばんで気持ち悪いし、タオルも忘れてしまった。……僕としたことが……。


「? あれ?」


 自転車に乗ってみたのはいいものの……、


「んっ」


 変にペダルが重い気がする。……まさか……?

 湿った手で前輪と後輪を握ってみると、ぐにょりとへこんでしまった。


「……」


 暑さで溢れる汗が、さらに激しくなった。

 いつの間にパンクしていたんだ? 仕方ない。情けないけど、虹にぃを呼ぶしか、


「……………………」


 しまった。


「ケータイ……ない!」


 これじゃあ、虹にぃに連絡もできない! 歩いて帰るしか方法がない。自転車で一時間以上かかったのに、歩いていったら、何時間かかるんだろう……? 気が遠くなってきた……。でも……仕方ないか。自分のミスだし。

 無理矢理に納得して自転車を押していく。


「そこの若いの」


 突如、後ろからお声がかかった。内心身構えながら振り返る。


「はい」


 いかにも“たくみ”を思わせるおじいさんだった。作業着に首にタオルをかけ、顔や腕が真っ黒に汚れていた。


「ほれ、自転車貸してみなさい」


「い、いえ、大丈夫ですよ」


 何だ? 廃棄物回収の作業員?


「そこの家見てみい」


 指差したのは、ちょうどマンションの横にある家。家というより工房に近い。


「わしがそれを直してやろうと言うんじゃ」


「もしかして、自転車屋さんですか?」


「まぁ、副業というか趣味じゃがの」


 趣味で自転車いじくる人は……けっこういるか。

 ここは大人しく、そして警戒しながら甘えることにした。

 シャッターを開けて中に入ると、まるで自転車が道を作るかのように左右に配置していた。壁には自転車のパーツがかけられている。しかもここのスペースは車四台は入るくらい広い。玄関とは思えない広さだ。

 とりあえず、自転車屋さんに違いはなさそうだ。最悪、自転車好きな人だろう。


「お茶出すから待っとくれ」


 そんな広い空間にぽつりと置かれたパイプ椅子二つ。僕はジャングルにいるかのように見回していた。

 しばらくして茶菓子をもてなしてくれた。


「すみません。でも財布を忘れちゃって修理代を、」


「そんなんえぇわい。陸奥実さんの友達なんじゃからな」


「……」


 陸奥実君もここにお世話になっているようだから大丈夫か。


「お前さん、名前は?」


「新戸です。新戸 瑠璃人……」


「ほぉ、お前さんが新戸君か。陸奥実さんから話は聞いとるよ。何でも、生意気な男だとか」


「そうですね。あながち間違いじゃないです」


「おっほほっ。それでもお前さんのおかげで、陸奥実さんも落ち着いたわい」


 陸奥実君をかなり知っているようだ。一体誰だ?


「あの、陸奥実君とはどんな知り合いで……?」


「あぁ……。わしはあのマンションの管理人じゃい」


「……なるほど。それで陸奥実君をご存知なんですね」


「まぁの。老いぼれた保護者だと思っとるようじゃ」


 この人のおかげで陸奥実君は救われている節があるみたいだ。それなら、当初の陸奥実君を知っているはず。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「ええよ」


「陸奥実君はいつ頃、こちらに引っ越したんですか?」


「そうじゃな、今から……半年くらい前じゃな」


「半年前……?」


 陸奥実君が交通事故に遭ったのは二年前。中学三年生の時だ。半年前というと高校一年生の三月あたり。つまり、陸奥実君は約一年間は養家から通っていたことになる。


「今思えば、はぁ……あれは訪ねてきたとは言い難かったの……」


 ぽつりと言葉をこぼした。


「どういうことですか?」


「あ、いや、陸奥実さんを連れてきた親御さんもおらんし、やけに息が上がっとった。それなのに顔色一つ変えんで、わしに“ここに住みたい”とせまってきたんじゃ」


「……警察には知らせなかったんですか?」


「……“一人暮らしをしたいから”と薄っぺらい嘘を言うんで、仕方なく部屋を案内したんじゃよ」


「そうですか」


 そこに、八菜さんが住み始めたわけだ。確かテスト前だったから……六月の中旬くらいだ。つまり、陸奥実君がここに住んでわずか三ヶ月で、こちらに引っ越してきた。しかも転校までして。

 自転車屋さんは重そうに腰を上げて、僕の自転車を持ってくる。そして道具箱と一緒に修理に取り掛かってくれた。自転車を逆さまにして、ちゃりちゃりと車輪を回して確認している。

 ……僕は何かを勘違いしていた。もし、あの交通事故が本当に殺人事件だとしたら、陸奥実君は守られているんじゃなくて……、


「直りそうですか?」


「余裕じゃい」


 八菜さんに、見張られているのでは……? 本当の意味で変な気を起こさせないように、密かに監視している……?


「自転車屋さん、あなたは陸奥実君のことをどのくらい知ってるんです?」


「……なぜそれを聞く?」


「“保護者”と言うのなら、かなり親身に聞いてるのかと思いました。もしかしたら、その“空白の一年間”についても……」


 僕は二年生になる少し前まで、陸奥実君が同じ学校にいるとは知らなかった。なにせ一学年に八クラスもあるし、事故直後のお見舞い以降は会っていなかったし、成績優良者の知らせにも書かれていなかった。それほど僕らには接点がなかった。

 だが、この老人は知っている。


「そんなもん、言うまでもないことじゃ」


「?」


「普通の学生じゃったよ。素直で優しい学生、何の不安もなく過ごしとった。交通事故で家族を亡くしても、たくましくやっとったわい。まだ若いのに立派なもんじゃ」


 ……“じゃった”?


「何か、あったんですか?」


「……」


 車輪をいじくっていた手を止め、その汚れたままの手でお茶を飲んだ。一息ついて、また作業に戻る。決して僕と目を合わせようとしない。


「……最近……いや、ここ数ヶ月の間、ちょくちょく暗い顔を見かけての。話しかけても教えてくれんし」


「まぁ、襲われたり、先生が亡くなったりしましたからね。無理もないです」


「いや、その前からじゃ。……夏に入ってからかの……? 細かいことは覚えとらんが」


「……」


 夏に入ってから……? その頃の出来事といえば……八菜さんの件だ。八菜さんの目的に気付いているのか? 詳しいことはあとで本人に聞こう。

 まだ自転車は直っていないが、預けて行こう、と思い立った瞬間、外から物音がした。ちょうどシャッターを叩いたような物音で、


「なんでアンタがいんの?」


 なぜか彼女がいた。

 陸奥実君が帰ってくるのにはまだ時間がかかるらしい。それでも今は五時すぎだ。何でも友人を待っているとか。僕には関係ない話だ。


「陸奥実君が野球なんて珍しいですね」


「お兄ちゃんは天才だから何でもできるの。まぁ、わたしに比べたらまだまだ、」


「となると、もう少しお邪魔していいですか?」


「かまわんよ」


「ムシするなぁぁぁっ!」


 相変わらず元気あるな……。それに、八菜さんがいるとなると、突っ込んだ話もできない。おとなしくしていよう。


「先輩も源ちゃんに迷惑かけちゃダメでしょ? 空気読んでよっ」


 “源ちゃん”って……って自転車屋さんも小恥ずかしいようだ。


「自分に言い聞かせた方がいいですよ、それ」


「今、空気読んでるじゃない」


「えぇんじゃよ。老いぼれはどうせ暇なんじゃよ」


「まぁ、八菜さんの言うことにも一理ありますが、自転車を預けている身としては気が引けますね」


「それならほれ。とっくに直っとるわい」


 僕の前に持ってきてくれた。……直っている。確かに直っている。


「余計なもの、ついてません?」


「自転車にビームがついてても不便じゃないでしょ?」


 すれ違う人達は間違いなく滅殺される……。


「ほんじゃ、しめて二十万といったところかの」


「何ですか? 新手のカツアゲですか? 勝手にビームつけといてぼったくりも甚だしいです」


「大丈夫だって! ビームソードもおまけしとくから!」


「どんだけビーム好きなんですかっ? いい加減、現実に戻ってきてください」


「二十三万円になります」


「ビームソードって意外に安いっ!」


 もちろん、そんなものが実在するわけもなく、無事に自転車を返してくれた。自転車屋さんもノリがいいんだな……。


「ありがとうございました」


「また遊びに来ての」


「今度はケーキ持ってきて食べよーね!」


 ということで僕は八菜さんに連れていかれた。






 虹にぃたちが見ていたリストに陸奥実君の名前がある。今思えば、いくら死にかけたとしても、あれは八月中旬から下旬にかけての死亡者リストであって、陸奥実君の名前があるわけがない。それに、陸奥実君が襲われたのは七月末くらいだ。僕の早とちりだろう。しかも、N事件が解決したも同然なのに、何かを漁っている。もしこれがN事件の捜査の延長線上だとしたら、虹にぃたちが言っていた“あれ”が深く関係しているはず。おそらくは岡本先生親子もそうだろう。

 それに加えて、B・B事件での不可思議も追及していかなければ。虹にぃたちはN事件に専心しているから、これは僕個人の好奇心にすぎない。


「じゃあ、ちょっとここで待ってて」


「? なぜです?」


「見せたくない物があるからに決まってるでしょ! ったく」


「多少散らかってても大丈夫ですよ」


「……とにかく、ちょっと待ってなさい!」


 陸奥実君の部屋の前で締め出された。しかも鍵までかけていった。


「……何なんだろう」


 僕にはよく分からなかった。

 いつの間にか夕焼けで染まっていた。そのおかげか、昼間のような蒸し暑さの中にひんやりした風が流れ込む。汗は止まらない。でもそれが冷えて心地いい。どことなく眠気を誘っていた。

 くらりと壁に寄り掛かる。太陽に散々熱せられていて、熱気が漏れていた。ちょっとあつっ、


「……」


「……!」


「……」


 僕の脇を通っていった。


「待ってくださいよ! どうして無視するのですか!」


「……じゃあなぜ、お前が仁王立ちして、進路を妨げていたのかを教えてくれれば教えてやる」


 別に妨害してたわけじゃないんだけど……。

 明らかに、僕を軽蔑する眼だ。葬式の時のイメージが強くこびりついているのか、扱いが酷い。でも、とりあえず僕の目的は果たせそうだ。

 せっかくかけた鍵を外した。


「……ご相談です」


「……は?」


「だから、ご相談です。……駄目ですか?」


 少し納得のいかなそうに怪訝な面持ちを見せる。

 仕方なさそうに、小さくため息をついてから、


「……とりあえず、入るか?」


「はい、どうぞ」


 僕が先に入った。


「……」


 何で先に入るんだよ、と言わんばかりに睨む。彼は粗暴な扱いで玄関を閉めた。さすがに不満というか怒りをあらわにしていた。疲れているのか、ジョークが通じないらしい。

 薄暗い廊下の奥で明かりが灯っていた。リビングの明かりだ。


「やーなーっ! いんのかぁ!」


「いーるよっ!」


 リビングからとたとたとやってきた。


「おま、その格好は……!」


「えへへ、今日はわたしが夕ご飯作るから!」


 ま、ま、まるで、メイドさんが着るようなエプロンだ。白地にヒラヒラがついてて、って違う違う。問題はそこじゃなくて、僕を外に放置させておきながら料理していたのか……。一体何をしたいのかますます分からない。

 陸奥実君はいつもこんな感じで出迎えられているのか。どこかの誰かさんだったら飛び付いてきそうだ。


「……」


 しかし、陸奥実君の顔から強張りが消えないし、汗がひかない。……冷や汗?


「もちろんあんたも食べてくに決まってるわよね?」


「え?」


 そういえば、料理をしてると錬金術がどうのとか言っていた気がする。……危ないな。


「あ……あぁ、僕は先に済ませてきましたから」


「何よ! わたしの手料理が食べられないっていうのっ?」


 何かよく聞くような台詞だ。でも、僕はまだ死ぬわけにはいかない。

 一方で陸奥実君が、


「るりとぉ、もちろん食ってくだろぉ……? 今年は暑いんだ、よく食わなきゃ死ぬぞ……」


 うめいていた。

 まるで治験されているようで嫌だ……。でも断ったら、今ここで殺される気がする。ある種の予感、いや、必然だ。


「そ、それではお言葉に甘えて……」


 今、厳重すぎる鍵と暗証ロックがかけられた。暗証ロックって内側にもかけるのか……。完全に袋の鼠だ。

 廊下を過ぎて居間に入ると、


「……」


「…………」


「あと二十分くらい待ってなさいよ?」


「はっい」


 空気がよどんでいるように見えた。いや、黒ずんでいるようにも……。換気扇は回しているし、窓も開いている。多分……雰囲気的なものだと思いたい。たとえ焦げた匂いがしても、決して魚が炭になっているとは思いたくない。


「と、とりあえずそこに座れよ」


「はぃ……」


 陸奥実君はさらに意気消沈していた。

 あと数十分後に地獄が始まる。死刑執行までのカウントダウンを味わっている気分だった。

 本当に苦労してるな……。


「い、意外に綺麗にしてるじゃないですか」


「……うるさいな……。そ、そんなことはどうでもいいだろう?」


 陸奥実君、動揺しすぎだ。


「それで、相談って何だ?」


「……それは、大したことではないんですが……」


 状況が変わった。早く何とかして脱出したい。でも食べなきゃ、とやかく言われるだろうし、……うーん……。

 僕らが無言で俯いていると、


「もう、二人ともお腹空きすぎて会話もしないのっ? これ飲んで我慢して!」


 お茶を持て成された。最後の晩餐がまさか緑茶とは……。


「ありがとうございます……」


「さっきまでの態度は謝る。だが、何かあったのか?」


「……ちょっと待ってください……。頭を整理しますので……」


 ひとまず、目的を果たそう。


「……実は……命を……狙われています」


「……誰に?」


「分かりません。ただ……その」


「な、何だよ? 何かあったのか?」


「……最近になって、明らかに殺そうという意志が強くなってるんです。たとえば物が飛んできたり、ポストに悪戯されていたり……。虹にぃの職業柄、僕も犯人に狙われることは少なくないですが、常軌を逸しているんです」


「それは確かにそうだな。でも大丈夫じゃないか? 虹さんだって気づいてるんだろう? しかも事件を解決させちゃえばなくなるだろうし」


「まぁ、そうですけど……。虹にぃは今、忙しい時期なんです。できれば僕が解決したいなと……」


「なるほどな」


 というのは建前で、


「陸奥実君は何もされてません?」


「お、俺っ?」


「参考になるかなと思いまして」


 陸奥実君から聞き出すのが目的の一つだ。


「うーん、まぁないわけじゃないんだけど……参考にならないぞ……?」


「いっいえ、ぜひ」


 もしかして、本当に何かあったのか?


「うーんとぉ、実はぁ……な」


「? 陸奥実君?」


 な、なぜかは分からないが、急に気の抜けた声になった。


「だ、大丈夫ですか?」


「んー? なにがだ……?」


 しかも頭がこくりこくりと安定しない。何だか眠そうだ。


「だいじょー、ぶ……」


「眠いんですか?」


「ねむかね……ねむか、」


 そこでテーブルに突っ伏した。


「……」


 客人を目の前にして眠ってしまった。よっぽど疲れたみたいだ。でも、こんなところで寝なくても……、


「……!」


 まさか……戦線離脱? 寝たふりをして免れようとしている……? そんなことさせるか!


「むーつーみーく〜ん、早く起きてくださいよ〜」


「う」


「ちょっと待てぇぇっ! なにお兄ちゃんにドラゴンスリーパーかけてんのっ?」


「起きませんね」


「いやアンタ、逆に眠らせようとしたでしょ。永遠に」


 八菜さんのツッコミは陸奥実君にそっくりだ。


「となると……」


「その通り! お兄ちゃんには眠ってもらったの」


 それしか考えられない。


「ど、どうしてですか?」


「そりゃ、お兄ちゃんにあんなことやこんなことして、」


「僕のいない時にしてください」


 それは僕がいない時の方がいいと思うんだが……。しかも、すごく危ないことをさらりと言った気がする。


「で、冗談はこれくらいにして、とりあえず、わたしにも用があるんでしょ?」


「……!」


 そうだ。あの時の話が終わっていなかったんだ。二十七、八日くらいに八菜さんと美浦さんが来た時の話……。陸奥実君は眠らされたから事情は聞けないが、八菜さんからなら聞ける。しかも僕が知りたかったB・B事件について何か知っているかもしれないんだ。

 もしかして、そのためにいろいろと準備していたのか?


「早くお兄ちゃんの部屋でもわたしのでもなんでも調べなさいよ」


「……その前に教えてくれませんか?」


「……」


 いつもの表情に曇りが見える。

 美浦さんが言っていたことと、僕が以前から考えていたこと。これらを全部吐き出してもらいたい。B・B事件は絶対にただの交通事故じゃないことは確かなんだ。


「誤解を解くにはそれしかない、か……」


「やはり言いづらいですか?」


「……うん」


「でも、真実を知るには八菜さんの協力が必要なんです。お願いします、八菜さんっ」


 ……うん、と小さく呟く。身体をわずかに震わせながら。

 明らかに怯えている。一体何があるというんだ?


「……ただの、交通事故じゃ……だめ……?」


「え?」


 うっすらと涙を浮かべ、僕を見上げる。しかし、何でもない、と慌てて言い直した。

 どうしてそんなに怯える? 想像以上のことが絡んでいるのか?


「あの事故で傷付いたのはお兄ちゃんだけじゃないの。……いろんな人が巻き込まれて、深く傷付いた。だから関係者からすれば、あんまり触れてほしくないことなの。……それを受け止めて聞いてくれる?」


「……」


 僕は無言で頷いた。






 陸奥実君を八菜さんのベッドで寝かせる。眠りが深いようで、ちょっとやそっとじゃ起きなさそうだった。

 険がとれた陸奥実君の寝顔。よだれが垂れそうなくらいに口元が緩んでいて、心地よさそうだ。寝息はしているのか分からないくらい静か。でも腹は動いている。……死んでないはず。

 ベッドの近くにある机に八菜さんは座っていた。


「単刀直入に言うよ。あれは本当にただの事故だったの」


「え……?」


「警察の捜査では事故扱いにされたでしょ? 何の事件性はなかった……」


 机に頬杖をつきながら僕を見る。そして陸奥実君を見やった。

 ……そうか。僕の思い過ごしだったのか。


「表向きはね」


「?」


「お兄ちゃんのお母様は陸奥実家でお父様は他家の人。陸奥実家の人たちはお父様が陸奥実家に籍を入れてほしかったらしい。自分たちの名前は尊いから長く残したいとか、そんなくだらないことだけどね」


「それが……陸奥実君と何の関係が……?」


「ところが、お母様は相手方に籍を入れたのよ。うちはそんなことじゃ済まされない家系だから……。それでお母様は勘当された」


「ま、まぁ、仕方ないですよね」


「そのいざこざの間に生まれたのが流お兄ちゃんなの」


「!」


「陸奥実家の主が流お兄ちゃんを置いて出て行けって言ったんだけど、お母様は流お兄ちゃんを連れて逃げ出した……」


「……逃亡ですか」


 確かに、そんな身勝手な連中は相手にしても無駄なことかもしれない。それに我が子を捨て去るなんてできるわけがない。


「自分の名字も全部変えて、陸奥実家だった印も全て隠した。それでも、陸奥実家は諦めなくてね。しつこく狙ってきた」


 ……しつこく?


「……まさか」


「そう。あの交通事故は陸奥実家の中心人物たちが起こしたものじゃないかって、親戚中で囁かれてるの」


「そこまで分かるなら、」


「ところが、警察はもう一歩のところまで追い詰めて、捕まえきれなかった。証拠不十分だったらしい。それで結局、事故扱いになったってわけ」


 ……それでも、火のないところに煙は立たないというし、何かがあるはずだ。今からでも十分間に合う。


「でも、どうして陸奥実君をそんなに欲しがったんですか?」


「陸奥実家の中心人物たちは流お兄ちゃんの成長速度を見抜いてた。普通の赤ちゃんの何倍もの早さで成長してたらしい」


「?」


「つまり……お兄ちゃんは超天才だからよ。だからお兄ちゃんだけは陸奥実家から出したくなかったのよ。後々のご活躍を期待してね」


「その時から陸奥実君は物扱い……ですか」


 生まれ落ちた時から、周りの連中は腐っていたんだ。いや、それ以前からか。


「だから交通事故の時、手を出される前に、うちが流お兄ちゃんを養子にしたの。その代わり、お兄ちゃんは遺産を相続した後、うちのお父さんとお母さんにあげた」


「陸奥実君を養子にするのを渋ったのは、陸奥実君の家族のように暗殺されるのを危惧したからですね?」


「……」


 返事はなかった。代わりにため息をついた。

 確かに八菜さんの両親は遺産目当てと言えば当たっているが、正確に言えば、交換条件の結果から出てきた産物なわけだ。意味合いとしては少し違ってくる。


「ありがとうございます。僕の中でほぼ解決しました」


「何言ってんの? 話はこれで終わりじゃないし」


「え……?」


「……養子にして一週間も経たないうちに、お兄ちゃんは連中に拉致された」


「!」


 拉致っ? 強行手段か!


「警察に通報しなかったのですかっ?」


「そうしたら、流お兄ちゃんが“おじいちゃん家に遊びに行ってる”って警察に釈明したの……」


 つまり、かばったわけだ。きっと脅迫されたに違いない。そうでなきゃ、そんなことを言うはずがない。


「それは警察の誰に話したんですか?」


「確か……名字が“せい”って平仮名で書いてあった」


「平仮名? 名前は?」


「ネームプレートにはそうとしか……」


 ……虹にぃのとこじゃない人か……? 聞いたことがない。


「警察は安心して帰っちゃった。ま、安心したのはうちの両親もだけどね。厄介者がいなくなった、って肩の荷を下ろしてた」


「……! じゃ、じゃあ陸奥実君は、」


「それから半年前くらいまでの約一年間、ずっと本家に拉致監禁されてた……。拷問のような英才教育、ミスしたら酷いことされて、体罰とか……いろいろ……。もう、お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃなかった……っ。感情も無くして、本当に人形みたいだった……」


 それで、死力を尽くしてここのマンションに逃げ込んだわけか。空白の一年間は“それ”だったのか。

 明らかにおかしい。連中の対応が異常だ。陸奥実君をそんなにして、腐ってる……。……そんなことが現実としてありえていいのかっ? 誰の救いの手も出してくれない。そんな地獄の中で陸奥実君は苦しんでいたのに、無視していたのかっ? ふざけてる! はらわたが煮え繰り返ってどうにかなりそうだっ!


「……ごめんなさい、八菜さん。僕は……勘違いしてました」


「いいの! 流お兄ちゃんの唯一の理解者だしね。わたしたちを敵視しても仕方ない……」


 強く笑う。でも明らかに強がりだ。


「お兄ちゃんを……お兄ちゃんを大切に、してください……」


 僕に深く頭を下げた。自尊心の高い彼女がここまで……。


「……はい。大丈夫ですよ。そういう私情を抜きにしても、僕は親友だと思ってますから」


「うん」


「僕だけじゃありません。前橋君も奈多弓さんも東條さんも、事情を知らずとも何となく分かってくれてると思います。皆さん、何かとほっとけない性分なんですよ」


「……うん……」


 大粒の涙を流していた。






「……特に何もないですね」


「本当にちゃんと探してんの、先輩?」


「僕の眼が腐っていなければないです」


「問題ありまくりじゃない……」


「しかし……本当に節約家ですね。塾とかで貰う消しゴムやらシャーペンやらポケットティッシュやらが、机の中にぎっしり入ってますよ。しかも何でお菓子まで……? ある意味すごいですね」


「死のメモ帳が入ってたりして」


「カモフラージュですか。真っ先に僕の名前が書かれそうですね」


「腐ってる方々じゃない?」


「……確かに。でも一応調べますか、……ん?」


「まさか、本当にあったのっ?」


「八菜さん、すごいですね。なんか白いの見つけました」


「粉? 黒い服着たお兄さんたちが持ってそうな……」


「粉じゃなくて紙です」


「まさか本当にですの、」


「でも何も書いてませんね。封筒らしきものも一緒に保管されてます。手紙……三枚ですね。律儀なことです」


「あ、わたし紙飛行機作れる! ちょっと貸しなさい」


「駄目ですよ。念のために全部デジカメで撮りますね」


「むぅ!」


「ところで、先ほどから変な臭いがするんですが……?」


「……………………」


「まさか、放置してたんじゃ」


「行ってくる」


「……ふぅ……。にしても、誰かに送るものなのか……? いや、それならこんなところに隠さずともいいはず……。それに封が切られてるし……粉? ……ほこり……じゃない……。他には……携帯電話? うーんと、……! これは……!」


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