六壊目「注げる・下」
全身ずぶ濡れだった。頭からは水流が湧き、首を伝って身体の中へ侵入していく。何時間ここにいたのか分からない。でも、鬱になっているのは間違いない。
僕は彼の隣に座った。ベンチも水浸しだが気にしない。彼と同じ目線になることに意味があった。
そして、その瞳の焦点がようやく合う。
「なんでお前がここにいる? 早く中に入ってこいよ」
強がっていても分かる。
「酷いですね……。あなたはなぜそこまで嫌うのですか?」
「別に嫌いじゃない。ただうっとおしいだけだ」
「でも、そういうところも嫌いじゃないですよ……」
「黙れ。お前は男に興味があるのか……?」
声に元気がない。落ち込んでいるのも無理はない。岡本先生は陸奥実君家の近くで殺害されてしまったのだ。それに、人の死について過敏だ。……たとえ彼の責任ではないにしろ、応えるだろうな……。
「そうかもしれないです」
少し間を空け、変な眼で睨む。
雨で寒いのか、身体を震わせている。
「とりあえず、これあげますよ」
「?」
ちょうど貰ったコーヒー。ほんのり温かった。
「俺はコーヒーは好きじゃない」
しかし、陸奥実君は顔を強張らせた。
「あれ? そうなのですか? じゃあこっちにしますか?」
僕の飲みかけをあげると、ふざけんな、と言いたげに、丁重に断られた。
苦手なコーヒーをこくりと一口。苦い、と渋る。その後もこくこく啜る。そして、はぁ……、と白い溜め息をついた。
じっくり観賞して、話題を変えた。
「そういえば、なんでここにいるのですか? 風邪引きますよ」
「……別に。特に理由はない……」
「もしかして、今回の件と過去を被らせているのですか?」
「……!」
きゅっ、と下唇を噛んで、もどかしそうに顔が悶える。僕を睨みつける。しかし、どうしようもなくて再び俯いた。
今にも泣き出しそう。陸奥実君は感傷に浸りやすいから、これ以上突っ張らせると、“彼”になってしまう。
「仕方ないですよ。あれはあなたのせいではないですし」
「……たまには気が利くことを言うんだな」
すぅっ、と眼から雨がこぼれ落ちる。
「でも僕は、あなたの堕ちていく姿も見てみたいです」
「前言撤回」
その顔にわずかに笑みが見えた。陸奥実君は手に持ったコーヒーを啜る。先ほどよりも多く口に含み、味を堪能してから飲んでいく。それを見るのがちょっぴり楽しくて、傘を陸奥実君の方にさらにずらした。
……僕も心を傷めた。実を言えば、陸奥実君やれいかさんとは比べものにならないけど、親近感を感じていていた。そして嬉しかった。もちろん馬鹿にしたりするわけではないけど、同じ立場に立つことができたと思ってる。
れいかさんはたくさん泣いた。ならば、彼はどのくらい泣いたんだろう。今まで一度も涙を見せたことがないし見たこともない。影で泣いているのか涙が出ないのか、どちらにしてもあの交通事故が起因しているのは間違いない。……いや、その役は“彼”が担っているのかもしれない。
陸奥実君、陸奥実君はどうして絶大な悲しみを乗り越えることができた? 肉塊となした家族の残骸を、血の沼の中から見せ付けられ、利用され、孤独を突き付けられ、ぼろぼろの身体を引きずっているのに。もし、そこに人の強さがあるとするなら僕に教えて、
「瑠璃人」
うわぁ!
「いきなり言わないでくださいよ……」
あまりの不意打ちに、体がびくりと驚いた。
「なぜ岡本先生が殺されたと思う?」
え……、あ、それか。
思い付くままに言ってしまおう。
「陸奥実君、簡単ですよ。あんな猟奇的なものは快楽殺人しかあり得ません」
「やはりそうだろうな……」
「しかし、すごいでしょうね。こんなことを路上でやるのは……」
「まともな人間じゃないだろうな。お前みたいなやつかもな」
「僕はあなたの堕ちていく様などにしか興味はありません」
「……それはそれで、まともではないな」
呆れ気味に溜め息をつく。
N事件で初めての死亡者。どうして虹にぃはそう判断したのかは分からないが、根拠があるはず。
岡本先生の死亡推定時刻は十五日の夜八時半。花火大会が開催された日だ。陸奥実君はそれに行っていたらしい。僕は……きっと入院して寝込んでいたと思う。確かあれは……五日だったから、……その十日間に何か動きがあったはずで……、
「果たして犯人は見つかるのでしょうかね」
陸奥実君……?
「おそらく見つかる。また同じ手口をするだろうから……、ん?」
目が……ズレてる? ほんの少しだけ、眼にはない色が見えていた。“それ”が八菜さんの言っていたものなら、誰にも見せちゃいけない。
急いで傘で前を隠し、傘を持たない手で彼の顔をこちらに引っ張った。
「何するんだよ!」
手で僕の顔を遠ざける。完全なる拒否だ。でも、そのせいで、それはさらに露になっていく。駄目だ。このままじゃ……。
それならばと僕は無理矢理揉み合う。
「止めろって! お前、……かよ!」
「いいじゃないですか! 髪触りたいんですよ!」
「だったら手だけにしろ! なんで顔も一緒なんだ!」
しばらく争ううちに、ぴったりと元の位置に戻っていた。よかった。しかもなぜか僕が勝っていた。
確かによく見れば、
「……意外にいい髪じゃないですか」
「……瑠璃人、お前とはここまでの仲じゃなかったはずだ。はっきり言って少し馴れ馴れしい」
黒が透けて、薄い赤茶が見える。本当に間近で見ないと分からないくらいだった。……今まで気付かなかった。あの女装事件での黒服の女の正体は陸奥実君に違いない。陸奥実君は日常的にこれを隠していたんだ……。
陸奥実君を散々苦しめていた瞳。これのせいで蔑まれたのかと思うと、僕まで苦しい。ほんの少し違うだけなのに。
「あまり気にしないでください。でも何気に嬉しいんじゃないんですか?」
「……うるさい」
それでも生きている。この髪から伝わる温度が何よりの証拠だ。
「陸奥実君、これからは宜しくお願いします。僕は外面と内面は大きく違うから、普通に話しかけてくれば、普通に接しますから」
「……まぁ、宜しく……」
八菜さんの言っていたことは本当だった。ということは……別の可能性もあるわけで、複雑な心境だ。でも、僕は今までと変わらずにやっていくつもりだ。陸奥実君がそれを明かしてくれる日まで。
地面を見ると、雨の飛沫が小さくなっている。そして、雨空の隙間から太陽の光が差し込んでいた。もう雨は気にならない。
僕らは外から岡本先生を見送る形になってしまった。葬式会場から式を終えた人達が出てくる。もちろん見知った顔がたくさんあった。だけどそれよりも、いつの間にか車に戻っていた二人の方が気になった。きっと、ずっと待っていたんだ。
「じゃあ、これで。虹にぃが待ってますので」
「あぁ、虹さんに宜しく伝えてくれ」
「あ、はい。伝えます。それじゃ、さよなら」
「!」
僕は虹にぃの黒い傘を置いて、車の方に走っていった。今度会った時に返してもらう気だった。
「お帰り、瑠璃」
「うわ、びしゃびしゃだよ? ずっと話してたの?」
「はい。陸奥実君は淋しがり屋なので」
「急いで帰ろうか」
「えっ? いっいや、急がなくていいですよ。こんなの、へっちゃら、」
「風邪は万病の元だろおぉがぁぁぁぁっ!」
「うぉぅっ? いきなりバックしないで、」
「行くぞおぉっ!」
「や、止めてくださいぃぃっ!」
「あははははは! 刑事さんのドライブは楽しいね、瑠璃ちゃん!」
「いやですぅぅぅっ! あびゃごふっ!」
「今度遊園地行こうよっ! 瑠璃ちゃんと行ったら楽しそうだねっ」
「オレの運転はそんなのより、熱くなるぜ!」
「虹にぃがさらに壊れて、ぎゃうっ!」
「ほあちゃあぁぁぁっ!」
「あははははっ」
「せめてシートベルトはさせてくださいよおぉっ!」
「お兄ちゃん……」
「……」
「話があるの」
「……」
「新戸先輩に……お兄ちゃんの秘密、話したよ……」
「そう」
「驚かないの?」
「だって、るりとがずっと見てたから……」
「どうだった? お兄ちゃんを、変な目で見てた?」
「うん」
「……そうだよね。お兄ちゃんの唯一の理解者でも、そうなっちゃうよね」
「やな」
「なに?」
「……ごめんね」
「お兄ちゃんは何も悪くないっ」
「……あの時死んじゃえば、こんなことにならなかったのに……」
「そんなこと言わないでよ……? わたしはお兄ちゃんが大好きなんだよ? お兄ちゃん死んじゃったら、わたしも死ぬんだから」
「ねぇ、やな、殺してよ」
「だめ。死んじゃやだ」
「どうせ生きてたって結局はそれよりも辛い現実が待ってる。それなら死んで楽になりたい……」
「死なないでよ……。ほら、落ち着いて?」
「死にたい、死にたいよ、やな……」
「わたしはここにいるよ。分かるでしょ?」
「あの人はおかもと先生を殺したのはわたしだ、って言ってた」
「!」
「もう……耐え切れないよ……。死にたい、死にたい、死にたい……」
「大丈夫。わたしがいる。ここにいる。一人にしない、置いてきぼりにしないよ。だから一人で全部背負わないで」
「やな……やな」
「わたしの音聞いて、ゆっくり深呼吸して。何も考えちゃダメだよ……?」
「やな、やな」
「うん、いるよ。お兄ちゃんをぎゅってしてる。落ち着こう、ね?」
「うん…………す……すぅ……」
「……許さないんだから……」




