六壊目「注(つ)げる・上」
空一面は灰色で覆われていた。目を凝らして見ると、透明な小粒が無数に落ちていく。そのうちのいくらかは、この透明な壁に当たり、外の景色に雨のカーテンを敷く。わずかに歪んでいた。
今日は夏の暑さと打って変わって寒い。キルトに包まり、ベッドからずっと眺めていた。体操座りで明かりも点けずに。部屋の四隅は薄暗く、部屋全体もほの暗い。
「……」
寒い。そこに、
「お兄ちゃん……」
八菜が入ってきた。
「お葬式、始まるよ」
「分かってる」
俺はそのまま横に寝転がる。
雨脚がやむことはない。さらに強く騒がしく音を立てる。
どうして良くないことに良くないことが重なるのだろう。
「大丈夫?」
八菜は俺の頬にそっと触れる。この寒さでは、ちょうどよく温い。そちらに顔を向ける。八菜がベッドに乗り込んできていた。そして、
「何が?」
俺の胸に顔を埋めてきた。八菜の温い体温が冷え切った身体に染み渡っていく。頭を撫でてあげた。
「……病み上がり、なのに」
髪の毛は冷めている。青紫の長い髪が四方八方に広がり、垂れ下がる。
「あんなの、病み上がりにもならない。どうして入院したのかわからないくらいだ」
「でも、冷たいよ」
「……」
小さい体なのに妖艶な目つき、しっとりする手つき、幼い口調、……わざと温もらせる吐息。その口が俺にだんだん近付いてくる。
「っ!」
押し退けるように、八菜を横にどかした。長い髪が振り回されて、ベッドに叩きつけられる。
八菜は身体を起こして、俺を凝視した。
「まだ怖いの?」
「……」
自分の指先を舐め回す。そしてゆっくりと離してそれを、俺にむけ、
「やめろ」
叩き落とす。
「……」
それでもその指を俺に近づかせる。妙な光沢を纏った八菜の指先。その途中で、
「はっ……い」
呼び鈴が鳴った。
「今日は何でこんなに寒いんだか。八菜は明かりとか点けといて」
返事を待たずに玄関へ走る。
玄関穴を覗くと、俺と同年代くらいの女の子とかなり年の離れた兄らしい青年、彼らの母親と思われる人が玄関に佇んでいる。……あの女の子、どこかで見た気がする……。とりあえず、俺に用があるみたいだ。
一連の鍵や暗証番号を外していき、
「……すみません。どう言ったご用件でしょうか?」
「…………」
時計がないから時間が分からないが、まだ正午になっていないはずだ。用事は短いのだろうか。
一向に話さない。
「とりあえず立ち話も何ですから、お上がり下さい」
とりあえず迎え入れることにした。外は寒い。彼らは靴を並べて上がっていった。
居間に着いて、椅子に腰掛けるように促す。そして冷蔵庫から出した飲み物とコップ四つを持っていった。それらに注いでいく。
クーラーはとりあえず付けた。
「……どうぞ」
「ありがとうございます……」
長方形のテーブルに三人と二人が向かい合う。しかし、言葉が見つからない。少し静寂が続いた。ほんのり温い風がクーラーを通じて送られる。その機械的な音だけが時間を感じさせてくれる。
それに拍車をかけるように青年が口を開いた。
「……父を、知っていますか?」
「……えっ?」
「……父です。……知りませんか?」
いきなり言われてもわかるはずがない。いや、そもそも彼らとも面識が全くないのだ。なぜ俺は家に上がらせたのだろう?
だが俺に用があるのは確実だ。そしてここで嘘をついても意味がないのも確実だ。そこに、
「知ってる」
「?」
八菜が口を挟んだ。俺じゃなくて八菜の知り合いか。いや、家族総出で?
「亡くなったの……知ってるよ」
「亡くなった? ……ふざけるな! あんたのせいで殺されたんだ!」
見開いて俺に指差す。
「? 言っている意味がよくわからないのですが……」
テーブルを思いっきり叩く。コップがテーブルの上で揺れ、音を奏でた。
しかし、なんでそんなに怒られなければならないんだ? しかも人を殺した覚えなどない。しかし今更聞ける話じゃない。興奮をさらに煽るだけだ。
その俺を助けるように、八菜はそっと口にする。
「お兄ちゃん、岡本先生は亡くなっちゃったんだよ……」
「なっ! 岡本先生が……亡くなった……? ということはご遺族、」
「当たり前だ! ふざけるのもいい加減に……」
「落ち着きなさい、和美! 陸奥実さんは何の関係はないでしょう!」
母親は和美と呼ばれた青年を座らせた。女の子も一緒に手伝う。
しかし、いや、でも……。
「ごめんなさい……。兄は短気なものだから……」
「いえ、気にしないでください。それより、詳しく教えてくれませんか?」
「……わかりました」
女の子、早夜さんはこう告げてくれた。
事件のあったその日、先生はある生徒から連絡を受けていたようで、俺をお見舞いしようとしたらしい。でもその時間帯には既に退院している。そしてあの時間に、死亡。それはあの日に読んだ新聞の通りだった。
しかも、新聞に書いてあった“刺殺”は生易しく、実際はめった刺しに近い状態らしい。
肉の隙間から本来見えるはずのないモノが飛び出し、でもなぜか頭だけは綺麗に残してある。……それを想像するだけで吐き気がしてくる。
「こんな形でまた会いたくなかったよ、サヤ」
「そうだね。陸奥実センパイともこうしては会いたくなかったよ」
サヤ……、そうか、退院祝いの時の彼女……!
「……なるほど。つまり和美さんは俺が午前中に退院せず、岡本先生と会っていれば、死なずに済んだということですか?」
「…………」
和美さんはコップの中のやつを一気飲みして俯いた。しかし、それだけだ。何も言わないということは、肯定の意味であると捉えられる。
なぜだ? なぜ俺に文句をつける? 俺は普通の事をしただけだ。
そう反論しかけた時に、
「あんたは何言ってんのよ!」
「え?」
八菜がテーブルに乗り上げて、和美さんに突っ掛かる!
「んだと、がきぃ!」
しかも和美さんまで!
「何してるんだ、八菜! 落ち着けよっ!」
「和美っ!」
何とか引っ込められたものの、まだ荒息立てて睨みつけている。相手も同様。気を抜けば今度は殴り合いになってしまう!
重苦しかった雰囲気に険悪さが混じり、押さえる方としては、果てしなく言葉を失ってしまう。ただ、本人たちは関係なかった。
「先生が亡くなったのはお気の毒だけど、だからといって、お兄ちゃんに八つ当たりしないでよ!」
「八つ当たりじゃねえっ! そいつが父さんと会えてりゃ、こうならなかったんだっ!」
「そんなの、あんたの希望的観測にすぎないでしょっ? 未来を読めるわけでもないのに、変な当てつけしないで!」
「このクソガキがぁ! ぶっ殺してやるっ!」
「やれるもんならやってみなさいっ!」
ば、ばかっ! お前が和美さんを殺し、うわ、力つよ、本当に馬鹿力だな、八菜は!
「お兄ちゃん、放してっ!」
放すかっ、本気で、
「母さん、早夜どけよっ!」
「和美! 落ち着きなさい!」
「兄ちゃん!」
「ぶっ殺してやる!」
「あんたみたいな気の小さい男に、わたしが殺されるはずないしっ!」
「上等だぜっ! 殴り殺すっ! だからはなせよぉっ!」
「お兄ちゃんも放して!」
「いい加減にしろおぉぉっ!」
「!」
部屋中がびりびりと響き渡る。あまりに予想外だったようで、全員呆気に取られて声を失う。……騒音を殺した。そして、クーラーの音がまた、時間を刻みはじめた。
俺は八菜を放した。でも飛び付かない。和美さんもそうだった。
「今日はお葬式なんですよね?」
おばさんに話しかける。
「はい。二時半からです」
「では、俺も行きます。……今日のところは……お引き取りください」
「……分かった」
俺だけで、玄関まで見送る。そしてここに来る前と同じ面持ちで、三人は帰っていった。
俺が居間に戻ると、
「……さない、……許さない、絶対許さない……、絶対絶対ぜったい許さない……!」
八菜が椅子の背にもたれて、歯軋りしながら呻いていた。俺に目もいかず、目玉が飛び出るかと思うくらいに広げて。
だから、俺は、
「……ゆるさっ、お、お兄ちゃんっ?」
「誰も恨まないで。お願いだから……」
椅子の背ごと、前から抱きしめた。
建物は横にひらべったく広がる。そしてまるで聖堂のような入り口の脇に変な銅像が見下ろす。人のようだがそれが何を意味しているか分からない。俺はただ、目の前の景色を眺めているだけ。
岡本先生は俺のせいで死んだ。
そんな強引な八つ当たりが未だに心に染み着いていた。俺は知っている。大切なものを失う苦しみを。まるで今まで積み上げた積み木を見知らぬやつに壊されるような……。
「……つ、……つみ、陸奥実?」
「ん、あぁ、何?」
とおちゃんが肩に手を乗せる。
「中に入ろうぜ。みんな行っちまったからよ」
周りを見渡せば、いつの間にか残っているのは俺ととおちゃんだけだった。ずっとここにいたせいか、喪服代わりの制服は青から黒へと染まっていた。
「……ごめん、気持ち悪いから先に入ってて」
「……わかった。無理するなよ……」
とおちゃんはびしょびしょのまま中へ入っていった。濡れた靴が鳴らすくぐもった音は雨でかき消されていく。
本当のところは本当だった。あの時の記憶が呼び水となって思い出されたせいだ。俺の場合、これで三回目だから。祖父と……家族。
まるでコップに入った濁りを沈澱させるかのように、記憶の暴走を沈めるためには、落ち着きが必要だった。
俺は少し離れたベンチに座る。髪は風呂に入ったように濡れ、次から次へと垂れていく。体は濡れすぎて、まるで服を着たままプールに入ったようだ。重い。
「……ふぅ」
雨は容赦なく続いている。丸一日止みそうにないほどだ。でも冷やすためには必要だった。背もたれに寄りかかり、頭を垂らす。見えるのは点を中心に広がっていく輪っかのみ。
退院したばかりだけど大丈夫だろう。
「…………」
気持ちいい……。髪から伝う水はおでこから顎まで渡り、落ちる。あるいはそのまま首を通り過ぎていく。Yシャツが体に張り付いている感じがする。
しばらくして、いきなり地面がさらに暗くなった。それと同時に体中に降り注ぐ雫の衝撃も減り、地面に広がる輪っかたちがなくなった。
おそるおそる見上げてみる。
「陸奥実君……」
疲れたせいだろうか。目の前が少しぼやけてみえる。
「? お前は……」
「もう忘れてしまいましたか?」




