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二十悔目「色彩」

 8月1日。

 茶色の中にある黒点。その黒点はうっすらとぼやけていた。焦点が合っていないのか、全体的に見ているのかはわからない。ただ、その奥にある重圧は確かに存在していた。射殺すかのように真っすぐで鋭い。そして頭の中を透かして手に取るかのように、相手の動揺を誘う。

 彼女はそれを持ち合わせていた。普段の彼女の映像が頭の大部分を占め、“あの女”と照合を繰り返す。しかし当てはまることはない。いや、当てはめたくない。


「……は……は……」


 思い出すと嫌な汗がにじみ出て、何とも言えない悪寒が体中を駆け巡る。これが純粋な“恐怖”……。

 いけない。……落ち着こう。

 昨日のことでも、かなりの情報を得たと思う。それがまともな人間なら。まず、礼香さんもこの事件について関心があるということ。ここで重要なのが、



もう4ヶ月も過ぎてるのに



 だ。つまり彼女曰く、N事件の最初が4ヶ月前だということになる。ちょうど礼香さんの強姦未遂事件があった月だ。……いや、それよりも少し前のようだ。ということは、僕より早くN事件に気づいていたらしい。

 そして警察にものすごく深い憎悪を抱いている。もしかすれば最初の被害で食い止められる程度だったのかもしれない。でも、他の事件を優先させてしまったばかりに……。しかも彼女は二回襲われている。これほど口惜しいものはない。それでも、この恨みつらみは異常だ。……いや、僕が恨まれることに慣れていないだけかもしれない。

 確かに美浦さんの言う通り、当分は控えよう。この一件で礼香さんは病院に収容されるらしい。病気の再発……という建前で。だから次のあては陸奥実君だ。その犯人の特徴は鵜呑みにはしない。変装している可能性があるからだ。


「……若海 礼香、陸奥実 流……」


 よりによって知り合いが被害者とは……。いや、待てよ……。そういえば、今までの被害者を知らない。それは僕が“一般人”だからだ。きっと今後とも教えてくれることはないだろう。ならば、後で自分で調べよう。それと、ここで被害が連続で発生している。犯人たちはここに潜伏しているのかもしれない。でも、それなら虹にぃが出張なのはなぜだ? …………わからない。虹にぃさえいてくれれば……。

 自分の力はこんなものか。


「瑠璃兄ちゃん」


「はい。何ですか?」


 昨日今日の2日間、おばさん家でごろごろとしている。緊張のしすぎで気持ち悪くなったのと、気疲れが頂点に達したからだ。

 その期間はなぜか稔ちゃんが目につく。僕が部屋で机に向かっていると、


「……だいじょうぶ……?」


 こんな調子で僕を気にかけてくれる。稔ちゃんにしては、いつになく不安げで元気がない。


「? 大丈夫ですよ。ありがとうです」


「えっ、えっと……」


 僕より年下の子に心配されるようでは、少々頼りない。

 僕は落ち着いている。体調は正直に言えば良くないが、何日か休めば良くなる程度だ。

 まだ何かを言いたいらしく、俯いてもじもじとしている。僕は机から離れてベッドに座ると、僕の隣にちょこんと座った。ちまちましてて……いいな……。和むかも……。前橋君が妹好きなのも、……いっいや、駄目だ。僕は別に彼のような下心は髪の毛一本もない。

 決心がついたみたいで、僕を見た。


「いつもの瑠璃兄ちゃんじゃない……」


「…………?」


 いつもの僕……?


「ど、どういうことですか?」


 どきどきしている。いや、これは動揺している方だ。どうして僕は動揺している?

 彼女の小さい手が僕の手に触れる。


「!」


 思わず手が逃げた。

 あっ……、と呟いて、俯く。いけない。傷付けた……。しかし、ごめんなさい、と言えない。口が動くだけで、というより魚のようにぱくぱく動かしているだけ……。そして手や脇からじわっと気持ち悪い汗が出てきて、身が竦み上がり、強張らせる。汗……冷たい……。こんなに冷たい汗なんて出るものなのか……? 何だこれ……。


「からだ、さむいの? ふるふるしてる……」


 外見からも分かるくらいに震えているようだ。確かに寒い。冷房が効いてるからかもしれない。汗が冷えて……。


「クーラーけす?」


「い、いや……でも、温度を高くしてください」


「うん」


 目が離せない。まるで彼女を観察するようだ。当然、彼女は不審がっている。


「……!」


 僕は……恐れているというのか? 全く無害で力の乏しいこの少女に? ……馬鹿馬鹿しい。あれはただの妄言にすぎない。


「瑠璃兄ちゃん……」


 しかし、触れるのを許さない自分がいる。現に稔ちゃんから手が逃げている。わからない。何が起きているのかわからない。


「お母さんよんでくる……」


「い、いいですよ……。大丈夫ですから」


「ホントに?」


「……はい」


「でも、びくびくしてるよ……」


 稔ちゃんは僕の何かを感じ取っている。だから自分なりに必死でコンタクトしようとしているのだ。なのに、僕自身が理解できていない。落ち着いている。落ち着いている。落ち着いている……!


「……何がこわいの?」


「……えっ……?」


 あ、あっ……、


「瑠璃兄ちゃんは何がこわいの……?」


 あの眼は……、


「ねぇ、瑠璃兄ちゃん……」


 同じだ。


「みぃのこと、きらいになったの? もうあきちゃった? 虹兄ちゃんがいなくてさびしいの? つまらないの? だれかにイジメられたの? ぐあいが悪くなったの? それとも…………」


 僕の中に入り込む言葉の波。何もかもを覆い尽くす。

 そうか……。彼女を恐れているからだ。

 平静を装うしかない。


「そうですね……。少し眠いのですよ」


「ウソだよ」


「!」


「だってぶるぶる震えてるもん」


 見透かされている。どうして彼女とダブる?


「貧乏ゆすりですよ。申し訳ありませんが、寝るので出てくれませんか?」


「いやだ!」


 駄目だ……。僕の身体は何かを予感している。きっと怖いことだ。だから震え上がっているのだ。


「なぜですか?」


「さびしそうだから」


「淋しくなんかありません。虹にぃが出張するのはいつものことです」


「ちがうよ! 瑠璃兄ちゃんはさびしいんだ!」


 叫んだ直後、稔ちゃんは僕に抱き着いてきた。泣いていて……、


「あ、……あぁ……」


 さらに身体は震えていく。そして無理矢理思い出されていく。



いつもより敏感……。病院だから興奮するのかなぁ……。かわいぃ……。そんなことないよ。見た目も声もかわいいんだから……。あっはははははははははははは! だからどうなの? 私を殺すの? 口の中……きもちい……。瑠璃ちゃんもきもちいでしょ? ギッギリ……もっとしてあげるね。あなたはされるしかないの。あの時とは違う。抵抗できない、助けも呼べない。私が満たされるまで壊れるしかないの……。熱くてカタくて辛そう……。今ほぐしてあげるからね……。泣いちゃった? 泣いちゃった? ……泣いちゃった瑠璃ちゃんもすごくかわいい……。怖かったんだね、怖かったんだよね? 大丈夫。優しくしてあげるから……。さて……ほら、こうして……うん、かわいぃ……。瑠璃ちゃん、こんにちは〜。瑠璃ちゃん泣かないで。いっぱい壊してあげるから……。今の瑠璃ちゃん、かわいくない。あれだけ弄ったのにかわいくならないなら……、女の子にしちゃおっかな? 瑠璃ちゃん、おもらししちゃったの? 先っぽからちょぽちょぽ出ててかわいい……。床に零しちゃ

って犬みたい……あはは。それは、他人を恐れているから。あなたは純粋無垢、言葉も性格も嘘をつけないし率直に言ってしまう。正直すぎる言葉は相手を傷つけ、厭われ、嫌われる。過去にそれで苦しい経験をしてきたから、それを恐れるから敬語を使う。相手を傷つけまいと脅えながら言葉を交わす。そして正直な言葉は感情が乗り移る。あなたは極端に自分の気持ちを知られたくない。それで痛い思いをしたから。見放されることを恐れている。経験しているから無意識に恐れている……。さっきまでの威勢はどこにいったのかな? ……うるさいな……うるさいな!



 なぶりものにされていた自分、辱めを受けていた自分、欲望のけ口にされかけていた自分、それに屈服しかけていた自分、何度も殺されかけた自分……。触られることで“あれ”が脳内を駆け巡る。

 もう……、


「稔ちゃん……離れて……」


「えっ…………?」


 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!


「うわあぁぁぁあああぁぁぁぁぁっ!」


「きゃっ!」


 僕は稔ちゃんを突き飛ばした。

 微震が強震になり、立つことさえも許さない。落ち着いている、落ち着いている! なのに、荒れている。把握しているのに荒れ狂う。


「瑠璃にい、」


「こ、来ないでください!」


 駄目だ。近寄らせては駄目だ。稔ちゃんに被害が出かねない。できればおばさんを呼んで避難させるのが最良だ。いや、それも駄目だ。おばさんの性格上、気にかけてくるはず。今の僕では判断が難しい。襲うかもしれない。僕が稔ちゃんから離れるのが最良だ。

 僕は部屋を飛び出し、隣にある彼女の部屋に閉じこもる。そして鍵をかける。これで被害は食い止められる。ドアにもたれた。

 そのドアは何回も僕を打つ。稔ちゃんが叩いている。何を言っているのかわからない。自分のことで精一杯のようだ。もうはっきりとわかった。

 僕は彼女に“種”を植え付けられたのだ。恐怖いう種を。


「……は……は……ぐ、ぅふっ、げふっ! うぅぇ! ……はっ……はっ……」


 “彼”の気持ちがよく分かる。気が狂いそうで、辛くて苦しくて、怖い……。だから僕を頼ってきた。無愛想だけど頼ってきた。


「……虹にぃ……虹にぃ……」



……うるさい……うるさいな!



「!」


 体操座りで顔を埋め、顔を泣き腫らしている自分。これが今の僕か……。哀れなものだ……。


「虹にぃ……助けて……」


 捜査してくれなかった警察。彼女は関係者の縁者である僕に矛先を向けたのだ。


「怖い……。虹にぃ……助けて………………………………」






「……もしもし? お願いがあるの。明後日、栗原さん家に行ってくれないかな? そこにいるから……。それで、もう一回だけ会ってくれるように伝えてほしいの……。……うん、……うん。私じゃあだめなんだぁ……。話も聞いてくれないと思う……。……大丈夫だよ。辛くないから……。慣れてるしね。……でもさすがに応えたかな……。嫌いって言われるくらい、うん、……うん。だからね、もう顔も合わせてくれないのかなって思うんだ……。……うっ……ふっぅ……うぅ、ううん、泣いてないよ。泣いてないってば……。……大丈夫、死なないって……。だから泣かないで。そっちからのもらい泣きなんだから……。……次で決めるよ、絶対に……」


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